城塞都市の守護者:吸血鬼の王

*****


「それにしても……あの日はビックリしたよな」

「ああ、全く。……街の地下から光が噴き出してきたんだもんなぁ」


 城塞都市では、一月が経ってもその出来事が話題になった。

 縦横無尽に走る地下水道、そこへ続く開口部や排水溝から光の奔流が飛び出してきて、街の人々を驚かせた。

 その正体は地下のアンデッドを一掃するべく聖騎士が放った“浄化”の神聖魔法であり、祝福の閃光は日の落ちた都市を煌びやかに照らしたという。

 聖騎士団が去った後も、酒場で、市場で、それぞれの家で、幾度も思い出されて誰かが話題に上らせるほどだ。

 その前に起きた、“ゾンビの声”が地下から漏れ聞こえるという騒動をも沈静化させて。

 今、一日を終えて酒を乾し、城塞都市の運河沿いを歩く二人の男もそのクチだ。


「……そういや、聞いたかお前。つい最近なんだが……水運ギルドの奴が、変な声聞いたんだとよ」

「ンだよ、またか? どうせ若ぇのがよろしくやってた声だろ。どこでだよ、見に行くか?」

「いや……それがさ、どうも……そういう声じゃなかった、ってよ」


 話を振った男は、酒の勢いを借りてなお言いづらそうに、続けた。


「なんでもな、……ゾッとするような不気味な声だったらしい。しばらく使ってない倉庫があったらしいが、そこでだ」

「はぁ? ……おい、おい。お前なぁ……あの騒ぎから、どれほども経ってや……」


 運河の水の打ち付ける音の中に、微かに異音が混じった。


「……何だ?」


 何かが、護岸に打ち当たる音だ。

 二人はしばし顔を見合わせ、なけなしの勇気を奮わせ合うように視線を遊ばせてから頷き、運河を覗き込んだ。

 だが、今日の夜空は雲が垂れこめており、星々の光も差さない。

 運河を覗き込んで、何かが浮かんでいる事は見えても……その輪郭がようやく判る程度だ。


「暗くて見えないな……。おーい! 衛兵さん!」


 その時、運河の向こうに巡回の衛兵の姿が見え、男の内の一人が声をかけた。

 ランタンを提げた二人の衛兵はそこで立ち止まり、声を張って応答する。


「何だ! そこで何をしている!」

「こっちに来てくれ、衛兵さん! 運河に何かデカいものが浮かんでる!」

「何……? そこにいろ、今向かう」


 答えて、衛兵達は少し先に渡されたアーチへ向けて駆け、二人の男はしばしそこで待った。

 だが、その十数秒の間に、何のいたずらによるものか――――雲に切れ間が覗き、鈍く光る半月が運河を照らし、運河の水もまた月光を跳ね返し照らす。

 そこに、浮かんでいるものを……くっきりと、浮かび上がらせるかのように。


「ん……? え、あれ……おい……」

「う、わあぁぁぁあぁぁぁっ!! 人だっ! 人が浮かんでる! 誰か、誰か来てくれえぇぇ!!」


 錯乱し叫ぶ二人に向け、足を早めた衛兵達がようやく追いつく。


「落ち着きなさい! 人、だと……? くそ、よりによって俺達の当直で!」

「……っ! な、なんだ……これ……?」

「?」


 男達をなだめていた兵士が、相棒の怖気おじけづく様子に怪訝な表情を浮かべ、近づいて行き、ランタンを掲げて運河を覗き込む。

 足元ほんの一メートルほどのところに浮かんでいたのは……死体だ。

 長い栗色の髪、それだけしか読み取れるもののない……ガサガサに干からびた死体が、枯れ葉のように水面に漂っていた。

 落ち窪んだ眼下、運河の水を微かに吸い込んではいても、二度と輝く事の無い樹皮のような肌。

 骨と皮、それだけしか残らない不審な死体が。


「え、衛兵詰め所に連絡! 緊急事態! 緊急事態だ!」


 数刻後、その干からびた死体は引き揚げられ、検視が行われた。

 結果、見つけられた外傷は両手首と足首の縛られた痕跡。

 そして……首筋に二つ開いた、小さな穴。

 血液は体内に一滴も残っていなかったという。



*****


 荒れ果てた廃屋を、三つの人影が進む。

 もとは家畜小屋として作られていたはずの建物には生命の気配はない。

 あるのは、とてつもなく濃い血の匂いと、生臭く湿った、“生命なき者”の気配だ。

 三人はそれらを嗅ぎ取る事に長けていた。

 眠っていてすら嗅ぎ取り、跳ね起き、剣を抜く事ができるほどに鍛え上げられていた。


「……やはりな」


 低く落ち着いた女の声で先頭の人影は呟いた。

 視線の先にあるのは、暗闇。

 だがそこからは耳障りな咀嚼音と、嚥下とともに漏れる呻き声がいくつも重なる。


「聖騎士団である。これより貴公らを浄化する。……神妙にせよ、神の御許みもとへ送ろう」


 並び立つ三人の人影は、横から見れば重なって見えるほどに整った動作で剣を抜いた。

 暗闇の中で月光のように輝く三本の魔銀ミスリルの長剣に、同じく銀色に輝く軽装の防具。

 籠手と脚甲、胸と喉を守る金属板をあしらった燕尾の礼装。

 三人の聖騎士のうち、一人が虚空へ何かを投じる。

 それは手元を離れると、空中に浮かび――――真昼のように屋内を照らす、灯りを放つ魔法具だった。


