影の道、忍び手向ける死出の華
*****
荘厳な大聖堂の中へ、数百の王侯貴族が弔いの黒衣をまとい消えていく。
西王国の首都は喪に服すように静まり返り、未だ宵の口にも関わらず、通りから活気は失せていた。
酒場はどこも経営を二日間の間自粛する事を決め、その二日間――――市民は、酒を断って彼の者の冥福を祈ると誓い合った。
大聖堂内部の正面には、祝福を受けて生まれたとされる西王国の開祖、“聖王”の誕生を象ったステンドグラスが輝いていた。
大司教の前には王家の紋章旗で包んだ棺が安置され、いくつもの祈りの言葉を重ねて、その昇天を惜しむ。
長椅子に腰掛けるは王侯貴族達、後方に立ち並ぶは団長を初めとする聖騎士団員達。
離れて、旅立った者の父母が近衛を伴い、そこに在る。
“王”と、“王妃”。
“王”の威厳に、陰りはない。
自らの子の一人が、若くして世を去ってもなお――――たたえた口髭の中で、恐らくは哀しみを噛み殺して、その目に力強さを宿したまま、じっと前方の空間を見つめる。
しかし“王妃”は、違う。
顔を覆うベールの中に涙は隠されていたが、こらえ震える肩は彼女の心を物語る。
血を分けた第三王子の、惨すぎる死。
彼は――――遠く離れた地で、暗殺者の
そして、大聖堂を遠く望む、市井の屋上に佇む黒衣の影がひとつ。
「……安息せよ」
影は一度だけ……胸の前で手を合わせ、一礼し、頭を上げると同時に飛び去った。
*****
とうに朽ち果てた城郭の廃墟があった。
付近一帯は荒廃しきっており、伸び放題の草木はもはや並みの人間の背丈ほどまで茂っており、かつて領民が住んでいたと思しき廃墟には、湿地帯の饐えた臭気が漂う。
枯れ草が泥に溶け込む腐臭の中、そこに未だ、城が立っていた。
それを囲む城壁は崩壊しており、機能はもはや果たされる事は無い。にも関わらず――――城内には、灯りがあった。
付近を徘徊する魔物は、その
その内に潜む、邪となった眷族達を、よく知っているから。
時には邪悪な魔術の触媒とするべく、沼地に潜む
沼地の魔物達は決して城には、近寄らない。
――――そこに潜む“邪妖精”達に、骨の髄すら残さず貪られるからだ。
城内の荒れ果てた応接室に、“闇”が座っていた。
粗末な椅子に腰かける、恐らくは“男”の背後に二つの燭台があり、煌々と照らしているのに……その姿は、指先すらもまるで見えない。
光を吸い込む、影の塊。
その前にこちらは蝋燭に照らし出されるままに、若いダークエルフの男が二人立っていた。
緊張しきった表情には、かすかに“恐れ”が混じり、蒼い唇からは更に血の気が失せていた。
二人の男のその様子をひとしきり楽しんだか、“影”の男は口を開く。
「ホゥ、ホゥ……遂げたか、やりよる。それで……どうじゃったね、感想は?」
ゾッとするように冷たい声色と、好々爺のように砕けた口調。
二つが入り交じり油断ならない怖気を振るわせ、さして広くもない部屋の中に剣呑な空気が満ちる。
二人のダークエルフは、一刻も早くこの部屋を去りたい衝動に駆られ、会話を少しでも早く打ち切るための言葉を探した。
「……は、確かに……仕留めたかと」
「同じく……」
二つのさしさわりのない言葉に、“影”は喉の奥で笑みを殺した。
「……そうではない。ワシの……“
二つの光源は、二人のダークエルフを照らし、背後に影法師を伸ばしている。
それなのに、座っている“影の男”には……床に落ちる影がない。
一塊の闇が人の姿をなし、言葉を発しているかのような不気味さがあった。
男達は、あらためてその異様な状況を心に留め、返答した。
「……ええ、族長……アランスレグ様。“消滅毒のダガー”は……驚くべき効果でした。腹を突いただけなのに、四肢と頭部を残して胴体は消滅。残った手足の断面からは血の一滴も出てはおりません。まるで……胴体そのものに繋がっていなかったかのように。手足自体がもともとそれだけで存在していたように。あれは……」
「ホホホ、中々じゃろう。……まぁ、それはええじゃろうよ。それにしても、アエンヴェルめにはガッカリじゃな。聖剣封印も成らず、ワシの作った星も行方知れず。……まぁ、フラウノールには誰も勝てん」
「……? では、何故アエンヴェルを……」
