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明智の中途半端な黄金バットは、空気を一気に冬のシベリア並みに凍らせた。
あの所長をして「貴様、いじめられているのか? 何かあったら俺でも山本でも良いから相談しろ」と言わしめる程であった。
ああいうのは思い切りやった方が恥ずかしくないのに、思い切れないのが僕の親友なので、仕方がない。
不幸な事故だったのだ。
奴の考えていることがダダ漏れの麻雀が悪いのだ。
そうしておこう。
でないと、さすがの僕も罪悪感に苛まれてしまう。
それはともかく。
余談は置いておいてでだ。
千里眼の占い師の話を聞いた数日後、僕は一人で浅草の寄席に出かけた。
近頃は銃後だからと理由をつけ、一般大衆の娯楽の類にまで規制が及び始めている。後方勤務の僕が言えた口ではないだろうが、むしろ、下らない漫才でも見させ、適度にガス抜きさせた方が民衆の不満は蓄積されにくいと思うのだが、お上の方針は違うらしい。
この界隈も数年前に比べて、ネオン規制やら深夜営業の制限やらで、廃れた雰囲気になってしまったし、上演されている演目も、戦時色が垣間見えるものが増えている。
お笑いくらい、頭を空っぽにして楽しませて欲しいものだ。
結局、現代物の漫才や喜劇は諦め、寄席で安酒片手に弁当を食べながら、どっぷり江戸の昔に浸り、僕は浅草を後にした。
酒は好きなのに、体質なのか、全く酔えないのがつまらない。
飲んでも飲んでも、顔が赤くなったり、ふわふわ楽しい気持ちになったりできないのだ。
だから、酒席で皆が酔っ払い、陽気になったり、シクシク泣き出したり、タガを外しているのを目にすると、羨ましくて仕方なくなった。
正直、二日酔いで気分が悪くなるのすら憧れる。
吐きそうだと青い顔をしているのに、どこか誇らしげじゃないかい? 二日酔いの人って。
それでも、気分だけでも、夜の街を上機嫌の千鳥足で散歩している雰囲気を味わいたく、僕は路面電車を一駅前で下車し、わざと入り組んだ路地裏に入り、ぶらぶらと寮に向かって歩いていた。
うちの会社でも偶に出前を頼む、江戸時代から続く、老舗蕎麦屋の角を曲がった時だった。
二つ先の電柱の下に、妙な風体の人影が座っているのに気づいた。
その人影は、こげ茶色の格子柄の着流しに、黒の紋付羽織姿で、頭には山岡頭巾を被っており、体格からして男だと思われた。
『占い』と書いた三角錐を置いた机を前に微動だにせずに座り、客待ちをしている様子だったが、その割に机上には看板が置かれているだけで、水晶玉とか
松田が話していた千里眼の占い師のことが頭に過ったが、眼前にいる占い師は全身黒ずくめではない。
おまけに、占い師というより時代劇に登場する同心の如き出で立ちをしている。
さては、神出鬼没の詐欺師に便乗しようとしている不届き者か。
方向性を間違えている感が否めぬ姿に失笑したくなる。
僕はあの意地の悪い童顔の同期と違い、面倒ごとには不必要には関わらない主義なので、妙ちきりんな占い師の前を素通りしようとした。
が、背後から、先刻寄席で聞いたような飄々とした江戸弁で呼び止められた。
「ちょいとお兄さん、お待ちなさいな」
やや高めでだみ声気味だが、通る声だった。振り返ると、例の占い師がこちらに向かって手招きをしていた。
「背中にとんでもねえもん憑いてるぞ。ここで会ったのも何かのご縁。お前さん見てやるよ」
頭巾の隙間から覗く鋭い双眸が怪しく光った。よく見るとこの男、瞳が赤い。どす黒い血みたいな色をしている。
色素異常だろうか。
それにしても、僕をカモにしようなんていい度胸をしている。背中に霊が憑いてるなんてベタな脅し方だが、中にはコロリと騙され、泣きつく奴もいるのかもしれない。
けれども、残念ながら今の僕は散歩にも飽き、風呂と布団が恋しい。
「遠慮します。急いでいますので」
冷たく言い捨て、改めて立ち去ろうとした次の瞬間、占い師は予想外の行動に出た。
「待って。ちょっと、少しだけで良い。金もいらねえから。な?」
何と椅子を蹴り、机をどかして飛び出し、僕の背広の裾を掴んできたのだ。
なんて強引な奴なのだろう。
だが、こっちだってこれしきのことでは折れない。
裾を握って離さない男の手(占い師というより武芸者みたいな無骨な手だ)をすかさず掴み、思い切り捻り上げた。
堪らずインチキ占い師は悲鳴を上げる。
「あ、痛い! 痛い !いたたたたたたたっ! やめて、離して!」
「僕は急いでいるのです。占いなんかに関わっている暇はありません。行かせてくれますね?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。あ、でも少しだけだから。占いじゃないし。金もとらねえ。あーっ!痛い、やめて! 分かった。諦めるから。お願い許して」
男は情け無い声で平身低頭謝罪し、終いには占いじゃないとまで言ってのけた。
じゃあ何なんだよ。背中に憑いてると言うくらいだから、闘魔でもする気だったのか?
「もうしつこく勧誘しないと約束してくれるなら離します」
「分かりました。分かりました。もうしません。しつこくして申し訳ありませんでした」
素直に応じたので、あっさり解放してやる。
その途端、インチキ野郎は素早く手を引っ込め、締め上げられていた手首を、もう片方の手で何度もさすった。
「ああ、痛かった。こんなに痛い思いをしたのは百年ぶりくらいかも知れねえ」
百年ぶりって、大げさな。
目の周りしか顔の露出はないので、判然としないが、男の年齢は30代半ばから40代前半くらいに思えた。
手も目元にもまだまだ張りがあって、そこそこ若々しいし、体つきは細身ではあるが、つくべく筋肉はがっちりと鍛えられており、例えば、剣道とかをやっていそうな印象だ。
若者と呼ぶには語弊があるかもしれないが、若く健康な男は次々に戦地に送られているこのご時世、こいつは、深夜の住宅街でイカサマ商法であぶく銭を儲ける以外にするべきことがあるはずだ。
兵隊に行けとまでは言わないが、せめて真面目に働け。
「じゃ、失敬」
義理で会釈をし、今度こそ僕はこの場を離れようとした。
が、投げかけられた言葉に、不覚にも足を止めてしまった。
「お前さん、あんま気張りすぎて生きてっと、参っちまうぜ。お兄さんの腰の周りにぴったりくっついて、離れねえ坊ちゃんも、心配そうにしてらあ。なあ、その背中の化け物、どっから連れてきたんだ? 否、どうやって育てた」
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