獅子の足跡:猟団を狩る獣


その日は、ひどく冷たい雨の夜だった。

風までは吹かずともとにかく冷え込み、一粒打たれるだけでも背筋が凍る、雪へと変わってしまう寸前の雨粒がさめざめと降り続き、下手をすれば雪の日よりも凍えるほどの寒さを伴う酷寒の夜。

どこかでしのがなければ、体温を奪われて確実に死に至るだろう。


 森の中を、一人の狩人がランタンを手に歩いていく。

 その光源となる蝋燭は今にも消え入りそうに弱く、それが消えた時には狩人の命も、消える。

 ぐっしょりと濡れた外套は体に纏わりつき、細身の体をまるで濡れ鼠のように浮き上がらせてしまう。

 

「くそっ、この雨……おかしいじゃないか、もう春も過ぎかけているのに!」


 濡れた外套に浮きあがった体のラインには、凹凸が見て取れる。

 狩人の名は、ケイト。

 女ながらに狩人を営む彼女は、今日は何も仕留められる事無く、急変した天候の中をひとまず雨をしのげる場所を探し、森を歩いていた。

 本来ならば日が暮れてからの行動は命取りになるというのに、今日は話が違った。

 ベースキャンプに戻った時――――そこは、完膚なきまでに破壊されていた。

 食料は乱暴に食い荒らされ、天幕は引き裂かれ、巨大な偶蹄ぐうていの足跡があり、近くにはへし折られた木があった。

 その痕跡は、ある魔物の存在を物語る。

 人身牛頭の怪物、ミノタウロスだ。

本来は人里離れた山中や地下迷宮を根城にする怪物であり……その膂力は、馬をたやすく引き裂く危険な怪物だ。

ベースキャンプの位置を知られ、携行品を台無しにされて夜露を凌ぐ事もできなくなった。

移動するしかなく……それと出くわさない事を祈りながら、奇跡的に無事だったランタンと、蝋燭数本だけを持って身一つで森を彷徨うことになってしまった。


(聞いてない……! どうしてこんな場所にミノタウロスがいるのさ!?)


 心中で愚痴りながら、その足取りは早い。

 木立の中に視線と気配を感じて、幾度も怯え、振り返りながら……この先にあったはずの小屋を目指す。

 雨のせいで音は聞こえず、匂いも感じられない。

 恐怖が、自然と足を早めさせてしまう。

 やがて、数分して……蝋燭が最後の輝きを放つ寸前に、件の小屋が見えた。

 こちらに入り口を向けている、そう立派でも無い山小屋がまるで、宮殿の扉のように思えた。

 少なくとも雨はしのげて、一息、つける。

 懐から短剣を抜いて、軒先の前で呼吸を整えてから、扉を開いた。

 中は閑散としていて、しばらくは人が寄りついていないらしく……。


(何か、いる!?)


