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「いやあ、やっぱり若さには勝てないな。俺も自信あったのに。まさかゴール直前で腰にくるとは」



 酔客の騒ぎ声や付けっ放しのラジオ、良い気分になったのか、手拍子をしながら少し昔の歌謡曲を歌うサラリーマンのだみ声、定期的に天井を通る山手線が立てる騒音が騒々しい大衆居酒屋で、薄い焼酎を山本は美味そうに飲み干した。



 朝の勝負は、途中までかなりの接戦であったが、ゴール直前に三十路越えの同期は急に減速してしまったため、最終的に明智の圧勝となった。



 石段を登り切るなり、山本は『腰やっちまったかも』と苦笑いをしながら申告した。

 瞬時に顔色を変えた明智と旭に吹き出した。

 そして、『大丈夫、歩けるから』と、実際に境内の中へと歩いて行ったが、腰に負担をかけないようにしているのが明らかな妙な歩き方だった。



 本殿で参拝を終え、帰路につく間も階段では老人のように一歩一歩慎重に上り下りをし、平地でも足を引きずるような歩き方を通していた。


 病院に行った方が良いのではと旭が助言したが、本人は平気だと言い張り、結局夜になってしまった。


 そして、明智はペナルティーの存在なんぞすっかり忘れ、夕食後の自由時間は読書でもしようかと思っていた。

 けれど、山本は「約束通り奢ってやるからついてこい」と言い出した。

 当然、養生すべきだと断ったのだが、聞く耳を持たれず、そろそろ歩きの三十路に連れて来られたのが、この店だった。



「なあ、山本」



 つまみのさきいかをたばこのようにくわえている同期に話しかける。



「ん? 何だ」



 振り返った顔は飄々としたつかみどころのない表情をしていた。



「貴様、本当は腰やってないだろ。ゴール直前でわざと手抜きをし、俺に勝たせた。違うか? 何でそんなことをした。そんなに俺に酒を奢りたかったのか?」



 締まりなく薄笑いを浮かべていた頬がきりりと引き締まった。切れ長の奥二重の瞳にも鋭い眼光が宿る。



「それは穿ち過ぎだぞ、明智クンよ。おっさんは本当に腰を痛めてしまったんだ。いつまでも若いと自分の体力を過信していた罰だな、こりゃ。労ってくれよ」



「その割には、さっきからこの座りにくいボロ椅子に平気で座って酒を飲んでいるな。腰痛持ちではない俺でも、腰が痛くなりつつあるのだが」



「……」



「それに、腰を庇って歩いているくせに、さっき一人の時普通に階段上っていたの見たぞ」



 暫し沈黙した後、山本は呆れ顔で肩をすくめた。



「どうしてそういうの口に出しちゃうかな、貴様は。黙って人生の先輩の好意を受け止めとけよ」



「俺は酒なんて奢ってもらいたくない」



「酒は俺もどうでもいいよ。そっちじゃないだろ? 俺が貴様に勝ちを譲った理由は安酒一杯のためじゃないぞ」



 じゃあ何のためにそんなことをしたのだ、と眉間に皺を刻んでいる明智に年上の同期は深く嘆息した。

 手にしていたグラスをテーブルに置き、半身を捻ってこちらに向き直られた。



「貴様が当麻さんに良いところ見せられるように、おっさんは引き立て役になってやったの!」



「は? 何で?」



「何でって、貴様、ずっと俺たちにやきもち焼いてただろうが。言っておくが、否認しても無駄だぞ。ダダ漏れだったから」



 図星を突かれ、顔が一気に上気する。確かに仲睦まじそうな二人に嫉妬し、何とかして山本を出し抜けないものかと思案していたが、全部筒抜けだったとは恥ずかしい。

 羞恥のあまり死んでしまいそうだ。



「……帰る」



 俯いたまま、席を立とうとしたが、袖を掴んで止められた。




「まあ、待てって。話はまだある」



「帰る。酔いが回った。気持ち悪い。今にも吐きそうだ。吐くぞ。離さないなら、ここでぶちまけてもいいんだぞ?」



「……いや、無理はするなよ。貴様は人前で平気で嘔吐できる性格ではないよな。落ち着けよ。このことは誰にも言わない。ただ、人生の先輩として忠告したいだけだから」



 たしなめられ、仕方なく明智は席に腰を下ろした。



「何だ? 俺に何を説教する気だ」




 人生の先輩だか何だか知らないが、上からの物言いをされるのは、あまり気分が良くない。

 憮然とした態度で促すと、山本は一口焼酎を煽ってから、テーブルの上で頬杖をついた。



「自分の気持ちには素直になるべきだぞ。でないと、後悔する。あの時勇気を出しておけばとどんなに願ったところで、時間は巻き戻せない。もっと今を大事にしろよ。こんな時間がずっと続くはずはないのだから」



