道化師サー・ウィリアム・キングスパロー一世の戦場
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魔王のある処、希望はなし。
拡大していく戦火、それを押し返す奮戦。
間に挟まれるのはいつも力無き者であり、生まれ育った村を捨て、収穫を控えた畑を捨て、ほんの少しの家財道具と“命”だけを持って人々は追いやられた。
魔王の引き連れてくる滅びの軍勢が、彼らから活力を奪う。
これが国同士の戦争であれば、少なくとも第三国に逃げ道はある。
少なくとも――――行けはしなくとも、平穏な土地はある。
だが、この世界にはない。
闇の世界から訪れる魔軍は、どこに現れてもおかしくない。
仮に、野営し夜露をしのいでいたとしても、街道の宿屋をとっていたとしても、そこに魔物が現れない保証はない。
誰しもがうわさに聞く、“漆黒のゲート”がどこに開いても、誰も驚かない。
この世界に――――安全な場所など、ない。
*****
「さぁさ、皆さまお立ち合い! 道化師サー・ウィリアムの愉快な芸人一座にございます!」
なのに、その国には――――底抜けに明るい声の、ひとりの道化がいた。
声の出所は、焼け出された民たちが身を寄せ合う難民キャンプの中心だ。
数にして数百人が疲弊して表情すら変えられず、うつむいた座り姿勢を崩せぬまま、ぴくりと聞き耳だけを立てていた。
彼らはみな、故郷を捨てて逃れてきた者達だ。
魔王降臨から一年。
人類は持ちこたえており、魔王の軍団の歩みを押し留めてはいた。
だがそれでも崩壊する戦線はあり、敗北する戦場もある。
極まれに人類の勇将の奮戦で超大型の魔物を討伐し、焼かれた都を取り戻す事もある。
それでも――――世界は、破滅へ向けてじわじわと押し込まれていた。
「こちらに控えますは、かの名高き曲芸剣士! 人呼んで“四本腕のスタニスワフ”! どうです、よく鍛えられた長~い手足と、この磨かれた、はげ頭! まるで北海に生息する悪魔の魚のようではありませんか!? 聞くところによれば彼は母親とケンカして海を追い出された、と――――痛、ちょ、痛いではありませんか!」
ひょろりと長い半裸の禿げ男が、余計なことを口走った道化師の頭へ軽く拳を打ちおろすと……微かに、避難民たちは弱々しくとも確かに笑った。
男の両腰には一本ずつ剣が
しなやかに鍛えられたその身体には、きらびやかな化粧が施され、無意味なほど大量の羽根飾りが仕込まれていた。
それは、全て彼の動きをよりよく鮮やかに見せるための、“装備品”。
「おお、コワい。さてさて、今回“たこ坊主”――――おっと失礼、スタニスワフ氏に挑戦していただくのは、“
高らかに響く話芸は、絶望に曇った彼ら全てに届き――――うつむき、膝を抱えていた難民達は立ち上がった。
そして芸人たちを遠巻きに囲むように、見物の輪が段々と厚くなる。
道化師の声は、彼らを癒し――――くすくすと笑う声が、大きくなる。
曲芸剣士の両手両足を使った四刀の剣舞は、彼らにどよめきを起こさせた。
踊り子の情熱的な視線と妖艶な肢体は男衆の顔をでれでれと融かし、それに気付いた妻達は強気な目で亭主を、息子を制した。
双子の美少年芸人のジャグリングは互いの心を読み合っているように鮮やかで、十本もの松明が互いの間を行き交う様は女達だけではなく、巡視していた兵士までも、まるで魅入られたように――――心の中の不安も恐怖も絶望も、全て照らされ消えたかのように輝かせて見つめていた。
彼らの瞳の中には、確かに……炎が、灯ったのだ。
「さぁ、さぁ! 皆さん、いよいよ大詰め! もしも成功いたしましたらご喝采! 魔王の城まで届くような、魔王も羨むような盛大な拍手をお願いいたします!」
もはや、この場に“絶望”の居場所など、ありはしない。
やがて割れんばかりの拍手と歓声が、力強く鳴り響いた。
*****
道化師の名前は、サー・ウィリアム・キングスパロー一世。
大仰な名をつけてはいても、貴族でも王族でも無く平民であり、もちろん本名でもない。
彼はもともと平凡な名を冠した芸人であり、道化師でもなかった。
彼が、“道化”を決意したのは魔王の降臨からそう経たない頃だ。
