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 神田明神から帰ると、明智は食堂で、山本と旭相手に飲んでいた近藤を廊下に連れ出した。

 怪訝そうな顔をしている彼に、依頼の受諾を伝え、早速稽古を始めよう申し出ると、愛称ピテカン君は、わざとらしいくらいの大声を上げて驚いていた。



「今朝はすまなかった。貴様たちを愚弄するようなことを言ってしまった。この通りだ」



 加えて、頭を深く下げ、謝罪すると、近藤はそのままブリッジでもするのではと疑う程に、身を仰け反らせ、驚愕した。



「お、おい。急にどうしたって言うんだ。調子が狂うから、早く頭を上げてくれ」



「いや、良いんだ。俺は貴様が大事に、誇りを持ってやってきたことを、根拠の希薄な偏見で貶めた。許してくれるとは思っていないが、気がすむまで謝らせてくれ。何なら罵倒してくれても構わない」



「ちょっと、何? 手のひら返し?! しかも真面目すぎて面倒くさい! 別に大して気にしてないから。馬鹿にされるのも、笑われるのも酷評されるのも、学生の時から慣れている。だから、頼むから頭を上げろ」



 いつも泰然自若としている近藤が、大柄な図体で慌てふためいている様は、滑稽だったが、それを面白いと思う余裕は明智にはなかった。

 ゆっくりと頭を上げ、真正面から尋ねる。



「許してくれるのか?」



「あ、うん。そもそもそこまで怒っていないから」



「ありがとう。恩に着る」



 不気味な程に謙虚な同僚にたじろいでいたようだが、何とか持ち直した近藤は鷹揚に笑い飛ばした。



「良いってことよ。こっちこそ、面倒ごとに巻き込んでしまって悪いな。早速、明日から稽古しよう。じゃあ、俺はもう少し飲んでから寝るから、明日からよろしく。おやすみ」



 颯爽と踵を返し、食堂に向かって歩き始める。

 そのいかり肩を、明智は力任せに掴んだ。



「何すんだよ?! 痛いって!」



 振り返った近藤は、乱暴な仕打ちに抗議をしてきたが、無視をする。

 そんな些末なことに構っている暇はないのだ。



「明日からじゃない。今からだ。もう公演まで一週間を切っているのだろう? 間に合わなくなったら、どうするつもりなのだ」



「間に合うって。本はできているし、俺は何度もやったことのある十八番だから」



「貴様は良くても、俺は良くない。まだ本すら読んでいないのだぞ。それから、内容を暗記して、客を笑わせられるくらいの演技の練習もせねばならない。明日からなんて悠長なことは、言っていられない。今すぐにでも始めるぞ」



 やると決めたからには、完璧にやり遂げることが、諜報員明智のポリシーである。


 今日はもう良いだろ、と泣き言を宣う近藤を引き連れ、早速、脚本に目を通すため、寝室を目指す。



「脚本以外に、現役時代の演技を録音した音源とかはないのか? あったら是非聞きたい」



「玄人じゃないんだ。そんなものない」



「……ちっ。そうなると、実際によく観ていた佐々木頼りか。あいつのことだから、映写機の如く、完璧に脳内に焼き付けているはずだ。俺が本を覚えたら、早速観てもらおう」



 諜報員になってからは、自重していたせいもあり、あまり発露していなかったが、明智湖太郎は、というか明智湖太郎という偽名を名乗る青年は、一度やる気になると、途中で塀に衝突しようが、脱線しようが、肥溜めに落ちようが止まらない暴走機関車のような、傍迷惑な性質を持っていた。


 そして、先ほど、お互いの素顔を知る親友、佐々木が見せた素の表情や本心に触発されたのか、久方ぶりに、その性質が表に出てきてしまっていた。

 だが、当の本人の自覚は皆無である。

 むしろ、悪いことに、諜報員らしく、受けた仕事は完璧にこなすべく、着実に努力をしようとしているだけと自己分析している有様だった。


 誰が見ても、良い状況とは言い難かった。

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