5
翌朝。
武道場前に到着すると、道着姿の旭と山本が待っていた。
「みんなで行った方が楽しいと思ったので、昨晩寮にいらした方には声をかけてみたのですが、かったるいって断られちゃって。山本さんだけですよ、来てくれたの」
明智の姿を認めると、彼女は頬を膨らませて告げ口してきた。
どうやら誘いをかけた者、殆ど全員に断られたことに立腹しているようだ。
「基本的に、無駄に体力を消耗することは嫌いな奴らだから仕方がないですよ。明智くらいか? 元気なのは。まあ気持ちを切り替えて楽しくいきましょう」
山本の押しつけがましい小学校教師のような、快活な口調にいらつく。
何で貴様までいるのだ。貴様の役目は格闘術の伝授だけだろう。
「あれ? 明智さんお腹でも痛いのですか。気難しい顔して。無理はしないでくださいね」
「いや、大丈夫です」
旭の側に立っている年上の同期は、声かけこそせねど、気遣うようにこちらを見ている。
何だか癪に触る。
「山本、貴様朝食の準備はいいのか?」
「昨日の晩に作り置きしておいたから平気だ。間に合わなかったら、自分で勝手に食えと他の奴らには言ってあるから気にするな」
明智に確認されるまでもなく、用意周到に調整済みだった。できれば、もう一歩先まで気配りして欲しかった。
「でも、早く出ないと、朝ごはん食べ損ねちゃいます。さあ、出発しましょう!」
女性中管理職殿はやる気満々に「えいえいおー」と気勢を上げ、スタートダッシュを切った。
「当麻さん! そっち反対!」
往来に出るなり、ゴールの神田明神とは真反対の方向に疾走していく旭を山本が慌てて引き止めた。
江戸情緒の残る、どこか懐かしい街並みを明智と山本は快調なペースで走り抜けて行った。
頬に触れる風は早朝だということを差っ引いても意外に涼しく、心地良さと共に昭和15年の夏が去りかけていることを教えてくれたくれた。
どこで培ったのかは不明だが、年かさのくせに、山本は瞬発力もさるとこながら、肺活量や持久力などの体力が抜きん出て優れている。
訓練施設時代、寒中着衣泳の訓練中に倒れた同期生を背負い、立ち泳ぎで進みながら、大声で叫んで助けを呼ぶという化け物じみた所業をやってのけたこともあった。
明智は無理をし過ぎないように気を配りつつも、遅れは取りたくなかったので、ぴったりと併走し続けた。
出発から15分程経過した頃であろうか。
同期最年長の男は徐々に速度を落とし、終いに立ち止まって後ろを振り返った。
ついにこいつも疲れが出てきたか、と明智はほくそ笑んだが、そういう訳ではなかったようだ。
足を痛めでもしたのか。引き返して駆け寄る
現場に向かう肉体労働者や早出の勤め人たちがまばらに歩く歩道を振り返り、山本は顔をしかめた。
「しまった。つい夢中になっていて気づかなかったが、当麻さんを置いてきてしまった」
「あ……」
少なくとも現在地から見渡せる場所に、旭の姿はなかった。
何ということだろう。彼女の体力作りが主たる目的の早朝ジョギングのはずが、地味なくせに、総合的な能力はやたらと高い同期への対抗心を燃やし続けているうちに、張本人を置き去りにしてきてしまっていた。
「どこまでいたか覚えているか?」
問いかけに山本は首を横に振った。
「貴様がなかなかのものだから、つい負けず嫌いに火がついてしまって、当麻さんのことはすっかり忘れていた。貴様こそ、覚えていないのか?」
「……出発してすぐの上り坂で追い抜いたのは覚えているが、その後は知らない」
「……」
「……」
「……戻るか」
「そうだな、道に迷ったり、どこかで倒れているといけないし」
元来た道を歩いて戻りながら、念のため横道に世話のかかる女上司が逸れてしまっていないか、二人がかりで捜索した。
さすがにここまでは行かないだろうと明智が主張したにも関わらず、当麻さんなら危ないと山本が退け、渋々覗いた路地で、旭は発見された。
瀕死の河童の如きよれよれ状態の彼女は、対面から徒歩で逆走してくる男二人に、息も絶え絶えに喝を入れた。
「ちょっ……。ふた、二人とも、ハー、ハー、何……さぼ……って、ヒュー、ヒュー……。駄目じゃ……ない……ですかあ……」
最早、フォームも何もなっていない、今にも崩れ落ちそうな走り方の彼女の肩を山本が両手で掴み、止まらせた。
「休憩しましょうね、当麻さん」
古の侍のような面には満面の笑顔が浮かべられていたが、有無を言わさぬ圧力に、旭は萎びたキャベツのように逞しい腕に体重を預けた。
その光景に、またしても明智の心は騒つき、眉間に深い皺が刻まれた。
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