3
「大丈夫ですか? 明智さん今日一日、変でしたよ」
散乱した文房具を慌てて拾いはじめると、旭も駆け寄り手伝ってくれた。
「いつもどおりですよ」
おざなりに答えながら、万年筆にキャップを嵌めようとしているのだが、うまく入らない。無理に押し込もうと力を込める。
「いや、いつもどおりじゃないですよ。それ、万年筆のキャップじゃないですもの。こっちのボールペンのです」
「あ……」
呆れ口調で指摘され、手元を見下ろすと、確かにそのとおりだった。
既に赤面しているのに、さらに顔や耳が熱くなった。
「もう、万年筆もキャップも壊れちゃいます」
旭はさっと明智の手汗まみれのキャップを取り上げ、自分で握っているボールペンに嵌めた。
「ご実家で何かあったのですか? 帰省していましたよね」
話しながら、彼女は服が汚れることも気にせず、床に這い蹲り、机の下に潜り込んだ。
実家では……何かあったと言えばあったが、特に動揺する程のことはなかった。
バスを降り、実家へ続く農道を歩いていたら牛糞を踏んでしまったことと、弟と喧嘩し、自分だけ母親に叱られ、不貞腐れて自転車で出掛けた先で、多少の冒険譚があっただけだ。
「特にないですよ。何もないつまらない田舎ですから」
ふーん、と気の無い相槌が返ってきた。ぞんざいに切り捨てて置いて何だが、もう少し俺に興味を持ってくれてもいいのにと思う。
「じゃあ、まさか、まさかまさかですけど、今朝の山本さんとのこと、気にしているのですか?」
机の下から穴熊のように這い出た旭と目が合い、明智は思わず視線を下に逸らしてしまった。
「……図星のようですね。大丈夫です、私怒ってないですから」
労わるような口ぶりで声を掛けられ、よりいたたまれなくなる。
「忘れてください」
「努力します」
立ち上がり、落としたペン類を戻す。すると、横から旭が机上に広げられたままの伝票や報告書を覗き見てきた。
「あれ? これってまだ大分締切まで余裕ありますよ。焦ってやる必要ないです」
「ああ、いや、別に焦っていた訳ではないのですけど」
朝からずっと心中にくすぶる、正体不明のもやもやとした気持ちを紛らわすために、わざと残業していたとは言えなかった。歯切れの悪い返答に、もやもやの元凶はいたずらっぽく微笑む。
本心を見透かされたかと、警戒したが、鈍い女上司に限って、もちろんそんなことはなかった。
「明智さんはせっかちなんですよ。何日も持ち越す仕事があったって良いのです。最終的に間に合えば。明日できることは明日やらないと疲れちゃいますよ」
立場は上とはいえ、一年目の新人のくせに先輩に知った口を叩くではないか。
まあ、的はずれも良いところだし、これで武道場での出来事が有耶無耶にできるなら見逃してやろう、と明智は飲み込んだ。
「分かりました。仰るとおり、少し疲れているようですし、もう帰ります」
上司の勧告に従い、帰ることに決めた。書類をかき集め、揃えて整理棚の中にしまう。文具類を引き出しの中に片付け、机の下から通勤鞄を出そうとした時だった。
背後で旭がぽつりと呟いた。
「……佐々木さんって凄いですよね」
「はい?」
振り返ると、自嘲気味に後輩兼上司の女は微笑んでいた。表情からは、ついさっきまでの明るさが消え、憂いを含んだ瞳はリノリウムの床を見下ろしていた。
さらに彼女は続ける。
「いえ、前から凄い人だっていうのは分かってたけど、あんな人が部下なんて、私には重すぎて」
「?」
自分が仙台に帰っている間に、何があったのだろう。てっきり山本絡みの事件だと思っていたのだが、違うのだろうか。
「ごめんなさい、急に」
怪訝な顔をしていると、恐縮した様子で謝罪されてしまった。
純粋な心配と好奇心と、もう一つ言葉にできない不可思議な感情に突き動かされ、明智は肩を落としている女上司に尋ねた。
「何かあったのですか?」
彼の問いを待ち構えていたかのように、旭はお盆休み中に起こった事件と自身の気持ちを包み隠さず吐露し始めた。
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