 急に何を言いだすのだろう。

 確かに自分はへそ曲がりの自覚はあるが、今を大事にしていなくはない。

 それなりに懸命に生きている。

 そして、この居心地の良い青春の残滓のような時間が永遠ではないことも、胸の奥では悟っている。



「何でそんなことを言うのか? という顔だな、それは」



 ぽかんとしている明智に山本は苦笑した。



「好きなんだろ? 当麻さんのこと。だったら変に抑えず、正面からぶつかった方が良いと俺は言いたい。って! 汚ねっ! 何をするんだ! 背広が濡れちまったじゃないか!」



 思いもかけない指摘に、明智は口に含んでいたビールを噴水のように吹き出していた。

 落ち着き払った兄貴分もこれには閉口した。



「き、貴様が妙なことを言うからだ! 自業自得だ! 俺は当麻さんのことなんか全然好きなんかじゃないもんね! もっと美人で女らしい人が好みだもん」



 動揺しすぎて、自分でも何を言っているのか分からない。

 対する山本は冷静だ。



「図星じゃねえかよ。おい、口調がおかしくなってるぞ。何が『もん』だよ。かわいくねえぞ。気持ち悪い」



「うるさい、おっさん、お節介なんだよ。余計な気をまわしやがって。迷惑だ。二度と俺が当麻さんに懸想しているなんて、寝ぼけたことを言うんじゃないぞ。分かったな、絶対だからな!」



 問答無用に居酒屋を出て行こうとしたが、途中で通路にはみ出ていた椅子にむこうずねを強かにぶつけて痛かった。

 構わず、秋の夜空の下に飛び出した。



 果たして、自分は山本が見透かしたとおり、旭のことが女として好きなのだろうか。

 そんな疑問が胸に去来し、明智は振り切るように頭をぶんぶんと横に振った。


 振りすぎて気持ちが悪くなるくらいに。


 鳩尾から込み上げてくる吐き気を堪えつつ、彼は確信した。


 俺も酔っているようだ。

 だからこんなに取り乱してしまったのだ。とはいえ、諜報員として修行が足りない。


 帰って、精神修練のため、道場で素振りでもしよう。


 煩悩は取り除かねば。




 ****************************************************



 明智が飛び出ていった居酒屋では、山本と大将がのんびりと語らっていた。



「知事、あれが前に話していた石頭君? 想像した通りで笑いを堪えるのに必死だったよ」



 50がらみの大将は、人懐っこい笑みを浮かべながら、山本の空になったグラスに焼酎を注いだ。



「だろ? 面白いよな、見てるだけで。本人はいたって真面目だから、笑っちゃ可哀想なのだが。しかし、素直になればいいのにな。全く。人がせっかく気を回してやったのに」



「はは、知事だって昔は人のこと言えなかったぞ。最近の若いのは恥ずかしがり屋でいけねえ」



「もう俺は若くないよ」



 独り言の如き返答に、気のいい大将の顔から笑顔が消える。

 恐る恐る、相手の気持ちを慮るように安酒場の主人は尋ねた。



「やっぱ、忘れられねえか? 後悔してんのか?」



「……そりゃあな。後悔だらけだ。あいつと違って、俺は気持ちは伝えたけど、その先がな。だからこそ、あいつには俺と同じ轍は踏んで欲しくないのだけどなあ。年寄りの失敗談は、若い奴にはなかなか伝わらない」



 奥二重の瞳に暗い影が差す。拭い去れぬ悲しみの記憶は、いくら年月が流れようと色褪せないのであろう。



「あんただって、俺から見りゃまだまだ若いぞ」



 薄っぺらい慰めを口にし、一度躊躇してから、大将は勇気を出して言葉を紡いだ。


 伝えられずに後悔しないために。



「だから、知事、あんたも幸せになれよ。まだそんな気にはなれねえのかもしれないのだろうけど、あんただって大事な今を生きているのだから」



 山本は返事はせず、ゆっくりと首肯した。

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