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 椅子に腰を下ろし、興奮も冷めた近藤は、あたかも公知の事実を念のため確認するかの如き調子で、こう切り出した。



「俺が早稲田の学生時代に、学友と『ピテカントロプスと紳士』という漫才コンビを組んでいたのは知っているだろう?」



 奇妙奇天烈なコンビ名も、この男が漫才をやっていたことも明智は知らなかった。

 よって、端的に事実を告げた。



「いや、知らん」



 にべもない言い方に、近藤は肩を落としつつも、諦めずに堅物の同期の記憶を喚起させようと試みてきた。



「えっと、学生の課外活動とはいえ、そこそこ人気があったし、帝大の奴らとも一緒にやっていたのだが……」



「知らないもんは知らん。漫才の類に俺は興味がない」



 困り切った様子で頭を抱えられたが、そんなもん知ったこっちゃなかった。


 子供時代から現在に至るまで、明智は観客を笑わせることを目的とした演芸全般に興味がなかった。

 落語も漫才も、コメディ映画も、わざわざ見て笑おうとは思えなかったし、実際に家族や友人との付き合いで仕方なく見ても、どこが面白いのか、さっぱり理解できなかった。


 特に、比較的歴史の浅い漫才なんぞ、低俗も甚だしく、教養のある紳士が見るべきものではないとすら思っていた。



「……知らないのか。佐々木は学生時代、俺の漫才を何度か見たことがあると言っていたがな。狭くて汚い劇場での公演が殆どだったが、あいつは気が向くと通っていたらしいぞ。しかも、かなりちゃんと見ていたみたいで、的確に評論してくれたのに」



 寂しげな苦笑いと共にこぼされた台詞に、既に近藤の話を聞き流す体勢に入り始めていた明智は、驚き、思わず身を乗り出した。



「佐々木が言ってたのか?! あいつがそんなところに出入りしていたなんて俺は知らないぞ!」



 規模が大きく、格調高い劇場に、大学生ながら奮発し、二人でシェイクスピア作品や、オペラ、歌舞伎を観に行ったことはある。

 それらは全て、演劇に登場する見目麗しい西欧の王族にも見劣りしない美貌と、高雅な品性を持ち合わせた佐々木に相応しいものだった。


 なのに、自分の知らないところで、親友が早稲田や本郷界隈のあなぐらのような小劇場に、お遊戯会に下劣な笑いを足した程度の学生漫才を観に通っていたなんて、信じ難かったし、想像できなかった。

 ついでに言うと、もしそれが真実なら、一度も誘って貰えなかった上に、通っていることすら教えて貰えていなかったことも傷ついた。



「単に、貴様にいちいち報告する必要もないと思っていただけだろ。子供じゃあるまい」



 面倒臭そうに吐き捨て、それはどうでも良くてさ、と近藤は話題を変えたが、明智の心中は穏やかではなかった。



「あの頃、俺は『ピテカントロプスと紳士』略して『ピテ紳』のボケ役ピテカントロプス担当だった。舞台に立つのは、俺とツッコミ役の紳士の二人なのだが、実はピテ紳にはもう一人、裏のメンバーがいた」



 そいつが森永だ、と勿体ぶった口調で言われたが、「はあ」としか返せなかった。

 誰だ? 森永って。

 ピテカントロプス役って何だ? ジャワ出身の原人の役か。

 野性味溢れる近藤にはお似合いの役柄だが、ピテカントロプスが登場する漫才がどのようなものなのか、果たして面白いのか、全く想像できなかった。



「俺たちの演じていた漫才の台本は、殆どが森永が書いていた。俺も紳士も漫才は好きだが、所詮凡人。森永の天賦の笑いの才能には勝てなくてな。その代わり、森永は、たまに舞台に上げてみても、あんな面白い本を書く人間とは思えないくらいつまらないことしかできなかった。だから、自然と森永は裏方で本書きに専念し、俺と紳士が表舞台に立つという形態が出来上がった。大学卒業後、ピテ紳も他の学生演劇と同様、ほぼ解散の活動休止になった。俺はここに入ったし、森永は税務署、紳士は商社に入り、立派な大人になっちまった。もう漫才なんて馬鹿なことはしない、つまらないまともな大人さ」



