37話

 人は迷う。迷いは人の愚かさと言えるだろうか。そうかもしれない。

「どうしてレオン・ベッカーを殺させたのですか?」

 赤毛の女秘書、フレーゲル・ギュンターの問いかけに、アスペルマイヤーは眉を顰めた。

「……誰だったかな、それは」

 苛立ちとやるせなさに、ギュンターは着用している伊達眼鏡を潰しそうになった。

アスペルマイヤー家の自室兼執務室、机を挟んで向かい合っていた。重厚感の漂う大型の机は、代々の当主に受け継がれてきた物だ。光沢と赤みが歴史を実感させた。

「貴方が首を刎ねた刑事です。もうお忘れですか」

「ああ、いや……うん、思い出した。最近どうも忘れっぽくてね。だが、語弊が有るだろう。首を刎ねたのは私ではない」

どちらでも同じことだ。誰が実行したにせよ、命令したのは彼だ。そうした意味の視線を送ると、彼は薄く笑った。

「ふむ……? 私が人を殺す……今更そんな事を咎めるのか?」

「咎めているのでは有りません。理由を尋ねているのです」

 自分は誰も殺していない、などと惚けようものならば怒鳴っていたかもしれない。彼がそこまでの愚か者でなかった事に感謝しながらも、暗澹たる思いは晴れない。事態は深刻だ。この狂った男はそれを何処まで認識出来ているのだろうか。

静かな室内。柱時計の振り子のみが、その重々しい音を一定のリズムで刻み続けていた。

「今回の殺しは明らかに何時もとは違います。貴方は殺した人間を……」

 ギュンターは言葉を濁した。あまり口に出したくはない事だった。同じレベルで会話を進めることがおぞましいのだ。

「……少なくとも、ベッカーの首を連邦捜査官に見せつけるような真似をする必要は無かったでしょう」

 よりにもよって、あのレオン・ベッカーだ。それはギュンターの個人的な問題だった。

「警告だよ。これで引いてくれれば問題は起こらない」

 淡々と彼はそう言った。その瞳を見て、ギュンターは薄ら寒いものを覚えた。

本気で言っている。

思慮が浅すぎる。

連邦捜査官がそれで引いたりするものか。むしろ手掛かりを与えてしまうだろう。

だが、思慮が浅いことに戦慄したのではない。彼の知能は本来高い。正常な判断が出来なくなっているのだ。頭のネジが一層緩んできている。

反して、社長業の方は順調に対処出来ている。幹部への指示や人間関係、現場の巡回、取引先での振る舞いはもちろん、服飾店や飲食店の店員への対応まで、評判のアスペルマイヤー像を具現化している。

この差は何だろうか。いや、此処に至ってそれを考察することに意味は無い。もう事態は起こっているのだから。

これまでは被害者の痕跡は残らず、警察も新聞社も抱え込んでいたため、隠蔽は容易だった。だが、刑事の頭部を証拠として残してしまう――こんなもの、どうやっても隠し通せるものではない。仲間を弄ばれ、黙っている腰抜けがどれほど居てくれるか。期待は出来ない。元より、警察は仲間意識が強いのだ。不満を爆発させた者達が水面下で動き出せば、その動きは止められるものではない。これは新聞社の方でも同じことだった。一度動き出せば、雪崩のように事は運ぶだろう。

だが、この際それも良い。どうせ起こるべくして起こる崩壊だ。あるいは、望んだ崩壊とも言える。

だが、見逃せないこともある。

「……エルフを攫ったのは?」

その誘拐は予想外過ぎた。

エルフに手を出すのはリスクが大きい。行うならば綿密な準備と強い覚悟が必要だ。この男はそれを理解しているのだろうか。

いや、そもそもグラシエラ・モンドラゴンと連れのエルフに関しては、こちらで対処するために、決して手出しをすることの無いように言明していた筈だ。予想外と言えば、黒鎧がそれに協力したことも、だ。任務に忠実な男だと思っていたが――。