「ッ! シャアアアァァァァァッ!」

「ギィギャァァァァッ!」


 灯りに照らし出されたのは、地獄の悪鬼もかくやというような光景。

 若者の死体が二つと、そこへ群がる、枯れ細った人型の怪物たちの姿。

 口もとを血に染め上げ、長く発達した牙がぬらりと光り、唾液の雫が干からびた唇から漏れる。

 血色を失った恐ろしく青白い肌の下には、更に青い血管の筋が無数に走っているのが見える。

 全身の体毛が抜け、布の破片すらまとってはいない。

 伸びた爪から犠牲者の皮膚の端切れが垂れさがり、藁の散らばった床へ落ちる。

 その目は狂気に血走り、鼻は抉れて落ち、耳は不自然なほど尖り――――その全身の骨格すらところどころ変形していた。

 彼らが人であったなどと、誰が聞いても信じられはしない。


「聖騎士団副団長、アデルミラ・ヴァスケス。参る」

「同じく聖騎士、バルトロメ・ファルケだ」

「同じく……ノエ・ルシエンス。参ります」


 怪物がいるのは前方だけではない。

 小屋の梁の上から、梯子のかけられた二階部分から、仕切り板の陰から――――いくつもの血に飢えた視線が、三人の聖騎士を刺す。

 首をもぎ取り、腹を裂き、手足を千切り、乾きを満たさんとして。


 五倍を超える数の悪鬼を前に、三人の聖騎士は臆する事無く円陣を組み、構えた。



*****


 日が昇るのと同時に、その三人は家畜小屋から姿を現す。

 全身の防具にこびり付いた魔物の血が祝福によって焼き落とされ、白煙を上げる。

 聖騎士の用いる魔法の防具は、不浄の死者アンデッド、及び暗黒の魔術への強力な耐性を持つ。

 加えて彼ら自身も聖職の位を持つため、光の魔術を行使する事ができる。

 疲労はあっても、ダメージは三人とも負っていない。


「どういう事だ……? 何故、“使徒”があれほどまで大勢こんな場所に?」

「調査のためと言ってはいたものの、情報は増えず謎ばかり。……副団長。どう思われますか?」


 二人の聖騎士、バルトロメとノエは兜を脱ぎながら、同時に朝焼けに目を細める。

 大柄で色黒のバルトロメと細身のノエはどちらも腕の立つ聖騎士であり、生半なまなかな魔物では相手にすらならない。

 加えて、聖騎士団の副団長アデルミラは、その序列にふさわしく――――騎士団長に次いで剣術の冴える事は、誰もが疑わない。


「……確かに妙だな。こんな場所に吸血鬼が住むものか。身を隠すにはあまりにも心もとない」


 放棄された農場で、夜毎不吉な声がする。

 逢引きしていた若者が姿を消した。

 三人はその報告を受けて送り込まれ、ここへ派遣された。

 その結果、現れたのは吸血鬼――――といっても、ゾンビに近い部類に入る低級のもの、“使徒”の群れだった。

 彼らは吸血鬼に噛まれる事で転化しその身を変じさせた、もとは紛れもなく人間だった者達だ。

 上級の吸血鬼のように人語を解し人に紛れ魔術を使う事もできない、ただ血を求めて彷徨う哀れな奴隷。

 日光、大蒜にんにく、十字架、銀の武器、そのどれもが致命傷となりえて、聖騎士ならずともそれなりの戦士であれば対応できる程度だ。

 そして、彼らを転化させた吸血鬼、“真祖”を殺せば彼らもまた灰となり……人間には二度と戻れない。

 速やかに殺してやる事でしか、彼らを救う事はできないのだ。


「……各地の修道院に連絡を取っている最中だ。ウォーリス修道院のアーティファクト“忌皮教典きひきょうてん”、“裏切り者の舌剣ぜっけん”。ヴィルヘルミナ聖山教会せいざんきょうかいの“芋虫の十字架”あたりが漏れたのかもしれない」


 そう言って、アデルミラは城塞都市で起こった異変を思い起こす。

 地下水道に隠れ棲み、ゾンビを大量に作り出していた年若い死霊術士。

 彼は頭の中に響く何者かの声に駆り立てられていたかのようだった。

 拘束も投降も望めぬままに光の矢ホーリーボルトで討つ事しかできなかったものの、仮に拘束できても彼を真に救う事はできなかっただろう。

 彼の死後に現れた謎の黒雲は虚空に溶けたが……それが何であったかは、騎士団長とも教皇庁の枢機卿達とも意見を交わしても、まるで掴めなかった。

 死霊術士が己達の復権を企み、何かのアクションを起こした可能性を疑い、胸騒ぎがしたアデルミラは各地の修道院や教会へ連絡を取る事を騎士団長へ提案した。

 それらはかつての死霊術士狩りの際に押収したアーティファクトを収容、保護、秘匿するための封印の地でもある。


 人間の皮で装丁され、人間の皮を特殊な製法でなめした――――言うなれば“人皮紙”に呪わしい死霊術・降霊術の数々を記した人間由来の呪文書“忌皮教典”。

 飲み込む事で漆黒の魔力を無限に引き出せる事と引き換えに、人語を発する事ができなくなる短剣“裏切り者の舌剣”。

 一度身に着ければ骨身に食い込み絶対に外す事ができず、謎の芋虫を口から吐き出すようになってしまい……それを他者へ寄生させる事で意のままに操り、疑似的なアンデッドを作り出す魔の装飾品“芋虫の十字架”。

