31話
店を出ると、心地の良い夜気を感じた。湿気を含んだ少し冷たい風が全身を緩やかに流れていく。ホテルに向かって、赤い石畳の通りを歩き出した。通りを2つほど跨げば住宅地が広がっている、基本的には閑静な場所だった。
通りの左右には様々な店が存在している。飲食店や喫茶店、被服店に雑貨店――しかし、大半は既に閉店済みだ。人通りも殆どないのは都市の外縁部だからだろうか。繁華街ならば酔客の姿も目立ったかもしれない。
空はすっかり暗くなっている。まだ滞在一日目なので深いところは分からないが、都市の治安が良好であることは見て取れた。それでも普通ならば、女性の一人歩きなど問題外の時間帯だ。
道の向こうから犬が歩いてきて、シエラの脛を嗅いだ。人懐こい犬だ。首輪はないが、野良犬ではなさそうだ。毛並みが良い。だが、迷い犬なのかといえば、違うような気もする。どこかその態度には余裕を感じられた。そのまま進行方向上へと消えていった。
ふと思い出した。天文学者の話だ。この星を包み込むリング状の外殻は、実際のところ淡く発光しているのだという。地上からでは分からないほど微かに、星の瞬きを邪魔しないほど僅かに。夜になれば、地上から目視することは叶わない。しかし、無くなったわけではない。
それが存在する意味は分からない。無意味ということは無いだろう。あのような構造体でこの惑星を包み込む、それはそれなりの理由が有ってしかるべきだ。
こんな話を思い出したのは、つまり、連続失踪事件のためだ。
現在に起きている連続失踪事件。しかし、過去にも同じような事件があった。これまでは知らなかったが、事件そのものが無くなったわけではない。現在に起きている連続失踪事件も、それが連続性のある事件だと知っているのは一部の人間だけだろう。だが、それで連続性が失われるわけではない。
過去の事件と現在の事件、両者に繋がりはないか?
いや。
見えていないだけで、必ずそこに繋がりはある筈だ。そうでなければ、ダミアンが過去の事件を洗うような真似をするだろうか。
シエラは、カウフマンとの会話を思い出していた。
アスペルマイヤーという一族は、確かに名士と言われるに相応しい振る舞いをしていたようだ。
既に他界している先代の当主、ルーカス・アスペルマイヤー。彼の息子もまた、連続失踪事件の被害者だった。夕方に話を聞いたマンフリートではなく、その弟のアルノー・アスペルマイヤー。彼もまた、忽然と姿を消した。ルーカスの落ち込みようは相当なものだったらしい。無理もない。ルーカスの妻、アライダは早世している。2人の息子に対する愛情も相応に深かっただろう。
だが、彼は自身の悲しみに浸らず、前を向いた。
具体的には『被害者親族の会』を設立した。被害者親族に対する無償の心理カウンセリングのみならず、自費で保証金を払った。カウフマンが店を開けたのも、この時の保証金に因るところが大きい。
自身も被害者と言えるのに、悲しみに暮れる中、ルーカスは他人の為に身を削って奉仕したのだ。カウフマンが現当主を未熟と評したのも納得がいく。まるで聖人だ。美談に過ぎる。シエラのように疑り深い人間にとっては、何かしらの裏を感じてしまう。
果たして完全な善意だったのだろうか。
そうする事で、ルーカスという個人に、あるいはアスペルマイヤー家に有益な何かが有ったのでは? そう考えるのは邪推だろうか。
邪推なのだろう。少なくとも、都市の住人にとっては。
蔓延るアスペルマイヤー神話を鵜呑みにするならば、そういう事になる。アスペルマイヤー家は疑いようもなく名士であるし、聖人であったとしてもそれを疑う者は居ないだろう。
