第12話 (一章・終)
空を見上げると、太陽は南中を過ぎていた。空を縦横に走る外殻は、今日も変わらない。地面では蟻が列を成している。踏まないように気をつけて進むと、湿気を伴った暖かい空気が頬を擽た。風は丘陵地帯の草花を優しく撫でて、地平線の向こうへと消えて行った。
シエラとクラウディアは、既に旧クロッペンベルクを離れていた。小高い丘だ。振り返ると、廃墟群の全景を見渡す事が出来る。シモーヌの家はあの辺りだろうか。想いを向けるが、別に名残惜しい訳ではない。
「……良かったのか?」
クラウディアが言った。何が、とは聞かない。分かりきったことだからだ。
「何か問題があるの?」
「……問題は無いが」
気にはなると、その眼が言った。落ち着いた性格とは裏腹に、好奇心の強いエルフだった。
「魔獣避けの装置だが……広場と依頼人の家周辺に張られていたものは、やはり同一だった。氣導術に使用される文字を他者が理解する事は出来ないが、個人によって微妙な癖が出るものだ」
「そう」
あくまでも興味ないと言った風に、シエラは答えた。
「問い詰めないのか? あんなものを見ておいて……」
咎めるような声色だった。聖堂地下の惨状に関与している可能性を知りながら、それを見過ごすのかと。
今更ながら、少し驚いた。人間とエルフの正義の価値観――正と悪、倫理観、道徳――というものは、あまり違いが無いように思えたからだ。エルフの社会は狭い。心は清らかであり、村で犯罪など起こりようも無いと聞く。だとすれば、聖堂地下の件に、クラウディアは激しく困惑しただろう。人間と変わらない倫理の価値観を持っているならば――人間よりも実践的なのだろうが――それが義憤に変わってもおかしくは無い。
あるいは、それはクラウディアの性格か。エルフの中でも、特別に正義感を重んじるのかもしれない。彼女の言から察するに、親友が人間に攫われた件で、彼女は誰よりも早く飛び出したに違いない。エルフの村では、長老の意見が重視されると聞く。そうであるのに、冷静な彼女が村を飛び出した。意見に反するどころか、そもそも聞かずに。心配だったから――というのもあるだろうが、誘拐という行為そのものに怒りを覚えていた可能性は有るだろう。怒りは冷静さを失わせる。
それはとても好ましい。人間ならば、大抵の人間が彼女の怒りに共感を覚えるだろう。だが、人間社会へ赴くエルフにとっては、その身を危険に晒す事もあるかもしれない。もちろん場合に因る話だが。見過ごせないというのは、危険に首を突っ込むという事だからだ。
「問い詰めてどうするのよ。素直に教えてもらえるとでも?」
「それはそうだが……」
問い詰めるにしても、証拠が無ければ悪手でしかない。だが、現状掴み所が無いのだ。仮に拷問にかけたとして、それが証言としてどれほどの正当性を持つか怪しい。それに、拷問など反吐が出る。
「人間はエルフと違って、極端に数が多い。だからこそ規則……法律で自らを管理する。……同時に、疑わしいだけでは罰することが出来ない。それが法治国家の理性だ」
そして、それは警察の仕事でもある。必要な情報を得たならば、通報するべきだ。
「では、グリルパルツァーという人間はどうする?」
クラウディアには道すがら、シモーヌの家での経緯を伝えていた。
「どうかしら。暇が有れば、という感じかしらね。私の目的地もノイエ・クロッペンベルクだけれど……」
「忙しい?」
「そうね。実は親友に呼ばれているから。遺跡探索の手伝いでね」
「親友……」
ハッとした様子で、クラウディアは呟いた。
「思い出した? あなたは仲間のエルフを探さないといけないでしょうに。こんな訳の分からない事に首を突っ込んでいる暇なんて無いわよ」
「べ、別に忘れていた訳では……」
慌てたように抗弁する。勿論、忘れていたなどとは思っていない。ただ、長い寿命の為だろうか。あるいは若さの為か(シエラに取っては決して若くなど無いが、エルフの精神年齢は見た目に比例すると言われている)。今1つ、危機感が足りないような気がする。エルフが人間社会で行方不明になったとすれば、それは結構な問題に発展しかねない。あるいは今頃、州政府は対応に追われているかもしれない。
(次の都市へ着いたら、その辺りも含めて情報収集しないとね)
クラウディアの事を併せて考えれば、エルフの大使へ連絡を取ることが先決か。確認はしていないが、クラウディアも当然そのつもりだろう。