 それら死霊術士の遺した呪物の破壊も提案されたものの、その場合には何が起こるか全く予測ができなかった。

 もしくは――――破壊そのものが不可能だった物品とがある。


「ひとまず戻りません? 副長。さっさと騎士団長に報告上げて、次の手を何か考えましょうよ」

「……ノエ、お前は相変わらず……」

「いいさ、バルトロメ。どの道、ここにいたって何も変わらない。それに団長の方にも何か情報が入っているかもしれないからな。さぁ、こうしてはいられないぞ」


 軽妙な口を叩いたノエを諫めるバルトロメ、さらにそれを諫めるアデルミラ。

 そんな図式のまま、彼らは馬上へ身を翻し、蹄の音高く聖騎士庁への帰路に着いた。



*****


 騎士団本部、団長の執務室へ到着した三人はすぐに出頭して顛末の報告に上がった。

 二十体ほどの低級吸血鬼が根城にしていた事。

 くだんの若者を含めた農夫や旅人の失踪はそのせいで……果たして彼らは貪られたのか、あの場にいたうちの一体なのか、それすらもう分からない事。

 居合わせた使徒達は全て逃さず浄化した事。

 事実だけを述べ終えてから、三人は騎士団長の言葉を待った。

 彼は、普段は同時に持つ司教の位にふさわしく曇りない老熟した微笑みを湛えているのに、今日は険しい。

 そのせいで執務室の空気は異様に重たく、アデルミラを除いた二人は居心地悪そうに直立して、幾度も唾を飲み込み喉を広げて保っていた。


「…………ご苦労だったな」


 険しく眉間に皺を作ったまま、騎士団長は重苦しく呟いた。

 労いの言葉というにはあまりに重く、さながら叱責のように。


「……バルトロメ・ファルケ。ノエ・ルシエンス。けいらは戻ってよい、身体を休めよ。アデルミラ、少し残れ」


 敬礼とともに二人が部屋を出ると、騎士団長は大きく息をついて、ぎしり、と背もたれに体重を載せて天井を仰いだ。

 長くたくわえた白髭が不安げに揺れ――――彼は一心地ついてから、姿勢を保ったままのアデルミラへ告げる。


「……まずはアデルミラ、本当にご苦労。して……あの件だが」

「はっ。各地の秘匿されたアーティファクトについては……」

「手遅れだった」

「!?」


 苦々しげなものを、既に吐きつくしたのだろう騎士団長は諦めたようにそう言った。

 反対にアデルミラは動揺を隠せず、詰め寄る事を堪えて、一歩前進しかけた足を引き戻した。


「ウォーリス修道院長からは、アーティファクトの活性化報告。“忌皮教典”含め全ての遺物が妙な反応を示していると。ヴィルヘルミナ聖山教会せいざんきょうかいからは“芋虫の十字架”が奪われ、アンブロシオ修道院は連絡そのものがない」

「死霊術士の仕業でしょうか?」

「可能性が高い。卿の城塞都市での一件の報告から考えた結果だ。分かっているだろうが内密にな。今は詳細を調査中だ。卿らと入れ違いになるが聖騎士を含めた調査隊は既に送った」


 嫌な予感が的中してしまい……アデルミラの唇は険しく結ばれた。

 次いで、更にわき起こった嫌な予感のために、彼女はしたくもない確認を強いられる事になる。


「……アンブロシオ修道院の秘匿物は、一体なんでしたか?」

「“始祖の最後の一滴”だ」


 その遺物の名は、死霊術士が追い求めるものだ。

 かつて存在した最上位吸血鬼、“黒の災厄”の心臓に残った最後の血液だと。

 壮絶な死闘の果てに討たれはしたものの、その心臓を貫いた銀の剣にその一滴だけは灰になる事無くまとわりついて残っており……厳重な封印を施して数世紀にもなるのに、凝固する気配すらなく液体のまま形を残している、と。


