44話

 恐るべき怪物。アスペルマイヤーはそう言った。それが自身の根底に存在するのだと。比喩であることには違いない。それが何を示すのか、彼に疑いを持つシエラとアダーにとっては、あまりにも連想が用意だった。

「……それはつまり、自身の犯した罪を認めるということですか?」

 アダーが問うと、彼は笑った。

「罪を犯していない人間など存在しませんよ」

「お友達と同じで詭弁が好きなようですね。何のことか分からないなんて言わせませんよ。我々が貴方に疑いを掛けていることなんて、百も承知のはず」

 その言葉に対し、イルデブランドは嬉しそうに手を叩いていた。檻の向こうで争う動物を見て喜んでいるような、非人間的なニュアンスを感じた。

「詭弁ではありませんよ。事実、そう思うのです。人は生まれながらにして罪を持っている」

「人祖の罪ですか? ビジネスマンはもっと現実主義者だと思っていました」

 私は宗教に興味はないので、とアダーは一蹴した。氣功士に無神論者は多い。少なくとも、現代に至っては。王政期には王権神授説に伴い、氣功士もまた神の使徒であるとされたが、もはや昔の話だ。

「いえ、違いますよ。そのような高尚な話ではなく、もっと人間的な浅ましさの問題です」

「人であることが、既に罪だと?」

「ええ、まさに。人は生まれ落ちた瞬間、死に向かって落ちている。誰かを、何かを犠牲にして生き延びているのです。望むと望まざるとに関わらず、この世に在るということはそのようなものでしょう」

「それは……しかし、それは当然のことなのでは? それを犠牲と言ってしまうことは、罪の押し付けにも思えますが」

「かもしれませんね。……ですが、自分が居なければ生きられた人間が居るかもしれない。そのように考えたことは有りませんか?」

 アダーは眉を顰めた。シエラもまた、訝しむ。この男は、あらゆる人間は生まれながらにして罪人だと主張している。人間を人間足らしめるなにか――シエラをシエラ足らしめる何か、それが既に罪なのだと。正直なところ、だからどうしたという感想しかない。それが罪だとアスペルマイヤーがいくら主張したところで、現行のあらゆる法律がそうと認めていない。罪とは社会が作り出した秩序維持の基準に過ぎないのだ。

「……つまり貴方は、貴方自身がそうであると考えている……ということですか?」

 アダーの表情は、心底理解不能といった調子だった。

「どうでしょうか。私はそれが知りたい。私は存在してはいけなかったのか、なぜ私はそのようにしか生きられないのか……なぜ父は私を…………」

 虚ろな瞳が宙を捉えていた。

 やはり、この男は詭弁を弄しているだけなのだろうか。シエラの胸に、怒りは無い。リーツマンをみすみす死なせてしまった時点で、頭が冷えた。まだるっこしくはあるが――。

 この屋敷の何処かに、クラウディアが捉えられている可能性は――低いだろう。事件の証拠も全て処分してしまっているかもしれない。だが、何処かのタイミングでそれとなく抜け出して、屋敷を調べられないものか。一先ずは会話の中から糸口を探るしかないだろうが。この会話に、意味はあるだろうか。

 事件に関して直接問いただしたとしても、この男はのらりくらりと避けるだろう。名誉毀損で訴えられる可能性もある。

「人は……」

 立ち上がって、シエラは過去を思い出しつつ言った。

「知恵のある獣。私はそう教わりましたけれどね。それが罪であるかとうかなんて、私には興味のない話です」

 暗に別の話をしようと提案したつもりだったが、そう簡単にはいかないようだ。

「成る程、実感を伴っているようだ」

 彼は肩を竦めて言った。

「グラシエラ・モンドラゴン。ヒスパニア出身――と、思われる氣功士。だがその経歴は実際掴みどころが無い。足跡を辿ることが出来たのは、ウラルの王族と親しくなってからの記録だ」

「何が言いたいんですか?」

 疑問を覚えたが、顔には出さなかった。黒鎧はヒスパニア時代、少なくともシエラが師匠に師事していただろうことを知っていた。

「異能力者はその本質を異能力に宿している。貴女の罪は、その能力に現れている。あらゆるものを隠してしまえる貴女の能力は、一体どんな罪を投影しているのでしょうね。そして、その能力でどんな罪を犯してきたのか」