「まあ……そっちの方は私も少しは手伝うから」
「……忙しいのではないのか?」
「あなたの要件を加味すれば忙しい、という意味よ」
「む……」
言葉に詰まったクラウディアの頬は、少し赤く染まっていた。肌が白いため、良く目立つ。良くも悪くも素直なのだろう。美しさばかり目立つが、可愛い所もある。扱い方が分かってきた。
「まあ、クラウディアがどうしても気になるというなら、グリルパルツァーとやらに話を聞いてみるけれどね」
「……今更ながら思うが、それは罠ではないのか?」
「なんのための罠よ」
シエラは肩を竦めた。
取るに足らない流れの小娘を罠にはめて、一体どうしようというのか。始末しようというならば、もっと簡単な方法が有るだろう。
ともあれ、怪しいのも確かだ。自分から話を振ってくるなど、いくらなんでもあからさま過ぎる。話の流れも不自然だ。それを狙って行ったというのは、考え過ぎだろうか。疑心を持てば、良かれ悪しかれ行動が縛られる。誘導されている気がしないでもない。
シモーヌ自体が怪しいのだから、疑心が持ち上がって当然とも言える。彼女自身は否定していたが、それを信じる意味は無い。彼女は、軍属の経験は無いと言った。だが、軍と同じ術式を保有している。普通なら機密扱いの技術だ。例え術式の元となった者の身内と言えど、そんな事は通常有り得ない。何らかの嘘が有る。だから信用できない。
「ノイエ・クロッペンベルクか……」
ここからならば、一週間もあれば辿り着けるだろうか。魔獣の巣圏内を縦断出来た事で、大幅なショートカットを実現できた。走ればいくらでも到着を早められるだろうが、それは禁じられている。公の空間では、許可なく突出した能力を発揮出来ない。
幸い懐も潤ったし、一先ずは車を手に入れる事が先決だろう。次の都市で列車を利用しても良い。
地図を確認すると、最も近い都市はアウトリテートという名前だった。
ふと、目を細める。
ショートカットを図ったつもりでは有るし、距離的には実際そうなっている。だが、道を抜けてみれば、自分でも驚く程の面倒を引き連れて歩いている。目的地へ辿り着けないのでは? という嫌な想像が脳裏を過った。
「…………」
少しだけ乾いた笑いが漏れ出る。
出かけた嘆息を飲み干して、前を向いた。
これも何時か思い出に変わるだろうか。それが良いものか悪いものかは分からない。分からないが――。
少しだけ力を込めて、足を踏み出した。
※ ※
旧クロッペンベルクの荒れ果てた広場に、少女が1人、女性が1人。
少女の年齢は5歳くらいだろうか。赤のドレスワンピースに、両サイドで括った髪。如何にも可愛らしい少女だった。少女の姿は透けており、向こう側の景色がうっすらと見える。一見して普通では無いと知れた。
このような存在を残身という。既に死んだ人間だ。自らの死を繰り返す、無意味な存在だ。
「……流石に警戒させ過ぎたかな。聖堂の話題を出したのは、言い過ぎだったかもしれない」
「え、何?」
女性が呟くと、少女は不思議そうに聞き返した。
手には古ぼけたぬいぐるみが握られている。
「いや、お嬢ちゃんには関係の無い話よ」
女性は20代の半ば。紅茶色の美しい髪が印象的だった。名をシモーヌ・ブラウン。魔獣が巣食う廃都市に住まう奇人。
「あなたはもう、行かなくてはいけないでしょう? お父さんやお母さんが待っているわよ」
シモーヌは促したが、
「……お姉ちゃんは?」
助けを求めるような瞳を、こちらへ向けてきた。不安なのだろう。少女の瞳には今、何が映し出されているのか。何が聞こえているのだろうか。大慌てで避難する群衆か。魔獣の大軍勢が押し寄せる地響きを聞いているか。想像は容易いが、核心を突くことはできない。
「私は……あなたを見守っていましょう。大丈夫。何も危険は無いから」
「でも……」
「大丈夫」
安心させるように顔を覗き込んで言うと、少女はゆっくりと頷いた。
「ぬいぐるみ、拾ってくれてありがとう」
その礼を、シモーヌは微笑みで受け取る。
少女は走りだした。決して辿り着く事の出来ない、父と母の元へ。その足は決して早くない。ただ、懸命だった。