一方で、アンジェリーナ・アルベルトは、妻の誘拐犯としてマンフリート・アスペルマイヤーの名を挙げた。但し証拠はなく、根拠も希薄。だが、アンジェリーナがエルフとの交際を明かしたのは、マンフリートだけだという。モーテルへ戻った時に、彼女からの話を聞いたクラウディアはそう言っていた。アンジェリーナとマンフリートは、親友としてそれだけ親しい仲だったということだ。
それにも関わらず、ミネルヴァ社でマンフリートの話を聞いたとき、彼はアンジェリーナの存在を一瞬忘れていた。シラを切る意味も無い状況だったため、本当に忘れていたと考えるのが妥当だろう。情に厚いという噂を真っ向から否定する薄情さだ。
それを加味しないでも、シエラのアスペルマイヤーに対する心証は悪い。現在起きている連続失踪事件に大きく関わっていると疑っている。
ダミアンはアスペルマイヤーを疑っているだろうか。アダーを通して既に伝わっていると思われるが、アスペルマイヤーが怪しいという話を、彼は有益なものとして捉えるだろうか。
過去の連続失踪事件において、彼は成果を上げられなかった。氣功士犯罪と思われた事件、しかし犯人はただのギャングで、捕らえたのは市警だ。
それに納得していないために、ベッカーからの匿名応援要請に応えたのではないか。ダミアンが現在と過去の事件を結びつけて考えているのは、カウフマンへの聴取を行ったことからも明らかだ。過去に行われたダミアンの捜査線上にアスペルマイヤーが居たならば、彼にとってもシエラにとっても、殆ど確信を持てるのではないか。
(仮にアスペルマイヤー家が黒だったとしたら、カウフマンさんはどう思うだろう)
娘の失踪に関わったかもしれない人物のお金で店を始めたのだ。未だ怒りを継続している彼は、店を破壊してしまうかもしれない。
カウフマンには、現在起きている連続失踪事件を話さなかった。無用な不安や混乱を招かないためだ。市民の誰もが都市で起こっている事態に気がついていない。被害者家族ですら、そうだ。連続失踪事件だという認識を持っていないだろう。そうなる前に捜査チームは解体され、報道は止んだからだ。少なくともダミアン達の協力者、レオン・ベッカーの言ではそうなっている。
そう言えば、ベッカーは無事だっただろうか。四六時中監視されていた訳ではないだろうが、カフェでの接触を看破されていれば、彼もただでは済まないだろう。アダーが一応の安否確認を行うと言っていたが、果たしてどうか。
「ん……?」
背後に気配を感じた。
誰か居るのか。
誰かとすれ違うことはなかった。
追い抜くこともなかった。
その筈だ。
その筈だったが――。
どうにも嫌な違和感が纏わりつき、振り返ろうとして、
首を切断された。
という錯覚を覚えるほどの殺気。
一瞬で汗が吹き上がり、口中は干上がった。
その場を数メートル跳び退きながら背後を向いた時には、無意識的に剣を握っていた。
「…………?」
そこに在るものを見て、我が眼を疑った。
闇から這い出たような黒鉄。
全身鎧。
金持ちの屋敷に飾られているような全身鎧がそこに在った。
いや、居た。
道端に飾られている筈はない。明らかにそれを着用した人間がそこに居る。鎧を着込んだその体高は2メートルに近い。
通常よりも遥かに多くの金属板が重ねられ、丸みを帯びた箇所が見当たらない程に厳しい造りだ。全身に幾つもの突起があり、素手で攻撃すれば無事では済まないだろう。両サイドから大きく突き出した水牛のような頭頂部の角――意匠を凝らしたその姿は、まるで魔獣のような印象をも受ける。
右手にはツヴァイハンダーが握られていた。それも鎧と同じく、黒い。全長2メートル近いその大剣は、普通の人間ならば持つことすら叶うまい。リカッソ――柄から刃の根元にかけて存在する、刃を持たない金属部分――から先の刀身が妙に分厚くなっている。リカッソ自体も相当に分厚いが、刀身は実に20センチ近くあるだろう。
恐るべき存在感だ。時代遅れという理由ではない。なるほど、王政時代に騎士の間で流行したそれは、現代に在ってはいっそ滑稽に映る。黒鎧の脇にはブティックがあり、ショーウィンドウには黒い絹で織られたイブニング・ワンピースドレスが飾られている。現代的な服飾との対比が一層それに拍車を掛けもするだろう。だが、全身から迸る氣の圧力が、シエラの肌に粟を生じさせていた。全く何もかも冗談ではない。
向けられた殺気から、敵対意思は明らかだ。信じ難いことだが、都市内で闘うつもりだ。常識的な氣功士ならば、法の及ぶ場所ではそれを避ける。
果たして何者か。
シエラは考えなかった。相手の正体も、法の及ぶ場所で力を行使するリスクも。雑念は死を招く。そう思わせるほどの相手だろうと踏んでいた。それを考えるのは生き残った後で良い。
「ここで闘うつもり?」
努めて平然としつつ、シエラは言った。緊張は身体を鈍らせる。恐怖や怒りも後で感じれば良い。
都市内で実力の確かな氣功士同士が闘えば、数千人単位で死傷者が出かねない。そうなれば、闘いに勝利したとしても、最悪の場合は死刑だろう。人道的な観点からもそれは避けたい。幸いにも此処は都市の外縁部にあたる。黒鎧の出方次第だが、此処で闘いが始まっても都市の外へと誘導出来るだろう。無人の湿地帯や丘陵地帯、魔獣の巣方面が望ましい。
だが、意外にも黒鎧がそれを促した。
『付いてこい』
そう言ってシエラに背中を見せたのだ。
凡そ人間には発生不可能な低い声だった。巨獣の唸り声を想起させる。低すぎるためか、声が割れている。それでいて何故かはっきりと聞き取れた。
「喋れるんだ……」
意外だったことの1番がそれだったために、シエラは思わず呟いていた。その外見から人語を解するという当たり前の事実に、到底思い至らなかったのだ。
「断ると言ったら?」
望外の提案ではあるが、罠の可能性も十分に有った。相手の指定する場所での戦闘以上に危険なことはない。
黒鎧は大剣の切っ先をブティックのショーウインドウに向けた。それだけでガラスが粉々になった。イブニング・ワンピースドレスを着用したトルソーもズタズタになる。
「……選択肢が無いことを手短に示してくれてどうも。付いて行くわ」
了承すると、黒鎧は反対側の建物へ跳んだ。シエラも続いて跳び、建物の屋根から屋根へと高速で跳び移っていく。暴れだす心配は無いと分かっいても、人家の屋根は流石に緊張した。
夜のために黒鎧を見失わないか心配だったが、よく見ると鎧は淡く紫色に発光していた。微かに氣が放出されているのだ。眼に見える形でそうなっているのは、纏う鎧に氣が充実している証拠だった。これは朗報と言えた。鎧の強度も厄介だろうが、暗闇で相手を見失わずに済むというのは大きい。出来れば昼間に闘いたかったというのが本音だ。
後ろに付いている間に何度も不意打ちを試みたが、なかなか隙が見当たらないために断念した。
やがて跳び映る建物が無くなり、整備された道路を通り抜け、一面に広がる湿地帯へと辿り着いて足を止めた。
「こんな人気の無い場所に女性を誘い込むなんてね。1つ聞きたいんだけれど、何が目的なの? いやらしいこと以外で」
黒鎧はそれに答えず、大剣をこちらへ向けた。シエラは肩を竦める。
「……では、斬り合いましょうか」
シエラの意識が先鋭化されていく。余計な思考を削ぎ落とし、目の前の状況に対する一つの武器となる。
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登場人物の簡単な紹介ページを投稿しました。よろしければどうぞ。 → 「https://kakuyomu.jp/works/1177354054884962310」
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