48話

 アルノー・アスペルマイヤーはアスペルマイヤー家の現当主、マンフリート・アスペルマイヤーの弟だ。一卵性双生児でもあるため、外見上は鏡写しの如く見分けが付かない。

 その彼の人生が終わったのは14年前、18歳の時だ。

 そう。彼の人生は終わった。

 終わった筈だった。

 あの男に出会うまでは、確かにそうだったのだ。彼が訪ねてきたときのことを、アルノーは今でも思い出すことが出来る。

 今から半年以上前のことだった。場所は首都近郊の障害者施設『森の家』。アルノー・アスペルマイヤーの入所を知る人間は殆ど居ない。14年前に死んだと思われているからだ。今や唯一の肉親となった兄ですらそうなのだ。

 あの日、彼は夢を見ていた。定期的に見る――見てしまう、14年前の夢。全てが終わった、あの日の夢。

 それは正に悪夢であり、自分の唸り声で目を覚ますことが常だった。

 目を覚ませば、季節関係無く汗でシャツは濡れていた。そして、額に浮かんだ汗を拭おうとして、自分にはもう両腕が無いことを思い出すのだ。――腕ばかりではない、脚もだ。昔の夢を視た後は、四肢の不在を忘れてしまう。

 それから、灰色の天井をしばらく呆として眺める。

 始まりは何だったのか。彼には今でもはっきりと思い出すことが出来た。

 遠い昔、幼児の夏。

 オルデンブルクにあっては、珍しくうだるように暑い夏の昼下がり。黒く罅割れた熱いコンクリートの上で、一匹の蜂が死に瀕していた。黒と黄色が特徴的な、獰猛な顔をしていた。平時の恐ろしさとは裏腹に、瀕死の虫は滑稽に痙攣していた。

 命は大切にしなければならない。愛を持って望むべし。

 母との約束だった。約束だったが――。

 彼は、特別な関心を持って蜂を――生きたまま解体した。

 尾の針を小石で潰し、釘で腹を割いて中身をつぶさに観察した。

 言いようのない感覚を覚えた。快感だった。それが性欲に直結するものだと気づいたのは、もっと後になる。5歳に満たなかった彼には、ただ気持ち良い何かが、電流のように身体を奔ったとしか理解できなかった。

 それ以来、彼は快感の虜になった。虫に飽きれば動物を解体した。それが人間へと発展したのは10年以上経った後のことだ。

 その結果として彼は今、此処に居た。四肢を失ってからは、異常な欲望の全てと――能力を失っていた。

 殆ど軟禁状態だったが、不自由無く裕福な暮らしを送っていた彼にとって、それは屈辱的な状況とも言えた。狭く、掃除の行き届いていない個室に押し込められ、介護無しでは糞尿すら垂れ流しになる。

 彼の人生は既に終わっていた。

 だが、それは当然受けるべき罰だと考えていた。高性能の義手や義足と言った類の物が与えられることは無く、望みもしなかった。

 倫理に反した。法に背いた。家名にそぐわない醜態を晒した。

 異常なのは自分だと理解していた。理解した上で、彼は自身の異常な性癖に耽溺せざるを得なかった。

 ただ生きているだけの、緩慢な死。物を食べ、糞尿を処理されるだけの生物。

 唯一の楽しみは本を読むことくらいだった。読書量はこの14年で1000冊を超えていた。本を台に置き、ページはステッキ上の義手で捲った。

 このまま此処で、ひっそりと誰に知られることもなく朽ちていくのだろう。

 諦観ではなく、そう在るべきだと心に決めていた。

 そんなある日のことだった。

 男が彼の前に現れた。

 職員は面会だと言った。

 そんな馬鹿な、と彼は思った。誰も来るはずが無い、と。唯一事情を知る院長から、自身の置かれた状況を伝え聞いていたからだ。父のルーカスは秘密を抱えたまま自殺した。そして、兄のマンフリートは事実を把握していない。弟は卑劣な連続失踪事件の被害者であると信じ、悲しみを胸に日々を生きている筈だった。まさか、兄は真相を知ったのだろうか。卑劣にも生きながらえている弟を許しがたく思い、訪ねてきたのだろうか。そう思った。あるいは、兄はアルノーを赦すかもしれない。それが1番恐ろしかった。