その背中を見守りながら、シモーヌは苦笑した。シエラに対してだ。このような行為を報酬として要求するなど、奇矯な奴だと。そう思った。だが、走り去る少女の背中を見ていると、僅かながら心が苦しくなる。結果的には無意味であると分かっていても、少女を邪険にする事など出来なかった。結局、己もまたシエラと同じだったのだ。眼を細めて嘆息する。悪い気はしない。
やはり、隠遁生活は良くない。人間らしさが摩耗する。
「人間、か…………」
人が人足り得るためには何が必要か。身体か、心か。あるいはそれ以外の何かだろうか。種族として人ではなくとも、精神性がそうであれば、それは人だろうか。裏を返せば、身体が人でも、心がそうで無ければ人ではないのか。それは、シモーヌをずっと悩ませてきた問題だった。
残身の少女は既に人では無い。だが、少女を人でないと断言する事は躊躇われた。
「……くだらない事だって?」
周囲には誰も居ない。だが、シモーヌは言葉を止めない。それは自問自答では無かった。
「あの日から、ずっと同じ問答の繰り返し……何時もあなたは同じように水を差すのよね」
誰も存在しない空間に話しかけているようで、そうでは無い。シモーヌには存在しない何かが見えているようだった。
「……言い合っていても仕方無いわ。話を戻しましょう。ともあれ、興味は持って貰えたと思うのよね。あの手のタイプは、警戒心の裏に好奇心を隠し持っている。何故それが分かるかって? 彼女とよく似た人間を知っているからよ」
少女は何度も何度もこちらを振り向いた。その度に、シモーヌは手を振って少女を安心させた。
「そう。そうよ。あなたもよく知っている彼女よ。……それは駄目ね。別れを切り出したのは私からだから。今更助けてくれなんて言えるわけがない」
慌てているのだろう。不安なのだろう。必死に走る少女は、何度も躓きそうになった。それでも、少女は足を止めない。
「……でも、これも運命かもしれない。シエラが訪ねてきて、私はそう感じた。……運命なんて、信じていなかった筈なんだけれど」
ぬいぐるみを落とした少女が、反転して拾いに戻る。目が合って、少女は笑った。シモーヌも微笑み返す。
「分かっているわよ。もうあまり時間も無い。保険に頼らず、ヴィルマを育てろというんでしょう?」
10、9、8、7――、心中でカウントが始まった。
「……大丈夫よ。知っての通り、あの子にはあの子の理由が有る。私達がどうなっても、歩みを止めない」
6、5、4、3――。時間を覚えるつもりは無かったが、何度も確認しているうちに覚えてしまった。
「そうでしょう? ベルンハルト」
2、1、――。瞬間、シモーヌは目を逸らした。
視線の向こうで、少女が爆散した。過去に起こった死が、時間通りに襲いかかったのだ。
持ち主の居なくなったぬいぐるみが、ぽとりと地面に落ちた。
残されたぬいぐるみは、おもむろに起き上がった。こちらへ向かって歩き出す。
時間は掛かったが、シモーヌの元まで辿りついた。だが、終わりでは無い。まだ歩く。指定した場所へ辿り着くと、おもむろに横たわった。其処は瓦礫の下だった。雨風を凌ぐための場所だ。明日、定刻になれば、また歩き出す。今、シモーヌが立っている場所まで。定刻――少女がぬいぐるみを求めて出現する時間だ。
ぬいぐるみは問題無く動作した。安堵したが、まだ早い。最低一週間は動作の経過を観察しなければならない。己の氣導技術に絶対の自信を持ってはいたが、不安は有った。実験最中は何時もそうだ。
ぬいぐるみは同じ動作を繰り返す。翌日も、そのまた翌日も。少女が消滅すると、元の場所へ戻っていくだろう。
その翌日も、そのまた翌日も。
残身が消えるその日まで、何度も、何度でも。
シモーヌは苦笑した。まるで壊れたレコードだ。己もまた、同じようなものだと理解していた。
シエラを見送って、既に1週間が経っていた。彼女はもう、ノイエ・クロッペンベルクへ辿り着いただろうか。分からない。トラブルを引き連れて歩くような子だと感じた。
(私と出会ってしまう辺り、相当運が悪い)
空の遥か彼方を回転する外殻に想いを馳せ、シモーヌは広場を去った。
後にはぬいぐるみだけが残された。
※ ※
・後書き
ここまでお読み頂き有難うございました。
取り敢えずイントロダクションのような形に終始致しましたが、二章からは動きが出てきますので、よろしければまたお付き合いください。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます