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 あちらに非があるとはいえ、自分が近藤に投げつけた暴言が如何に酷いものかということは、明智は重々承知していた。


 確かに自分は漫才の良さなんて分からないし、時に下品なネタを扱うあの種の演芸は低俗だと思っている。

 それを任務でもないのにやらされるなんて、絶対に嫌だ。

 森永とかいう漫才作家を、近藤は『天才』と評していたが、世俗受けする低次元な笑いを書く才能があるからといって、『天才』と呼ぶにも違和感があった。


 悔恨や自己嫌悪が生まれたかと思うと、別のところから、もっともらしい自己弁護が聞こえてきて、脳はオーバーヒートを起こす寸前だった。


 邪念を取り払うには、体を動かすのが一番だ。


 夕食後、明智は剣道着に着替え、敷地内の道場で素振りをした後、夜の街へ走り込みに出かけた。

 身体を苛め抜くことで、胸に燻る気持ちをねじふせようと躍起になっているうちに、気づけば神田明神の裏口にある男坂がすぐそこまで迫っていた。


 大分遠くまで来てしまったと気づいた途端、体が重くなり、呼吸が苦しくなる。

 身体的な疲労を忘れる程、一心不乱になっていた己に苦笑し、街灯の灯りに照らされた長い石段の一番下に腰を下ろした。

 石段の先は僅かな灯りはあるものの、闇に包まれ、全貌はとてもではないが見えない。

 日中は参拝客で賑わう江戸の鎮守も、今は彼岸の入り口を彷彿させる幽玄な気を放っているように感じられた。

 馬鹿馬鹿しい妄想だが、今にも妖艶な美女に化けた狐狸の類が、石段を下ってきて、いい歳をして、大人になりきれない男を誘惑しそうだ。



「やっぱり、ここに来たか。回り道するもんだから、待ちくたびれてしまったよ」



 本当に艶やかな声の妖艶な美貌の持ち主が、気配もなく石段を下り、こちらに近づいて来た。

 ただし、美女ではなく美男で、狐狸でもなく、彼はれっきとした人間だったが。



「佐々木?! いつからそこに?!」



 不意に背後から話しかけられて驚愕し、問いかけると、佐々木は整い過ぎているとも言える顔を破顔し、飄々と答えた。



「いつからって、30分くらい前からかな。貴様が道場を飛び出したのを見かけて、僕は真っ直ぐここに向かったから」



 どうしてここに来ると分かった、と問うのは野暮だった。

 この全てにおいて常人離れした友人にとって、付き合いが長く、根は単純な明智の思考を読むなんぞ、朝飯前なのだ。



「ずっと走っていたのか? 疲れたろうに。飲みなよ」



 佐々木は、明智のすぐ隣に腰を下ろすと、片手に持っていた水筒を手渡して来た。



「食堂に置いてあった冷めた茶の残りだけど」



「すまない、ありがとう」



「いいえ」



 口に含んだ茶は、言う通り生温かったが、動いていないと肌寒さを感じるようになった秋の夜に、水分補給をするにはちょうど良い按梅だった。



「近藤のことで悩んでいるのか?」



「……まあな」



 何となく予測はついていたが、明智の煩悶の理由も、親友は把握済みだった。


 そういえば、この男は、学生時代に近藤たちの漫才を見たことがあるらしいが、どんなものだったのだろうか。

 普段の近藤の行いから察するに、あまり知的で高尚なネタはしそうもないが、それでも佐々木は面白いと感じていたのだろうか。

 気になって尋ねてみると、彼はさらりと返した。



「面白かったよ。近藤も体を張って、全力で馬鹿なことをしていて、ある意味尊敬できたよ。頭を空っぽにして笑えた。紳士のツッコミも絶妙でさ。奴らの卒業を機に活動休止すると聞いた時は、これから何を楽しみに生きれば良いのか、途方に暮れたよ」



 大層なファンではないか。


 しかし、そこまで好きなものを、何故当時から親友であったはずの自分に勧めてくれなかったのだ。

 軽い憤りに眉間に皺を寄せると、佐々木はクスクスと忍笑いをこぼした。



「不満そうだな。さては妬いてるな? 単に貴様はああいう演芸は毛嫌いしているから誘わなかっただけさ。実際、今も嫌いなのだろう? 今朝も嫌いだって言っていたものな」



 時間を巻き戻し、なかったことにしたい聞き苦しい失言も、どこからか聞かれていたようだった。

 思わず赤面する。

 抑えきれない羞恥を誤魔化そうと、明智は必死にまくし立てた。



「だって、本当に下品なネタが多いだろう? あの種のものは。それに落語や狂言のように面白さを理解するのに、文化的な素養も必要ない。物知らずにも理解できるように作られている。馬鹿に笑われるために、馬鹿なことを進んでやることの何が良いのか分からないし、自分はやりたくない」



 生真面目で石頭の親友の言い分に、佐々木は絶えず微笑を湛えながら耳を傾けていた。

 けれど全部聞き終えると、真顔になり、毅然とした口調で反論した。



「漫才をやりたくないというのはともかく、それ以外のことは、貴様は色々思い違いや食わず嫌いをしているよ」



 そして彼は、滔々と昔話を語り始めた。あまり語りたがらない、彼自身の率直な心も交えて。

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