「…………」

 揺さぶりではない。恐らくは質問の延長上にある、単純な疑問だろう。ウラル時代のことしか知らないのならば、幼少期のことを知っている筈がない。

 自分が居なければ、生きられた人間が居るかもしれない。実のところ、シエラには分からない話ではなかった。様々な人間を犠牲にして、今のシエラが居る。それも、普通の人間とは異なる意味合いで、だ。罪の意識が無い――わけではない。ただ、赤の他人によって、それが罪だと罵られる謂れもなかった。

「貴方はどうです? アダー捜査官」

「生憎、茶番に付き合うつもりはありません」

「そうですか。ですが、私は恐らく、貴女よりも貴女のことに詳しい」

「私より……?」

 アダーに関する情報はいくらでも手に入れることは可能だっただろう。家族構成はもちろんのこと、調べようと思えば幼少期に好きだった異性の名前まで調べられるかもしれない。

「貴女の能力、氷の銃剣……それが宿った本当の瞬間を、貴女はご存知だろうか」

「何を言っているんですか……?」

「何も知らないと見える」

「だから何を……」

「貴女が連邦捜査官になったことは偶然だと? 最終的には自分自身で選んだと、そう考えている? 残念ながら、そうではない。有ったはずだ。ダミアン・ハンマーシュミットの勧誘が」

「そんなこと、貴方なら少し調べれば分かることでしょう」

「では、なぜハンマーシュミット捜査官が貴女を勧誘したか。その理由まではご存知ない筈だ。訓練学校卒業間際に、たまたま彼と協力してテロを未然に防いだ。そんな表向きの理由ではない、本当のところを」

 シエラはテーブルの下で、アダーの服を引っ張った。目線で促す。相手の調子に合わせるな、と。心得ているとばかりに、しっかりとした視線が帰ってきた。

 だが、次の言葉でアダーの様子が変わった。

「貴女が能力を発動する時、感じている筈だ。炎を。身を焦がすような恐怖を」

 眼を見開いて、ゆっくりと彼の方を見た。

「燃え盛る炎の中で、まだ何も知らない貴女は何に襲われたのでしょうか。貴女が居なければ生きられた生命というものは、たくさん有ったのでは?」

 アダーの様子が急変した。頭痛がするのか、頭を押さえている。顔色も悪い。物理的なものではない。アスペルマイヤーの言葉に、揺さぶられている。

「貴女の本質は詰まるところ、行き場の無い絶望に支配されている。だから貴女は」

「黙れ……」

 アダーがおもむろに立ち上がった。

「それ以上くだらない詭弁で私を惑わすなら、お前の四肢を切断してから、事件のことを話したくなるまで拷問してやる」

 まるで弓を引き絞るような構えで――いや、銃剣を構えているような体制で、アダーは言った。痛いところを突かれたように、アスペルマイヤーは一瞬だけ顔を歪めた。

「分かっていませんね、カテリーナ・アダー連邦捜査官」

「……何が?」

「私を一時的に拘束しても、お互いに時間の無駄だということですよ。この都市の警察や新聞社は私と親しいし、首都にだって親しくさせてもらっている政治家は何人も居る」

「全てを無かったことに出来るとでも……?」

「それは不可能だ。過去は消せない。ですが、それはただの想いでしかない。人々が眼を背ければ、そもそも知らなければ……それは果たして、本当にあったことなのでしょうか?」

 その瞬間、アダーの眼にどす黒い怒気が芽生えた。

「お前は……!」

 彼女の左手に、氣が収束していくのが分かった。瞬間的な爆発力でもって、何かをする気だ。シエラの経験則から、次の瞬間に何が起こり得るかの映像が、幾通りにも渡って脳裏を過る。

