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 森永は、布団の上にあぐらをかき、腕組みをし、新生ピテ紳の漫才を感情の読み取れぬ仏頂面で凝視していた。

 ランニングシャツに股引の上に、草臥れたドテラさえ着ていなければ、受験者を品定めする就職試験の面接官のようだった。


 ネタの中盤、ピテカンが地下鉄のつり革に掴まっているうちに、原人の本能が目覚め、体操のつり輪よろしくぶら下がろうとし始めるところで、明智は近藤と目が合った。

 瞬間、相方は力強く頷いた。


 これが合図だった。


 意を決し、次の台詞を口にする。



「おい、ピテカン。何だそのいい加減なフォームは。つり輪はこうやるんだ」



 森永の小さなまなこが見開かれ、痩せた体が前のめりになる。



「いや、お前さっき、つり革で遊ぶなと言っていなかったか?」



「俺は遊んでいない。真剣に貴様に体操を教えてやっているのだ」



「体操?! 俺たち、地下鉄に乗るのじゃなかったのか?!」



「いいか? まず手のひらに滑り止め粉をつけてだな」



「粉どっから出てきた!」



 ぷっ、と森永は吹き出し、肩を震わせ、ヒューヒューと奇妙な声を上げ始めた。

 よく表情は見えなかったが、笑っているようだ。最も、彼の笑い声は非常に特徴的で、瀕死の家畜が漏らす息のような声だったが。



 明智が思いついた『ネタを自分たちのものにする方法』とは、自分と近藤の性格、関係性に寄せ、脚本を書き換えることだった。


 場合によっては、元祖ピテ紳をないがしろにしていると取られかねないし、原作者である森永の怒りを買いかねない暴挙だと自覚していた。

 よって、近藤には、佐々木の辛辣な意見を伝えた上で、あくまで一つの意見として聞いてほしいと切り出したが、彼は快く、この提案を受け入れてくれた。



「ボケとツッコミが途中で入れ替わるのか。面白そうだな。確かに貴様は真面目すぎて、時々、とんでもないことを言ったりやらかして、周囲を呆れさせる。紳士のツッコミ役のメッキが剥がれ落ち、ボケ役という本性が出てきて、ボケ役のはずのピテカンが振り回される。俺たちらしい展開だ。やってみようじゃないか」



 そんな風に言ってくれた。



 ネタが終わった後も暫く、森永はヒイヒイ笑っていたが、やがて笑顔を引っ込め、赤フン一丁で棒立ちになっている近藤を下から睨みつけた。



「ピテカン。お前、俺の本を勝手に書き換えるなんて、随分なことをしてくれるじゃないか」



「すまん、最初は元のネタ通りにやっていたのだが、学生時代からのとあるファンに酷評されてな。偽物だって。だから、昔の真似をするのではなく、今の俺たちらしいネタをやろうってことになったんだ」



「そりゃそうだろう。ピテ紳のツッコミはあいつだけだ。どんなに似たような見た目の奴や真似が上手い奴を連れて来たところで、本物にはなれない」



 隣に立つ近藤がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。小ぶりな三白眼から放たれる射るような視線が、赤フン男から自分に移される。



「けど、あんたさ、どこの誰か知らないが、面白かったよ。特にツッコミからボケに転じる荒技。先代紳士にはできない。あいつは、根っからのツッコミだったから。あれはあんた独自の持ち味だ。この調子で磨いておけよ。俺が年季明けて帰ってくるまでには、ネタ全部覚えとけ」



 別に芸人志望でもないのに、上から目線で指導されるのは癪だったが、ここで反論するほど、明智も無粋ではない。

 黙って首肯した。



「さてと。腹も減ったし、3人で何か食いに行こうぜ。久しぶりに三朝庵のカツ丼が食いたい」



 よいしょと掛け声を上げ、森永は立ち上がり、部屋の隅に置かれた旅行鞄の上に無造作に引っ掛けてあった開襟シャツとズボンを手に取る。


 そして、大きな口を引き結び、何かに耐えるような表情をしている近藤に笑いかける。



「おい、ピテカン。お前もいい加減、服を着ろ。いくら、何でもありのこの街でも、赤フン一丁で出歩いたら巡査を呼ばれるぞ」



「あ、ああ。そうだな」



 我に返った近藤は、慌てて脱ぎ捨てた服を着始める。


 元から背広姿の明智は手持ち無沙汰になり、着替え中の2人から目を逸らし、たばこのヤニで汚れた壁を見つめていた。


 茶色く歪な模様を描いた染みは、何年もかけて蓄積されたものだろう。

 洗剤をつけて水拭きしたところで、とても綺麗に拭い去ることはできないであろう汚れだ。

 染みというより、刻印とでも呼ぶべきであるくらいに、この狭く男臭い下宿に染み付いている。


 ふと、茶褐色の汚らしい染みから、笑いに青春をかけた3人の若者の生々しい息遣いが伝わってきた気がして、はっとする。

 次の瞬間、明智は、自分の意思とは別の抑えきれぬ衝動に突き動かされ、シャツのボタンを留めたり、ベルトを締めている二人に呼びかけていた。



「あのさ……」



「あ?」



「何?」



 ほぼ同時に首を傾げられても、止まれなかった。



「3人じゃなくて、4人。初代紳士も入れた4人で、漫才やろう」



 そうだな、4人だ。4人でやろうぜ、と森永が清々しい笑みをこぼし、頷いた。

 一方の近藤は、何とも言えぬ悲喜の混じり合った面相で、薄く笑っただけだった。



 その反応に、明智はあることを悟った。

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