徒然旅程

@bagu

プロローグ

 一等航海士マウノ・ポルッキは死を覚悟した。

彼の乗る国際観光客船イルマタルが、未曾有の危機に曝されたためだ。

 正体不明の大型海生魔獣に襲撃を受け、いつ沈むとも知れぬ状態だった。

「この航路は何十年も安全だったのに……!」

 荒れ狂う波の振動に足を取られながら、彼は乗艇甲板を目指していた。いざという時のため、救命ボートを速やかに手配するためだ。ボートが損傷していないかのチェックも当然行わなければならない。日々の点検業務の範疇だが、襲撃の衝撃でどんな不具合が出ているか分かったものでは無い。既に彼の部下数名が先行している。乗客の命に関わる重大な仕事だ。決して軽視出来ない。

 彼は乾いた笑みを浮かべた。

いざという時のため? 乗客の命?

あんな木製の小舟に救命が可能なものか。イルマタル轟沈よりも早く乗客が死ぬ。降ろした瞬間に海の藻屑だ。あるいは、あのヌルヌルとした巨木以上に巨大な触手に絡み取られ、胃袋の中へ運ばれる前に即死だろう。

 イルマタルは、客船としては異例な程に頑強だ。戦艦並みとは言わないが、建材に軍事用の氣導技術を施しているため、巡洋艦とだって比肩し得る。だが、大型海生魔獣に襲われれば、戦艦だって危うい。

イルマタルの全長は300mに達する。襲撃中の海生魔獣は、それに迫ろうかという巨大さだ。見えている部分だけでそう感じるのだ。海中に有って見えない部分を考慮すれば、イルマタルよりも大きいかも知れない。

そもそも、絶対に安全な航路を進むことが前提のため、攻撃力や防御力など本来は必要無いのだ。船自体の攻撃力など皆無で当然、万一の護衛を氣導術士や氣功術士に頼るのみだった。その護衛も、このようなレベルの対魔獣を想定していない。小型の海生魔獣ならば対処可能なのだろうが、そもそもそれらの攻撃には余裕で耐えられる船である。護衛は乗客の安心感を買うためのパフォーマンスだ。

氣導術士が火や氷を発生させて紫色の巨体を打つが、まるで効いている気配がしない。氣功術士が放った投擲武器など、焼け石に水だ。

まだ犠牲者は出ていないようだが、時間の問題か。

刹那、世界を光が包んだ。

雷だ。

雷鳴が轟き、一際大きく船が揺れた。マウノは転倒し、戦慄した。雷も波が荒れているのも、時化では無い。魔獣が暴れ、電気を放出しているのだ。それが何処に落雷したのかは分からない。マウノが感電していないという事は、魔獣の周辺か。護衛はどうなったのか。

空は澄み渡っている。事態に対して不釣合いな程に。

 丸太のような紫の触手が海中より数十本も伸びて、船低や船体を強かに打つ。その度に心臓を握られたかのような恐怖が全身を支配するのだ。

見上げるとそこには、巨大な4基の煙突が。猛烈な煙を上げている。何時もは頼もしく見えるそれが、急に縮んでしまったように感じた。

全速で逃げているのだ。エンジンが焼き付くまで走らせるのだ。だが、長くは続かない。

機関停止までどれくらいだ。

救助が来るまで、どれくらいかかる。

何もかも忘れたい衝動に駆られるが、身体は持ち場へと走り出す。

恐ろしいのだ。何かをしていないと、発狂してしまいそうだ。

だが、無意味だと分かっている事をやるのだ。それは現実逃避だと、彼は承知していた。



   ※  ※



 大型客船の全てが混乱に有る中、静けさを保つ場所が一つ。

一等ラウンジである。間接照明のみで構成された空間は、落ち着いた雰囲気に支配されている。船が置かれた苛烈な状況と最も対照的な場所だった。

大きな揺れを感じる中、グラスを拭く禿頭の熟年男性が1人。鼻の下には整えられたちょび髭が。

エリアス・リングダール。一等ラウンジのチーフ・バーテンダーだった。

「ここは静かね」

 ラウンジの扉が開いて、一人の女性が入室した。彼女は遠慮なくカウンターの椅子へと座る。

数日の航海で見知った顔だった。奇妙だったため、直ぐに覚えてしまった。

理由は2つある。

1つ目は、彼女が外国人だったこと。中央大陸でも南部の出身かもしれない。北部の此処からは距離が離れている。例を知らない訳では無いが、外国人の、それも女性の一人旅というのは如何にも珍しかった。こちらの言語も完璧だった。