ギュンターは自身の納得いく説明を期待していたが、

「だって、ずるいじゃないか。僕だってエルフが欲しかったのに、譲らなきゃならないなんて。だから今回は僕が貰う。良いだろ?」

 出てきたのは、凡そ社会のアスペルマイヤー像からは離れた幼稚な言葉で。

もう限界だった。ギュンターの我慢が、ではない。

「我々の主は混乱を望んでおりません」

 唯一の望みは、正常な判断をもってアスペルマイヤーが問題に当たること。ならば現状を巻き返す望みが有る。それがアスペルマイヤー家の格というものだった。

だが、それを期待することは諦めた。実際のところ、ギュンターがこの男に期待したことなど一度たりとも無かったのだが。常に死んだ方が世の中のためだと考えていた。

「もちろん。彼を裏切るような真似はしないとも。私の恩人だからね」

「…………」

 ギュンターは丁重に一礼して部屋を後にした。

足早に廊下を進むと、清掃係のメイドとすれ違う。髪の毛を大きなリボンで纏め、団子を作った可愛らしいメイドだった。待ち合わせの合図を送って、集合場所へ向かった。

あの男はもう限界なのだろう。それを言うならば、最初から何もかも限界を迎えていた男だ。処置を施せば崩壊を迎える。そんなこと、初めから分かっていた筈だ。

「マルチェロ・イルデブランド……狂った科学者め」

ギュンターの呟きは苦渋に満ちていた。アスペルマイヤーは秘密裏に始末する。そう決めていたが、迷いが有った。それは愚かだった。もっと早くに殺しておくべきだったのだ。

例え主命に背いたとしても、そうするべきだ。あの男は些か殺し過ぎた。主もまた、それを理解してくれる筈だ。



   ※  ※



ミネルヴァ運送へ到着したのは、昼前のことだった。太陽は真上に有る。だが、見えない。空の一面を雲が覆い隠しているからだ。故に、昨日よりも確実に肌寒い。湿度はやや高く、雨が降りそうではあるが、この季節、この地方では降水量が少ない。きっと降らないだろう。

此処へ到着するまでに、それなりの時間を要していた。ミネルヴァ運送は南東部の外周近くに存在している。路面電車と徒歩で2時間近くを要しただろうか。ダミアンの異能力、「親愛なる猟犬」・イグナーツの導きでそこへ到達した。

ミネルヴァ運送は株式会社ミネルヴァの子会社だ。アスペルマイヤーの影響を強く受けていると言って間違いはない。

他の建物よりも、それらはやや古いように思えた。思うに、ミネルヴァ運送設立当初は孤立した立地だったのではないか。後々になって、後から都市の設計に飲み込まれたのかもしれない。

イグナーツが匂いを覚えた人物が此処に居る。つまり、クラウディアを攫った犯人が此処に居るということだ。アスペルマイヤーへ疑いの眼を向けていたとはいえ、この結果はいっそ拍子抜けするものだった。

「……本当に此処にいるのかしら。別に、貴方の能力を疑っているわけではないけれど」

 あまりにも簡単すぎる。黒鎧のような実力者を擁しているとは思えない程だ。それだけダミアンの能力が優秀なのかもしれない。事実、シエラから見てもイグナーツの能力は脅威だ。

とはいえ、追跡できた匂いは1人のみ。もしかすると、ただの身代わりかもしれない。

もう1人の方は追跡出来なかった。唐突に匂いや気配が霧散したという。それが何を意味するのかは分からなかった。ただ、人生を異能力を使った捜査に費やしてきたダミアンが初めて遭遇する異常事態――警戒の意味を込めて、そちらを後回しにする方が賢明だろう。

