7 男坂ジェラシー

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 盆休みが明け、仙台郊外の実家から帝都に戻った日の翌朝のことだった。

 明智は日課の鍛錬のために、無番地敷地内の武道場に足を踏み入れた。


 真夏とはいえ、早朝の冷涼な空気が心地よい静謐な空間に、一番乗りするのが彼の密かな楽しみである。

 小学校の体育館半分程度の広さはある道場で誰にも邪魔されず、神経を研ぎ澄まし、木刀を振るい、汗を流す。

 同僚たちには「江戸時代の武士じゃあるまいに」と馬鹿にされるが、起き抜けの一人きりの鍛錬は明智にとって、余程の事情がない限り欠かせない、欠かすと気持ちの悪い大事な習慣である。


 だが、何ということだろう。


 武道場には先客がいたのだ。


 無人であるはずの道場で、一組の男女が親しげに言葉を交わしていた。



「俺の知っている格闘術では、体重や腕力、男女差を不利にはなりません。むしろ、それらの不利な条件を利用し、相手を制圧するのです」



「相手の力や勢いを自分の力にする……。あの、間違えていたら申し訳ないのですが、それって、物理で習った力学法則とかを格闘にも応用するってことですか?」



「そのとおり。さすが当麻さん。習得すれば、あなたのような小柄な女性でも、俺を投げ飛ばせるようになります」



「ええ? 山本さんを?! すごいです! 私頑張りますので、先生、よろしくお願いします」



「はは、先生なんて照れますからやめてください」



 一人の男女、山本慎作と当麻旭は、出入口のところで棒立ちしている明智には目もくれないでいた。まるで、二人だけの世界にいるように見えて、明智はざらついた気持ちになった。



「では、手始めに当麻さん、自分のやり方で良いので、俺を倒してみてください。目潰しとかはなしですよ」



「やだな、松田さんじゃあるまい、そんなことしませんよ。じゃあ行きますっ!」



 宣言するなり、旭は山本の腰の辺りめがけ、見るからに弱そうな体当たりをしたが、勿論、山本はびくともしない。



「えい、えい! ふぬううっ!」



 何とか力学法則の助力を得られないかと、彼女は次々に角度や力加減を調整しながら、均整の取れた筋肉質な体躯を押したり、しがみついてみたり始める。



「まだまだですよ。本気出していますか? 子供の相撲大会じゃないのだから」



「酷い。私だって頑張って……」



 今や明智の視線は、ついたり離れたりを続ける二人に釘付けだった。

 あんなに密着しては、いくら旭の胸が小ぶりであろうと、間違いなく山本の背中にはふたつの柔らかい膨らみの感触が伝わっているはずだ。

 どんな感触かは、かれこれ20年以上前に母親のそれに抱きついたのが最後なので忘れてしまったが、絶対にあれは触れている。


 卑猥過ぎる。



 旭に女としての色気は皆無だが、年長者とはいえ、山本も30歳を少し過ぎた男盛りだ。

 へらへら受け流しているが、内心、役得だと高笑いをしているだろう。

 否、しているに決まっている。

 不潔だ。

 会話の内容から、彼は女上司に格闘術の教授をしているようだが、知ったことか。


 護身術を教えるとか、慢性の病をあんまで治してやるとか、言葉巧みに婦人を惑わし、自身の性欲を満たそうとした不届き者がお縄にかかったというニュースは、新聞の三面記事にもよく見かける。


 山本に、そこまでの下心があるかは知れぬが、ちょっとしたお得感を楽しんでいるのは間違いないはずだ。

 旭は嫌がっている様子はないが、あまりにも、普段から女扱いされないせいで、自分が部下から性的な目で見られていることに気づいていないだけだろう。


 救わねば。


 紳士として、野獣の魔の手から、純真無垢な女を守らなければならない。




「山本! そこで何をしている!」



 明智は床を踏み抜かん勢いで二人に駆け寄りながら、語気鋭く怒鳴った。

 そして、怒号に驚き、下心丸出しの変態にしがみついたまま制止している旭の腕を掴むと強引に引き寄せ、己の背中で隠した。



「いや、貴様が何をしているんだ?」



 暫しの沈黙の後、しんと静まり返った武道場に、山本の呆れ気味の問いかけが響いた。



「な、何って。とぼけるな! 質問に答えろ!」



 あまりに冷めた反応に、振り上げた拳をどうすべきか分からず、躊躇したが、何とか持ち直して反駁した。


 けれども、変態は切れ長の奥二重の瞳を眠たげに細め、間の抜けた返答をした。



「何って、見ての通り当麻さんに格闘術を教えていただけだよ。強くなりたいって、頼まれたのでな」



「誤魔化すな! 貴様の考えていることは……」



 ヒステリックに下心を告発してやろうと意気込んだところで、背後から山本以上の呆れ声が聞こえた。



「腕、離してください。痛いです」



 毎年、氷点下を連日記録する宮城の厳しい冬を彷彿させる冷徹な響きに、熱くなっていた頭が急速に冷えていった。



「……すみません」



 とんだ勘違いに気づいた明智は、羞恥のあまり、すぐに旭の腕を解放し、消え入りそうな声で謝罪するのが精一杯だった。

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