獅子の足跡:隠れ里の三獣士


*****


 

 山間やまあいの岩場に響き渡る轟音と蛮声、そして断末摩は――――そこで何か、一方的な“何か”が起こっている事を雄弁に語っていた。

 肉を打ち、爆ぜさせる重く湿った不快音、肝をつぶして漏れた息、取り落とした武器が岩盤を打ち、とどめに、轟雷の如き獣の怒声。

 そしてまた――――重たい衝突音。


「ハァァァァァ……ッ! キサマらの弱々しい息が数え上げられるぞ、小動物どもめ」


 取り囲む襲撃者達――――この岩場を根城としていたオークの部族、“骨喰い族”の包囲のただ中にあっても、その“獣”はむしろ周囲を制圧する、煮えたぎる溶鉄ようてつの如き闘気を放っていた。

 釜の中にあってなお目を焦がして吸気は肺腑を焦がし、もし飛び込めば決して助かる事無く、ぶちまけられてしまえば全てを巻き込み融かす惨事へ繋がる地獄の大鍋。


 上等な言葉など持たぬオーク達は、それを直感として感じ取り、動く事ができないまま……手に手に携えた武器を下ろす事もできず、様子を窺っていた。


 骨喰い族のオークの特徴は、その一見すると退化したように見える偶蹄類のごとき足の形と、たくましい脚力にある。

 岩壁のわずかな凹凸おうとつを捉えて駆け上り、垂直に近い崖を滑り下り、更には跳躍力までも備えている垂直方向の踏破能力の高さこそが、同族と比べて小柄な彼らを補って余りある強みだった。

 一気に奇襲し、包囲し、骨ごと挽き肉になるまで叩き、喰らい尽くす。

 このオークの古豪こごう達の戦術に、今日も少しの狂いもなかった。

 ただ。

 ――――相手を、間違えてしまった。


「どうした? ……来ないのなら俺からゆくぞ」


 今身を置く岩場にも似た、鋭く荒く研ぎあげられた肉体。

 見上げれば首を痛めてしまいそうな堂々たる巨躯と、節くれ立った巨拳。

 首の周りを覆う漆黒のたてがみをなびかせる、猛獣のおもて

 矢の如く鋭い眼光が、右手側のオークへちらりと向けられ――――地面を揺るがしながら、傲然と駆ける。


「ブギッ!!」


 振り下ろした“猫”の左拳さけんが、オークの頭を押し潰し、擦り潰し――――岩盤の地面に紅い花が咲き広がる。

 通算して六体目の犠牲。

 その時、背を向けた“猫”へ向け、オーク達は素手のままで飛びかかった。

 三、四、五――――八体のオークが掴みかかり、必死の形相で猫の膂力を御し、今岩場の上に待ち構える仲間にトドメを刺させるべく、高らかに鳴いた。


「ブキィィィイィィッ!」

「……ほう。頭を使うものだ。……だが」


 崖上から飛び降りてくるオークはひと際大きく、高くなった太陽を背にし……彼らの持つ武器の中で最も立派な、鋼の槍を握っていた。

 彼こそはこのオークの集団の統率者であり、最も手練れである事は疑いない。


「ぬううぅぅっ!!」


 瞬間――――“猫”の筋肉が脈打ち、膨張する。

 その一瞬の膂力りょりょくは絡みついていたオーク達の全身全霊すら凌駕りょうがし、拘束をゆるめさせた。

 その緩んだ一瞬で――――左上腕に組みついていた一体が右腕で強引に引き剥がされ、眼下の樹海へ向けて小石のように投げ落とされ、悲鳴は真っ逆さまに消えていった。


 続けて“猫”が身震いすると、更に四体のオークが振り払われて転がる。後ろから組みついていた者は力任せに岩肌へ投げ落とされて、背骨を砕かれて息絶えた。

 残りの二体、両脚にそれぞれ組みついていた者は……それぞれ頭を掴まれ――――そのまま握り潰されてしまった。


 もはや、崖上からの最後の一体は“猫”のすぐ真上に迫り、槍の穂先は一瞬の後にその頭蓋を貫くだろう。

 しかし、獣はわらった。

 旋風つむじのような速さで身を翻し。槍の穂先を頬から紙一重でかわしながら、くうすら焦がす迎撃の轟拳ごうけんを突き揚げる。


 直後、オークの体は爆散し――――空中に桃色の霧を残して、消え失せてしまった。


「ブギッ……!?」

「ブキ、ブキャッ!」


 振りほどかれた四体のオークは……そのまましばし、何が起こったのか掴めないまま醜い鳴き声を交わし合う。

 彼らには、“猫”の拳を目で追う事もできず。

 自分たちの仲間が空中で消えたようにしか見えず……身に降りかかった細かな肉片と骨のかけらがだと、まだ気付けていない。

 手にしていたはずの槍は、一瞬前まで“猫”の頭があった場所を通り、分厚い岩盤に突き立っていた。


 拳を突き上げた姿勢の“猫”は手を下ろすと、生き残った四体へ向けて歩を進める。


「さぁ。……次の手を見せてみるがいい、小動物」


 “怪物けもの”がいる――――。

 オーク達は縫い止められたように動けず、がっしりとした脚は震え、先ほどまで抱いていたはずの殺意はもはや彼方へ消えていた。

 単純な生存本能。

 抱いたことなどなかったはずの、圧倒的捕食者を目にした生物としての感情のみがある。


 さらに歩みを進めようとした“猫”はおもむろに立ち止まり、耳をそばだてて付近に視線を走らせた。

 つられたオーク達がそうした直後に――――四体のオークの頭を、蛇のように曲がりくねる軌道の氷の矢が一息に貫き、絶命させる。

 空気中に残った霜の軌跡を“猫”が追うと……なかったはずの人影が、左手の十歩もいかない処へ佇んでいた。

 

