40話
刹那、異変が起こった。
海に打ち寄せるさざ波のように、雲の切れ間から差し込む太陽光のように、密かに、しかし速やかに、氣の波動が身体を通り抜けた。
同時に、何者かの視線を感じる。
広範に力場が広がり、そこに存在する対象を精査する。
探知系の氣導術――旧クロッペンベルクでシモーヌが使用していたものと同タイプのものだろう。シモーヌほどに熟達してはいないが、十分に目的を果たせる、高練度の氣功術師だろう。
氣が身体を通り抜け、視線を感じるまでの時間はコンマ5秒程度。
そこから1秒にも満たない時間の間に、シエラの身体は動いていた。
アヤの身体を掴み、斜め後方へ跳躍した。小屋の床が抉れ、壁が迫る。アヤを抱えた腕とは別の腕を壁に伸ばし、その壁の一部を異能力で収納した。シエラとアヤは、射出された砲弾のように跳び出した。
(しまった……!)
その判断が誤りだったと気付いたのは、宙を舞いながら、自身が跳び出した小屋の内部、椅子に縛られたリーツマンを見た瞬間だった。
その頭部が、まるで風船のように破裂した。
何が起こったのか。彼には分からないままだっただろう。
朧げながら、シエラには見えた。
左のこめかみから弾丸が侵入し、頭部を粉砕したのだ。確かめるまでもなく即死だ。弾丸は彼の頭部を破壊し、やや勢いを減じながら小屋の壁を大きく穿って地面へ着弾した。常識的な狙撃銃の威力を逸脱している。
シエラが小屋を跳び出したのは、狙撃を警戒したためだ。アヤを掴んだのは、彼女とダミアンが反応出来ておらず、護るべき方を選んだ結果だ。
だが、この状況で狙われるとすれば、それは確実にリーツマンだろう。余計な事を喋られる前に始末する。状況としては異常だが、至極正常な判断だった。そして、あの一瞬でそんな当たり前のことが抜け落ちていた。
タダヤスは反応出来ていたと思われるが、動く様子を見せなかった。彼がアヤを護る動きを見せていれば、状況は変わったかもしれない。だが、彼はこの事態に際して、弟子がどのように動くかを観察している節があった。だからこそシエラはアヤを抱えて跳び出したのだ。
ともあれ、それでタダヤスを責めることは出来ない。彼にはリーツマンを護る理由など無いからだ。
着地しながら状況を確認する。
ダミアンは頭部の破裂したリーツマンの傍らで、頭を抱えている。タダヤスと謎の白髪女性は微動だにしていない。
探査系の氣導術は既に消失していた。目的を果たしたため、狙撃手共々撤退したのだろう。
弾丸はリーツマンを基準にして左側から飛来した。氣導術の力場も同じだ。
ならば敵は左側に居るか。
そうではない。
此処は小高い丘の上、小屋の背面にこそ山があるが、左右には狙撃に適した場所がない。
そして、リーツマンを殺害した弾丸は左側から飛来したが、そちらの壁は破壊されていない。反対側の壁は、弾丸が抜けた衝撃で破壊されているにも関わらず。
加速された弾丸が、突如として空間から現れたかのようだった。空間操作系の異能力と考えて間違いないだろう。同じ現象を氣導術で再現するのは――不可能とは言えないが恐ろしく難しい。
これらの事から考えるに、首謀者は最低2人。2人だった場合、どちらかが氣導術師でどちらかが異能力者。仮に1人で全てを実行したと考えるならば、相当の実力者ということだ。後者のパターンならば非常に厄介と言えた。
狙撃銃の的中距離は短い。熟練の狙撃手でも数百メートルが限度と言えた。ならば敵はその範囲内に存在するか。これもそうとは言い難い。探査系の氣導術と空間操作系の能力を併用すれば、どちらかの能力限界距離が有効射程に成りうるからだ。最悪、数倍は距離が開いていると考えて良いだろう。
詰まるところ、完全にしてやられたということだ。まだ自分が狙われていたならば、いくらでも対処の余地は有っただろうに。
歯噛みしたシエラに、アヤが微笑んだ。
「助けていただいて有難うございます」
その判断が間違いだったとは――とてもその微笑みに向かっては言えず、シエラは微妙な心地で頷いた。
※ ※
