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「絶対待っててくださいよ。いなくなったりしたら、眼鏡割りますからね」



 裸電球に照らされた便所の前で、松田は明智に何度も釘を刺し、漸くギシギシと軋むドアを閉めた。



 やっと入ったかと嘆息した暁、ドアの向こうから、さらなる要求が告げられた。



「あ、それから、僕が大きい方するのは、皆さんには言わないでくださいよ。夢が壊れるから」



「言わないから、早く終わらせろよ」



 別にばれたところで、誰の夢も壊れない、むしろ20代後半にもなって、深夜に一人で便所に行けない方がよっぽど恥ずかしいぞ、という反論は胸の奥にしまっておいてやる。



 手持ち無沙汰で、便所の壁に寄りかかり、うつらうつらしていると、どこからか虫の声が聞こえてきた。


 鈴虫やコオロギにしては早過ぎる。何の虫だろう。


 空気には、昼間の熱気が僅かに残っており、時折吹く風は湿った草の匂いがする。

 まぎれもない夏の匂いだ。


 田んぼだらけの故郷にいた頃、夏場、自転車で畦道を走っている時にかいだ匂いと同じだ。

 ちょうど便所の横にいるおかげで、肥溜めの臭いまで忠実に再現されている。


 そういえば、中学3年時、自転車ごと肥溜めに落ちた時は大変だった。

 一番上の弟に冷ややかに『臭いから寄るな』と罵られ、喧嘩になり、母親に二人まとめて叱られ、泣いた。

 今思い出しても悔しい。



「お待たせしました。終わりました」



 他愛もない回想をしているうちに、松田がいそいそと便所から出てきた。

 手水場で手を清めつつ、彼は物憂い表情で呟いた。



「やっぱりここは良くないです。便所だけでも建て替えて欲しい」



「そんなに怖いのか? 意外だな。貴様には怖いものなんてないと思っていたが」



 わざと、からかうような口調で相槌を打ってみたが、とても成人男性には見えぬ童顔は浮かない様子のままだった。


 何だかこちらの調子も狂う。



「怖いです。一応言っておきますが、別に僕は、夜中に一人で便所に行くこと全般が怖い訳ではないのです。ただ、この寮の便所が嫌なんです」



 洗い終わった手を、明智の寝間着で拭こうとしてきたので、無言で追い払う。

 本当に油断のならない男だ。逃げたら逃げたで、不機嫌な舌打ちをされた。


 我儘が過ぎる。どんな育ち方をしたら、ここまで自己中心的になれるのだろう。


 腹立たしいが、強い眠気のせいで怒る気にもなれず、会話を続ける。



「確かに訓練施設にいた頃は、こんなことはなかったよな。別の奴に付き添って貰っていたのだとばかり思っていたが」



「あそこの便所は平気でした。心配しなくても、明智さんがいる時は、他の人には頼みませんよ。絶対です」



 いや、別の奴に頼んでくれ。


 しかし、真っ直ぐで濁りのない瞳で見上げられると、無下にできない。

 同い年だが、松田は故郷に置いてきた末の弟にどこか似ていた。

 そのせいで、頼られると、いいように利用されているのは分かっているにも関わらず、どうも甘やかしてしまう。


 明智は男だけの三人兄弟の長男である。次男は彼同様に気性が激しかったが、末っ子は上二人に強情さや気難しさ奪われたが如く、大人しく素直な性格をしている。

 松田と違って、心根から純真で穏やかな優しい良い子だ。



「何で、ここの便所が嫌なんだ? 訓練施設のも同じくらい古かったと思うが」



 寮の母屋に戻る道すがら。


 月明かりと街灯の光を頼りに歩きながら尋ねると、可愛らしい顔をした悪魔のような男は、自嘲し、答えた。



「ちょっとした、幼少期の体験のせいです。小さい頃、怖い思いをした公衆便所がここの便所によく似ていたのです」



 もう20年近く前の話なんですけどね、と前置きをし、彼は幼少時代のある体験を語り始めた。

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