2つ目は、どう見ても一等客室に泊まれる様な風体には見えないということ。厚手のロングコートで全身を隠している。それも警察、あるいは憲兵のような佇まいだ。ラウンジでは比較的カジュアルな服装で訪れる者が多いものの、いくらなんでも場に合わない。数十年を客船のラウンジで過ごしてきたエリオスだが、一等ラウンジでこんな客を見たのは初めてと言える。ならば下位等級のラウンジで見かけたことがあるのかと言えば、それも思い当たらない。

どう見ても富裕層には見えなかったし、普通の客には見えなかった。

口には出さなかったが、隙のない物腰は戦闘者のようにも見える。あるいは、実際にそうなのかもしれない。しかし、警察や憲兵がここに居る理由が分からないし、女性がそのような仕事を行えるものなのかも分からない。エリオスは知らなかったが、外国では一般的な事なのだろうか。

もっと奇妙なのは、彼女に対して問題になった時、結果的に大きな問題に発展しないのだ。例えば、服装に付いて問題になった事は当然有った。だが、ホスピタリティ部門の責任者がすっ飛んできて、逆に注意されたのはギャルソンだった。今やギャルソンにはアンタッチャブルな存在だ。他の客相手にも上手く立ち回っているようで、当初起きていた問題は既に鳴りを潜めていた。

エリオス自身も、彼女に対して好感を持っていた。何しろ、金持ち特有の傲慢さが見られない。そういう意味では、やはり彼女はこの場所に不釣合いな庶民なのかもしれない。

男としては、彼女が美人で有ることも好感を上げた要因だった。

止めよう、とエリオスは頭を振った。客に対して必要以上に踏み込まない。リラックスした客が、あるいは酔った客が自然と話し始める。バーテンダーの、客との適切な距離とはそういうものだ。人間の関係には適切な距離というものがある。彼にはそうしたポリシーが有った。人生における教訓とも言える。知りたがり屋は長生き出来ない。相手が語り始めるまで待つべきだ。

もちろん、そんなポリシーなど既に無意味な段階には来ているのだが。

「避難はよろしいのですか? お嬢様」

乗員側は決して認めてはならないが、一等客室の客は優先的に避難が開始される。客は平等では無いのだ。よりお金を落とした客が、重要な客なのだ。その証拠に、乗員がラウンジへ飛び込んできたのは、エリアスですら自体を呑み込んでいない初期段階だった。他のギャルソンも避難誘導に参加している。もはや此処に残った客は誰もいない。従業員もだ。目の前の女性とエリオスを除いて。彼女にもまた、避難誘導が成された筈だ。だが、従わなかった。何故か。

「別に。もしもの時は、何処にいても同じでしょう。そう思うから、貴方も此処に居るのでは?」

 その通りだった。乗員であるエリオスには、客の避難誘導の義務が有った。それを放棄したのは、海上で魔獣に襲われれば、それを倒す以外に避難の道が無い事を知っているからだ。

そして、今回に限ってはそれが不可能であるという事も。

それにしても、肝の据わった女性だ。やはり荒事に慣れているのか。

「……仰る通りです。私は死ぬなら此処で死にたい。私の人生は客船のラウンジに有った」

 彼は遠い目をした。

客船イルマタルが就航を開始したのは、10年前。エリオスがここで働き始めたのは5年前だ。ここが最後の仕事場だと決めていたが、本当に最後になるとは思いもしなかった。

「最後に、何かお作り致しましょうか」

 一等の乗客は全てのサービスが無料だ。だが、そうで無かったとしても、この状況に有っては全てを無料で振舞っただろう。

ふと思う。この女性は、ラウンジに誰も居ない事を想定していなかったのだろうかと。だが、誰も居ないなら居ないで、勝手に物色していそうな女性でもあったが。

「時間がかかるかしら。カフェ・ロワイヤルを」

「かしこまりました。お時間は取らせません」

タイミングが良い。実は、コーヒーならば自分で飲もうと既に準備を初めていた所だった。既にサイフォンの漏斗内で粉を攪拌し、火を止めていた。

この場所にある機材や瓶、カップの全ては取り外し可能な台によって固定されている。揺れへの対策だ。波の揺れへの対策というよりも、魔獣に襲撃された場合を考慮しての事だった。それが必要かどうかはずっと疑問だった。客船故に安定化には船の全てを通して必要以上に設計されている。安定航路を取っている以上、魔獣の襲撃は殆ど有り得ない筈だ。だからこそ、今日の事態を考えれば、やはり必要な措置だったのだろうと確信できた。

