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 茜色の夕日が射し込む皇国共済組合基金所長室で、やや額の後退した諜報組織、無番地の所長は、革張りの事務椅子に深く腰掛け、マホガニー製の事務机を挟んで立つ部下の報告に耳を傾けていた。


 報告者のこげ茶色の髪の青年は、声音こそ柔らかではあるものの、淡々とした語り口で温かみが感じられなかった。

 が、所長はそれに輪を掛けた冷徹さを発揮しており、相槌も打たず、眉間に皺を寄せ、気難しい顔で椅子に沈んでいた。



 同じ室内にある応接用のソファには、当麻旭と近藤が向かい合って座っており、旭は何か言いたげな表情で、そわそわと落ち着きなくスカートの裾を引っ張ってみたり、体を捻って、所長の方をすがるように見やったりしていた。

 一方の近藤は悠然とふんぞり返り、『よげんの書』と表紙に癖の強い文字で書かれたノートを手にしており、ページをぱらぱらとめくりながら、時折にやりと口の端を上げてほくそ笑んでいた。



「……ということで、明智は最初こそ、未来人ジョージを非常に警戒しておりましたし、時間旅行なんてあるはずがないと頑なに否定していました。僕の頭がおかしくなったのだろうと考えていたようです。けれども最終的には、僕が演じるジョージを、僕の曽孫であり、西暦2020年の未来からやってきた時間旅行者と信じ込んでしまったように見受けられました。松田と山本、それに小泉にも同様の実験を試みましたが、全員失敗に終わりました。どうも生真面目で頑固で、社交性の低い人間ほど、欺くのに時間はかかりますが、理性ではなく、感情に強く訴えることを繰り返しているうちに、冷静な判断ができなくなるらしい。一度信じ込ませれば、こっちのもの。突拍子もないことでも信じてしまうようです」



「そうなるだろうな」



 報告がひと区切りすると、所長は漸く口を開き、一言つまらなそうに吐き捨てた。

 所長机の正面で直立して話していた青年、広瀬は上司の冷ややかな反応はいつものことと分かっているので、姿勢を楽にし、屈託のない笑顔で続ける。



「まあ、今回は来るべきに備えての予行演習としては、上出来だと自負しております。お陰様で、どの生徒を狙うかも、大体の目星がつきました。真面目で一見大人しいが芯が強く、友人のいない娘が、ちょうど4年生にいるのです。財閥系の銀行勤めの父親と主婦の母親としっかりした中流家庭のお嬢さんで世間知らず。男女交際の経験は勿論ない。ぴったりだと思いませんか?」



 一瞬、優しげな顔立ちに表出した、背筋も凍る嗜虐的な笑みに、ソファに座って二人のやりとりを見物していた旭の肩が震え、彼女は弾かれたように立ち上がった。


 男3人の視線が一気に彼女に集中する。



「当麻、何か言いたいことがあるのなら言え」



 突発的に席を立ったは良いものの、もじもじと自信なさげに手指を何度も組み直したり、口を開けては言葉を飲み込む新米スパイマスターに、所長は静かだが有無を言わせぬ気迫を併せ持った不可思議な口振りで促した。


 丸い瞳が見開かれ、薄っすらそばかすの散っている頬が赤くなる。



「あ、あの……。わ、私は、明智さんはともかく、女学生を今回みたいに騙した上に、その……たぶらかすようなことをするのは反対です」



 意を決して異議を唱えた旭だったが、すかさず広瀬が笑顔のまま反駁した。



「たぶらかしはしないですよ。そうですね、憧れの先生は実は未来人だった、そんなひとときのロマンティックな夢を見せてあげる代わりに、目的は教えず、危険ではない範囲で僕の仕事を手伝って貰うだけです」



「でも、任務が終わったら、どうやって別れるのですか? 簡単には別れられないのではないですか?」



「表向きは出征するということにしますが、彼女にだけは未来に帰ると教え、諦めて貰います。未来人との儚い初恋の想い出、なんて言うと美しいですが、思春期の子供の心は移ろいやすい。すぐに忘れるでしょう」



 そんな簡単にはいかないはずだ、あまりにその子がかわいそうだ、思春期の女子を見くびるなと旭は尚も抵抗したが、広瀬は軽く聞き流し、改めて禿頭のスパイマスターに向き直り、尋ねた。



「当麻さんは僕の作戦に反対のようですが、所長はどう思われますか?」



 意見を請われた所長は、憮然とした顔つきのまま、答えた。



「貴様がやり遂げられる自信があるなら、問題なかろう。あくまで俺たちの的は、あの女学校の一部の教師どもだ。貴様は一番有効かつ安全な手段を選ぶべき、それだけのことだ」



 上司の言葉に、無番地随一の技術屋は満足げに頷いた。


「ありがとうございます。では、予定通りにやらせて頂きます。これが一番有効かつ安全な手段ですので」



 そして、ソファの上でノートを読みあさっている近藤に声をかける。



「近藤、裏工作は君にも頼むだろうから頼むよ」



「ああ……」



 視線をノートに落としたまま、近藤は生返事で応じた。

 数秒の後、がっしりとした頑丈そうな顎の下を左手で掻きつつ、彼は呆れ口調で同期に問いかけた。



「手伝うのは構わないが、広瀬。一つ聞いて良いか?」



「何?」



 小首を傾げる動作に相成り、西日を反射するキャラメル色の髪がさらさらと揺れた。



「このノートに書いてある未来の日本の話は、全部貴様の妄想なのか? 何でもできる魔法みたいな携帯端末とか、東京で二度目のオリンピックが開かれるとか。妄想にしては詳細過ぎて気持ちが悪いのだが」



 立ち尽くしたままでいた旭もうんうんとしきりに首肯し、同意を表明する。

 所長だけがマネキンの如く、微動だにしない。



 固唾を飲んで、返答を待つ同期と女上司に、広瀬は堪え切れないといった風に吹き出し、ケラケラと嗤いながら答えた。



「当たり前じゃないか。基本は僕の妄想さ。まあ、現在までの科学の進歩状況や世界情勢から鑑みて、理論的に導いた未来予測はあるけどね。時間旅行なんてできないとは言い切れないが、少なくとも2020年の段階では無理だ。まさか、近藤、君まで僕が未来に行ってきたとか、未来人だなんて思っていないよね?」



 そんな訳あるか、明智じゃあるまい、と近藤は頬を膨らませ、否定した。

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