9 愛玩犬と猟犬と化け物

1 化け物からの伝言

 桜吹雪の向こうに1年ぶりに見た顔は相変わらずの間抜け面だった。


 瞼の裏に昼間見た眼鏡をかけた神経質そうな男の顔が浮かんで消える。

 難しそうな顔をしているけれど、奴は大して複雑なことは考えられない単細胞だ。羨ましい。


 昭和16年4月某日午後8時。


 櫻井さくらい貴仁たかひとは、皇国共済組合基金職員寮のベッドに一人寝転んでいた。


 ほかの諜報員たちは食事や夜遊び、風呂、勉強、後は……仕事か? とにかく出払っていて、簡易ベッドが並べられた大部屋には櫻井しかいなかった。


 病院みてえだよな。

 狭いし、むさ苦しいし、無機質で辛気臭い。

 個室が欲しいわ。


 目玉だけを動かして、室内を見回し、悪態を吐く。

 寮の設備にはあらゆる文句があるのだが、何よりも閉口させられるのは個人スペースの狭さだ。

 ベッド側には個人用の木製の荷物棚が設置されているが、衣装持ちの櫻井にはとてもではないが物足りない。

 結局、赴任先の朝鮮で買い集めた本は収納しきれず、泣く泣く茶箱ごと埃の積もったベッドの下に収めた。


 が、その際、櫻井はベッド下に興味深い物を発見した。

 1冊の手垢にまみれたノート。

 舌打ちしてゴミ箱に放り込んでやりたいくらいの小汚い代物だった。

 今、彼はラッコのように仰向けになり、胸の上に件のノートを乗せている。

 捨てられなかったのには理由がある。

 櫻井が背広のまま寝転ぶベッドの前の使用者が他ならぬ同期生一の天才諜報員佐々木だったからだ。

 完璧超人の佐々木が置いていったものなのだから、単なる忘れ物なはずがない。

 そもそも奴は忘れ物なんてしないし、己の後に櫻井がやってくることも知っている。

 荷物の多い櫻井がベッド下を覗き、ノートの第一発見者になることも、ほかの諜報員たちにノートの存在を秘すことも見越していたのだろう。

 そういう男だ。

 恐ろしく形の良い、けれどガラス玉のように感情の死滅した茶色がかった瞳が見透かせぬものなどない。

 無番地のエースは、何か後任者の自分に伝えたいことがあったのだろうと読んだ。


 ビスクドールのように整った顔立ちの同期は、現在、去年の年末に失踪した初代所長を探して、インドにいる。

 初代所長失踪事件当時は、櫻井は任地の京城(現在のソウル)に潜伏していたため、事件の詳細は知らない。

 色々帝都は大変だったようだが、凍てつく冬の京城の空の下、櫻井は粛々と自らの任務をこなし続けていた。

 事態の収拾は内地勤務の連中の仕事で、自分のやるべきことではないと思っていたからだった。


 そのうち日本からの通信で、当麻旭とかいう後輩の女が新所長になることを知らされ、今後の身の振りを問われた。

 上に誰が立とうとどうでもいいし、転職をするのも面倒なので、無番地に残留すると返信した。


 何にでも属し、何にでも属さないのが自分だ。

 トップが誰になろうと自分は変わらない。

 ずっとそうやって生きてきたから、今回も前例踏襲をしただけだった。


 だが、3月になり、佐々木が所長探しの旅に出るため、代打として4月の新年度には帰京して東京勤務を命じる旨の内示が出た。


 これには佐々木の代わりなんぞ、自分なんかに務まるはずもないと苦笑せざるを得なかった。


 俺は人間だ。化け物には逆立ちしてもなれない。


 温室育ちの他の連中よりは、背負っているものが多少特殊なおかげで(もっとも、特殊な背景があることは初代所長以外には口外していない)、世の中のことを知っているけれど、所詮、日暮里の帽子屋の倅だ。


 どんなに強がっても、奴らが愛玩犬なら、自分は猟犬程度だ。

 化け物の前では似たようなものだ。


 世間知らずのお坊っちゃんたちには、自分も佐々木も他とは一線を画する紙一重の天才型に見えている節があるが、全然違う。


 それでも、化け物は自分に何かを託した。

 佐々木が櫻井を同類と誤認する訳はないので、単に『適任者』として選抜しただけなのだろう。

 不本意だが、好奇心が刺激される。

 胸板の上に置いたノートのページをめくる。

 唯我独尊、傲岸不遜に生きてきた自分が唯一、本気で気色が悪いと恐れる男からのメッセージに微かに武者震いすら感じる。

 タイプライターで打ち込んだ活字と見まごう筆跡でびっしりと書き綴られた文字の洪水に櫻井は切れ長の一重まぶたを一層細めた。

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諜報員明智湖太郎の日常 十五 静香 @aryaryagiex

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