「……ウワサ通り、えらい力やなぁ。いったいどっちがモンスターなんよ」


 声の、そして魔力の主は風変わりな姿の女だった。

 閉じているようにも見える糸目いとめから長い睫毛がはみ出し、どこか人懐っこくゆるんだ口もと、その上唇の端からは……白い“獣のヒゲ”が左右に伸びて、ふわふわと広がっていた。

 豊かな谷間をさらけ出す上等な絹の装束は、およそ“猫”の見た事の無いような不思議な意匠をしており、肩口から上腕の生地を繋ぎとめる互い違いに組み合わされたの隙間からは、白い二の腕の肌が覗けて、袖口はかねのように広がる。。

 更には品の良い赤に染められた細いつな、丹念に織られた帯で彩られたその姿は、しかし太ももから下はほとんど露わにされていて――――くるぶしから先には、白く風変わりな履き物。

 何より目を引いたのは、白い帯状の模様が入った被毛に覆われた、ふさふさの金色の尻尾と……黒髪をかき分けて生える、同じく金色の獣の耳。


 女への警戒を強めるよりも先に――――“猫”は喉の奥で低く唸ると、横合いから獲物をさらう無作法な行いへの怒りをあらわにする。

 己の闘争を。“摂理”の時を、奪われた事が何よりも耐えがたいかのように。


「……こっわ……。何そないに睨むん? どう考えたかて勝負ついとりましたやろ。ウワサ通りやなぁ、……“猫”はん」

「……何者だ、キサマは」

「ちょっ、ちょっ……! 拳ほどいてぇな。……あたしは、イスナや。よろしゅうな」

「俺に何の用だ。言っておくが、俺はキサマに用などない」

「つれない事言わんでぇな……本当、とっつきづらいなぁ、アンタ」


 背を向けて逃げる事もできたが――――不思議と“猫”は、そうする気になれなかった。

 横槍への怒りも少しずつ薄れていき、拳を解き、それでも周囲への警戒は絶やさないまま、イスナと名乗る“女狐めぎつね”の次の言葉を待った。


「……アンタにうてみたいってコがおるんよ」

「……それは、先ほどから向こうに隠れている生き物か?」

「気づいとったんかぁ。……もうええわ、出てきい。……言うとくけど、あれはあたしのツレで、アンタに会いたいいうんは別人や」


 岩陰から現れたのは、“猫”に勝るとも劣らない長身を持つ、ヒトと変わらない姿の、長柄の巨斧を背負い、チェインメイルの上に頑強な胸甲を身に着けた鋭い凶相の女戦士だ。

 露わにされた二の腕はしなやかに鍛えられた筋肉の鎧をまとい、腰まで伸びたその髪は流れる溶岩の如く、昏い赤色を湛えており。

 イスナに促されて現れてからも、ずっと……物言わぬまま、“猫”を睨みつけている。

 だが、そこに敵意らしきものは感じられなかった。


「そのコは、メドヴェジア。そうは見えへんやろけど……」

「キサマも、獣だな」

「……ッハルルルル……」


 “猫”が嗅ぎ取り、訊ねるも……返されたのは、唸り声。


「堪忍な。……そのコ、戦いで喉斬られて喋れへんのよ。何言うてるかは……」

「分かる。キサマとほぼ同じ事を言っているようだ。俺に、来いとな」

「……もう驚かんけど。それで、どうなん」


 唸り声すら言葉として聴きとる“猫”の並みならぬ野性に、半ば呆れながら。

 半ば諦めながら……イスナは、駄目で元々、と訊ねた。

 メドヴェジアとイスナ、二人の視線が交錯する中。


「……しばし、付き合ってやる」


 “猫”は意外にも、迷わず……そう、答えた。



*****


 三人の獣人が小舟に揺られ、辿りついた先は……西の大陸の南側にある、小さな島だった。

 かつてそこには人が暮らしていたとされるが、それは何百年も昔の事であり、今は無人島だ。


 浅瀬に着くと、猫は真っ先に小舟から降り、舟の舳先を片手で掴むと、大股でずいずいと波を掻き分けて歩いて行く。

 その速さは、メドヴェジアの漕ぐ速さとほぼ同じで……彼女は鼻を鳴らしてかいから手を離すと、座り込んで素直に舟ごと引かれていった。

 イスナはと言うと、“猫”の突拍子もなさに好奇心をそそられたか――――道中と同じく、返答も期待しないまま、舳先から身を乗り出しながら気ままな言葉を連ねていく。


「なーなー、アンタ、海好きなん? ねぇ、はしゃいどるん? ねぇって」

「……五月蝿うるさいぞ、狐め。それとも」

「“うるさいのはこの口かー”言うて塞いでくれるん? 無理やりなのはちょっとあかんわー、あたし」

「……キサマは何を言っている? 降りろ」