「…………いやなものだな。嫌な予感どうしが線で繋がれゆくのはな」



*****


 聖騎士、否……この国に黒き災厄の名を知らぬ者はない。

 その変色した外套からはにかわのように赤黒い鱗が剥げ落ちて軌跡を残し、それらは全て浴びた血が乾いてこびりついたものだったと言われる。

 その出自は定かではなく、ある辺境の貴族だったとも、名も無き市井の民だったとも、あるいは  ――――人であった事はなく、正真正銘、魔界の存在であったとも。

 彼の存在した時代は、人口推移の記録を見ればすぐに分かった。

 この国の人口が不審なくびれ・・・を生じた時代が、すなわち彼のいた期間と言っていい。


 “使徒”をいたずらに増やして国内のあちこちで事を起こし、村一つを丸ごと餌場へ変えた事もあった。

 同時に呼応して死霊術士達が勢力を増し、かつての“死術士狩り”の引き金を引いたのも彼だ。

 聖騎士団の発祥は、その“黒の災厄”へ対抗せんと結成された聖職者の一団であったとも語り継がれる。

 使徒の一団を使役し、ゾンビとスケルトンを雑兵とする死霊術士達を率いるその姿は、伝説の存在“魔王”の伝説のモチーフになったとすら言われた。

 身体は灰となっても、その血は、闇の遺物“始祖の最後の一滴”として今も存在する。

 定命じょうみょうの存在を嘲笑うように、芳醇な葡萄酒ぶどうしゅのような高貴な赤として小瓶の中に今もたゆたう。


 その様子を知る数少ない者は、口々に言う。

 “黒の災厄”は、滅びてなどいないのかもしれないと。



*****


 変死体の発見から一週間が経つ城塞都市には、戒厳令が敷かれていた。

 というのも……あの死体の身元の判別はほぼ不可能と言っても良く、その理由に問題があった。

 ――――“候補”が、多すぎる。


「あーもう、つまんない! 何で外出ちゃいけないの!?」

「言っただろう、フローラ。危ないんだよ。あの事件の事は何度も話しただろう?」

「そうよ。……もうしばらくだけ辛抱おし」


 十二歳になる少女、フローラの不満はもう限界だった。

 なぜなら女子供、特に年頃の女の外出は禁止されてしまったからだ。

 日が落ちて以降は全市民の外出が禁止となり、増員された完全装備の衛兵達が取り締まりに当たる事となる。


「嘘つき。ママ、もうしばらくっていつまで?」

「さぁね。聖騎士団が来るって言ってたけど……いつになるだろうねぇ」

「つまんなーい!」


 変死体の候補者の数は、髪の色と背丈で絞れただけでも五人。

 この城塞都市で、四十人を超える数の年頃の女が数日の間に姿を消した。

 死体はそのあと二つ発見され、一つは水運ギルドの倉庫内、一つは運河をまたぐアーチに引っかかっていたのを白昼発見された。

 どちらも同じように首筋に謎の穴があり、その肌は触れば崩れてしまいそうなほどだったという。

 まことしやかに囁かれたのは、“吸血鬼”の仕業だという噂。

 先のゾンビ騒動と絡めて囃したてる者も少なくない。

 聖騎士団に応援を要請したものの、応答は未だない。


「……ねぇ、ママ。聖騎士団って、あのお姉ちゃん?」

「あの……? ああ、アデ……アル……なんとか、って名前の人かい。知らないよ。聖騎士なんて二千人もいるんだからさ」

「そんなにいるの!?」

「そうだよ、フローラ。それも、みんな……強くて、吸血鬼なんかイチコロなんだ。魔法だって使えるんだから」


 フローラの父がそう言って、安心させてやろうとするも……返ってきた言葉は受け止められなかった。

 しばし少女は眉根を寄せて考え込み、言葉を紡ぐ。


「……じゃあ、“黒の災厄”がいたら、どっちが強いの?」


 蝋燭ひとつ、スープとパンだけの食卓は、その名だけで凍てついた。

 フローラの母は目を吊り上がらせて何かを言おうとし――――やがて落ち着かせ、沈黙を誤魔化すように木匙にすくったスープを口へ運ぶ。

 父は、少女の頭を撫でてやりながらぎこちなく微笑むだけ、だった。



*****


 数日前より、奇妙な移住者が城塞都市に増えた。

 戒厳令下にも関わらず、見慣れぬ市民が増えていつの間にか市場に店を出し、夜には衛兵達の合間を縫うようにすっぽりとフードをかぶった者達が闇を行き交う。

 衛兵達の装備もいかめしい――――というより、見慣れない。

 顔の見えないフルフェイスのヘルムも、片から膝までかかるマントも、普段目にする衛兵の軽装ではなかった。

 かといって――――聖騎士団の装備でも、ない。

 アンデッドが決して見上げられぬ蒼天そうてんを写し取った神聖な青こそが聖騎士団の象徴だ。

 増えた衛兵の装備は、市民の記憶に新しい聖騎士の服装とも違っていた。

 見慣れぬ住民が増え、見慣れぬ兵士が増え、闇の中には得体のしれない何者かがうごめき、事態の解決もまるで見ない。

 そして、聖騎士団の到着する様子もない。

 住民の苛立ちも限界に達する寸前だった。

 そして大人たちが達するよりも先に、外を出歩けなくなった子供と、色気に飢えた年頃の女達の不満が爆発するのは、必然だ。

 ――――少女が一人、とうとう家を抜け出し……夜になっても、次の朝になっても帰らなかった。



*****


「っ……え、何、ここ……?」


 日の沈む前に、フローラはとうとう家を抜け出て城塞都市の鐘楼を目指して街中を隠れ進んだ。

 お気に入りだった鐘楼から望む夕日を、一目でいいから見たい、その一心だった。

 しかし、途中で衛兵に見つかって追われ、古い倉庫の中へ逃げ込んだ事は覚えている。

 そこで、壁に空いていた、猫が通れる程度の穴から奇妙なささやき声がしていた事も。

 耳をそばだて、覗き込んだ時――――何かが頭を、首を、腕を、上半身を包み込むようにして、猛烈な勢いで引きずり込まれた事までは覚えていた。

 そして、目を覚ませば――――そこは何も存在しない、明々あかあかと照らされた石造りの部屋だった。

 窓はなく、風の吹き抜ける気配も無い。

 フローラの部屋ほどの広さしかなく、入り口には扉すらない。

 敷居の奥には闇が広がり、いつでも出ていけそうな雰囲気なのに……外に出れば、何か悪い事が起こる、そんな予感のする空間だった。


「ここ、鐘楼……じゃ、ないよね」


 よどんだ気配の流れ込む空間には、何もない。

 見回してみても、引きずり込まれただろう穴は天井にも壁にも無い。

 狭い部屋には家具のたぐいもなく、寒々しい牢獄のような石造りの空間、ただそれだけしか表現する術はない。