それが意味の有る事だったのかどうかは定かでは無い。沈んでしまえば全て同じだ。

コーヒーは直ぐに抽出され、2つのカップにコーヒーを注いだ。

スプーンをカップに渡し、砂糖を置いて、ブランデーを注ぐ、火をつけると、青い炎が灯った。

「まだ死ぬと決まったわけじゃないでしょう。護衛の氣導術士や氣功術士が対処できれば」

 それが出来ないとは考えてもいないような口ぶりだった。

「お嬢様には酷な話かもしれませんがね、助からないと思いますよ」

 溶けた砂糖を流し入れて、かき混ぜる。どうぞ、と女性に差し出した。

ふいに、船が大きく揺れた。エリアスのカップが跳ね上がる。女性に差し出した分も、エリアスの手中で大きく揺れた。2つのカップからコーヒーが溢れそうになる。危機感から、彼は一瞬眼を瞑った。

目を開いたとき、エリアスは愕然とした。

コーヒーが溢れていなかったからである。浮いていたはずのカップも元に戻っている。

「なにか?」

「え……? あ、いえ…………」

 渡そうとしていたカップも、何時の間にか女性の手へと渡っていた。何が起こったのか。あまりにも女性が平然としているので、尋ねる機会を逸してしまった。

「それはどうしてかしら?」

「え?」

「助からないと思う理由よ」

「あ、ああ、すみません」

 気のせいだったのだろうか。一際大きく揺れた気がしたが、本当は揺れていなかったのかもしれない。平静のように見せているが、エリアスも動揺はしていた。極限状態に置かれて達観しているようにも見えるが、実のところそうでは無い。だから、船が揺れたような錯覚を覚えたのかもしれない。

あるいは――。

「巨大で紫色の図体に無数の触手……と、聞きました。40年以上前に、かつての航路を軒並み蹂躙した巨大海生魔獣ペルケレでしょう。奴が再び現れたなら、この船は……」

 その名を聞いて、女性は興味を示したようだ。

エリアスの投げやりな態度に、もしかしたら女性が怒り出すかもしれないと思っていただけに、意外だった。

「遭遇した事が有るような口ぶりね」

「10代の後半に。私にとって、初の航海でした。本当ならあの時に死んでいた筈なんですけれどね。たまたま居合わせた異能力者が撃退しました。何が起こったのかは、正直よく分かりませんでしたけれどね。しかし、巡り合わせでしょうか。置き去りにした死が、私に追いついてきたのかもしれません」

「冗談でしょ。貴方の巡り合わせのとばっちりで皆が死ぬなんて」

言われて、彼は肩を竦めた。

コーヒーを口に含むと、ブランデーのほのかな香りが口の中で広がる。初めて呑むわけではないが、特別に美味しく感じるのはどうしてだろうか。

最後の航海で全ての仕事を終えたら、自分のために何かを作りたいと思っていた。それが今、このタイミングだった事に、何か意味はあるだろうか。

ただの感傷だろう。何か意味を見出したいだけだ。だが、やりたいと思っていた事が出来て、それは喜ぶべき事なのかも知れない。

後悔が有るとするならば、家族とまともな別れが出来ないという事か。船に乗る職業を選んで以来、それは覚悟してきた事だったが。そして――適切な距離を保ちたいという思いから、殆どの人間とは人付き合いが浅くなってしまった事か。

女性は早々に飲み終えたようだ。

「さて、と……」

「避難されるんですか? なら、ご案内しましょう」

「いいえ。ちょっと魔獣でも見てこようかと思って」

 エリアスは女性を止めなかった。いや、止められなかった。

どうせ何処に居ても同じなのだから、危険も何も無い。早いか遅いかだけの違いだ。そう思ったのは確かだ。

 しかしそれ以上に、ある予感を覚えていたからだった。



   ※  ※



海中から触手が飛び出すたびに、海水が強く巻き上げられる。宙に浮いた海水は雨のように甲板へ降り注いだ。大玉の雨粒は常よりも強い衝撃を身体に残し、船員達に自身の置かれた状況を再確認させた。

