35話 前編

シエラが留置施設に入れられて、数時間が経った。既に夜は明けているだろう。

傷の回復を促すため、睡眠を取っていた。このような場所に閉じ込められている以上、出来ることはない。自分は何のために此処に居るのかと疑問に思ったが、集中して傷を直せる時間を与えられたと思えば、まだ我慢出来た。どうせ右足が不自由なままでは、クラウディアを探しに出かけられない。

狙い通り、随分と良くなった気がする。ウラルで親友が持たせてくれた薬草のお陰でも有るだろう。すり潰しておいた薬草を傷口に塗りこみ、ガーゼを当てて包帯で固定していた。右腕は既に完治している。右足は未だ時間が掛かりそうだが、昼前には治っていることだろう。

警察の地下、暗く冷たい階段を降りると、現れるのはコンクリートで四方を固めた廊下。天井には白熱電球が点々と頼りない光を放っていた。その廊下の奥深くに、その場所は有った。

だが、留置施設は意外と快適だった。少なくとも、想定していたよりはずっと。

錆びた鉄格子に敷き詰められた赤レンガ、不衛生な側溝、排水口。隅に接地されたトイレからは悪臭が立ち込め、不快なほどに湿気が溜まり、カビと埃がそこかしこを黒ずませる。そんな想像をしていた。留置施設や刑務所にはそのようなイメージが先行してしまう。それは少女時代に読んだ、王国時代を元にした小説の影響かもしれない。王政が倒れ、市民という概念が生まれ、300年の間に高まった人権意識は犯罪者にすら及んでいる。

埃こそ溜まってはいるものの、トイレに付着しているのはサビだけだ。一見汚く見えるが、汚物よりも不衛生とは言えない。

湿気は不快ではなく、壁に生えたカビもそこそこだ。何とも綺麗なものだった。埃の堆積具合から考えて、小まめに掃除されているというわけでも無いのだが。

それらの理由は考えなくとも分かった。

この場所が久しく使われていないからだ。氣功士専用の施設であるという理由のために。

一般の留置施設からは離れた場所に設置されている筈だ。

――そういう意味では、このトイレが本当に使えるのかどうか、少し不安になった。実際のところ、このような場所へ収容されるのは初めてではない。その時はどうだったか。もう覚えていない。

「……平和な都市だったわけだ」

 この留置所が使われていなかったということは、そういうことだ。

もちろん、それは見せかけの平和に過ぎない。少なくとも十数年前と今回で、2度も重大な氣功士犯罪が起こっている。誰もそれを知らないならば、それは起こったことにはならない――などという詭弁は通用しない。被害者はそれで落命しているのだから。

氣功士を閉じ込めておくための施設というものは、もちろん特別性だった。そうでなければ氣功士は破る。鉄格子もコンクリートの厚い壁も、無意味に等しい。そのため、氣功士を拘束する施設には、人が発する氣を抑えるための氣導技術が使用されている。

このような施設に閉じ込められると、氣功士は著しくその力を損なう――という効果を期待されては居るが、全ての氣功士にそうという訳ではない。力の強い氣功士には効果を及ばさないのだ。いや、効果自体は及んでいるが、単に足りないだけだ。より強力な施設を作れば、どんな氣功士でも収容は可能だろう。その場合はクリアしなければならない問題も多い。

詰まるところ、この施設はシエラに無意味と言えた。

順調な傷の治癒はその証左だ。氣を抑制されていたならば、こうはいかない。異能力で治療器具を取り出す事も出来なかっただろう。

此処から物理的に抜け出そうと思えば容易だが、流石にそれは出来ない。

シエラは、手錠を嵌められこそしたが、あくまでも逮捕されたわけでは無い。任意の同行だった。勝手に抜け出してしまえば無用な嫌疑を生むだろう。

任意同行にも関わらず留置施設に入れられているのは、嫌疑の掛かった氣功士へ対するに、誰であっても対等に接する事は危険だからだ。

任意だからこそ、氣功士には求められる姿勢というものがあった。強大な力を有しているからこそ生じる義務とも言えた。任意同行ならば何時でも此処を出ることが出来る。それをしないのは、やはり余計な嫌疑を生ませないためだ。これは力あるものの義務ではなく、氣功士が積み重ねてきた歴史から学んだ処世術の1つだった。力が弱いものに対する配慮を忘れてはならない。そうでなければ、氣功士は魔獣と変わらないのだ。――それ以前に、例え任意と言えど弁護士が随伴していなくては、ただ出て行くだけでも危険と言えた。出て行く途中、警察官に肩を掠めただけで別件逮捕されかねない。氣功士の世間的な扱いというものはそうしたものだった。