 砂浜の半ばまで船を引いて行くと、“猫”は乱暴に手を離し、二人を待つ事無く歩き出した。

 慌てて後をついていく二人の獣人のうち、イスナは大股の“猫”を必死で追い越してから、茂った森の奥地へと先導した。

 そのまま、道なき道――――でもない、使い込まれた獣道けものみちへ出る。

 “猫”はそこに刻まれた足跡の形が、バラバラである事に気付く。

 靴を履いた足跡もあるが、それを除けば……かつて“猫”が拳を覚える前に奴隷として身を置いていた農場の畑の土についた、いくつもの“獣人”の足跡に似ていた。


「……フッ」

「どしたん?」

「時も……経つものだ」

「……はぁ……思うとったより自分の世界に入るタイプかいな」


 先を進むイスナが振り向きもせず、いぶかしがる。

 あの時は、自分よりも大きな足跡を持つ者達が沢山いた事。

 農場主を務めるヒトの靴跡も、奴隷として古参だった牛の獣人の蹄跡も、巨大な鹿角の獣人の蹄跡も。

 今は、もう――――己の、鍛え抜かれた一蹴りでオーガの頭蓋すら砕ける足には及ばぬ小ささになり果ててしまっていた事を、思い出した。

 過去を再生する事に興味を持たない“猫”が……珍しく、感傷に耽る貴重な瞬間だが、イスナもメドヴェジアもそれには気付かなかった。


 原初の面影を残した蒸し暑い木立の中を進むほどに、だんだんと差し込む光は少なくなり……やがて、再び開けてくる。

 “猫”の鼻が嗅ぎ取り、耳が聞き取ったのは、その先にいる、幾人もの獣人の存在だった。

 それも、また……かつて身をおいていた、獣人にはあらゆる権利のなかった国。

 闘技場で人間たちの視線を浴びながら生き延びていた、あの街を思い起こさせた。

 

「あ、“猫”はん……アンタに訊きたかったんやけどな」

「…………」

「なんや、その……何? 訊いてええん? それともダメ?」

「好きにしろ。俺が知らん事には答えんぞ」

「アンタ……何のために戦ってんの。知らん訳ないやろ、今は……武者修行なんぞしとる場合やないて」


 足を止め、振り返ったイスナの細い目は微かに開いていた。

 そこから覗く青く澄んだ瞳は、まっすぐ……“猫”の、挑みかかるような黄金の瞳に向けられていた。


「キサマらこそ何をしている。“魔王”とやらから、コソコソと逃げ隠れしているようにしか見えんな。……小動物め」

「……あァ?」


 “猫”が吐き捨てた瞬間の事だ。

 空気が、一瞬にしてピリっと張りつめていき――――イスナの尾が逆毛さかげを立たせて震え、同時に剥いた唇から鋭い歯列が覗く。

 冷たい怒りの気配を察知した“猫”もまた、たてがみの一筋一筋にいたるまで力を注ぎ、その瞳に爛々と輝く歓喜を浮かべる。

 が――――。


 両者を阻むように、目の前に分厚い斧の刃が突き出され、互いの姿を隠された。

 間に立って仲裁に入ったのは最後尾を歩いていた女、メドヴェジア。

 間を外された二人は、メドヴェジアに一度視線を向けるも――彼女が力なく首を横に振ると、まず先にイスナが溜め息とともに警戒を解き、“猫”もまた固めかけた拳をゆるめた。


「……フン、薄ぺらな女狐ではない。牙を抜かれてはいないようだ」

「あ? あたしのどこが薄いんや。目ェ腐っとるんか、コラ。やろが」

「……フシュッ」

「今、わろたやろ? メドヴェジア。今のは流石にわかんで、あたしも」


 三人は、更に密林の中を進むと……やがて、視界が一気に開けた。

 そこは、古びた神殿を中心に作られた都市の遺跡だった。

 時の流れで苔生し、それでも大理石の頑強な造りはそのまま生きており……その中に、獣人達の集落が形成されていた。

 持ちこまれた部材で幌屋根を作り、屋台を組み立て、簡素な幕舎を打ち立てて。

 かつて人間達が作り上げた神の庭に、姿かたちもバラバラの獣人達が、理想郷を作り直しているかのようにだ。

 

「お待ちしておりました、“猫”殿」


 “猫”がその風景をしばし眺めていると、一人の獣人が現れ、その方向へ向けて視線を下ろす。

 立っていたのは、少年のように見える、ヒトに近い姿の獣人。

 イスナとメドヴェジアは一歩下がり、無言のまま、彼に謁するようにと“猫”に場所を譲る。

 彼の穏やかな面構え、気品あふれる貴族のような礼装をまとい、黄金に輝く幅広の剣を佩いて、そして……その耳と、房の生えた尻尾と、目の色は、全てが、“猫”と同じものだった。