「と、とりあえず……お外、出ないと!」


 ともあれ、ここに居る事の不吉さを感じ取り、フローラは身を奮い立たせて部屋を出た。

 踏みだす事には勇気が必要だったものの、扉も格子もない以上、“監禁されている”訳ではない。

 敷居を一歩出れば、そこは長い廊下の半ばである事が窺え、左右に同じような石造りの空間が伸びていた。

 右手側を見れば、そこから先にはいっさいの灯りがなく、湿った空気と水滴の音が反響して聴こえた。

 左側を見れば、等間隔で壁に燭台が灯されて……少なくとも、視界はある。

 十二歳の少女がどちらを選んだかは、明白だった。



*****


「ど、どうしよう……! ここ、何なの……?」


 心細さを誤魔化すように独り言を呟きながら、淀んだ空気の中をフローラはひたすら歩くしかなかった。

 振り向けば、どこまでも先の見えない闇が背中に襲い掛かってくる。

 周りには何もいないはずなのに、背後に伸びる廊下から反響する水滴の音が迫っているようにも感じて足が早まる。

 彼女はまるで、追い立てられ狩り場へ誘われる獲物のように身を縮こまらせ、進む。

 嗚咽を零したくとも、胸につっかえた苦々しさが先立ち、涙に化けない。

 悪事を働き、説教を受けている時のような苦みだ。

 実際、ここでこうなってしまっている理由は……父母の言いつけを守らなかったせいなのだ。

 その事を思い出すと……仮に外に出られたとしても、どうしていればいいのか分からない。


「……え?」


 やがて、廊下の奥に空間が開けている事に気付く。

 そこからは、生臭いながらも風が吹き込んでいる事にも。


「で、出られる!?」


 フローラは恐怖を振り払うように、残っていた力を出し切るように駆け抜け、そこへ飛び込んでいった。

 確かに、そこには広い空間があり、光もあり、風の流れもあった。

 しかし――――。


「きゃああああぁぁぁっ!?」


 確かにそこには、人もいた。

 玉座のように仕立てた装飾椅子に座する“何か”と、かしずく二人のローブを着た人影が。

 フローラの悲鳴にローブの二人は振り向き、青白く貧相な顔を歪めて、見合わせて笑う。


「……お目覚めかな、お嬢さん。自分から来るとは、実に偉いな」

「よほど、父母の教育がよろしいのでしょうな。……にしても、いきなり叫ぶ事はあるまいよ。傷つくだろう」


 フローラが恐怖を感じ、叫んだのは……人影に対してでは無い。

 空間全体に転がっている、カサカサに干からび、舌を思いきり突っ張らせて恐ろしい形相で息絶えている亡骸にだ。

 巷を騒がせる吸血鬼騒動、その発端となった事件そのものが目の前にあった。

 ここにきて、フローラは恐怖と、ここまで歩き、走った疲労のあまり……その場に、とうとうへたり込んでしまう。

 玉座の“何か”は、彼女から見ても異様な何かだという事は分かる。

 その背丈は、座っていてなお巨体で……その肌は老人のように枯れ細り、それなのに半身を覆い隠すほど伸びた黒髪は異様な艶を放っていた。

 漂ってくるのは、フローラが未だかつて感じた事の無い、邪悪な気配。

 大きく呼吸をつく声は聴こえていても……それが眠っているのか起きているのかは分からない。


「彼が気になるかな、お嬢さん。せっかくだ、紹介しよう」

「そうだな、同志よ。……恐らくは、君も聞いた事がある名のはずだぞ」


 ローブの男二人は密やかに笑い合い、玉座の両脇に侍るように立ち上がった。

 その足元で、乾いた死体の腕を踏み砕いても……何も意に介さずに。


「……“黒の災厄”だよ、お嬢さん。会うのは初めてかな? 私達もそうだったとも」

「えっ……!? で、でも……“黒の災厄”って、死ん、で……!」

「不死者が死ぬものか。彼は眠っていたのだよ。もっとも……未だ寝ぼけている状態と言っても良いのだが」

「そう。……お嬢さん、君と同じだよ。目が覚めた時、まず何がしたい? 正解は水だよ。喉が渇いているはずだ」


 その時、玉座の“災厄”の身体が大きく震えた。

 催促するような、怒りのような低い吐息を聞いたローブの二人とフローラは身震いし、背筋を反り返らせた。

 やがて、少女は気付く。

 もっさりと生えた髪の中で、その瞳は、ずっと自分に向けられていたのだと。


「さぁさ、お待たせするのも何だな。君には……少しばかり痩せてもらう事になる」

「い、いやだ! そんなのやだ! 帰る!」

「ここにきて聞き分けが無い事を言うな。そうだ、お嬢さん、名前は? 心配しなくていい、彼の復活への貢献を湛えて、その名を永劫に残そう」

「約束しようとも。君は……我々にとって、大切な存在なのだからね」

「――――――そこまでだ」


 凛とした声が、四人の間を貫いた。

 やがて、その空間に至る通路――――フローラの来た道から、いくつかの足音が近づいてくる。

 闇の回廊を抜けてやって来たのは……鮮やかな金髪と、蒼天の如き礼装、白銀の武具を身に着けた女騎士と、二人の従者。

 フローラは、その名を、その姿を、その存在を確かに知っていた。


「この街での狼藉は、聖騎士団の名に於いてこのアデルミラ・ヴァスケスが許さん」



*****


 現れた聖騎士――――アデルミラはそのまま進み、少女を背に隠すように、三つの人影に向かい合った。

 鷹のような眼光は、三人を隙無く見据えていた。

 その間に、配下の騎士……バルトロメはフローラを抱き上げ、ノエはその二人を守るように付き従う。


「――――おやおや、見つかってしまったかな。聖騎士団とはまた。……だがご存知の通り、死霊術は罪ではないだろう?」

しかり。この痛ましい亡骸も、ここに偶然あったのだよ。……我々がやった証明などできるまい?」


 悪辣そのものの二人にアデルミラは拳を握り締め、その怒りを……口もとは集め、告げる。


「違う」

「ほう? ……違うとは?」

「我々の到着を以て、限定的ながら条例は復活した。……この城塞都市において、死霊術士ネクロマンサーは発見次第取り締まりの対象とする」

「何?」


 怪訝そうなローブの二人に向け、ノエがせせら笑って続ける。


「つまり……地下でコソコソ女の子怖がらせてる魔法使いの話なんて、聞く価値ないって事ですよ。仮にあんた達が死霊術士じゃないとしてもこの状況は言い逃れできません。さっさと魔法でも使ってください。こっちはさっさと抜きたいんですから」


