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 省線上野駅の公園改札を出ると、上野恩賜公園の鬱蒼とした森が目に飛び込んできた。


 木々は晩夏の日差しを浴び、各々伸びやかに枝を広げ、地面に柔らかな木漏れ日を落としていた。

 心なしか、体感気温を低く感じるのは、気のせいではないだろう。


 上野は東北出身者にとって、初めて足を踏み入れる帝都東京である。

 明智自身、10年近く前、大きな荷物を両手に抱え、帝都の北の玄関口に降り立った。

 あの頃は、自分が世界一有能な天才だと信じて疑っていなかったため、不安そうな顔をしている他の田舎者たちを横目に、彼は希望に満ちた一歩を力強く踏み出した。

 高等学校なら家から通える二高があるではないかと反対する父親を「本当の一番は一高から東京帝大に行くものだ。仙台は自分には狭過ぎる」と大口を叩いて説得し、上京してきたのだ。

 寸法が今ひとつ合っていない学生服を何となく着、中学に入った頃に作った流行遅れの眼鏡をかけ、くたびれた肩がけをたすき掛けにしていた姿は、どこからどう見てもお上りさんそのもの、加えて口を開けば東北弁丸出しで自慢話をまくし立てるの明智は、一高の新入生の中でも浮いていた。

 当時、周囲の冷ややかな視線に全く気づかなかったのは、浮かれていたにしても、どうかしていたと思っている。

 入学後、一月程で、膨張しすぎた自尊心を木っ端微塵に粉砕し、ついでに帝都の紳士らしい振る舞いや服装を見立ててくれた佐々木には、感謝してもしきれない。

 あのまま驕り高ぶった井の中の蛙でい続けたら、と考えると寒気すらする。



「東京駅も大きいけど、上野もすごいわねえ」



 木漏れ日の中、恭子は日傘をさし、ゆったりと歩きながら、嘆息する。



「上野は帝都の北の玄関口だからね。明智さんも上野には色々想い出がありますよね? 伊達政宗の生まれ変わりだって言われたくらい、仙台では知らない人がいない大天才の有名人だったのでしょう?」



 よせば良いのに、旭はここでまた明智の虚偽の設定を水増しさせた。『仙台の神童』は自称したことがあるが、一高入学直後の最高に浮かれていた時期にさえ、伊達政宗云々は言っていない。

 嘘は必要最低限しかつくな、嘘を重ねれば重ねるほど、ボロや矛盾点が生まれやすくなり、敵に正体を見破られやすくなるとの訓練施設での教えを、彼女はすっかり失念してしまったのだろうか。

 今日の旭は、何を考えているのか、さっぱり分からない。まるで女みたいだ。



「まあ、東京に着いて初めて降りた場所、程度です。すぐに下宿に向かってしまったので、さほど観光はしませんでしたし」



 余計なことを話すのは命取りになりかねないので、つれない答えで会話を終了させる。

 旭は不満そうに唇を尖らせたが、知ったこっちゃない。



「だてまさむねかあ。明智さんって凄いですねえ」



 幸か不幸か、恭子は『伊達政宗』が如何なる人物なのか、よく分かっていない口振りだった。

 列車の中での会話から察するに、彼女は見た目こそ美しいが、頭はあまり良くなさそうだった。


 動物園の入園口に向かって公園内を歩いていると、木陰で扇子片手に通行人を物色してい男が近づいてきた。


 年の頃は40がらみ、ハンチングを被り、よれよれのシャツを腕まくりしているえびす顔の彼は、手に大きなカメラを持っている。

 観光地などによくいる街頭写真屋だ。彼らは、通行人の写真を撮り、被写体になった者に売りつける商売をしている。



「いやあ、絵に描いたような美男美女で羨ましい。上野見物の記念に一枚どうですか? 何なら、お手伝いさんもご一緒に」



 商売用の愛想笑いを浮かべながら、彼は明智と恭子に話しかけてきた。

 恭子の隣にいる旭には、最初から目もくれていない。台詞通り、使用人と勘違いしているのだろう。


 無闇にどこの誰とも知れぬ者に写真を撮られることは、仕事上避けねばならなかったので、無論断る以外の選択肢はなかったが、悪気なく明智と恭子を恋人だか夫婦、旭は使用人と見做してきた発言は明白な失言だった。


 凍りつく3人に、男は戸惑う。



「ねえ、旭ちゃん。明智さんには悪いけど、せっかくだから二人で撮ってもらいましょう」



 顔を強張らせ、俯いてしまった旭の腕に恭子が抱きつき誘った。

 きっと、彼女なりに気を遣ったのだ。

 けれども、旭は不自然な作り笑いに頬を歪め、妙に上ずった声で早口に辞退した。



「私はいいよ。写真で残すような顔じゃないし、恥ずかしいよ。それより、恭子ちゃん一人で撮ってもらえば? 女優さんのブロマイドみたいに絵になりそう」



「えー。じゃあ私もいいわ。おじさんごめんなさい、他の方にあたって頂戴」



 しつこく迫られると思いきや、微妙な空気が居心地が悪かったのか、街頭写真屋はそそくさと退散していった。



「行こう。早く象さん見たいな」



「う、うん」



 恭子は明るい口調で、落ち込んでしまった様子の親友を促し、手を取ったが、旭の面持ちは冴えないままだった。

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