滅ぼされる国々の噂と、不吉な魔物の噂、ダークエルフは闇を駆け、オーガ達は隊列を組んで大鍋を担いで村々を食い漁り、ゴブリンやトロールは凶暴性を増した。
世界のどこかに現れた漆黒の城門からは見た事も無い怪物たちが出現し、魔界の兵士達が突如として現れ瞬く間に拠点を築く。
世界の果てには魔王の居城が出現していた。
滅ぼされゆく世界、広がっていく暗雲と、その曇天の下で味わわされる絶望。
世界の崩壊を目の当たりにした中年の男は、決意した。
足りないのならば、継ぎ足す。
“笑い”を、“喜び”を、この世界へ継ぎ足してやらねばならない。
剣を握った事も鎧を着た事もあっても、それは若いころに数年だけの話だ。
今はもう戦えない自分にも――――“戦える”戦場ならあるのではないかと、男は決意した。
そして彼は、自分の名を“サー・ウィリアム・キングスパロー一世”と改め、本名は封印した。
彼がそんな名前を自分に課した理由は、持論による。
それならむしろ貴族のような、舌を噛みそうな名前をつけてしまった方が……その
目論見は成功し、はためくフリルをあしらったキツい原色の衣装、歩くたびに鳴る鈴、真っ白く顔を塗る化粧と派手なフェイスペイント。
大仰な動きで飛んで跳ねて転んで、磨きをかけた話芸と“客いじり”、軽いジャグリングまでこなす、バカでまぬけの道化師が自己紹介するのは“サー・ウィリアム……”という大時代な名前。
それは――――確かに、うけたのだ。
名前の長い道化師の噂を聞きつけ、あるいは彼自身が自ら勧誘して、いつしか芸人の一座となった。
こんな時代だからこそ、笑いが必要なのだと……そう、信じて。
出発する兵士達の見送り、難民のキャンプ地での興行、それらが無い時には広場へ訪れ、大道芸。
酒場で余興を振る舞う事も少なくなかった。
曲芸剣士、妖艶な踊り子、麗しい双子のジャグラー、火吹き男、椅子使いの芸人、軟体芸人。
“道化師サー・ウィリアムの芸人一座”の名を知らぬものは、もはや主要都市ではいなくなった。
*****
そして、彼が拭えない無力感をそれでも感じてしまい、打ちのめされるのは――――こんな、時だった。
*****
英雄達が、帰ってきた。
城門から列をなして入ってきて、大通りをぞろぞろと行進する。
出迎える市民達には、そこに自らの夫の、息子の、恋人の姿を見つけて胸を撫で下ろし、走り寄り縋りついて号泣する者がいる。
そうして出迎えられた兵士は皆、生きて帰ってこられた事に涙し、大切な誰かを力強く抱き締めた。
とりわけ目を引いたのは、乳飲み子を抱えた女を見つけるなり、響き渡るような大声で泣きながら走り寄る、間延びした顔の大柄な兵士の姿だった。
しかし、手足を失くした者、片目を失くした者、頭を覆う包帯が未だ取れない者、馬車に横たわる者も少なくはない。
それでも、帰っては、こられた。
――――その一方で、帰ってこられなかった者達も。
どれだけ目を凝らしても……彼らと一緒に戦場に行ったはずの家族の姿が、見つからない。
後列にいるはずだ、もっと後ろから入ってくるはずだ、と信じて城門の方角を食い入るように見つめても……無慈悲に城門は閉じた。
「あ、あ……あ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
歓声と、感極まる涙の時は過ぎ――――そんな悲痛の声が響き渡る。
「嫌っ……イヤあぁぁぁぁ!! チェスターは!? あの人は、どこに……いるのよおぉぉっ!?」
ここにいない誰かの“妻”は膝を折り、その場へ泣き崩れた。
彼女を知る者達は駆け寄り、かけるべき言葉を見つけられないまま、黙って背中をさすり、肩に手を置くしかできなかった。
その口から出た名前を聞いた兵士は、家族との再会を
「……ご婦人。私は、チェスター・エマーソン上級射手の隊にいた者です」
「どこ、よ……あの人は、どこ、に……!? どこに、いるの……?」
「…………あそこ、です」
兜を脱いだ彼が視線で示した先を、続けて彼女は追った。
そこには、列の最後尾近くに荷車が一台。
積み荷は王国の紋章入りの布に包まれた、人間大の塊。
愛する者は、“英雄”ではなく――――“英霊”となって還ってきたのだと彼女は悟る。
「うあ、ぁ……あ、あぁぁぁぁぁっ!」