クラウディアが眼を覚ますと、異様な臭気が漂っていることに気が付いた。
生理的な嫌悪感を剥き出しにされるような臭気。カビと埃と錆びた鉄の臭いと、乾いた血と脂の臭い。
夜のように暗い場所だった。例えるならば新月の森林。時間帯は不明だが、あるいは窓が無いのかもしれない。此処は陽の光が届かない場所――だが、それ以上の何かが暗闇からじわりと滲み出し、心胆を冷たくした。
自分がまだ生きていることに安堵する。
暗いとは言っても、周囲の状況は分かる。気功師は環境に即応する。僅かな光を捉え、自身の置かれている状況を理解する。
決して広くは無いが、狭くもない部屋。コンクリート造りの牢屋――だろうか。格子状の鉄柵で出口を塞がれている。鉄格子の向こうには、廊下を挟んで壁が有った。
クラウディアは簡素なベッドの上へ無造作に転がされていた。輝くような金色の髪は、こんな状況でも乱れ一つ無い。
身体を動かそうとしたが、上手く動かない。手と足に錠が付けられている。強力な氣功封印の氣導術具だ。錠の鎖は長い。立って歩くことや、日常の動作に支障は無いだろう。だが、氣功士としての力を十全に発揮することは出来ない。部屋自体に氣を封じる措置は取られていないが、これら2つの錠が曲者だった。
気を失う前の事は克明に覚えている。
襲撃が有った。そして破れた。
敵は2名。実力の程は知れない。知る前に意識を失ったためだ。時間差で襲撃を受けたため、対処しきれなかったのだ。
人間の顔は個性的で区別し易いが、襲撃者の顔は両名とも明確でない。1名の印象が強すぎて、もう1名は吹き飛んでしまった。
夜をそのまま具現化したような黒の鎧。襲撃者の1人はそんな物で重武装していた。故に顔は分からない。鎧の性能も確かに優れていた。至近距離から矢を受けて、刺さりはしたもののダメージを与えることは出来なかった。
しかし、印象的だったのはそんなことではない。気持ちの悪い魂の色だ。エルフの瞳は、その生物が持つ魂の色を見分ける。清浄であるか、正常であるか、不浄であるか不定であるか。黒鎧を纏った男のそれは、あまりにも不鮮明だった。まるで生物とは思えない、魔獣とも異なる雑音の塊だった。
胸のざわめきを、深呼吸で押さえつける。今は動揺している場合ではない。
考える。
自分が攫われた理由を。
まず、自分がエルフとして襲撃者に認識されていたかどうか。
結論から言えば、認識されていた可能性は半々だと思われた。そして、クラウディアがエルフだから、という理由で襲撃を受けた可能性も半々だった。残る半分は、連続失踪事件絡みだろう。
オルデンブルクへ到着してから一日の間で、知らない間に揉め事を抱えていた可能性は有りうる。あるいはシエラが昔から抱えていた何かが火種になった可能性も有りうるだろう。だが、状況的に考えればそれらは除外して差し障りないとみて間違いない。
シエラによれば、クラウディアを除いたこちらの経歴や正体は看破されているとの事だった。だが、だからと言ってクラウディアの正体が割れていないとは限らない。失踪したエルフ・セルウィリアの調査を行う何でも屋、それに同行する顔をフードで隠した女。フードの中身がエルフであると推測するには十分な状況と言えた。連続失踪事件の犯人――シエラの推測ではアスペルマイヤーという男だったか――が、エルフを誘拐した動機は不明だ。動機が不明な以上、2人目のエルフを欲しがってもおかしくはないように思える。クラウディアが仮にエルフでなくとも、無差別的に行われているらしい失踪事件においては、特に何の問題にもなるまい。
クラウディアは嘆息した。どちらにせよ、シエラの方にも襲撃は行われた筈だ。彼女は無事だろうか。戦闘において、シエラほどの実力者が遅れを取ることはそうそう無いと思われたが、万が一ということも有り得る。
そこで、ふと不安を覚える。
シエラは救出のために動いてくれるだろうか。それは色々な意味で重要なことだった。シエラの立場は、あくまでもクラウディアの依頼人だ。だが、成功報酬ということで、前金は受け取って貰えなかった。面倒事に巻き込まれるくらいなら、クラウディアを見捨ててもおかしくは無い。