 シエラは咄嗟にアダーの左手を掴み、自身の右掌をぶつけた――瞬間、異様な冷気と共に、右腕が弾かれる。

「――――っ」

 その結果に息を呑む。肘から先の右腕が氷に覆われていた。厚さは数十センチにもなろうか。巨大なスズメバチの巣を装着したかのような見た目だった。温度変化を伴う熱氣功ならば、シエラも高いレベルで使用することが出来る。だが、これは熱氣功に分類される能力を超えている。異能力のレベルだ。詰まるところ、これがアダーの有する異能力、ということか。ダミアンが認めるだけあって、戦闘能力は確かに高そうだ。

 右腕に力を込めると、纏わり付いていた氷が弾けとんだ。右腕が冷たいが、ダメージは無い。

「失礼しました。お話の続きは……どうされますか?」

 アスペルマイヤーへ向けて、シエラは言った。

「……すみません」

 アダーも冷静になったのか、バツが悪そうに座った。自らの行動を信じられないとばかりに顔を覆う。シエラもまた、頭を抱えたくなる。頼りない部分はまだ許容出来たが、今の行動は致命的な失策だ。アスペルマイヤーに、こちらを完全に排除する決定的な理由を与えてしまった。

 だが。

「全てを無かったことには出来ない。アダー捜査官。貴女の行動を法的に咎めることは可能ですが……それは止めておきましょう。何も無かった。少なくとも、我々が眼を背ければね」

 殆ど信じられないことを、彼は口にした。

 悔しそうにアダーは俯いた。テーブルの下で握り締めた拳が、恥辱に震えていた。彼女を辱めるつもりならば、これ以上無いほどに効果的だろう。考えうる限り最悪の行動だったが、最悪の結果には至らなかった。それは良い。こちらにとっても歓迎すべき言葉ではある。しかし、その意図を完全に理解することは不可能であり、不気味ですらあった。

 アスペルマイヤーはアイスバインを切り分け、実に美味そうに頬張った。ルビー色のワインを口に含み、腕を広げる。メイドのヴィルマが、空になったグラスは無いかと気にかけていた。異能力が発動する事態になったにも関わらず、彼女は冷静だった。可愛らしい顔をしているが、やはり、彼女もアスペルマイヤーの兵隊ということだろうか。

「気にせずに食事をどうぞ。私は貴女達の気分を害するために、あのような話をしたわけではないのです。ただ、知りたかった。貴女方の本質を、お聞かせ願いたかった。……本当にそれだけなのです」

 ならば余計に性質が悪い。シエラに取ってみればどうでも良いような話題に時間を取られている。それも、クラウディアを拐った連続失踪事件の首謀者と思しき張本人に。これは一体なんの冗談だろうか。ギュンターの話では、こちらの監視を命じたのはアスペルマイヤー本人だという。こちらを明確に敵として認識しておきながら、一方で世間話のために晩餐会を開く。先程の寛容さといい、正気の沙汰とは思えない。あるいはこちらに対して、明確に己が上に立っていることを誇示したいのか。

「シエラさん、貴女は自身の本質について、どのようにお考えですか?」

 試しにアイスバインを切り分けてみたが、イルデブランドの忠告が頭から離れない。言った本人も手をつけていない。食べているのは作成者本人と、イルデブランドと言い合ったアダーだけだ。そのアダーも、二口目以降を口に運ぶことはしていなかった。臭みが嫌だったようだ。金持ちが好む食事の質は、一般層とは異なる。そういうことか。

「アスペルマイヤーさん……私は自身の本質というものに興味はありません。それが罪深いものだろうがなんだろうが、私は自分の在り方を既に決めています。残念ながら、貴方の力にはなれそうもない」

 シエラの言葉に、アダーも同調して頷いた。それがシエラと同じ意味合いのものかは不明だが、『そんな話題には興味がない』というのが偽らざる本音だろう。

「そして、我々が知りたいのは貴方の本質ではない。貴方を連続失踪事件の犯人として逮捕するにはどうすれば良いかということです。そして、私から拐ったクラウディアの行方も」

 真っ直ぐに彼の瞳を見据え、声を抑えて言った。

「今、此処で、全てを白状するつもりはありますか? 無いならば、貴方を捕まえるための証拠集めに戻りたいのですが、よろしいですか?」

 本来ならば、これを言うべきはアダーの役目なのだろう。だが、気勢を削がれたのか、申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。