「フラウノールめが鈍るか、アエンヴェルが相討ち、いやさ心中を図るか。どちらかを期待しとった。……勝てるとも、殺せるとも思わんかったがよ。どちらも外れよったわい。シュ、……フシュシュシュ……」
“影の男”アランスレグはそう言って、切り裂いた喉から空気が漏れるような、およそ認識できないような哄笑を上げた。
己の予想も、計画も、何もかもがふいになったというのに、その己の無様さを嘲笑うように、心からの
「まぁ……分かったわい。オストフェア、お前は下がれぃ。……ラスマイグ、お前にはもう少し話を聞こうかの」
ダークエルフのうち、一人は安堵とともに部屋を出て。一人は、それを恨めし気に思いながら、直立不動のまま彼に対面するしかなかった。
ラスマイグと呼ばれた、居残りを命じられたダークエルフの顔にはもはや青白い肌色なりの生気はなかった。
この“影の男”、アランスレグの前に立つという事は、この世界の何者にとってすら綱渡りなのだ。
「お前さん、ワシが何故怒っとるか、分かるか?」
「は……いえ……」
「…………そうかそうか。じゃあワシがひとつ、昔話をしてやろうな。楽にせぃ」
暗褐色の肌に、深く刻まれた皺の走る
ダークエルフが族長の一人。
“
彼の種族の用いる転移魔術、“
「むかぁし、むかし、あるところに。若いダークエルフがおりました。彼は暗殺の技をいくつも修めた優秀、俊敏な暗殺者じゃったが……一度だけ失敗を犯しましたと。――――見られてしまったのじゃ」
「なっ……アランスレグ族長! 私は誓って顔など見られては!」
「顔など見えずとも十分。顔を隠したところで、肌と髪色を
「ぞ、族長……!」
「族長などと呼ばんでいい。お前は、追放じゃ。……消えぃ」
「そんな、族――――」
苦悶も、怨み言も、泣き言も言えないまま……ラスマイグの体は、深い穴に落ちるように消滅してしまった。
その足元にはアランスレグの足下から伸びる、地虫の大群にも似た黒影が伸びていた。
アランスレグの蠢く影が再び縮むと――――ラスマイグの立っていた場所には、何も遺されてはいなかった。
一度だけ。
深い水底から浮かぶ水泡の弾けるような、ごぽっ、という鈍い音だけが、アランスレグがまとう闇の中から響いたきりで。
*****
「……オストフェア、気に掛けるな。姿を見られたのは
任務から戻り報告を終え、食事を取っていたオストフェアの前に同胞の一人が座り、彼に付き合い話し込んでいた。
沼地に生息する魔物の肉を茹でただけの
「…………アドラヒス。お前、は……恐ろしくないのか?」
「……族長の事か? 壁に耳あり、という“
疲れ切った体、疲弊した精神は任務によるものではない。
ただアランスレグに報告した、数分間の緊張と恐怖がそうさせたのだ。
二つの光源を背負っていながら、ダークエルフの
ほんの一瞬だけ見えた顔も――――爛々と輝く眼と、刻まれた皺だけ。
それが逆に恐怖を煽り立てた。
加えて、何よりも……ともにそこに立ったラスマイグは、扉の中から出てくる事はなかった。
「私は……恐ろしいのだ。アランスレグ族長の貪欲な“影”が。あのお方は本当に……我らと同じ種族なのか?」
フォークに刺さっているのは、繊維のほぐれ具合だけを見れば鳥のささみに見えた。
オストフェアはろくに喉を通らぬ有り様で、幾度も葡萄酒を傾けて喉に詰まらせながらそれを流し込む。
「
「何だ……アドラヒス」
「耳を澄ませろ。沼地に潜むギガントードどもが……妙に静かだと思わないか」
そう言われ、静まり返った部屋の中、崩れた壁から聴こえる、外の沼地の調べに耳を傾ける。
普段は、遠巻きに城を囲む巨大な蛙の魔物、ギガントードの低くふくれた醜い声が聴こえるはずだ。
水屍人のうめきもなければ、ハルピュリアの甲高い声も、手足のない低級の竜“ワーム”が木々を薙ぎ倒す音も、聴こえてこない。
「……静まり返っている。これは……こんな事、今までには……」
沼地そのものが息を潜めるような異質な感覚は、およそオストフェアの経験したところではない。
いかなる時も、沼地は静まらない。
苛酷な生存競争を繰り広げる、その環境と同じく陰湿な魔物達が沈黙する事など一度もなかったのだ。
「アドラヒス。これは……アドラヒス? どうかしたか」