「初めまして。ボクの名は、リオ。……貴方と同じく、“獅子”の血脈を持つ獣人です」


 そう言うと――――少年の獣人、リオは深々と、胸に手を当てて一礼を送った。



*****


「……驚かれたでしょう、“猫”殿。こんな場所に、こんな集落があるなんて」

「驚くものか。獣はどこにでも住まう。場所を選ぶ脆弱な種族はヒト程度のものだろう」

「ははっ……お噂はかねがね。まずは一献いっこん

「酒など飲まん」

「お酒なんてありませんよ。水です、これは」


 大神殿の奥に招かれた“猫”とイスナ、メドヴェジアは、この地の獣人を束ねる少年、リオに勧められるままに上座も下座もなく水と果物を囲んで座っていた。

 水差しになみなみと注がれた水を、“猫”は、それをありがたがる素振りもなく一息に飲み干した。


「イッキかいな、“猫”はん。毒入ってたらどうすんねん」

「毒で俺は殺せん。死ぬとしても、即死でないならキサマらを全員引き裂いてから死ぬまでだ」

「……アンタな、なんでそない物騒な事平気で言えるねん……」

「リオ、と言ったか。……俺に何の用だ。俺は用など無い。キサマに見覚えもないぞ」


 リオは、“猫”の巨躯に対面して座りながら、水を一口だけ飲み、唇を嘗め上げてから悠然と答えた。


「……それを話す前に、ボクの。ボクの……故郷の話をしなければなりません」



*****


 西大陸の南へ海を隔てた地には、獣人達の王国があった。

 あらゆる獣人の祖とも言われるその大陸は、獣人達が平穏に暮らす理想郷で、リオは――――その地を治める、王族の嫡子ちゃくしだった。

 だが、そうだったのは……ほんの、一年前までの事だ。


 世界に“闇”が訪れたあの日、獣人達の王国は崩壊した。

 リオの父、すなわち国王は――――息子を筆頭に、民が海の外へ逃れる時間を稼ぐべく奮闘し、恐らくはそこで散ったと。

 空を埋め尽くす無数の漆黒の門。

 墓石群ぼせきぐんのごとく林立する漆黒の門。

 それらが海に現れなかったのは奇跡という他なかったものの……飛行生物の追撃を受け、何隻もの船が海の藻屑と消え……脱出した獣人達もまた同様。

 運よく嵐の中に逃げ込めはしたものの、その嵐の中で転覆した船も少なくなかった。

 半ば打ち上げられるような形で辿りついたのが――――この、無人島。

 メドヴェジアは当時からリオの護衛として付き従っており、イスナは西大陸生まれの獣人でありながら、この島の噂を聞いてやってきたという。


 そして――――ささやかな生き残りでこの島をひらき、隠れ里を築いて今に至ると。



*****


「――――……以上が、ボクの故郷と、ボクの話です。ご不明な点はございますか?」


 話を聞いている間中、“猫”は無遠慮に水を傾け、椰子やしの実を素手で引き裂き、その果肉をほじくるように貪り、咀嚼そしゃくしていた。

 一しきり、ささやかな食事を終えると、口もとにこびりついた果汁を、まさしく彼の通り名のとおりにアクビをするように舌を伸ばして舐め取り、じろりとリオとメドヴェジアを見つめた。


「戦ったのか」

「え……?」

「キサマの父とやらは。戦って死んだのか?」

「……はい」

「そうか。……そしてキサマの用とは、何だ」


 用件は、何も果たされていない。

 ここに呼び寄せられたのは、リオとこの島の物語を聞くためではない。

 “猫”に用があったのは……依然、リオの方だった。


「“猫”殿。あなたは……いったい、何者なのですか?」


 質問と同時に、メドヴェジアもイスナもその答えを待つ。

 それこそが――――彼を呼んだ理由だった。


「ボクの血族は、獣の血が代々薄まっています。ボクはこの様子ですし、父も……もはや、あなたのようななど生えておりません。いや、祖父も、大祖父にまで遡っても……あなたほどの獣性はありません。あなたは……あまりに、獅子の面影を残しすぎているのです」


 リオの血脈は、代が進む毎に獅子の血が薄くなっている。

 この島に辿りつき、その中で聞きつけたのが、“猫”の噂だ。

 獅子そのものの姿を残し、圧倒的な膂力で全てを粉砕する“拳の巨獣”。

 もしかすると、己が血脈の系譜に関わる何者かでは――――とリオは期待を抱いた。

 父をも失い全てを失った、王族である以前に少年として、故郷を偲び。

 どうしても――――“猫”と、対話の場を持ちたかったのだ。


「……知った、事か」


 だが、“猫”の答えはそれだ。


「俺が何者かなど、興味も無い。どこから来たかなど、知った事か。……生まれてきた理由を感じた事などなく、俺はうつろだ。ならば、俺はせめて戦う。……世界が……俺を……“最強”と名付けるまでだ」