「何でも良いさ。何も知らねぇってことは無いだろ」

呟いたダミアンの眼には、何やらギラギラしたものを感じた。執念の発露というか、獲物を待ちきれない猟犬のような瞳だ。

ダミアンもまた、アスペルマイヤーとは因縁が有った。

14年前の連続失踪事件において。

此処へ向かう途中、ダミアンに当時の事件と今回の事件で、ある程度の意見を交換していた。

決して答えの出るものではなかったが、無駄ではなかったと考えている。



郊外へと向かう、閑散とした路面電車に揺られながら、シエラは切り出した。

「14年前、何が有ったの?」

「……酒場の店主に聞いたか」

 舌打ちして目を細めた。とはいえ、言及されないとも思っていなかったようだ。

「まあ実際、知っておいて損はねぇ話だからな」

「……というか、初めから話しておいてよね。14年前にも同じような事件が起こっていたなんて、かなり重大な話じゃないの」

それもそうだと、ダミアンは悪びれもせずに肩を竦めた。彼はシエラを泳がす事で成果を得ようとしていたのだから、無理もない話だったが。

「それで、酒場の店主からは何を聞いた? 1から話してたんじゃ時間が掛かって仕方ねえ」

 シエラは酒場の店主、ヨナス・カウフマンから聞いた限りのことを話した。

14年前に連続失踪事件が起こり、市警がギャングのリーダーを逮捕、被害者の行方は不明のまま事件は解決した。有耶無耶になったというべきか。被害者の行方が分からないままというのは、つまりそういう事だ。その上、事件のリーダーは刑務所内で自殺しているのだから。

「ふん……まあ、概要としてはそんなところだ」

ダミアンは当時を思い出すように視線を左上へ向けた。

「市警が事件を解決してくれたお蔭で、俺も2年間の停職と更生プログラムを組まれることになったわけだ」

「いや、何でよ。意味が分からな……ああ、捜査終了の命令が下ったのに、納得してなかったから捜査を続行したわけね」

 如何にもこの男ならばやりそうだと思えた。だが、ただ捜査を続行したという命令違反だけで、更生プログラムを組まれるほどの罰は下らないだろう。

「何も出来てねぇよ。ただ、当時俺が有力容疑者として睨んでいたルーカス・アスペルマイヤーの自宅へ侵入しただけだ。まあ、侵入したところで、妙に強い執事に取り押さえられたわけだが」

ダミアンは鼻で笑った。何もしていないと言わなかったところに潔さを感じるが、笑いごとではない。まだ捜査官を続けていられるのが奇跡だ。

「……どうしてルーカス・アスペルマイヤーが怪しいと?」

カウフマンも彼のことは絶賛していた。酒場を開けたのも、ルーカス・アスペルマイヤーの寄付があってのことだと。

「じゃあ、なんでお前らは今回の事件でマンフリート・アスペルマイヤーを疑ったんだ? 評判に関して言えば、父親も息子も変わりねぇだろ」

「それは、『エルフの恋人をマンフリートに攫われた』というアンジェリーナさんの証言が有ったから……」

「そうじゃねぇだろ。さっきも言ったが、お前さんは相当疑り深い。自分の見た事しか信用しない性質……いや、そう訓練されたか? お前さんはマンフリートと会話して、直感的に奴が怪しいと見做したんだ。俺も同じさ。ルーカス・アスペルマイヤーは何かを隠している。そう確信したんだよ」

ダミアンの断定に、シエラは絶句した。確かにその通りかもしれない。自分の見たもの以外を信用しないように訓練されたのも事実だ。シエラはアスペルマイヤーと会話するまで、アンジェリーナの証言を信じ切ってはいなかった。

「追い詰められた犯人のルーカスが警察を使って事件を隠蔽したと?」

 ルーカスと警察署長のアルムガルドは幼馴染だという。隠蔽は十分に可能だろう。

実のところ、その可能性はシエラも考えていた。だが、カウフマンの話を聞いた時点ではただの妄想に過ぎなかった。被害者家族に寄付金を出したという聖人のような美談に、何かしらの事情が有ったのではという邪推。だが、当時を知るダミアンも同じように考えているならば、少しは真実味が増す。

「けれど、ルーカスの息子だって失踪しているんでしょう。自分の息子をどうにかしてしまったと?」

 失踪してしまった被害者がどうなってしまったのか、それは分からない。身代金、人身売買から死体愛好に食人まで、目的は色々有るだろう。だが、どれ程に狂えば、自身の息子を売り飛ばしたり切り刻んだり出来るだろうか。

「アルノー・アスペルマイヤーか……双子の、弟の方か」

「双子? マンフリートとアルノーは双子だったの?」

それは初耳だった。もちろん、それは決して重要な情報とは言えないが――。

「……そう言えば、マンフリートを賞賛する話は聞くけれど、その弟を悼む声は聞かなかったわね」

それがデリケートな話題だからか。

傑出した人間性で名高いアスペルマイヤー家の、若くして失踪した当主の弟。成長していれば名高い家名を更に押し上げていただろうことは想像に難くない。

「アルノーは身体が弱かったらしくてな。そもそも10代になるまで、人里離れた別荘で暮らしていたらしい。この都市へ戻ってから失踪するまでの10年間も、郊外の別宅で隠れ住むようにしていたんだと」

故に、失踪して初めてアルノー・アスペルマイヤーという存在を知ったという住民は多かったらしい。

「人里離れた場所で隠れ住んで、都市へ戻ってからもひっそりと暮らしていた……それって…………」

似ている。何にと言われれば、グラシエラ・モンドラゴンという人間の半生にだ。シエラは複雑な要因に因って軍に処刑され掛かったため、師匠の下へ身を寄せて隠れ住んだ。

そして、そうした類の人間は稀に存在する。

つまり、気功師であることを、異能力者であることを隠して成長を重ねる類の人間。それが何処の国でも重罪となるのは、爆発の危険性を孕んだ潜在的な暴力の隠匿だからだ。力の使い方を知らない気功師は魔獣以上に恐ろしい存在だ。

普通の家庭では隠し通せるものではない。だが、権力を持つ者、気功師の子供を管理できる者となれば話は違ってくる。ルーカス・アスペルマイヤーは絶大な権力を持ち、自身も気功師だった。

アルノー・アスペルマイヤーという人間は気功師だったのではないか。

「お前さんの考えていることは分かるよ。アルノーが失踪したというのは本当の話か……アルノーが犯人で、ルーカスはそれを庇っていたんじゃないかって事だろ。そんでもって、状況としては今回も同じかもしれねぇ。この都市の何処かで生きていたアルノーが再び事件を起こし、それをマンフリートが庇っている。有り得ない話じゃねぇな」

都市伝説に出てくる怪人のようだ。

あるいは、兄弟の共謀か。

「まあ、昨日一日使って色々調べたよ。アルノーの目撃例も聞いて回った。答えはそんなもん有る訳ねぇ、だったがな」

彼は大げさに息を吐いた。

「……時が経つのは早いもんだな。14年前は19そこそこのガキだった男が、今や大企業の社長、結婚して子供まで居るってんだからよ。まあ、妻と子供とも、半年前に別居してるって話だが」

ダミアンの年齢に興味はないが、どう見ても家庭を持っているようには見えない。歳を取るとそのようなことに敏感になるという。ダミアンのような男でも、それが気になるのだろうか。

その時、ふと気が付いたことが有った。だが、あまりにも突拍子のないことだったので、口に出す前に否定していた。

「……まあなんにせよ、アルノーが生きているという線で警戒しておいた方が良さそうね」

「本当にギャング共が犯人じゃ無かったなら、な。ギャングのリーダーは殺人に恐喝、薬の密売に売春強要なんでもござれだ。ミッテルシューレ時代に学友の母親と娘をレイプして殺しすような男だぞ」

「……そんなゴミ溜めから生まれたようなクソ野郎、なんでそれまで逮捕されなかったのよ」

「自分の手を決して汚さなかったからだ。場の空気を操る天才ってやつだな。それまでの裁判では教唆すら認められなかった」

 そんな男が本当に犯人だったなら、市警の判断は賞賛されて然るべきものだろう。

「だから、アスペルマイヤーが疑わしいと考えてる俺達はとんだ的外れなのかもしれねぇな」

「でも、信じてないんでしょう?」

「……色々調べたって言っただろ? 逮捕されたギャングのメンバー、3年以内に全員が刑務所内で自殺してた。そんなアホみたいな状況、信じられるか」

 吐き捨てるようにダミアンは言った。確かに、それは決して認められない話だった。

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