マウノは何とか乗艇甲板にたどり着いていた。既に現場へ到着していた船員達に指示を出して、手早くチェックを始める。取り外しに難は無いか、ボートに損傷は無いか。普段に行うチェックよりも簡易的に素早く行うが、時間短縮にも限界は有る。

これを行う事に意味は有るのか。

作業中、ずっとそんな事を考えていた。これも現実逃避の一環なのかもしれない。単純作業というものは、危機的な状況に在っては、パニックを防ぐに当たって有効な手段とも言えた。ただ、それで事態が解決するかどうかは、また別の問題だ。

チェックを半分程度終えた時。

 マウノは迫り来る触手に気がついた。体が硬直し、息が一瞬止まった。一本では無い。次から次へと、何本も上がってきている。

内部から破壊する気か。

触手は恐怖を煽るようにぞろりと甲板上へ乗り上げ、蛇のような動きでボートへと絡み始めた。

その場に居た乗員達は言葉もなかった。

救命ボートが一瞬で破壊されたからだ。まるで紙切れのように宙を舞い、海へと吸い込まれていく。

触手は、それ自体が単独の生き物であるかのように複雑な動きをしていた。職種に眼でも付いているかのようだ。残りのボートを次々と破壊した。

マウノや他の船員は呆然としながらへたりこんでいた。屠殺を待つ家畜のようでもあった。誰もが死を目前にしていると思っていたし、誰もがその瞬間を待った。

だが、何時まで経っても死は訪れなかった。

触手はボートを破壊し終えると、ぞろりと海中へ戻っていった。

助かったのかだろうか。

だが、誰もが不思議に思った。

なぜ奴は甲板に居る人間を触手で攫わないのだ、と。

マウノは全てを理解して、震えた。

奴は楽しんでいるのだ。

人間が恐怖するのを。

強大な魔獣は知能も高いと聞いた。

恐らく、襲撃から救助が来る時間も大体を把握しているのだろう。遊んでいるのだ。何時でも喰い殺せるのにそうしない。急げばもっと早く船体に穴を開ける事も出来るのに、そうしない。

そうすれば人間がもっと恐怖するのを知っているからだ。

だから、救命ボートを壊しても、近くに居た人間を殺さない。

沈めれば全員が死ぬからだ。ゆっくり楽しんで船を沈めて、海中に引きずり込んでから中の人間を喰らえば良い。そう考えているに違いない。

その時。

後方甲板から、一際大きな雷鳴が轟いた。同時に、雷鳴とは別の大きな破裂音が。一瞬だけ光が眼を覆い、海面をあらゆる方向へ電気が迸った。

何が起こったのか。ここからでは想像するしか無いが、どうせ碌な事では無いに決まっている。

――とうとう破滅的な瞬間が訪れたのだろうか。

その思考に伴う恐怖を覚えるより前に、巨大な何かが高速で左舷下の海面に移動するのが見えた。

例の魔獣なのだろう。

押し出された波で船体が大きく傾き、マウノは咄嗟に床を這った。マウノの指示で、他の乗員もそれに従う。幸いにも転覆はしなかった。船は体制を維持したが、傾いた船体が戻る反動で床へ押し付けられた。

衝撃に目が眩んだ。かすんだ目で前を見ると、夥しい数の触手が蠢いていた。

その触手の数本が、纏めて切断された。切断された――ように見えただけだ。現実感に乏しい光景だったので、判然としない。

黒い人影が跳び周り、触手を切断しているようにも見える。その動きが冗談のように早くて、眼を凝らしていても次の瞬間には全く別の場所に居た。

大木の様な触手が次々と海中に没していく。大きな水柱を上げて着水し、甲板を濡らした。

驚愕に目を見張るマウノと船員達。

黒い影は引き絞った矢のような速度で魔獣本体へと接近していき、そして――。



   ※  ※



 一等ラウンジは緩やかな空気に包まれていた。

緊張を強いられたためだろうか。普段よりもずっと弛緩した空気が流れているような気がした。楽団の演奏もそれに一役買っているのかもしれない。落ち着いた音楽が流れていると、それだけでくつろげる。

訪れた乗客達の表情からは、既に緊張が消えている。ともあれ、彼らは全てを知らされていなかっただろう。魔獣に襲われた事実は知っていても、全滅の恐れが有ったなどと、想像の外に違いない。