ふたつめの異変。
アドラヒスは、杯を捧げ持ったまま、俯いて動かない。
怪訝に思ったオストフェアが肉の刺さったままのフォークを置き、手を伸ばすと。
――――届く前に、対面の男は頭からテーブルの上に倒れ伏し、食器を薙ぎ倒して動かなくなった。
その首から後頭部にかけて十字型の金属片が三枚、深々と突き刺さっているのを認めた瞬間オストフェアは弾かれたように椅子を引き、短剣を引き抜き、残る片手で印を結び、周囲に目を光らせた。
その動作は一瞬の更に半分の時間で行われた、のに。
立ち上がると同時に、喉首を冷たい何かがすべり抜ける感触があった。
火花の散るような鋭い痛み、ひどい熱さは、その次。
首から噴き出る鮮血の音を聴いたのは、足もとの感覚が冷えて奪われてからの事だった。
短剣を取り落とし、あてがった掌から伝わるのは命の流れ出ていく感覚。
「か、はっ――――ひゅ――――」
倒れる音、喉から漏れる空気の、笛のような音。
それらが自分のものであると気付けないまま――――オストフェアもまた倒れ、動かなくなった。
「――――御免」
その声も、また……誰のものか、気付けないまま。
*****
かつて、一人の温和なダークエルフがいた。
彼は、もはやエルフ達と同じにはなれなくとも、せめて共存する事ならばできると信じ、その道を模索していた。
だが、世界は彼から優しさを――――無慈悲に取り立てたのだ。
彼が表舞台から姿を消して、数百年後。
ダークエルフ達は、“影”を渡る秘術を手に入れた。
更に、千年後。
ダークエルフ達は、万象を暗黒の彼方に吸い込み葬り去る最悪の魔導器を手に入れた。
その“鷹の眼”に浮かぶのは底なしの闇が浮かび、あふれ出した闇はもはや彼にぴったりと貼り付き、常にその身体は影に覆われているとも。
彼こそを真祖であると。
ダークエルフを正真正銘の“闇の存在”へと堕落させた者であると信じる者は少なくない。
「……フ、シュシュシュシュッ……随分と、血の匂いが濃ゆぅく匂ってきおるわ。懐かしいのう……血など嗅ぐのは何千年ぶりかよ」
真祖と呼ばれた男――――アランスレグは、崩壊した壁から覗く月明りを存分に浴びながら、最上階の回廊で待っていた。
だんだんと、近寄ってくる――――“血”の気配を。
足音すら聞こえない暗闇の中に、研ぎ澄ましたような、鋭く長い針のような殺気を感じ取り、アランスレグは手近な瓦礫を椅子代わりに、回廊の奥からやってくる“それ”を待ち望んだ。
数秒して――――闇を裂いて飛来物あり。
合わせて三つの、獰猛な刃がアランスレグの顔面の在る場所を目掛けて。
だが、届く事は無い。彼のまとう“影”が起き上がり、三本の細く刺々しい腕を形成し、その三本ともをそれぞれ掴み止めた。
刃はどれもが同族の使う、ねじれた短剣だった。彼は、それぞれの持ち主の名前すら、その持ち手にしみついた癖で把握する。
「……アドラヒス、メランディア。……エルゴスラスをも倒したか。ホホッ、やるの。姿ぐらい見せぃ、命知らずの
空に浮かぶのは、黄金の瞳のような満月。
投げかけるその眼差しを、正面から見据えるようにして――――襲撃者の正体が明らかとなった。
全身を覆うぴったりとした黒衣と、目もとだけを覗かせる頭巾。
両肩から太ももまでを覆う擦り切れた外套は、腰の後ろにあると思しき剣のシルエットを浮かせて膨らんでいた。
どこまでも個性を殺した、面白みもない暗殺者の正装。
それが、アランスレグによる第一印象だった。
「若かろうに、面白くない恰好じゃ。……どうせ名は明かさんだろう。ならせめて目的ぐらい名乗ったらどうじゃね。人違いじゃなかろう?」
“暗殺者”らしからぬ佇まいで、堂々と――――月明かりに照らされ、恐らくは暗殺対象の前に姿を現す姿は、どこか厳かにも見受けられた。
それは……返した、声にも。
「――――アランスレグ殿に相違ないのであれば。
無音で、暗殺者は刀を抜く。服の立てる衣擦れの音すら葬っているかのような、音のない世界の住人であるかのような、そんな滑らかな仕草だった。
闇の中、そして外套の中で行われた動作なのにアランスレグにははっきりと感じ取れている。
「フシュシュッ……男らしいのぅ、今どきの若い者にしては……な」