 恐怖とともに、喜びが胸に到来した。アルノーは兄を尊敬していた。若輩ながら、家名を更に高めようと生きる兄が、とても誇らしかったのだ。

 だが、違った。訪ねてきた男は、兄では無かった。

 異様な男だった。乾燥した短い髪に、痩けた頬。病的とも言えるような風体なのに、目だけが爛々と輝いていた。顔立ちに見る限り、この国の人間ではなさそうだ。

「やあやあ、何とも高等遊民めいた暮らしぶりで厚かましいことだねぇ。君のことは色々調べさせてもらったよ。いやはや、何とも面白い経歴の持ち主だね。ああいや、まあそれは置いておこう。関係の無い話だ。まあ、それでだね、突然だけれどね、私には研究資金が必要なんだ」

 ノックもせずに部屋に入ってきた男は、挨拶も無く喋り続けた。

「グリルパルツァーはケチな男でね。必要な分は出しているんだから、それ以上を欲しいなら自分で何とかしろって言うんだよ」

 何処の誰で、何の目的で来たのか。

 こちらの問い掛けに返答は無かった。酷く興奮しており、自分の話したいことだけ矢継ぎ早に話して、こちらの言葉など全く耳に届いていない風だった。いや、事実聴いていなかったのだろう。

 数分も経てば、アルノーはすっかりうんざりしていた。職員に頼んで引き取ってもらおうかと考えたが、いくら呼んでも誰も来ない。呼びに行くための脚が無いため、探しにも行けない。

 しかし、鼻を刺す臭いが漂ってきたことで、気づいた。背筋が凍りつき、顔が青ざめた。

 嗅ぎ慣れた臭い。かつては情欲を掻き立てられた、血の臭い。それも、尋常ではない量の。

「ははぁ、分かるもんだねぇ。血の臭いには慣れたものって事かい。処刑人の一族としての感性かな? それとも経験上のものかい?」

 職員や他の入所者達は、既に殺されていた。

 何故殺したのかを問うと、こればかりは男も応えた。あるいは、単にたまたまこちらの言葉が耳に入っただけだったのかもしれない。

「君と違って使い物にならないからねぇ」

 狂人め、と罵倒しかけたが、かつての自分もそうだったことに気が付き、口をつぐんだ。こちらの感情などお構いなしに、男は更に話を続けた。

「君のお兄さんに投資してもらおうと思ったんだが、あっさりと断られてしまった。得体の知れない人間にお金は出せないだって。失礼しちゃうねえ」

 兄の言い分も最もだと思った。だが、それよりも聞き捨てならない言葉だった。兄に何をしたと語気を強くしたが、やはり無視された。

「君の顔、双子だけあってお兄さんとそっくりだね。これなら、入れ替わっても気づかないねぇ……。それで、君が僕らにお金を払い続けてくれれば、全部解決だ。君は返り咲くことが出来るし、僕はお金と研究素体を同時に手に入れられて、大満足。……なに、心配は要らない。優秀なサポーターをたくさん付けてあげるから。ばれないよ。たぶんね」

 彼には男が言う事の、ただ1つも理解が出来なかった。理解したくなかった。何か分からないが、何か恐ろしいことを言われているような気がした。

「君に新しい四肢を授けよう。特別性だ。君もきっと、きっと気に入るだろうよ。ついでに新しい能力も授けよう。頭を弄らせて貰うけれど、構わないね? まあ、ほら、とてもスッキリするからさ、楽しみにしておいてくれよ」

 分からない。理解したくない。この男と話したくない。引き攣るような笑い声と共に耳元で囁かれ、背筋を虫が這い上がるような怖気に襲われた。

「今日から君がアスペルマイヤー家の当主になるんだ。アルノー・アスペルマイヤー君。オルデンブルクの連続殺人鬼君。私の名はマルチェロ・イルデブランド。しがない魔獣研究者さ。今後ともよろしく」

 人生は終わってなどいなかった。

 これから終わるのだと、アルノー・アスペルマイヤーは悟った。



    ※  ※



「やあ、お目覚めかな。アスペルマイヤー君。随分とうなされていたようだが、どうしたね」

 イルデブランドの耳障りな声で、アルノーは眼を覚ました。

 なんだか、覚めることのない夢を見ている気がする。頭が痛い。吐きそうだった。

「……私は何をしていたんだったかな」

「食事会の最中に血を吐いて倒れたんだよ。ほら、連邦捜査官のお嬢さんとか。もうお帰りになったみたいだけれどね」

「倒れた……食事会……」

 そう言われれば、そうだったような気もする。頭の中に霧が掛かっているようで、何もかもが判然としない。

 倒れているあいだ、イルデブランドと出会った頃の夢を見ていたような気がする。夢の中の自分は酷く動揺していたが――今となってはなぜあれほど怯えていたのかが分からない。何かが有ったような気がするし、何も無かったような気もする。

 考えていると、大量の鼻血が流れ始めた。塞き止めようとするが、掌から零れおちた血液で、ベッドはあっという間に赤く染まった。

「む……どうして腕があるんだろうか。無くなった筈なのに……無くなった……無くなった……? どうして無くなった……? 父さん、どうして僕は……」

 混乱が酷く、割れそうな程の頭痛で眼を回した。

 イルデブランドはアルノーの首筋に氣導文字を描き、その上に注射を打った。首筋に拳大程の瘤と血管が浮き上がり、アルノーの身体が一際大きく脈動した。一瞬後には恐ろしいほど静かに正常化し、蛇口を捻ったかのように流れていた鼻血もあっという間に止まった。

「ふむ……もうそろそろ、本当に限界か。じゃあ、君が楽しみにしていたエルフは、私が貰ってもいいのかな?」

 イルデブランドは、声音だけは悲しみを湛えて言った。しかし、その感情が向いた先は、アスペルマイヤーの身を慮ったものでは決して無い。

「限界……」

 それはどういう意味だろうかと、首を傾げた。

「安心したまえ。小娘2人が色々と私を出し抜こうとしているようだが、私だけは君の味方だよ」

「小娘?」

「君には確かヴィルマだとか、ギュンターだとか、そう名乗っていた気がするがね。この際だが言っておくが、あれは偽名なのだよ」

「ヴィルマ……ギュンター……誰だったかな」

「ふぅむ、頭を弄りすぎると駄目だね。実に残念だよ、アスペルマイヤー君。もっとデータを取れれば良かったんだが……データ……データを……」

 イルデブランドは、良案を思いついたとでも言うように破顔した。引き攣ったような笑い声を上げて、顔を覗き込んできた。

「アスペルマイヤー君。最後に1つ、派手に暴れてはみないか? 本来の能力と私が与えた能力、存分に発揮して爪痕を遺してみようじゃないか」

 それは悪魔の囁きに似ていたが、それを判断する能力が、今のアルノーには無かった。



    ※  ※



 車から降ろされた場所は、とある高級ホテルの入口だった。都市郊外に建設された伝統あるホテルで、権力者にとっては色々な融通の利く場所だった。教会を模したデザインは、何処となく厳かな空気を漂わせていた。

 シエラはヴィルマの誘いに乗り、予定通り依頼の詳細を尋ねるべく彼女にサインを送った。近くの喫茶店で朝食を取っていると、早速迎えが来たというわけだ。

 運転手は何処かで見たことのある顔だったが、最初は思い出せなかった。降車の間際に気付いたが、ミネルヴァ社でアスペルマイヤーの秘書をしていた男だった。受付には話を通しているようで、ヴィルマの名を出せば部屋へ案内してくれる、ということらしい。

 赤いカーペットが敷き詰められた廊下を歩き、如何にもスウィートルームらしき部屋へ通されると、そこには3人居た。

 ヴィルマと、2人の男。

 2人の男は暖炉前の椅子に深々と腰掛けていた。ヴィルマはその真横に控え、不動の体制を取っている。

 男達の正体は検討が付いた。ヴィルマの話にも出てきた、警察署長と新聞社代表だろう。どちらがどちらなのかも、一目見れば理解できた。軍隊上がりの氣功士とただのジャーナリストでは、体格が違いすぎる。

 値踏みするようにこちらを観察する男達に対し、ヴィルマは恭しく頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました、グラシエラ・モンドラゴン様。協力して頂けるということで、嬉しい限りです」

「……まあね」

 本当は違うのだが、もちろんそんなことを言うはずもない。

「その2人が例のお偉いさんだとは思うんだけれど、どうして此処に? 依頼の詳細な説明なら、役に立ちもしない彼らが居る必要なんて、無いんじゃない?」

 出来るだけ嫌味ったらしく言ったシエラの言葉に、右側の男は片眉を上げた。プライドの高そうな、巌のような男だ。氣功のためか年齢よりは若く見える。この男が警察署長のヨーゼフ・アルムガルドだろう。

「ふん。流れの氣功士風情が一端の口を利いてくれるものだ」

「その『風情』にあんたらは仕事を頼もうとしてるんでしょ。あんたらが仕事しないから面倒事に巻き込まれてるってのに、そっちこそ一端の口を利いてくれるものね」

 警察署長と新聞社代表。この両名の方針に因って連続失踪事件は闇に葬られてきた。あるいは、14年前の事件も、また。そのせいで多くの犠牲者が生まれたのだ。柔らかく豪勢な椅子に座って対等の口を利かれるだけでも、正直なところ腹立たしい。もっと殊勝な態度というものがあるだろう。

「……貴様ごときに何が分かる!」

 握り締めた手を肘掛に叩きつけて破壊した。警察署長ともあろうものが、随分と余裕の無いことだ。

「よせ、ヨーゼフ。彼女の立場からすれば、嫌味の1つでも言いたくはなるだろう」

 左側の柔和な男は、中年期後半の見た目だった。彼が新聞社代表のルドガー・へーバルトだろう。何処となく気弱そうな印象を受けたが、抜け目無い鋭い瞳がこちらを見据えていた。アスペルマイヤー先代当主の力も有ったとは言え、新聞社で頂点まで上り詰めた観察眼は確かなのかもしれない。

「シエラ様も、どうかご容赦を。お二人とも、今回の件に致しましては、大変心を痛めておりますので……」

 ヴィルマが取りなすように頭を下げる。まだ若いのに、面倒くさい立場で仕事をしているものだと感心した。もちろん、これが本業というわけでは無いだろうが。

 よくよく観察すれば、2人とも疲れが見えるように思えた。疲れ――いや、憔悴と言った方が正しいか。心を痛めている、というのは本当なのかも知れない。

 だが、それは自業自得だ。いくらでも憔悴して、出来るだけ苦しんで死んだ方が世のためだと、半ば本気で考えていた。

「……どうしてマンフリート・アスペルマイヤーを護ったりしてるの? 聞けば、あんた達は先代のアスペルマイヤー家当主と親しかったようだけれど、それだけでこんな犯罪を隠蔽するなんて、どう考えてもおかしいでしょ」

 シエラが問うと2人は押し黙り、慎重に目配せしあった。余人には理解できない感情のやり取りを感じた。最終的にアルムガルドが折れたのか、深々と嘆息した。

「……それを説明するために、今日は君と会うことを決めたのだ」

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徒然旅程 @bagu

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