 “猫”の言葉を、誰も笑わない。

 軽薄なイスナでさえも、その言葉を受け止め、固唾を飲んだ。

 メドヴェジアの瞳に一瞬宿ったのは、その響きへの憧憬。

 リオの瞳にも、また――――。


「……敵わないなぁ。……大違いだ」

「話は終わりか。……ならば俺は、適当に寝かせてもらおう」


 “猫”が立ち上がり、振り返りもせず大股で神殿を出ていくまで、リオはその背を追った。

 黒々としたで覆われた、広く分厚い、いくつもの傷を刻んだ、隆々たる獣の背を。

 それは、逃げた証の傷では無い。

 どれだけの軍勢に囲まれても、どこを向いても敵がいる状況でも――――その背を斬られても決して逃げず、戦うのをやめなかった勲章の傷だった。



*****


 “猫”の生涯に、修行が許された事などない。

 全てが本番の生死を賭けた闘争であり、一度たりとも敗北は許されなかった。

 かつて身を置いていた闘技場は敗者はその場で殺され、百勝を挙げればようやく自由を得られる事ができたものの、それはひどく不公平な戦いばかりであり――――“獣人”には払い下げた武具すら与えられず、鍛える事も許されず、そもそも戦う人数も合わせてはもらえなかった。

 公開処刑を受け続ける日々を“猫”は生き抜き、闘い、そして、最終戦では――――巨象きょぞうの獣人を打ち倒して、闘技場の最初の覇者チャンピオンとなった。


 自由を得てなおも、巨拳を振るい続けて“猫”は闘う。


 妄執と、飽くなき渇望。

 誰しもが一度は胸に描く、荒唐無稽な称号を自らの拳につけるために。


 “猫”がその日々を夢の中で思い出したのは、初めての、事だった。


「……ム……」


 神殿の外の柱に背を預け、旅の友となった裂傷だらけのマントで身を隠して眠りについていた“猫”が目覚める。

 風も寒気も防げないボロボロのマントからは、隠し切れないほどの迫力ある肉体がところどころ覗かせていた。

 そして、気付けば――――敵意ではない視線が、自らに注がれていた。


「スッゲェ……」

「お、おい……! 危ないって! 近づくなよ……起きたぞ!」

「お、おはよう……ございます……」


 獣人の子らが遠巻きに、おそるおそる“猫”を見物していた。

 世界に轟く噂の男は実在した。

 まだ虫も鳴かない早朝だというのに――――彼らは一度、“猫”を見てみたいがために起きたのだ。

 “猫”は、唸りを織り交ぜて大きく息をついた。

 すると子供達は震えて、そそくさと逃げ散っていく


「……なるほど」


 “猫”は、意外にも――――多人数の獣人が生活しているのを見るのは、初めての事だった。

 あの街で日々を生きていた頃は闘技場と独房の往復であり、見物客も人類ばかり。

 いくら闘技場の外に奴隷化された獣人がいたとしても、お目にかかれなかった。

 その前に身を置いていた農園では、人類の比率が多かったし……そもそもが、重労働を課せられていたから他獣人へ目が向かなかった。

 見回す余裕を以て、獣人達を見たのは……初めて、だった。いな、もしかすると――――他者の犠牲や隷従の影なく、のどかに過ごす者達を見たのが……初めてだった。


「……“猫”殿? どうかなさいましたか?」


 神殿の入り口から、メドヴェジアを伴ってリオが姿を見せた。


「キサマの国は、どんな地だったのだ?」

「……楽園、でした」

「ほう」

「…………どこまでも続く草原、切り立つ断崖、この星の神秘を見るような大河。夜空を見上げれば星々の並びが広がって……ご存知でしたか? 星の並びには、それぞれ名前がついているのですよ」

「知らんな」

「……ボクの王族では、代々、“獅子の星図せいず”が天頂を刺す時間と同じくして戴冠式たいかんしきが行われるのです。星々と月の明かりの中、国民が空を見上げて……一斉に吼えると。父はボクに物心ついた時にはすでに王でしたし、とうとうボクもその冠を戴く事はできませんでした。もう、二度と……行われる事はない。終わった風習なのです」


 リオは背を丸めて、装飾剣の鞘を握って、震える声でそう締めくくった。

 だが――――“猫”の言葉は、その感情で終わらせはしなかった。


「……何故だ?」

「え……? 何故、とは?」

「キサマはまだ生きている。ここにはキサマの民もいるのだろう。何が終わっているというのだ? 奪われたのならば奪い返すまでだ。……その身に血の一滴でも残る限り、戦いは終わらん」


