45話

「こちらです」

 落ち着いた調子で、ヴィルマはその扉を開けた。扉の向こうは階段で、下へ続いている。地下室だ。

 彼女が丸みを帯びた壁の突起に触れると、地下室の白熱電球が速やかに点灯した。氣導術と電気機械技術の組み合わせは、当然ながら値段が高くなる。こういうところは流石に富豪と言えた。

 付いてくるように目線で促されたので、特に逆らうでもなく地下へと降りる。薄い青色の大きなリボンが、彼女の頭頂部で揺れていた。その様子を見ながら、周囲への警戒を続けていたが――なんの気配も無い。

 アダーは先程の部屋で待機していた。誘いを受けたのがシエラ1人ということもあったし、敵の思惑に敢えて乗ることで、何らかの進展を期待したのだ。敵の思惑通りに動くことは危険と言えたが、むしろこちらが断ることこそ思惑通りかもしれない。あるいは、どちらでも構わない策を打っているとも考えられた。

 いずれにせよ、晩餐会へ参加した時点で、敵の手中に収まったも同然と言える。此処へ来るまでに分断される可能性も当然考えていたし、そうなれば個人の判断で動くことを決めていた。

 地下室は一般家庭のそれよりも広く、コンクリート造りで、様々な物が木製の棚に置かれていた。階段を降りて右隣の棚、正面の棚は保存食の棚だ。シュヴァーベンは、その食事情から保存食文化の発展が目覚ましい国と言える。しかし、棚に保管されたジャムやソース、チーズにソーセージ、ピクルス等は、到底アスペルマイヤー1人で消費しきれるものではない。酒はともかく、ジャム等はとても使い切れまい。半年前に夫人と別居した際、使用人も減らしたという話を聞いたが、その名残だろうか。見ると、ジャム等の瓶詰め食品には作成者らしき複数人の名前が書かれているので、そうなのかもしれない。普段遣いするのだろう野菜類は量が控えめなので、その推測を裏付けている。

 左隣の壁には一部、こぶし大の穴が30程度空いている。ワインでも保管しているのだろう。穴の空いた壁の隣には、その他酒類が棚に陳列されていた。

 日頃から手入れされているのか、埃っぽさとは無縁の空間だった。

 やはり、地下室に誰かが潜んでいる気配は無い。氣導文字が巡らされているような様子も無い。だが、油断は出来ない。ベッカーの首が放置された際、ダミアンはその足取りを追えなかった。ダミアンの異能力は極めて高い追跡能力を誇る。それが通用しなかったのだ。隠れようのない地下空間で、堂々と姿を隠している何者かが居る可能性は十分に有り得た。

地下室の中央付近まで歩み出ると、ヴィルマは殊更にゆったりと振り返った。黒地のドレスがふわりと揺れる。

「警戒されなくても、あなた方に危害を加える意思は、こちらには有りません」

「そう? あの黒鎧には随分と痛い目に合わされたんだけれど」

 一応の牽制で言ったのだが、

「必要が有るならば、謝罪致します」

 ヴィルマは否定しなかった。シエラは片眉を上げ、意図を図ろうとしたが――どうにも読めない。

「連続失踪事件やクラウディアの拉致を認めると?」

「仰る通りです。全ては我が主、マンフリート・アスペルマイヤー様の主導に因るものです。私も当然、関与致しております」

「…………」

 思わず絶句する。さらりと述べたが、恐るべき事を話している。同じ驚きは先程も有った。車内でのギュンターとの会話だ。彼女は主の行っている事を知らないという前提の下で、こちらへの協力を匂わせるような発言をした。だが、ヴィルマは違う。これは明確な密告だ。

「……主を裏切ると?」

「彼は殺し過ぎました。この歪みは何れ大きな破壊となって、この都市を覆い尽くすでしょう。それを主も、あのイルデブランドも理解していないのです。……彼らにとっては、そんなことどうでも良いのかもしれませんが」

 イルデブランドも共犯ということか。いや、分かりきったことではあった。彼の周りに存在する氣功士全てが敵だと考えるべきなのだから。

「それで……話っていうのはその事……だけじゃないわよね」

 それだけならば、わざわざこんな場所まで降りてくる必要は無いだろう。連邦捜査官であるアダーが居る場所で話した方が早い筈だ。そうしなかったということは、アダーの前では出来ない話、ということだ。

「お察しの通りです。つまり、貴女には連邦警察との捜査から手を引いて頂きたいと考えております」

「手を引く? つまり、これは交渉ということかしら?」

 シエラの言葉に、ヴィルマは頷いた。

密告であるならば、話をするべき相手が違う。密告ではないから、アダーの前では話さなかった。シエラだけに行いたい取引であるからこそ、シエラのみを呼び出したということか。