飛びかかったのは――――男ではなく、アランスレグ。
「ホゥッ!」
月に照らされ、アランスレグの姿が明らかになる。
細い白髪、目にまでかかる
ダークエルフにおいてなお、老齢と称せるほどの外見だが――――若き猛獣そのものの速さで暗殺者の喉へめがけ、
だが、暗殺者が取った行動は回避ではない。
逆手の刃で、逆に踏み込みながらアランスレグの首を狙い刃を滑らせる。
狙いは恐ろしく正確にその腕の上を滑空し――――切り裂く、筈だった。
「ヒハッ!」
調子はずれの呻きとともに、しかしアランスレグは影へと溶けて消える。
彼自身が考案し、磨き続けた影の秘術。
“
嘲笑うように再出現したのは“暗殺者”の眼前、柱の影から。
今度こそ、と――――深く切れ込んだような笑顔を浮かべ、腕に影を同化させて巨大な鉤爪を練り上げ、その上半身を千切り取ろうと払われた。
黒影の巨腕は呆気なく、それを叶えたように思われたが、違う。
爪の先にかかったのは外套と、装束の上衣のみ。
「――――何?」
右腕を振り切ったままの姿で驚くも、その声はいたって平静。
驚きは、渾身のカウンターを外した事ではない。
身体が――――動かないのだ。
「まさか、の」
アランスレグの目の前に、男は佇んでいた。
上半身は袖のない鎖帷子と手甲のみの姿で、間に合わず切り裂かれた頭巾からは精悍な、頬のこけた黒髪の
腕は細くしなやかながらも鍛えこまれている事が
腰後ろの黒い艶消しの柄を持つ刀はゆるやかな反りを持つ鞘の先端が、左腰へ垂れている。
何より異質なのは、その眼光だった。
一切意思なく闇を湛え、それでいて力強い眼差しは――――よどんだ影のものではない。
鋭く研ぎ澄まされた、
「驚いたわ。まさか……貴様、
なおも動けぬアランスレグは、眼球だけを動かして男の姿を見て、驚愕の声を上げる。
その、月光に落とされた影には……十字型の投擲武器が突き刺さり、その影を縫い止めていた。
「……
“忍者”キコクは、その相貌に見合った冷淡な声でそう名乗った。
「はて。――――東の“龍国”と言えばもう島ごと呑まれたと思うたが……はてはて。意趣返しをしとうてか? ならば見当違いじゃ。ワシは関係ないぞ」
「に、
「……さての。何のことやら、さっぱりじゃ」
「とぼけまいぞ」
「…………だったら何だという。お主に何の関係がある?」
鬱陶しがるように、未だ“影縫い”に囚われたままのアランスレグは訊ねる。
「王妃は、我が主君の大恩人
もはや用をなさない頭巾を解くと口もとを隠すように巻き直し、手が刀の柄にかかる――――その刹那。
「詠むのはキサマじゃ、若造。――――ヒョゥッ!!」
“影縫い”の術をかけていた手裏剣が――――影の中へ飲み込まれ、消えた。
自由を取り戻したアランスレグは再び、
動きの鋭さは、桁違いの老人とは思えぬほどであり、目で追う事すらできない。
だが、“忍者”には、その全てが追える。
大陸のはずれ、海を越えた先にある島国――――“龍国”。
そこに研鑽を積む、比類なき隠密の一派あり。
影を友とし万里を駆け、その忠節は自害すら厭わない。
秘伝の術を操り、諜報、暗殺、工作とこなし……時には、ただ一度の戦のためだけに生涯の半分を敵国に潜伏する事も珍しくはない。
神秘の技、強靭な精神、高度な体術、天候を読み取り計算する術理。
それらを総称して、こう呼ぶ。
――――“
キコクの眼には、全てが見えていた。
アランスレグの体捌きも、太刀筋も、物影へ飛び込む蜘蛛の足跡も。
――――足元を這う、貪欲な《影》も。
「ヒャハッ!」
キコクが飛びのいた途端、足元に向かって伸びてきていたアランスレグの影がざわめき、そこにあった瓦礫を飲み込んだ。
更に、壁、床、天井にいたるまで――――アランスレグの影が多頭竜のごとく枝分かれして――――その着地を、蹴って逃れる壁を、手を突いて反動をつける天井を塞ごうと先回りする。
それにとどまらず、己自身の手で引き裂くべくアランスレグも追って跳躍する。
老獪、慎重かつ念入りな戦術だった。
それは――――彼にとってすら初めてとなる、“忍者”との交戦への警戒があった。
「――――“影の歩み”の応用にござるか」