 またしても――――“猫”は、リオと目を合わせる事も無く。

 吹き荒れる風を睨み返し、想いを馳せるように……黄金の瞳を空の彼方へ向けていた。

 おめおめと生き延びた王子への気遣いの言葉ではなく……己の生きてきた道で拾った、たったひとつの真理を語る。

 耳を傾けていたメドヴェジアは優しく微笑み、リオの肩へ手を置いた。


「そう、ですね。……そう……あなたの言う通りだ。ボクは……負けてなんて、いない」


 リオは、初めて受け取った“それ”に、心の中で名前を探した。

 やがて、行きつく。

 それは――――“闘志”と呼ぶ感情だと。


「……朝っぱらからなに熱い討論しとんねん。ほんま男の子ってついてけへんわぁ……」


 そんな男二人に水を差すように、イスナが酒気を帯びたまま声をかけた。

 手に持つ瓢箪ひょうたんの容器に納められた果実酒の甘ったるい芳香が漂い、静謐な朝の空気を台無しにさせながら。


「……キサマ、酒など無いとほざいていたが、あれはウソか?」

「ち、違う違う違います! 本当にお酒なんて……い、イスナさん。何処から!?」

「あたしが作ったんよ。ちょーっと味見してたらついなぁ。……こらアカン、醒ましにいかな……“猫”はんもおいでぇな」

「何だと?」

「アンタ……血生臭いねん。水浴びのひとつもせぇ。それにケモノ臭いわ、アンタ」

「けも……」

「ほら、ほら立った立った。そないな訳で……水浴びでも行こか」


 “猫”は言葉を失ったまま――――半ば強引に、酒を片手に提げたイスナに鬱陶しく絡まれながら、空気に飲まれるまま素直について行く事となった。



*****


「ふはっ……! 生き返るわぁ。サイコーやな」


 “猫”が近くにいる事も意に介さず、イスナが行儀悪く服を脱ぎ散らかしたままで一糸もまとわず、神殿からやや離れた小川に飛び込み、身を清める。

 尾と耳、そしてを除けばその姿は人類の美女と変わらない。

 白く透けて血管の色まで浮き立つ素肌は、どこか神秘性すら宿してさえいた。

 “猫”は紳士のように――――というより、心底興味が無いかのように岩に腰を下ろし、水気のやや残る体を風に当てて乾かしながら瞑目めいもくしている。


「……なんやなんや、こんな美人が裸でおるっちゅーのにソレかい。アンタ、何が楽しゅうて生きとるん? 真面目に」

「……戦う事」

「はぁー……汗臭いわぁ」

「キサマ……酔いを醒ますと言っていたぞ」

「醒めたぶんだけ継ぎ足すんや。アンタもどや」

「……ふざけるな」

「つれへんなー」


 胸から下を川に沈め、まるで沐浴でもするようにしながらイスナは絶えず酒を流し込んでおり、“猫”はそれを咎め。

 咎めついでに……“猫”もまた、彼女への疑問を返した。


「……キサマは何故ここにいる」

「はー?」

「話を聞く限り、キサマと奴らは同郷ではない。それなのにキサマが肩入れする理由は何だ」

「んー…………あたしもなぁ、半端モンなんよ」


 言葉に、かすかに憂いが混じった。


「あたしなぁ、パパもママも、フツーのヒトやねん」

「なら、何故キサマは女狐の身体を持つ」

「あのコから聞いたやろ。獣人の血が薄くなりつつある、って。あたしのパパかママか知らへんけど、どっかの代で獣人が混ざっとったんやろなぁ。だんだん薄く、薄―くなっとって……すっかりヒトになって忘れた頃に、あたしがこんなんで産まれてきてん。……ヒトでも、よくあるやん。何代も前の先祖に、いきなり髪の色とか似るん」


 ぴくん、と動いた耳が、哀しげに弧を描く。

 語るイスナは猫に白い背を向け、表情を悟られまいとしているようだった。


「後は、まぁ……や。……気持ち悪いやん、ヒト同士から、あたしみたいのが生まれてきはって。パパがどっか消えてもーて、ママの態度にも堪えられへんなって……家飛び出して、色々あって……ハナシに聞く“獣人の国”とやらに行こーとしたら、“魔王はん”や。後は……分かるやろ」