緩やかに談笑しながらグラスの酒を口に運ぶ。これが何時もの空気だ。この空気を演出するために自分が居るのだ。そこにエリオス自身という存在は必要無い。それが適切な距離というものだ。

エリオスはそれを再確認した。

 騒ぎが収束してから、既に数時間が経っていた。乗員達は通常業務に戻っている。とはいえ、船の設備点検と整備が必要なため、未だ機関は停止しているのだが。

幸い、船に大きな損傷は発見されていない。

魔獣は突如として消失したらしい。

文字通りだ。まるで初めから存在などしていなかったのように消えてしまったという。

詳しくは分からないが、甲板に出ていた乗員の噂話を総合すればそういう事になる。

1時間ほど前に、救難信号を受けたエインセル連合王国の艦隊が到着した。彼らによる調査がどれくらいの時間で終わるか。再出発の時間はそれ次第だろう。しかし、魔獣が消失した具体的な要因が不明なため、彼らがどのようにして事態の収束を納得するのかは分からない。とは言っても、客船を何時までも海上に止めておく訳にはいかないだろう。

艦隊が現れた事で、一時的に乗客の間では不安が広がった。しかし、それも直ぐに収まった。何にせよ、艦隊なのだ。先ほどの騒動に関わるものだという認識があるならば、無意味に不安がる必要は無い。

(しかし、消えたというならば……死んではいないということ。また襲われれば、今度こそ終わりだろうか。いや……)

今度は艦隊が付いている。幸い、船は次の停泊地であるエインセル連合王国へと向かっていた所なのだ。艦隊の護衛が付いたまま目的地の一つへと迎えるならば、これは心強い。

不思議だったのは、上からの伝令だ。

各乗員への安全宣言が妙に確信的だったのだ。確実に自体は収束したかのような口振りだった。

まるで消失した原因を知っているかのような――。

だが、エリオスにも心当たりは有った。だが、本当にそんな事が有り得るだろうか?

「注文良いかしら」

 と、エリオスの眼の前に1人の女性が座った。

「ああ、ご無事でしたか!」

 エリアスは安堵した。魔獣を見に行ったまま、戻らなかった女性だ。女性を止めなかったのは彼自身だったが、別に心配していなかった訳では無い。どうせ死ぬならば、その瞬間を最高の恐怖と共に過ごすのは、あまりにも無慈悲だと思った。

犠牲者は出ていないと聞いていたが、漸く安心できた。きっと、そのまま避難していたのだろう。

あるいは、彼女こそが――。

「……コートはどうされたんですか?」

 女性は、野暮ったい厚手のコートを脱いでいた。白のブラウスに紺色のスカート。富裕層の令嬢に見えないことも無い。着崩しているためか、やはり無骨な雰囲気は有ったが。

「無くしちゃった。便利だったんだけれどね」

「無くした……?」

 混乱のどさくさで無くした、という事だろうか。そうは言っても、それならば一度脱がねばならない。コートを着たまま無くすなどと、まさかそんなアクロバティックな事が出来る筈もない。しかし、脱ぐ必然性が有っただろうか。他の客とトラブルになっても脱がなかったというのに。

まあ良い。知りたがり屋は長生きできない。深く詮索してはならない。客ならば尚更だ。無くしたというならば、そうなのだろう。

そして――。

「なんだか、消えたみたいね。魔獣」

「そうですね。一体何が起こったんでしょうか……」

 そして、女性が魔獣の消えた原因を知らないと言うならば、きっとそうなのだろう。

「助かったんだから、何でも良いじゃない」

「仰る通りで。しかし、また襲われたりはしないでしょうか。消えたというならば、まだ確実に生きてはいるのでしょうし……」

「これも巡り合わせなんじゃない? どうあっても助かる巡り合わせなのよ」

女性の言葉に、エリオスは笑った。

「返す言葉もございません」

「カフェ・ロワイヤルをもう一度お願い出来るかしら」

「かしこまりました」

 今度は先程よりも時間がかかる。

だが、時間はもう問題にならない。目前の客を過剰に待たせなければ、それで良い。

 知りたがり屋は長生きできない。相手が語るまで待つべきだ。

だが、聞いてしまった。ポリシーに反して。どうしても気になってしまったのだ。

「お客さん、お仕事は何を?」

 二杯目のカフェ・ロワイヤルを味わいながら、女性は語りだした。


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