最も、任意同行を求めた氣功士が本当に黒だった場合、大人しく従う可能性は高くない。あの場にフェルザー少尉が居なければ、警察はシエラを一時的にせよ見逃していただろう。

フェルザー少尉。

そう、彼は此処に居ない。

前述の通り、強力な氣功士には留置所の封印設備は通用しない可能性が高い。ある程度の力を削ぐ事は出来るが、全ては不可能だ。また、力を封印出来ては居ても、氣功士という人種は目を離すと何をするか分からない。それが事実かどうかはさておいて、強大な力を犯罪に使用する意思を持った氣功士というものは、やはり相応に碌でもない人間ばかりだ。だから、常に逃げる機会を伺っている。裁判になれば氣功士犯罪の大半が死刑判決を下されるという事情もあるかもしれない。

ともあれ、故に通常は見張りを付ける。

今回の場合、流れから言ってその役目はフェルザー少尉が担うと思っていた。氣功士を見張るのは、やはり氣功士で無くてはならないからだ。

 鉄格子の向こうには、監視用の部屋が有る。大きめのガラス張りで、眼を話さなければこちらの様子は丸見えだろう。その部屋には誰も居なかった。電気が点いていないために、肉眼での確認は出来ない。だが、気配で分かる。声の届く範囲には誰も居ない。監視どころか、夜の間に見回りすら無かった。見張る意思を感じられない。シエラとしては結構なことだが、警察機関の体制として甚だ疑問を覚える。

 それは、昨晩早々に留置施設へ入れられた時から感じていた事だ。

取り調べの1つすら無かったのだ。ゲーベル警部補の態度からすれば、休む暇もなく嫌がらせのような取り調べが始まるだろうと考えていたのだが。

氣功士犯罪に対する捜査は連邦捜査官に一任されている。だが、もちろん都市警察にも補助的な捜査活動を行う義務が発生するため、それが行われないのは不自然と言えた。怪我をしたシエラに休む時間すら与えなかったと世間に知れれば、流石に立場が不味いのか。あるいは手負いの氣功士が抑制の効かない可能性を恐れているのか。

留置されている間、そのような思考と睡眠を繰り返し、朝が訪れ、そして――。

「……来たか」

足音が聞こえる。一部の狂いもなく、等間隔で確実に歩を進める足取り。この足音――というより、感覚には覚えが有る。

「酷い姿だ……」

 シエラの姿を見るなり、彼はそう言った。

アデナウアー大尉だ。

旧クロッペンベルクからオルデンブルクへと向かう途中、魔獣の巣の監視鉄塔で出会った軍人。物腰柔らかく、オルデンブルクへと送り届けてくれるなど、世話焼きな男だった。

シュヴァーベン軍人のお手本と言えるようなスタイルは、こんな場所でも崩れない。むしろ、このような場所が似合いとも言えた。対照的に柔和な表情が違和感を生んでいたが、それは彼の美点だろう。

「結構な怪我でしたからね。これでも体裁は整えたんですよ。……それよりも、貴方がわざわざ迎えに?」

 迎えに来るとしたら、アダーかダミアンだと考えていた。アデナウアーが訪れたのは、単純に驚きだった。

 一介の外国人氣功士に対し、大尉が出張る必要が有るだろうか。魔獣退治の件で恩が有るとはいえ、彼も暇では無いだろう。あるいは彼の人柄なのかもしれない。ただ、シエラはそれを無条件に信じるような人間では無かった。

「毎日情報交換する約束だったでしょう。なのに、昨日は電話が無かった。悶々としていたところに、フェルザーから連絡が」

 留置所の鍵を外しながら、アデナウアーは続けた。

「取り敢えず此処を出ましょう。彼の気が変わらないうちに」

 彼とはゲーベル警部補だろうか。

出て行く時に嫌味の1つでも言ってやりたい気分だったが、彼と顔を合わせることはなかった。


--------------------------------------------------------

35話で書こうと思っていた話が長くなり過ぎたので分割。続きは3、4日くらいで(たぶん

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る