5
満島があかりに、笠原への誕生日プレゼントとして勧めたものは、『名刺入れ』だった。
自信満々に、散々勿体ぶってから告げた彼を、当初、あかりは落胆もあらわに睨みつけたが、フグのような表情で、数秒考えた後、柏手を打った。
「確かに、あれならあの人も沢山持っているわ。次から次へと増えていって、良く分からなくならないなって、感心しちゃうもの」
現場ごとに全く異なる氏名、職業を自称することの方が多い諜報員稼業では、偽造身分証以外にも、偽の肩書きや名前の記された名刺は必需品である。
明智自身、常時数種類の名刺を持ち歩き、それらは混ざらないよう、複数の名刺入れに分けて収納している。
主に使っているものは、言わずもがな『皇国共済組合基金 営業部係員 明智湖太郎』名義のものだが、それ以外にも『東京憲兵隊 憲兵中尉
属する組織は違えども、笠原もいくつかの顔を持ち、それぞれの名義の名刺を所持しているに違いないと、ちゃらんぽらんな遊び人スパイは踏んだようだった。
彼の親友かつナンパにおけるバディの小泉にも共通するが、飄々としているくせに、押さえるべきところはきちんと押さえてくる器用さを、明智は密かに羨んでもいるし、若干妬ましくもある。
「決めた! なら、こんなところで油を売っている場合じゃないわ。すぐにデパートに戻らなきゃ。ありがとう。ごちそうさま!」
「貴様、待て! 自分の食べた分くらい……」
当然の如く、男二人に奢らせ、立ち去ろうとする彼女を引き止めようとしたが、無言で満島に袖を引かれた。
「え? でも、俺たちはあの女のどうでもいいのろけ話を聞かされた挙句、相談にも乗ってやったのに。第一、俺はコーヒーしか飲んでいないぞ」
颯爽とテーブルの間をすり抜け、店を出て行く後ろ姿はどんどん小さくなって行く。このままでは逃げられてしまう。
が、憤然と見返した明智に、色男はゆるゆると首を横に振って言った。
「ナンパしたのは俺たちなんだし、ご婦人には財布すら出させず、一銭も払わせないのが、粋な紳士という奴だ。例え別の男にぞっこんの女でも、邪険にされたとしても、だ」
急に年上らしい貫禄を漂わせられ、明智は口をつぐんだ。
「……」
「ケーキが食べたいなら、追加で頼め。待っててやるから」
「奢ってくれるのか?」
「誰が。てめえで払え。俺は女と後輩にしか奢らない主義なんだ。いい男になりたかったら、貴様も覚えておけよ」
「貴様はいい男ではなく、ただの遊び人だろうが。まあ、男たるもの女に金を払わせるべきでない、という考えには俺も賛成だが……」
腑に落ちない。奢ってもらって当然の態度が引っかかる。
得意の渋面で、清潔なクロスの掛かったテーブルの端を睨んでいると、ふと満島が独り言を呟いた。
「……まあ、彼女が見ている『笠原』という男も、数多に存在する名刺の一枚でしかないかも知れないがな。『満島』と同じで」
明智のよく知る『満島』は軽薄なお調子者で、底抜けに明るく、積極的に冗談を言ったり、おどけたりして、その場の空気を盛り上げることに長けた人間だ。
が、目の前で意味深な台詞を吐いた男の目は冷ややかで、片方だけ釣り上げられた口角は皮肉に満ちた笑みを形成している。
落ち着きのない好奇心旺盛な小動物のような雰囲気は一切感じられず、年齢相応の落ち着きと鋭敏な知性が滲み出ていた。
その一瞬の変化を目の当たりにし、急激に言い知れぬ不安に襲われる。
誰だ? こいつは?
顔形は『満島』と相違ないが、『彼』は明らかに『満島』ではなかった。
すっと肝が冷える感覚に、戸惑う明智をよそに、『満島』ではない誰かは、ちょうどテーブルの側を通りかかったウェイトレスに声をかけた。
「お姉さん、すみません。追加の注文したいのですけど」
「はい。ただいま」
頬に散らばるそばかすが愛らしい、童顔のウェイトレスは俊敏な所作で、二人が座るテーブルの側に控えた。
「紅茶のおかわりお願いします。それから明智、貴様はどうする?」
メニューのケーキや甘味の羅列されているページを開き、差し出してくる屈託のない笑顔は、既に普段と何一つ変わらぬ『満島』のものだった。
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