彼女は、目の前に居る兵士の袖を掴み、軽鎧に爪を食い込ませ、血を滲ませながら叫ぶしかできない。
「彼は……勇敢でした。迫る魔物の軍勢を力強く睨み返し、矢筒に残る限りの矢を射ち尽くして、私の矢筒からもひったくり、それでも退きませんでした。リントヴルムの眼を射抜いた瞬間は、今もなおこの目に焼き付いております」
そう語る彼の片目は白濁し……もう、何も映す事はないのだと分かる。
「そして、彼は……空に何かを認め、私と、傍らにいた射手を突き飛ばして、そこへ……火球が降り注いで……」
兵士の目からも、涙が流れた。
生きている目からも、死んでいる目からも――――熱い雫が流れ落ちた。
その光景を、ぎりっ、と歯噛みしつつ見つめ、脱いだ帽子を胸に当てている、白髪の混じり始めた中年の男がいた。
中肉中背、特筆すべきところもない普段着の、どこにでもいそうな中年は、ただただ自分の無力さを噛み締めていた。
今、彼に名前はない。
今は――――サー・ウィリアム・キングスパロー一世ではないからだ。
兵士を送り出す時になら、彼は賑やかに振る舞う道化でいられた。
だが、今この場所に道化の居場所はない。
再会の喜びの笑みはあれども、誰かを笑わせてはいけない場所だったからだ。
今は名も無き一人の男は、悔しさに吐き気すらしたまま、その場を立ち去った。
*****
それから数日して彼の芸人一座は、広場で舞台を演じる事となった。
今日は祝祭の一日目であり、これから五日間に渡り、大通りには屋台が立ち並び、広場ではいくつもの演目が繰り広げられる。
滑稽劇、大道芸、決闘の見世物――――入れ代わり立ち代わり、出し物が催されるのだ。
「おい、サー・ウィル。そろそろだぞ、いつまで……」
“たこ坊主”こと、剣舞の芸人スタニスワフがいつまでも控えのテントから出てこない道化師を呼びに来た。
すると道化師はすでに衣装に着替え終え顔への白塗りも施し、最後にひとつだけ、思い付いたメイクを描き加えていたところだった。
「……何だ、そのメイク? 何かのアドリブ? 聞いてないぞ」
「まぁ、そのようなところで。それよりスタン。お客のほどは?」
「自分で確かめろ、サー・ウィル。もう時間が押してるっつってんだろアホ! さっさと出ろ! お前が出なきゃ始まらないんだよ、行け!」
「これはしたり。それではひとつ、今日も行きましょう。魔王との戦いですよ」
やがて――――道化師となった男は、出陣した。
テントを出て階段を上がり、広間を見渡せるよう特設されたステージの上に立つと道化師は圧巻された。
「さぁさぁ、お待たせいたしました! 道化師サー・ウィリアム・キングスパロー一世の愉快な芸人一座にございまぁす!」
歓声は、広場の一面から沸き立った。
そこは彼の一座を見るために、祝祭の一日目を楽しむために集まった市民達で埋め尽くされていた。
ステージから正面に見える大時計台は日の最も高い時刻を指し示す。
空は雲がかかってはいてもおおむね青い、気持ちの良い
「さぁさ、皆さま! 本日は
やがて――――前列に居た市民達が、顔を見合わせた。
彼の顔に浮かぶメイクのひとつ。
左目の下に描き加えられた、鮮やかな水色で描かれた涙の模様を見て取って。
道化師はその様子を感じ取り、メイクを指差しながら続けた。
「この紋章にかけまして!
道化師が飛び跳ねながら下がるのと入れ違いに、美形の双子芸人がそれぞれナイフとシガーボックスを手玉にとりつつ舞台へ上がった。
驚きの声と喝采、それが終わればまた道化師の漫談が挟まれて笑い、剣舞でまた驚きの声が上がる。
それが済めば、また――――道化師の話芸。
彼らは、魔物と戦う事も無く、戦場に赴く事も無い。
それでも……“魔王”と戦う。
絶望に包まれゆく世界で、誇り高き道化師は今日も笑い、その陰で力無き中年男は歯噛みする。
目の下に施したメイクへ自らの涙と、この世界の無力な民達の涙を閉じ込めるように。
飛んで跳ねて、転げて回り、しゃんしゃんと鳴る鈴の音を響かせて笑いをもたらす、一人の道化師。
そこには確かに、“魔王”と戦う一人の男の姿があった。
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