 ここで、近藤は大きく嘆息し、皮肉っぽい笑みに口元を歪める。



「まあ、そうやってみんな普通の大人になって、過ぎ去りし青春の想い出を、たまに会った時の酒の肴にするのも、良いと思うさ。でも、このご時世だ。俺たちはたまに会うことすらままならなくなった。俺が訓練施設を出、台湾に渡っている間に、紳士が出征し、再来週には、ずっと残っていた森永もついにだ」



 無番地の諜報員は準軍属扱いになるため、一般の大日本帝国臣民たる男子がされるような徴兵はされない。

 職業軍人が既に軍務に従事していることで、兵役義務を果たしていると見做されるのと同様に、ここでの諜報活動が兵役として認められているからだ。


 明智も近藤も、常人ではまず突破不可能とされる選抜試験や一年間の訓練を勝ち抜き、その後一年は、海外での潜入任務に従事していた。

 その間、危険に身を晒し、死を覚悟した経験は、何度もあった。

 だが、現在は海外勤務も終わり、東京勤務で、比較的平和で落ち着いた生活をしている。


 対して、一般企業や軍以外の官庁に就職した大学時代の学友たちは、次々と入営し、各々の配属先へと旅立って行った。

 徴兵猶予のある大学生ではなくなった若く健康な男子が、出征しない理由なんぞ、どこにもないのだから、仕方がない。


 役場など事務を完全に止めることができない職場では、若い男の職員は定期的に交代しながら出征していると聞く。

 昨今は、支那事変から長引く戦争のせいで、職場と戦場を何度も往復している者も多くいるらしい。


 近藤の正確な年齢は分からないが、むしろ、その森永とやらが、大学卒業後、今の今まで徴兵されずにいたとは、不思議だった。



「森永は体が弱くて、徴兵検査もギリギリ乙種合格。税務署勤めということもあって、即入営とはならなかったようだが、まあ、ついに順番が回ってきてしまった、ということさ」



 明智が疑問に感じているにを察したのか、近藤は森永の入営が遅れた理由をそう説明した。



「そんな訳で、来週の日曜にあいつは帝都を離れ、出征のため地元に帰る。その直前、土曜の夜、もう一度だけピテ紳のネタを、あいつの書いたとっておきの漫才を目の前で演じて、餞にしたいんだ。けど、肝心の相方の紳士は既にどこぞの戦地だ。で、代役を貴様に頼みたい客は森永一人だし、場所も奴の下宿だ。緊張する必要はない」



 この通り、と深くこうべを垂れられたが、明智は何も言えなかった。


 近藤の心遣いや、戦時故、儘ならぬ運命に翻弄される青年たちには共感も同情もする。

 たった一週間だ、助っ人を引き受けてやるべきだとは思う。

 けれども、おいそれとは引き受けられなかった。

 何故なら、人に笑われるため、滑稽な仕草や発言をするなんて、死んでもやりたくなかったからだ。



「……貴様の事情はよく分かった。だが、悪いが俺にはできない。無理なんだ。そういうのは。俺みたいのが、人を楽しませられる自信なんてない。他を当たってくれ」



 頭を下げたままの近藤に、言い訳がましく早口で告げ、図書室から逃げ出した。

 単純にやりたくないから、とはさすがに言えず、結果、妙に自分を卑下した言い分になってしまったが、諦めて貰うためにはしょうがない。



 廊下の端、階段のところまで逃走し、振り返ったが、近藤が追いかけてくる気配はなかった。

 しつこく追いすがられた方が、まだ気が楽なのに、と感じ、己の心の弱さと狡猾さに溜息を吐いた。

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