「正直なところ、我々は貴女と事を構えたくないのです。我々が動くに当たって、我が主の主戦力を退ける程の氣功士と事を構えるのは、消耗が激しいと考えております故」

「……人を襲撃しておいて、よくそんなこと言えるわね」

「それに関しましては、マンフリート様の指示が関連しておりますので……。我々も逆らうことは出来ません。申し訳ありません」

 頭を深く下げて謝った。だが、彼女は心底申し訳ないと感じている訳ではないだろう。交渉しているのだ。交渉術の一環に過ぎない。

「あの黒鎧は、1人じゃないって話だけれど」

 クラウディアを拐った者もまた黒い鎧を装着していたという話だ。あのレベルの実力者が複数居るならば、消耗など考慮する必要はあるまい。そう言えば、その証言を遺したリーツマン殺害には氣導術師が関わっていた筈だ。やはりヴィルマがそうなのだろうか。

「全てをお話する訳には参りません。遭遇した事態の理由は、ご想像にお任せ致します」

 感情の読めない瞳がこちらを見据えている。堂に入っていると感じた。幼さを遺した容姿ではあるが、実際のところ年齢は不明だ。30代でも10代と変わらない容姿を維持する氣功士も存在する。ともあれ、相当の場数を踏んでいると予想出来た。生半可な揺さぶりでは根を上げないだろう。

「それで、手を引くとして、私に何のメリットが?」

 利益が無いならば、交渉に応じる必要が無い。そんな事は当然だし、問いながらも提示されるメリットは予想が付いていた。

「クラウディア様をお返し致します」

「……生きているのね」

「ええ、今はまだ」

 シエラの態度如何ではその限りではないと、言外に滲ませていた。だが、まだ生きているという事実だけで、少しだけ安心できた。

「手を引くだけでクラウディアを返してもらえるっていうのも、美味し過ぎる話ね。私に何をしてほしいの?」

 そもそも、クラウディアを返してもらったならば、シエラが律儀にヴィルマとの約束を護る意味は無い。アダーやダミアンに協力するだろうし、そもそも手を引けばクラウディアとの依頼が果たされることはないだろう。クラウディアは1人でも親友を探すだろうし、そうなれば再び捉えられるかもしれない。まだ彼女とは数日の付き合いだが、それを見過ごせるような人間でも無かった。

「お話が早くて助かります。シエラ様には是非、我々に協力して頂きたいのです。この都市を渦巻く混乱を収めるために」

「……その『我々』っていうのは誰のことを指すのかしら」

 先程から、ヴィルマはアスペルマイヤーと自身の所属を明確に分けたような話し方をしている。既に心はアスペルマイヤーから離れているのだろうが、だとすれば今の彼女を動かしているのは誰だろうか。

「貴女に私との協力を取り付けるように命令したのは、誰?」

「それは……」

 ヴィルマはやや躊躇った後に、仕方なくといった風にその名を出した。

「……オルデンブルク警察署長のヨーゼフ・アルムガルド氏。そして、オルデンブルク新聞社代表のルドガー・ヘーバルト氏。このお二人です」

 どちらも聞き覚えのある名前だった。アルムガルドの名は特に。その両名は連続失踪事件の隠蔽に加担している者達のトップだ。それがどうして今更、アスペルマイヤーを裏切るような真似をするのか。

「お二人共、真にこの都市の行く末を案じる方々でございます。そもそもお二人は、アスペルマイヤー先代当主、ルーカス様と幼馴染であり、強い親交を結んでおりました。……彼の死因をご存知ですか?」

「自殺だって聞いたけれど……」

 先代当主のルーカス・アスペルマイヤーは10年前に自殺した。14年前に起こった旧連続失踪事件の様々な補償を終えた後、短剣で心臓を貫いて死んだのだ。

「遺書にはお二人に当てたものもございました。御子息であるマンフリート様を支えて欲しいと……。ですので、我が主が凶行へ走った後も、その隠蔽に手を染めてしまったのです」

 人には何をしてでも護りたいものがある。アルムガルドとヘーバルトにとって、それはルーカスとの友情だったわけだ。

「ですが、マンフリート様はやり過ぎました。レオン・ベッカー様の件はご存知のはず。もうこれ以上は犯罪に加担できないというのが、お二人の意思です」

「身内に犠牲者が出ると、早いわねえ……」

 ダミアンはその自浄作用に期待していたような口ぶりだったが、これは果たしてそうと言えるのだろうか。何処までも欲望が連鎖しているようにも思える。

「でも、その2人が希望している解決方法も、決して合法とは呼べないわけでしょう? それに、2人共、結局は隠蔽に加担していた事実を葬りたがっている」

 そうでなければ、アダーに話を持ち掛ければ良いのだ。それをシエラにのみ持ち掛けたということは、つまりそういう事だろう。

「都市が混乱に陥ることは避けたいというお気持ちを、どうか察して頂けませんか?」

「……それはつまり、連続失踪事件そのものを無かったことにする、という訳よね」

 都市の混乱を避けるというならば、それは絶対条件だろう。アスペルマイヤーがそんなことを主導していたとするならば、途方もない混乱が都市を襲うはずだ。いや、この都市のみならず、シュヴァーベン全土が、と言っても過言ではない。アスペルマイヤー家の権力、ミネルヴァ者が消費者へ提供してきた影響力というものは、それ程に大きい。

