5 乙女式友情論〜私の彼は完璧超人

1

 8月の終わり、広瀬が熱を出した。


 病院に行ったところ、軽い夏バテということで、滋養のあるものを食べ、よく休養するようにと申しつけられたらしい。

 幸い週末だったため、医者の言いつけを守ることは難しくない。

 休みの間、彼は寝室で、ゆっくり体を休めていた。


 他の諜報員たちは、彼に気を遣い、特に用事がない者も外に出かけた。

 明智も外出こそしなかったものの、やはり自分が寝室にいては、広瀬も落ち着かないだろうと思い、皇国共済組合基金ビル内の図書室で、調べ物をしていた。



 本棚の前で、満州国の法体系についての専門書を物色していると、廊下からバタバタと騒々しい足音が聞こえてきて、彼は軽く顔を顰める。


 一体誰だ? 小泉と満島は連れ立って銀座にナンパに出かけたし、松田は朝食を食べると、一人「人間観察に行ってきます」と言い残して出て行った。山本と近藤は新宿に映画を観に行くと話していた。


 となると、残りは佐々木だが、彼がこんな不恰好な足音を立てて、廊下を走るなんて想像できなかった。

 さては満島あたりが、予定変更をして帰ってきたのだろうかと当たりをつけたが、引き戸を乱暴に開け放ち、転がり込んできたのは、意外な人物だった。



「あ、明智さん! 良かった、いた……」



 ゼーゼーと肩で呼吸をしながら、何の洒落っ気もない半袖の白ブラウスに、勤務時に履いているスーツのスカートと何が違うのか分からない、ねずみ色の地味なスカートを履いた当麻旭は、明智の顔を見上げ、引きつった笑みを浮かべた。

 化粧気のない肌には薄っすら汗が滲み、肩下くらいの長さの髪は乱れていて、頭のてっぺんからアンテナのような毛が立っている。

 おそらく寝癖だろう。

 相変わらずの垢抜けなさだった。



「どうされたのですか? 俺に何か用でしょうか」



 一緒になって騒ぐ理由もないので、淡々と来訪の理由を尋ねる。

 明智は旭には女を意識せずに会話ができる。多分、彼女からは、女らしい色気や女特有の意地悪さのようなものを感じられないからだろう。

 また、天地がひっくり返っても、こんな冴えない女に恋愛感情を抱くことはあり得ないからだとも、自己分析している。


 胸に手を当て、呼吸を整えつつ、冴えない容姿の女上司は、明智の質問に答えた。



「単刀直入に言います。今日1日だけ。これから私の恋人になってください」



「は?」



 何を頼まれたのか、一回では理解できなかった。恋人? こいつの? 何故、俺が?


 たちまち脳内に疑問符が氾濫する。



「友達が……女学校まで一緒だった友達が、今日、上京してきて、帝都案内をしてあげるのです。で、その友達が、『是非、旭ちゃんの恋人さんにも会いたいな』って言うので、連れてくるって約束しちゃったのです。でも、広瀬さん、熱出しちゃって」



「すみません、経緯も何も全く理解できないのですが。端的に説明して貰えませんか?」



 要領の得ない説明にしびれを切らし、冷たく言い放つと、旭は一瞬泣きそうな顔をし、言葉に詰まった。

 そして、半ばヤケクソになったかのように声を荒げ、地団駄を踏んでみせた。



「だからあ、友達につい見栄で恋人がいるって話しちゃったら、引っ込みがつかなくなって、会わせることになっちゃったんです! それでも、広瀬さんは笑って引き受けてくれたから良かったと思ってたのに、広瀬さん熱出しちゃって。で、しょうがないから明智さんに頼もうって思っただけです!」



 しょうがないから明智さん、とは随分なめられたものだ。

 が、怒るのも馬鹿馬鹿しいので、正論で諭す。



「いや、経緯に同情の余地はないが、そこは全て正直に話さないにしても、恋人は急に熱を出してしまったから来れないと話せばよいのでは?」



 他の女どもと違い、女らしさに欠ける性格をしている分、旭は物分りが良い。理屈が通じる相手だ。

 突発事態に頭に血が上っているのも、これで冷静になってくれるだろう。

 そう期待してかけた言葉だったが、明智の期待は見事に裏切られた。


 旭は猿の子の如く赤面しながらも、まだ駄々をこねたのだ。



「良くないです! そんなことしたら、本当は恋人なんていないと勘ぐられちゃうじゃないですか」



「いや、事実いないのでしょう? 嘘は早めに撤回した方が……」



「撤回なんて……。今更、どの面下げて言えって言うのですか? 容姿端麗、帝大出、武芸に秀で、仕事ができて、優しくて、私に箸より重いものは持たせなくて、何でも言うことを聞いてくれるけど、時々男らしく叱ってくれる職場の先輩とお付き合いしてるって、散々自慢しちゃったのに」



 両手で顔を覆い、俯く女上司を、無表情で見下ろし、思ったことそのままを言い捨てた。



「そんな男、どこにもいません。仮にいたとしても、あなた如きと付き合うはずがないでしょう。バカな妄想は捨てて、いい加減目を覚まして鏡見ろ。寝癖ついてるぞ」



 しまったと気づいた時には遅かった。


 まん丸の大きな瞳からみるみるうちに涙が溢れ、何と旭は「おいおい」と声を上げて泣きじゃくり始めた。



 キツイ言葉を投げつけ、多少涙目にさせてしまうことは、4月から何度もあったが、まさかの大号泣に、明智の思考は停止した。

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