 “猫”は、何も答えない。

 謝る事も無く、慰める事もしない。

 その震えかけた声を嘲笑う事もなければ、それ以上掘り下げる事もしない。

 何も言わないまま、彼女が水から上がるのを待った。


 しばしの間の後――――イスナが顔に水を叩きつけ、ぐしぐしと拭った後、勢いよく立ち上がった。


「よっしゃ、戻った! ほな、帰ろか?」

「……フン」

「アンタなぁ……ちょっとは見いや。傷つくわ、あたしかて……ん?」

「……?」


 いそいそと衣類に袖を通していくイスナの手が、不意に止まる。

 耳がくりくりと動き、ひげも広がり……それと同じく、“猫”も全ての知覚で何かを受け取った。


 やがて。違和感は――――“開門”の響きに変わった。


「!? あかん、コレ……! なんや!!」


 イスナが上衣の帯を締める間もなく、島全体に響き渡る不吉な重低音が全てを揺るがした。

 震える空気、ざわめく樹木、小川の魚たちまでもが反射的に岩陰に身を隠し――――気を失い、浮きあがるものまでいた。

 鳥たちは空中で衝突しあいながらも必死に飛び立つ。


 そして彼女が気付いた時には、すでに……そこに、“猫”はいなかった。



 *****


 ――――イスナを置いて駆け出した“猫”は、木立ちの中を疾風のように駆けていく。

 聴こえる風の唸り、悲鳴、怪物の唸り声。

 それらを余す事無く手がかりとし、遺跡に築かれた集落へ向けて走っていた。


 ――――今、“猫”にある感情は二つ。

 ひとつは、闘争の予感への歓喜。

 うわさに聞く、魔界と現界をつなぐ漆黒の城門を見た事は無かった。

 一つ明らかなのはそこからは、強力な魔物が這い出てくるという事。

 すなわち……“闘争”が、そこにあるのだ。


 そしてもう一つは、“猫”には全くもって不可解な、説明の出来ない焦りをもたらす感情。

 歩き始めこそ前者の感情によるものだったが、今その身を動かし続けるのは後者の感情。

 一刻でも早く辿りつくため――――“猫”はひた走る。


 森を抜けると――――そこには、“猫”が旅の中で見てきたのと同じ光景があった。


 ワイルドハントに襲われた村。

 オーガに連れ去られた人間達の末路。

 リントヴルムに噛み砕かれる兵士達。


 見てきたものと、寸分違わない。

 ただ――――魔物の姿と、貪られる弱者の姿だけが、いつも違う。

 開いたと思われる魔門は見当たらない。

 魔物が氾濫しているのなら確実にどこかに魔門があるはずなのに――――どこにも。


 遺跡都市に蔓延る魔物の名は、アウルベア。

 頑強な大熊の体格とフクロウに告示した頭部、羽毛の生えた上半身と強靭な爪を持つ魔物達だ。

 その中にマンティコア、リントヴルム、キマイラといった大型の魔法生物が混じる。

 その数、アウルベアのみですらも、ここに住んでいた獣人の数を凌ぐ。


「…………キサマら」


 数体で固まっていたアウルベアへ向けて歩きながら、拳を固める。

 みき、みきっ、という大樹の軋むような音は……そこに封じ込められた規格外の握力を雄弁に語る。


 やがて、気配を隠そうともしない“猫”に気付いたアウルベアの一頭が巨体に見合わない跳躍力で飛びかかる。

 爪の一撃、捉えて締め付ける腕力、クチバシの打撃。

 どれもが脅威たりえるだろう。

 しかし――――それは、当たればの話だった。


「オォォオォォォォ!」


 “猫”の正拳は空中のアウルベアの顔面を正面から捉え――――瞬間、魔物の身体は波打ち、互いの生み出す衝撃力のまま――――クチバシを砕かれ、頭部ごと上半身を体内まで押し込まれ――――脱ぎ捨てたボロ靴下のように変形した、アウルベアの死骸ができあがる。


 “猫”が拳を引き抜くと、およそ三割の体長が奪われたアウルベアの死骸から、血飛沫が噴き出た。

 その腕のバカげた太さは――――巨大なアウルベアの首と、同等だった。


 続けて、二頭、三頭と退けながら進むと――――神殿の前から、音が聴こえてくる。

 掴みあげたアウルベアの首をへし折り、そちらを見やると。


「グ、アゥッ!!」


 メドヴェジアが、アウルベアの掌の一撃をもろに頭に喰らう瞬間だった。

 常人であれば頭部をもぎ取られて即死するはずの一発を受けてグラついたメドヴェジア、だが――――打撃を受けた頭部の半分は、正真正銘のの頭部へ変異していた。

 更には斧を持たぬ左腕も、野太い赤毛の熊の前腕へと変異している。


「グルルアアァァァァッ!」


 裂帛の叫びとともに――――反撃の掌打がアウルベアの頭蓋をぶらした。

 続けざまに振るった斧の一撃が、今度こそその頭部を砕く。

 見れば彼女の周りには魔物の屍が積み重なり、その背を守るようにリオが剣を手に戦っていた。


「“猫”殿!」


 こちらの姿を認めたリオが叫ぶと、メドヴェジアの頭が再び人間へと戻り、再会を喜ぶような唸りが上げられた。


 リオを後ろへ隠すようにして、二人の獣は迫る魔物を食い止め続ける。

 “猫”はマンティコアの鼻先と前肢を掴んで組み合い、ゆっくりとその鼻を握り潰しながら押し返す。

 メドヴェジアは変異した熊の腕を振り回しながら、右腕のみで斧の一撃を正確に繰り出してゆく。


「――――見つけたよ」

「えっ……かっ――――」


 全く異なる“声”の主が、二人の背と……リオの間から聞こえた。

 ぐじゅっ、という湿った音の直後――――何が起きたのか掴めていないような、声。


 マンティコアの首を捻り殺した“猫”が振り向くと――――。

 小柄な影が、リオの胸を背中から貫いていた。


「やぁ、初めまして。……僕の名は……まぁ、いいさ。“星喰ほしばみ”とでも呼ぶといい。魔王様の四天王の一人だ。よろしく?」


 頭部の上半分は、水晶塊すいしょうかいの仮面に覆われ、見えない。

 その爪は全てが違う宝石で造られ、肌は岩石のようにザラついた硬質さを想起させた。

 口もとに切れ込むような笑みは、身の毛もよだつような残虐な印象を隠しもしない。

 そして――――危険な気配は、“猫”すらも感じ取り、畏怖させた。


「キサ――――ぐふっ!!」


 拳を振りあげた直後、“星喰”と名乗る魔族の前蹴りが“猫”のがら空きの腹部へ直撃し――――まるで人形のようにその巨体は蹴り飛ばされ、神殿の列柱の一つへ叩きつけられた。

 遅れて振り返ったメドヴェジアが斧を振るい、そのむき出しの首を捉えたが……分厚い刃が、たやすく砕け散ってしまった。


「っ……グァッ!」


 とんっ、と胸を押されただけで――――メドヴェジアの長身もまた、骨の砕ける音とともに弾き飛ばされる。


「……おや、まさか……まだ息があるとは。“ケダモノ”はしぶといものだね」

「……キサマ……何を……グガアァァッ!」


 “猫”が血の塊を吐き出すと、“星喰”もにんまりと笑い、串刺しにしたままだったリオの身体を放り捨て、背を向けてゆっくりと歩いて去って行った。

 まるで、つまらない残り仕事を片付けた、とでも言うようにだ。

 その間中、魔物達は雷に打たれたように硬直し、声すら上げないまま控えていた。


「……駆除は徹底的にやらなきゃ意味がないんだ。まして君たちのようなケダモノは、随分と繁殖が早い。“ベヒモス”もずいぶんと足止めを食らっているから……計画が遅れがちだな。こうなったら、もう一頭も出してしまおうか……んっ?」