「で、私は何をすれば良いの? アスペルマイヤーを殺せば良いのかしら」

 何でも屋として活動してきたシエラは、これまでにもそのような仕事を果たしたことがある。依頼内容に強く納得できる要素が有れば、の話だが。なので、十数人を殺害したと思われるアスペルマイヤーの殺害、それ自体に躊躇はない。

 だが、その場合はダミアンやアダーを最悪の形で裏切ることになる。それを良しとするほどに、シエラは社会を憎んではいなかった。その代わりに、クラウディアは死ぬかもしれない。それもまた許容出来るものではない。難しいところだが、選択肢がそれしかないならば、シエラはクラウディアを選ぶだろう。

「ご安心ください。まだそこまでは考えておりません」

 シエラの胸中を読んだかのように、それまでとは変わって柔和な顔で――恐らくは安心させるために――ヴィルマは言った。可愛いく整った、少し幼い顔立ちも相まって、普通の状況ならばそれは効果的なのかもしれない。だが、殺害も視野に入れているということを、彼女は平然と口にした。

「シエラ様には、マンフリート様が別の犯罪に加担しているという証拠を揃えて頂きたいのです」

「別の犯罪? 連続失踪事件に飽き足らず、他にも何かしてるの?」

「はい。とはいえ、こちらは恐らく、会社としての犯罪ということになります」

企業と言えば、ある程度は付き物と言える犯罪なのだろうか。いや、全ての企業がそうという訳ではあるまい。シエラも詳しくはないが、ミネルヴァという大企業が、果たしてそのような事をするだろうか。逆に、大企業だからこその話なのだろうか。

「一体何を? 脱税とか?」

「いえ……。都市の北東に食肉工場があることはご存知ですか?」

 ミネルヴァ社を訪れた際、アスペルマイヤーは屠殺場の視察を行ったと話していた。その工場の事だろうか。

「その工場に半年前、新しい建物が増設されたのです。食肉工場に関係するものではなく、中で何を行っているかは誰も知らない、何の施設か分からない。そういう場所です。存在を知っている者も限られるでしょう」

「それは……つまり、貴女でもそれが何か分からないということかしら」

「……私はマンフリート様が起こした事件の後始末を行っております。その私も知らない施設です。ですが、妙なお金の流れがあることも確かです、その施設には多くの予算が割り当てられておりますが、どうも不明の場所へ送金も行っているようなのです」

 連続失踪事件に関与しているヴィルマですら知らない謎の施設。それは確かに別の犯罪に使用されているのかもしれない。

「その施設へ侵入して、犯罪の証拠を掴んできて頂きたいのです。それを理由に、マンフリート様をミネルヴァ社から引きずり下ろせるかもしれない。お二人はそう考えております」

「そして……その施設で行われていることが、連続失踪事件と同じくらい悍ましいものなら、殺すしかないと。そういうことね」

 ギュンターは、目して恭しく一礼した。

「何卒、一考頂ければと存じ上げます」

 天使のように可愛らしい彼女だが、その背中には悪魔的な何かが羽を広げているようにも思えた。少なくとも、彼女はまともな人間ではない。まともな氣功士ですら無いだろう。そういう意味ではシエラと同じだ。そもそも命令とは言え、アスペルマイヤーの犯罪へ加担している時点で、普通の精神構造をしているとは思えない。

 シエラは長く息を吐いた。そして、考える。自分がどうするべきなのか。

「……直ぐには答えられないわね」

「この場で答えを出せとは言いません。ですが、お急ぎください。先程の通り、マンフリート様の容態は……今日は決して良く有りません。あくまでも、今日は」

 それはつまり、今日はクラウディアが命を落とすことは無い、ということだろう。

「あと数日はこちらで行動を抑制することも可能ですが、なにぶん気まぐれな方なので、どうなるかは分かりません」

「……分かったわ。考えて、明日にでも返事をしましょう」

 ギュンターは控えめな笑顔を浮かべた。彼女のことを、何も知らないままその笑顔を受け止めたかった。

 ふと気になって――いや、良く考えれば、これを第一に聞かなければならなかったのだ。そして、その件もまた、ヴィルマが交渉材料に付け加えていなければおかしい。詰まるところ、それは――。

「アンジェリーナ・アルベルト氏の妻を……セルウィリアというエルフの女性を誘拐したでしょう。彼女は……どうなったかしら」

「……申し訳ございません。既に死んだものとお考え下さい」

「…………」

 ふいに、クラウディアの笑顔が頭に浮かんだ。セルウィリアというエルフについて語った時の笑顔だ。その笑顔を見ることはもう無いのだと確定して――少しだけ、悲しくなった。

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