 ローブの二人の顔からにやにや笑いが消えた時――――玉座に座っていた“それ”がおもむろに立ち上がる。

 目方にして、アデルミラの背丈の二倍以上はある。

 皺だらけの肌でありながらその手足は驚くほど太く、指先からは鋭い爪が伸び、影のような黒い長髪は不気味に脈動していた。

 そして。


「ぎゃっ!」

「げぁっっ!」


 “それ”は魔法を唱えかけていた二人の身体を後ろから貫き、持ち上げ、虚空に向けて串刺しにしたまま掲げた。

 そうなれば吐血のひとつもして、突き立てられた傷口から血が滴り落ちても不思議でないのに……彼らは、血の一滴も垂らさない。


「何だと……? 貴公、いったい……」

「く、“黒の災厄”……!」

「おい……なんだって?」


 フローラが呟いた一言を、バルトロメは聞き逃さなかった。


「“黒の災厄”、だって……さっき……!」

「っ……何でこう悪い報せが続きますかね! 副長、手伝いますよ。ここで……」

「いや、ノエ。私が時間を稼ごう。予定通りに行え、いいな」

「ですが……!」

「それより卿は、バルトロメと一緒にその子を連れて逃げろ。“あれ”まで時間もないのだから」

「副長……死なないでくださいよ?」

「無論だ。聖騎士に殉教は許可されていない」


 アデルミラは、剣を抜く。

 目の前の“災厄”を前に微塵の気後れもなく、むしろ、圧するように。

 磨かれた魔銀の長剣は暗渠の玉座の間を照らすあわれな燭台の灯を跳ね返し、巨体をそびえさせる“伝説の吸血鬼”を照らした。

 対峙する二人を見比べ、そして視線はアデルミラを案じるように、大柄な騎士の腕の中でフローラは訊ねた。


「お、お姉ちゃん……」

「ん……?」

「ほ、本当に……勝てる、の……?」


 その言葉を待っていた――――とばかりに、アデルミラは微笑み、しかし視線は“黒の災厄”に保ったまま答えた。


「ああ、勿論もちろんだ。我々は、そのために戦ってきたのだから」


 そして、バルトロメは少女を抱きながら通路へ向けて駆け、数拍遅れてから、ノエも後を追った。

 地下の玉座の間で対峙する聖騎士と吸血鬼。

 貫かれたままだった二つの死体が大きく脈打ち、見えている手と足首、そして顔が段々と萎びていき……風化し、砕けながら“災厄”の足元に落ちた。

 “災厄”は幾度も咳き込み――――言葉を発した。


「――――く、かっ……! はは、ははははっ!」

「貴公……喋る事が出来たのか?」

「はははっ……! ようやく……喉の乾きが癒えた。受肉してそう間もなかったので、発声もできずに苦心したよ」

「それはおめでとう。産声を上げたばかりで申し訳ないと思うが、貴公には……この世から消滅していただく」

「ふん。……見慣れぬ服装だ。四世紀も経てば変わろうが……無謀ではないか?」

「いや、企みは用意しているので安心するといい」


 “黒の災厄”の肌には、いまだ皺が刻まれてはいる。

 だが、精気と活力は満ち、死霊術士の魔力を取り込んだ事は疑う余地がない。

 アデルミラの胸中に怯えが無いと言えば嘘になる。

 だが、それでも彼女は立ち向かう。

 城塞都市の。

 王国の。

 市民の安寧のために、彼女は剣を抜いた。


「それでは……目覚めの一杯をいただこうか」


 アデルミラの視界で――――突如、“災厄”の姿が拡大した。

 軌道を読むより早く、本能と気配とに任せて彼女は右前方へ転がり込んだ。

 上下逆転した世界の中で見えたのは、その手刀が寸前まで彼女の心臓があった位置を穿ち、石壁を薄板のように砕く光景。

 体勢を立て直し、立ち上がるより先に、長剣の先から光の矢を放つ。

 しかしそれは“災厄”の身体へ当たっても……効果は薄い。

 肌の焦げる匂いがわずかに立ちこめただけだった。


「ふうむ、中々だ。少なくとも、四世紀前の聖職者どもと比べれば痛いぞ」

「…………どうしても、気になる事がある」


 壁に突き刺さった腕を引き抜き、埃を払い、“災厄”は再びアデルミラへ向き直る。


「貴公を、アンブロシオ修道院から奪取したのは何者だ? あの地の封印は厳重だったはずだ。……修道士は残らず使徒と化していた。何者の仕業だというのだ」

「……私が、手助けなど借りたと? 冗談ではない。自らだよ。自ら出たんだ」

「何だと?」

「様子を見に来た修道院長とやらの身体を借りて、後は容易たやすかったよ。純潔の徒の血液があんなに用意されていたとは。私を祀り、供物をくれていたのかと思ったよ」

「…………キサマ」

「……ふむ、君もどうやら乙女のようだ。君たちの戒律はとても素晴らしいと私は思うよ」


 舌なめずりする“黒の災厄”。

 歯噛みし、怒りをあらわにするアデルミラ。

 ひりつくような視線を首筋に感じながら、彼女は構える。

 しかし。


「――――遅いな、君の世界は」

「!?」


 またも、目で追う事すらできず……目の前に、“災厄”がいた。

 振りかぶった爪を長剣で慌てて防ぎはするものの、爪の先端で薙がれた腹部に鋭い痛みが走り――――そのまま身体が持っていかれ、先ほどまでいた場所へ人形のように振り回され、投げ飛ばされてしまう。

 手刀で脆くなっていた石壁へ叩きつけられ、内臓と骨を痛めつける衝撃を全身に受けてアデルミラの身体は壁の向こうへ突き抜けた。


「がはっ……!」


 壁のすぐ向こうは、地下水道だった。

 生活排水の流れ込む、腐臭にまみれた、ドブネズミと蝿の楽園。


「が、ふっ……うぇっ……ぐう、うぅぅ……!」


 美しい金髪も、しみ一つない聖騎士の衣装も、革と軽金属のブーツも、汚水にまみれさせ……アデルミラは空気を求めて喘いだ。

 彼女を追うように“黒の災厄”は粉塵の中から、地下水道の臭気に顔をしかめさせて現れる。


「いい加減に……諦めてくれたまえよ。乙女の血を、このような無作法な悪臭でけがしてよいはずがない。頼むから、美酒の詰まった瓶を粗末に扱うな」


「ふ、ふっ……く、ぅ……くくっ……!」

「……痛いか? 苦しいか? 先ほどの一撃で死ねていれば、感じずに済んだのだぞ? さぁ、死を請え。純潔の騎士よ」

「は、ははっ……」


 やがて“黒の災厄”は気付いた。

 眼前の聖騎士は、苦しみ悶えているのではない。

 それとともに――――聞き慣れない音が、彼方から押し寄せてくる事に。


「……四世紀の間、幾度も奇跡が起きたのだ」

「何……?」


 長剣を支えに汚水を滴らせながら立ち上がったアデルミラが呟く。

 それは……勝利を確信した笑みとともに。


「鉱毒に汚染された泉、乾きに苦しむ民がいた。耐えきれず水を飲んだ者は苦しんで息を引き取る地獄の惨状。……そこに、一人の僧が現れた」

「何の……話だね?」

「事情を知った彼は、荷物の中から透き通る水差しを取り出し、泉から汲み取った。毒々しい緑色に変じていた水は、その中で清浄な水へと変わり……村を救ったのだ」

「だから、何だと……!」

「その男の名は、せいベリサリオ。彼が遺した水差しは、満たした水を祝福されし聖水へと変える聖遺物、“ベリサリオの聖水瓶”として聖騎士庁に保管された」


 “黒の災厄”は、気付く。

 押し寄せてくるそれは――――大量の水の音だと。


「貴様……! まさか!」

「我々は、この都市を貫く運河の水源にそれを沈めてきた。それとともに……地下水道を文字通り一掃する計画を立てたのだ。……逃げるか?地上は今、昼前だぞ」

「キサ、マアアァァァァァ!!」


 やがて訪れた聖水の奔流は、やがて二人を飲み込んだ。

 “災厄”が翼を伸ばす事も、身体を霧へ変える事もできないまま。

 アデルミラは胸の前で剣を構え、短く呪文を唱えた。

 水流の中で吸血鬼は身を焼き尽されながらなす術もなく、運河へ空いた排水口へと、壁に幾度も叩きつけられながら汚物のように押し流され、出口の鉄柵を突き破りながら真昼の城塞都市へ現れた。


 そして彼は――――蒼天のもとに、その存在を引きずりだされたのだ。


*****


「ぶはっ……!」


 防御の呪文を唱えてはいても、聖水の奔流に揉まれたアデルミラは消耗していた。

 意識を失わずにいられたのは、奇跡と言ってもいい。


「副長!」

「し、仔細しさいない……! それより、奴は……!」


 出口に待ち構えていたノエに引き揚げられながら、アデルミラは、水を吐き出しながら悲痛な苦悶の聴こえる方角へ目を向けた。


「ギャアアァァァァァ――――ッ!! アグ、ガアァァァァッ!」


 そこには、運河の中で……聖水にその身を浸され、太陽の光に焦がされ、洗礼を受ける苦痛の中で、隠れる事もできず、身動きも出来ないかつての“災厄”の姿がある。

 ただし、その姿は……人間のものではない。

 背中から何枚ものコウモリの翼が生じ、皮膚はどす黒く変異しながら陽射しに焼け焦げ、体表にはいくつもの狼の顔が浮かぶ、闇の住人の姿だ。


「よ、ヨク、モ……、ヨクモオォォォ……!」

「四世紀もあれば……貴公を倒せるだけの“奇跡”は出揃う。聖騎士団の始祖ルーツは貴公だ。貴公が再び現れた時に倒せるように……我々はいくつもの奇跡とともにこの時を待った」


 支えられながら立ち上がったアデルミラは、剣を振りあげ……そして、下ろす。

 瞬間、幾条もの光の矢が“災厄”を貫き、その身体を削り取った。


「グアアァァァッ!」


 運河沿いの道に、屋根の上に、アーチの上に。

 百人を超える聖騎士が居並び、その切っ先を向けていた。

 聖騎士の礼装に身を包んだ者だけではなく、衛兵にも似た装備の者、市場の商人に扮した者、不気味なローブに身を包んだ者、様々な姿の聖騎士が揃いの銀剣を突きつけている。


「下ごしらえも功を奏した。今日、この日のために我々は潜伏させた。よもや貴公と思いはしなかったが……この都市の怪物を狩り殺すためにな。この都市には今、千二百の聖騎士がいる。貴公の負けだ、“黒の災厄”」


 聖騎士の用いる光の魔法は、幾度もの研鑽を経て今がある。

 浄化や祝福、防御のためだけではなく、アンデッドを破壊する攻撃の魔法として練り上げられた。

 それは、かつて目の前に居た最上位吸血鬼、“黒の災厄”への攻撃手段の不足から、聖騎士団の前身となった者達の出した解答だったのだ。

 その解答が今――――“出題者”の肉体をズタズタに切り刻み、剥がれ落ちた黒き肉片は聖水の運河に落ち、あるいは空中で陽光に炙られ蒸発していった。

 四世紀の研鑽が、今――――身を結ぶ時。


「グゥ、オ、オォォォッォォオォ!!」


 踏み出すたびに上がる白煙とともに、“黒き災厄”は鈍くなった足取りで、せめて道連れにしようとアデルミラへ向けて踏み出した。

 その間にも聖騎士の包囲から放たれる光の矢がその身を削り取る。

 その身は聖水に浸され、その身は太陽に炙られ、その身は神聖呪文の矢に射ち貫かれる。

 もはや翼を生やす事もできず、両手も千切られ、再生した端から光の矢に削ぎ落とされる。

 それでもなお、“災厄”は踏み出し、己が身をそうさせた女騎士、アデルミラ・ヴァスケスをせめて殺そうともがいた。


「……来い、“黒の災厄”。この私が相手になろう」


 立ち塞がったノエの背を押し、手出しをせぬよう無言で因果を含めた。

 “災厄”の傷は深いものの、アデルミラもまた、骨も臓腑も痛めつけられ、腹部からは未だ血が滲む。

 状況は、未だ五分と五分。

 大口を開けて突進してくる“災厄”、その狙いはアデルミラの頭部を噛み砕かんとして。

 だが、聖水の運河を進みながらでは……無謀、だった。


 相手の心臓を貫いたのは、魔銀の長剣。

 敗れる事となったのは――――“黒の災厄”。


「ぐっ……うっ……!」

「終わりだ、“災厄。”何故貴公が今目覚めたかは……これから調べよう」


 交錯し、倒れかかる巨体を押し留めるようにしながらアデルミラが告げる。

 もはや“黒の災厄”の声に力は無い。


「ふっ……。勝った、つもりか、純潔の騎士」

「……少なくとも、今はそうだよ」

「…………“始祖の最後の一滴”は、私の血じゃないんだよ」

「何?」


 おぞましい変身が解け、巨体の人間態に戻りながら続ける。


「私は所詮、没落貴族さ。……そう、あの日……一滴だけ、血を飲ませてもらうまでは」

「何だと……? どういう事だ! 言え!」

「あの晩、私は妻を失い、娘を失い、死のうと思って剣を飲もうとした。……だが、現れたのだよ。“魔王”と称する者が、私の末期のワインに……一滴だけ、血を垂らしてくれたのだ」

「……“魔王”だと」


 その名に……アデルミラも、離れて聞いていたノエも、言葉を失う。

 対して、“黒の災厄”の四肢はもはや、根元までが灰と化していた。


「私も、せめて役に立ってやりたかったのだがね。仕方ない。……地獄で見届けるとしよう。……魔王に、よろしく伝えてくれ。楽しかった、と……」


 そして――――“黒の災厄”は、消滅した。

 アデルミラの突き出した銀の長剣の上に、赤い雫が一滴。

 やがて、それも……日光に照らされ、破裂音と閃光を残し、消え去った。



*****


「……一滴? たった一滴の血であそこまで強力な魔物を生み出したと言うのですか!? “魔王”ってのは!?」

「――――――望むところだ」


 肩で息をつきながら、アデルミラは呟く。


「血の一滴で世を穢すというのなら。我々は、祝福の大河で迎え撃つまでだ。……“奇跡”なら、幾度でも起きているのだからな」


 四世紀の恐怖を終わらせた聖騎士アデルミラは、力強く立ち上がる。

 アーチの上には、先ほどバルトロメが保護した少女の姿がある。

 聖騎士達は、剣を下ろし――――彼女の合図を待っていた。

 やがてアデルミラが剣を振りあげると……勝ち鬨が上がった。

 その勝ち鬨はやがて伝播し、城塞都市を包み込む歓声となった。


 この日、聖騎士団副団長アデルミラ・ヴァスケス以下聖騎士五百名は城塞都市へ正式に赴任する。


 ――――数日して、王国全土に“魔王降臨”の凶報が舞い込む。

 その時を以て、彼女は城塞都市の兵士の全権を担うのは、また別の話となる。






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