ただ、関わりを持った他者を見捨てるような魂の色でもなかった。クラウディアはシエラのそこに惹かれていた。彼女の魂は、クラウディアにとってあまりにも美しすぎた。
ともあれ、万が一ということも有りうるし、自力での脱出を試みる方が良いだろう。役立たずとも思われたくない。
改めて牢屋内を見渡してみる。
異臭とは裏腹に、室内はそこそこ清潔と言えた。ドアで仕切られた小部屋が有り、そこはバスルームだった。此処は牢屋では無かったのかと訝しむ。無理矢理押し込められているので無ければ、そこそこ快適に過ごしていけそうな空間だ。異臭の元は見当たらないため、此処ではない何処かから漂ってきているのだろう。
勢いを付けて鉄格子を蹴ってみるが、足に鈍い痛みを残す結果に終わった。分かってはいたが、今の身体能力では脱出不可能だ。炎や雷の氣導術で格子を溶かそうと試みたが、氣が指先から零れ落ちるようで、まるで文字を描けなかった。
やはり、まずは両手足の錠を何とかすべきだろう。普通は何とか出来ないから有用な氣導術具として機能しているわけだが、時間を掛ければ何とか出来る自身は有った。
鉄格子にもたれ、腰を下ろす。右手で左手の錠に触れながら、意識の集中を図った。まずは、錠に施されている氣導文字の解析を行う。それが完了すれば、文字の分解に移る。そうすれば、クラウディアを拘束しているものは無くなる。下手に行えば――あるいは下手でなくとも――文字に込められた氣が暴走し、爆発する危険は有った。だが、人間には難しくとも、エルフであれば決して不可能な芸当ではない。問題は時間だ。
クラウディアを襲った何者かに、危害を加えられるまでの時間。出来れば、一度として襲撃者に出会わず脱走したい。時間が掛かるため非現実的だったが、時間を掛ければ掛けるほど生存確率は下がる。一秒でも早く脱出しなければならない。
意識の集中は淀みを排する。耳が痛い程の静寂がいっそ心地良い。研ぎ澄まされた全霊の感覚を氣導文字の解析に移そうとしたところで、
「……やあ。目を覚ましたみたいだね」
声を掛けられ、集中が霧散した。男の声だ。
「……誰だ」
振り返るものの、そこには誰も居ない。部屋の中にも当然居なかった。
「落ち着いてるね。此処へ連れてこられた大抵の人は、酷く慌てていたものだけれど。声の感じからすると、若い女性かな」
声はやや遠い場所から聞こえた。気怠げ――というよりも、憔悴した人間が無理矢理に声を張っているような音だった。想像するに、同じような部屋が並んでいる空間で、声の主は同じように捉えられている人物なのではないか。
「もう一度聞くぞ。お前は誰だ」
「失敬。人の声が恋しくてね。もう長いあいだ此処へ囚われているからね。ついついどうでも良い事まで話してしまう」
長く息を吐く音が聞こえた。好奇が滲み出たその音は、しかしそのまま男の囚われた時間を示しているように思えた。
「しかし、私が何者かを明かす前に、謝罪しておかなければならない」
「謝罪だと?」
「これから君の身に起こるであろう不幸は、全て私の父に原因が有る。あるいは私自身にも原因があるのかもしれないが……」
「今は謝罪も説明も興味が無い。まず、お前が何者かを明かせ。その後に私も名乗ろう。自己紹介が終わったら、しばらく私をそっとしておいてくれ。必要なことだ」
取り付くしまもないが、クラウディアの第一目標は此処からの脱出だった。そのために両手足の錠を解除しなければならない。そうすれば男も助け出すことが出来る。無駄な時間を使っている暇はないのだ。男の話は、此処を脱出した後にゆっくり聞けば良い。
「邪魔をしてすまない。私の名は……」
きっとご存知だろうが、と彼は前置いた。
「 アスペルマイヤー……。マンフリート・アスペルマイヤーという」
その名を聞いて、クラウディアは眉を顰めた。
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