 “星喰”の背へ氷の矢が飛来するも――――呆気なくはたき落とされ、砕け散った。

 だが――――それを鏑矢かぶらやとして、無数の氷の矢がその後に続き、倒れた三人を避けて魔物の群れへ降り注ぎ、蹴散らす。


「スマン、遅れた! 早すぎやでジブン……って……リオ……は……」


 息を切らせて駆けてきたイスナが目にしたのは、倒れるリオの姿と、よろよろと立ち上がるもう二人。

 そして背を向けて去ろうとしている、何者か。


「――――待ちぃや、クソガキ」

「……それ、ひょっとして僕の事か?」

「他に誰おんねん、コラ」

「……付き合ってられないね。さぁ、みんな。……総仕上げだ。後は任せたよ」


 “星喰”の身体は土の塊となり、風化するように消え去った。

 それを合図に、魔物達は――――倒れた一人と、立っている三人へ向けて殺到する。


 迎え撃つのは“猫”の咆哮。

 その身を完全に大熊へと変身させたメドヴェジアは前肢を振るい、イスナは怒りに目を見開きながら、ひっきりなしに氷の矢を放ち続け、隙を見て間に合わせの回復魔法をリオへ放り投げる。


 ――――――戦いは、夜が訪れるまで続いた。



*****


 無数の魔物の屍の中、イスナはもはや助からないリオを膝の上に抱き起こして、最後の瞬間を看取るべく耳を傾けた。

 魔力は底を尽き、返り血と擦り傷にまみれており――――その美貌はもはや陰り、いつも表情に浮かべていた余裕もない。

 “猫”は片膝を立てて座り、メドヴェジアは膝をついてリオの顔を覗き込み、その目に涙を浮かべていた。


「“猫”ど……の……」


 もう――――助からない。

 あの一撃はリオの心臓を、肺を破壊し……イスナの覚えているだけの回復魔法では、延命がやっとだった。

 そしてもはや魔力の尽きたイスナには、それすらできない。

 獣人の王国を統べる獅子の血脈が、今ここで途絶えようとしていた。


「……“勇者”とは……何か……ご存知、ですか……?」

「…………」


 返答せずとも、聞こえていた。

 構わず、リオは、最後の言葉を続けた。


「“勇者”のもたらすのは……勇気……。です、が……あなたは、違う。あなたは……“英雄”……です」

「……違う。俺は……」

「いえ……。“英雄”がもたらすのは……闘志。その背に、続け……と……人々を……掻き立てる……存在」


 ある者は言う。

 勇者とは――――己の姿を持って、人々へ勇気を分け与える者の事を指すと。

 故に、勇者と呼ぶのだと。

 だが、勇者は……この世界には、いない。

 それでも――――戦う者達は、いる。


「“猫”どの……。あなたは……英、ゆうに……な……て……」


 対して、英雄が人々に巻き起こすのは不屈の“闘志”。

 希望がなくとも前へ進み、絶望で足を止める事もなく、その生き様を呼びならわし……その背を追おうと、人々の一人一人が持っていた、生き抜くための“力”を。

 純然たる気迫を呼び起こさせる存在。

 それが――――“英雄”だ。


「申し訳……ありません。ですが……ボク、は……うれし、かった。あなたの……ような……方と……」


 そして……瞳に宿っていた、なけなしの光も消える。

 最期の言葉も、言い終えられないまま……リオは、遠くへ行ってしまった。


「…………誰も彼もが、俺に勝手な名をつける」


 “猫”は、独白する。


「俺が生まれてこの方……自分で選ぶ事が出来たものは、名前すらなかったものだ」


 農奴の時代も、拳奴の時代も、“猫”という皮肉めいた名前で呼ばれ続けた。

 あの闇を抜けてからも、彼にはいくつもの名がついた。


 闘技場の百勝を経て、“不敗の拳獅子けんじし”。

 リントヴルムを殴り殺して、“屠竜とりゅう拳豪けんごう”。

 ワイルドハントを全滅させ、“猟団喰らい”。

 オーガの一団を殺して“人喰い鬼喰いオーガイーター”。

 その武勇を示す通り名だけがいくつも連なっていた。


「リオ。……キサマの無念など、俺にはどうでもいい。だが……奴は、俺が殺す。俺だけが殺す。それを指して……呼びたくば、勝手に呼ぶがいい。好きなようにな」


 もう、聞こえてなどいないはずなのに。

 それでも……リオの顔は、安らかに微笑んでいるように見えた。


 数日して、死した獣人達を弔った後、三人は大陸へ渡って別れた。

 イスナとメドヴェジアは、二人で旅をするべく。

 そして、“猫”は。


 ――――“英雄”と、なるべく。







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