触れれば即死、蹴る石床を寸毫でも外せば終わりの回避の中でキコクは冷静に頭を働かせていく。
“影”を愛したダークエルフのこの術は――――何の事も無い、彼自身の生み出した秘術の応用だった。
違いは自分の影に相手を飲み込み、消す事。
そして――――二度と、出る手段はない事。
「フシュシュシュ……。ずるいかの?」
「――――
回避に専念し、回廊の行き止まりへ向けてキコクは跳んだ。
外へ逃れる、と見せかけての――――壁を蹴り、反動でアランスレグへ強烈な反撃を試みるべくだ。
「そんな手、読んでおらぬと……ぐはっ!」
「ッ……!」
それは、己の命を考慮しない攻撃。
読まれている事も承知の上。即死の影を踏む事だけを避け――――脇腹を抉られながらの、斬撃だった。
それはアランスレグの胸を裂き、初めて――――白髪白髭、影をまとうダークエルフの体に赤が刻み込まれ、噴き出た。
だが、キコクも無傷では無い……どころではない。
脇腹は肉が千切り取られ、どくどくと血が流れ――――立っている事すら不思議でならないほどの、歴然たる致命傷だった。
「ぐ、かっ……! 捨て身……捨て身、じゃと……!? どうかしておる……!」
「それ、が……忍びの道……なれば」
「キサマ……死ぬぞ……?」
「左様。余命は
吐血を挟みながらも言葉は続く。
キコクは――――痛みを感じていない。
精神統一により痛みを消し、死を忘れ、命を先細らせるのではなく、命を凝縮して最期の瞬間まで刃を離さぬ、無の境地に至っていた。
「フシュッ……だが、分は……ワシにあるの」
見渡せば、もはや回廊に残っていた瓦礫、調度品の数々はすべてアランスレグの影の中に飲み込まれていた。
天井からは“影の雫”がしたたり、壁に広がる沸き立つような影は尚も残る。
地獄の釜そのものの様相は、あとは床を残すのみ。
「――――気付かぬか」
「ムッ……?」
「お主の貪欲なる影は面を滑るのみ。……中空にその支配は及ばぬ」
ようやく、アランスレグは気付く。
鼻の奥に――――妙な匂いがまとわりついている事に。
キコクが口と鼻を覆ってきつく巻き直した頭巾の、意味とに。
「――――忍びの風下に立ったが、
両手の印が結ばれる事が――――それらをきっと、結実させると。
だが、全ては遅い。
「忍法――――
影に支配された暗黒の回廊が――――火花の直後、存在を失った。
手甲を打ち当てた火花がキコクの空中に撒いた火薬粉に引火し、爆炎を上げ――――廃城の回廊は炎熱地獄と化す。
「っ、ガ、アァァァァァッ!」
引火の瞬間、覆うのが間に合わず鼻に吸い込んだ火薬にも火が追い付き――――アランスレグの気道、粘膜を焼いた。
腫れて塞がる気道は呼吸を妨げ、操影の秘術は制御を失ったのみならず――――大火は“影”そのものを、掻き消してしまった。
影がないから――――影が、使えない。
それは、自明の理だ。
アランスレグはそれでも、意識を失わない。
気の遠くなるような痛みと、皮膚を焼き爆ぜさせる炎の海の中、冷静にキコクの姿を探す。
眼球からも水分が蒸発していき、もはや左の眼は何も映さず、残る右目ももうじき、消える。
(何処、だ……どこに……!)
前方は、特に火の勢いが強い。
無意識のうちにそこを避け、錯乱していた一瞬の隙に背後を奪われたのだと判断し、振り返った。
その、瞬間だ。
「忍法――――
逆手の抜刀、
それは――――火の海の中からだ。
装束に燃え移る火も意に介さず、焼かれる肌も、燃えて縮れる髪も。
精神を研ぎ澄ましたキコクには。
“忍者”には――――火の海さえも、隠れ蓑に過ぎないとでも言うように。
廃城が、焼け落ちていく。
数えきれぬほどの血を啜ったダークエルフの長老の一人、その棺となって。
「
そして、彼のその後を知る者は、誰も――――いない。
*****
龍国に、比類なき隠密の一派あり。
心、技、体を研ぎ澄まし、主君の秘されし刃となり、身を奉じる事を
地水火風を友として、振るうは神秘の技ばかり。
何より一派の恐ろしき、その身を比して闇に伏す事。
秘術の全ては闇の中。
生きるも死ぬも――――闇の中。
別れ、手向けの花すら要らず。
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