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 昼休みも終わり、無人になった寮の食堂で、明智は自称ジョージに、山本が作り置きをしている麦茶をコップに注いで渡してやった。


 すると自称未来人は、素早くガラスコップを奪い取り、腰に手を当て、喉を豪快に鳴らしながら、一気に飲み干した。


 その様子は、姿形こそ普段通りであったが、穏やかでゆったりとした同期の印象とはかけ離れたものであった。



「ぷはーっ! 生き返る! この時代の麦茶は、麦の香りが自然で美味しいね」



「……」



「未来にも麦茶はあるけど、もっと人工的な味なんだ。僕が生きている時代は、食品と工業製品の線引きが曖昧でさ。生まれてから20数年、自然本来の味を知っている食べ物なんて片手で数えられるくらいしかないかもしれない」



 空になったコップを弄びながら、涼やかな笑みを浮かべる横顔は、やはりどこから見ても広瀬だった。

 けれども、目の前の青年から漂う違和感を、明智の直感は的確に感じ取っていた。



「そんな顔しないでよ。別に君を未来に誘拐したりなんてしないから」



 訝しげな表情で後ずさりをすると、何を勘違いしたのか、自身を未来人だと話す青年は、柔和に微笑み、明智の手を握った。



「……僕は君に遊んで貰った記憶はないけど、この手に抱きしめられた感触は、今でも頭や背中が覚えている。他の大人みたいに優しく撫でてなんてくれなかったけど、この手が両親や祖父母、ひいじいちゃんの手と同じくらいに優しかったのを、僕を慈しんでくれていたことを、僕は知っている」



 こちらは一切身に覚えのない想い出を心底愛でている様子に、鳥肌が立った。

 神経性の妄想なのだろうか。

 仮に病気の症状だとしても、薄気味が悪かった。



「広瀬……何を言っているんだ?」



「広瀬じゃないよ。僕の名はジョージ。君の知っているスパイ広瀬の曽孫だ。苗字は広瀬の本名と同じはずだから、念のため伏せておくね。西暦1994年生まれの26歳。独身で、物理学者の卵。尊敬する人はアインシュタイン博士とひいじいちゃん。今やってる東京オリンピックで、一番楽しみにしている競技は男子水泳」



 すらすらと淀みなく、青年は改めて自己紹介をした。握りしめた手を離す様子はない。

 振り払おうと思えば、容易くできるはずなのに、何故かそれだけのことができず、明智は狼狽した。



 未来人なんているわけがないと確信しているのに、一方で、こいつは広瀬ではないと動物的な勘がシグナルを鳴らしているような気がする。

 双子の兄弟や整形手術をした敵だろうかとも考えたが、『彼』は今まで出会った誰とも異なる不思議な空気をまとっていた。


 それは未来人とは言わなくても、青年が『異世界の住人』だと仮定したら、一番納得がいくかもしれない不可思議なものだった。


 否、異世界なんてある訳ない。自分は何を血迷っている。我ながら、夏バテ気味だとしても、どうかしている。

 よく今奴が話したことを思い出せ。

 おかしなことを言っていたぞ。



「東京でオリンピック? あれは戦争で取りやめになったぞ。変なことを言うな」



 無理に頬をつりあげ、早速見つけた青年の発言誤りを指摘したが、相手はわずかに眉を寄せ、悲しげな面持ちをしたのみで、幼児に言い聞かせるような口ぶりで淡々と反駁はんばくしてきた。



「1940年の、はね。知っているよ。学校でも習ったし、今回のオリンピック開催記念の報道でもしょっちゅう言われていたことだから。僕が話しているオリンピックは2020年のオリンピックのことさ。東京で開かれる二度目の夏季五輪だ」



「まだ貴様は未来人を自称するのか? いい加減にしてくれ。誰なんだ、貴様は」



「だから広瀬の曽孫のジョージだって。未来人なのは、真実なのだから仕方ないだろう。本当、頭固いな」



 若干嫌気がさした口調で返されたが、頭が固い云々の前に、一般常識のある人間なら、おいそれと『僕は未来人です』なんて言われたって、信じられやしない。


 だから、明智は常識人として、当然の台詞を自称未来人に投げつけた。



「そこまで自分が未来人だと言うなら、証拠を見せてみろ」



 それに対し、広瀬の顔をした青年は、取り乱す風もなく、堂々と言い返した。



「いいよ。けど、今から見せるもの、話すことは全て君と僕との二人だけの秘密だ。他の人には絶対に話すなよ。歴史がおかしなことになると、この世界の存在自体が危うくなるかもしれないから」

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