 金属音が聞こえた。アスペルマイヤーが、ナイフとフォークを更に置いた音だ。

「……能力者の貴女方なら、私の気持ちが分かるかもしれない」

 そして、ぽつりと呟いた。

「そう思ったのに」

 その瞳は新月の夜ほどに暗く、その声は深い孤独を臭わせていた。これまで見た中で、最も彼の本性に近い何かを見たようにも思えた。声を掛ける――という行為を躊躇わせる何かがあった。

 だが、ふと顔を上げた。まるで少年のような丸い瞳が輝いている。

「…………あれ? 私はどうしてこんなことを訊いているんでしたっけ?」

「……? どうしてって……」

 ふざけているのかと思ったが、心底分からないという風に、首を捻っている。様子がおかしい。先ほどのアダーとは別の、世界が突然変わってしまったかのような困惑だった。

「あっ……ふっ…………」

 そして突如、目や鼻、口から大量の血液を流し始めた。派手に飛び散るのではなく、泥を流したような――あまりにも自然だったので、一瞬理解が遅れた。頭を抱え、その身体は痙攣を始めていた。顔は土気色に染まり――なんだろうか、頭を抱える腕が変だ。妙に長いような――。

「な…………」

 思わず立ち上がった二人を、ヴィルマが制した。

「ご心配なく。何時もの発作ですので」

 心配などは微塵もしていないが、何時もの発作で済まされるような状態とも思えない。明らかに死が近い。そう思わせるには十分だった。

イルデブランドは悠長にポケットを漁り、一本の注射器を取り出した。おもちゃのように、掌の中で回転させている。そして無造作にアスペルマイヤーの首元へ刺した。消毒すらしていない。あまりにも乱暴で、本当に医者なのかと訝しんだが、手つきは確かだった。

 注射器内の紫をした液体が押し込まれると、アスペルマイヤーの容態は劇的に改善した。顔色は元に戻り、ヴィルマが血を拭うと、それらはピタリと止まっていた。10秒も経たないうちに彼は顔を上げ、微笑んだ。一連の流れがあまりにも奇妙で、シエラは思わず言葉を失っていた。

「許してやってくれたまえ。彼は病気なんだ」

 何がおかしいのか、妙な可笑しさを含んだ声音で、イルデブランドが言った。

「失礼な。人を病気呼ばわりするなんて、酷い方だ。貴方との付き合いもそろそろ半年になるというのに」

「はーっはーっはーっ! その通りだ。謝罪しよう。人を病気呼ばわりするなんて、確かに悪辣だったねぇ」

 血液を拭ったタオルが生々しくカートに積まれていた。ヴィルマはそれを気にする様子もなく、

「着替えをなさっては? そのままでは失礼に当たるかと」

 本当に何時ものことなのだろうか。対応が慣れすぎている。

「ああ、そうだね。では、少し席を外しますが……どうか、ごゆっくりお楽しみを。ヴィルマ、お二人のもてなしを頼むよ」

 そう言って、ふらふらとした足取りで退出した。当然だが、消耗している。あの状態は注射一本でどうこうなるものではない。それでも、劇的な改善が見られたことは驚きに値するが。

「これは少し休んだ方がよさそうだねえ」

 イルデブランドも付きそう形で部屋を出た。彼の気質ならば放置も有り得たのではないかと思ったが、流石に医者ということか。

「なんか……よくわからない状況になってきましたね」

「……そうね」

 だが、好奇だ。この隙に屋敷を探索する。何か一つでも怪しい物――あるいは場所を見つけられたならば僥倖と言える。

 問題は、ヴィルマが残っているということだ。彼女を躱してこの部屋を出なければならない。彼女から感じる氣功士としての実力を考えれば、何が起こったのか分からないうちに気絶させることも可能だろうが――。

 そんなことは不必要となる事態が起こった。

「グラシエラ・モンドラゴン様。貴女様に折り入ってお話がございます。よろしければ、私に付いて来て頂けませんか?」

 当のヴィルマがそのようなことを言ったのだった。

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