 開けた瞬間、獣臭じゅうしゅうを覚えて鳥肌が立つ。

 もしかすると、歓迎的ではない先客がいるのかもしれない、と。

 さして広くもない、一間の小屋の奥に……何かが、暗闇の中で呼吸しているのが見える。

 思わず短剣を握り締める手が震え、それをごまかすために力が入る。

消えかけたランタンの灯が、静かに呼吸するそれを捉えた。

 だが、その全容が明らかになる前に――――


「――――扉を閉めろ、キサマ」


 倦んだような低い男の声、しゃがれた唸り声も混ざったそれがケイトに向けられた。

 聴いて、ケイトは……思わず、安心してしまう。

 少なくとも、言葉を話せる何者かだった事に。

 だが、その声に従って扉を閉め、改めてランタンを提げてゆっくりと近づけば……再び、その身が強張った。

 先客は、“人間”ではなかった。


 ぐっしょりと濡れた服は下肢を除いて全て脱ぎ捨て、上半身を露わにしたまま、火が入っていない暖炉際の壁にもたれかかり、静かに息を整えていた。

 切り立つ岩山のように鍛え上げられ、無数に走る傷を刻んだ肉体は短い体毛で覆われ、その首から上は……“獅子”のものだった。

 猫に似ていながらも、人間の頭を一呑みにできてしまうほどの巨大な口。

 暗闇に爛々と光る、瞳孔を広げた双眸には一分の隙も無い。

 頬と目の上からは髭が伸び、何よりも特徴的なのは、首を守るように広がる王のたてがみだ。

 “首”の存在を認識できなくさせてしまうほどに生え茂った黄金の鬣が、ランタンの光を跳ね返すように滑らかに輝いていた。

 この男は――――“獣人”だ。


「……あんた、あたしを喰ったりしないよね?」


 微かに皮肉を交え、冗談めかして訊ねる。

 その返答で、安心していいかどうかを判断するために。


「……笑えんな。キサマの痩せ細った体のどこに喰う肉がある」


 闇の中で“獅子”は答えて、長い溜め息をついた。

 その返答の無礼な内容ではなく、受け答えができる事に安堵し、ケイトは暖炉へ近づく。

 少なくともこの先客は、無作法な捕食者ではない。

 暖炉の脇には乾燥したまきが残っていた。

 それを、消える寸前のランタンの灯からくべる。

 “獅子”はそれを見るでもなく、鼻を鳴らして、小馬鹿にするような吐息を立てる。

 やがて暖炉に火が灯ると、凍てつくような雨に打たれて冷え切った小屋を暖め、照らした。


「あたしはケイト。見ての通り、狩人をやってる。あんたは?」

「…………名前は無い。長く呼ばれた名は、“猫”だ」


 ケイトが塗れた外套を脱ぎ捨て、暖炉の前で乾かすように床に広げる。

 先客だった彼は暖炉がついてなおも微動だにせず、ケイトに目を注ぐでもなく、壁に身を預ける。


「“猫”って……あんたのどこがだよ。ンなガタイでさ」


 暖炉の火に揺れるその獣人は、あまりにも大きい。

 肩幅は大人を二人並べたほどもあり、上背は恐らく立ち上がれば二メートルはあるだろう。

 膨れ上がったバカバカしいほどの太さの上腕はケイトのウエストを凌ぎ、その拳はゴツゴツにふしくれだち、巨岩から削り出したような迫力を持つ。

 もしも今殺し合ったとしたら……五秒も持たず、ケイトがバラバラに引き裂かれるのは間違いなかった。

 だがこの獣人に、戦意はない。

 それが分かったから、彼女は肌着を除いた全てを脱ぎ捨て、シャツも、革ズボンも暖炉の前に広げ、暖を取った。


「……ったく。“ワイルドハント”が出たなんて噂の次は、こんなおっかない獣人と一夜を共に、ってかい。冗談のキツい世の中になっちまったよ、ったく」


 半裸のまま暖炉の火にあたりながら、ケイトは独白する。

 が……意外にも、獣人は耳をぴくりと震わせ、それに食い付いた。


「“ワイルドハント”とは…………何だ?」

「知らないのか。あたしらの言い伝えさ。漆黒の鎧を着て駆ける、この世ならざる狩猟団。そいつらは野を駆け、村を蹂躙し、その道に立ち塞がった奴を冥界へと連れて行く。まぁ……ケチな民話だよ。でも、最近はそうでもなくなっちまったのさ」

「ほう」

「北の集落でさ。住民が一人残らずいなくなっちまった。村には大量の蹄跡とデカすぎる獣の足跡が残って、血痕も。……だから皆、噂したんだ。ワイルドハントに連れて行かれた、ってさ」

「……そいつらは強いのか」

「知らないよ、そんなの」

「知らんだと? 今言った、キサマらの知る種族だろう」


 ケイトは溜め息をつき、意外にも話題に深く食い付いてきた“獅子”に呆れた顔を向けた。


「あのな。ワイルドハントってのは種族じゃなくて伝説なんだよ。ゴブリンやらエルフやらと違って、誰も見た事なんてないのさ。亡霊の狩猟団なんて誰が信じるって? ドラゴンと同じさ」

「ドラゴンはいるのだがな。キサマごときが信じようと信じまいと」

「ムカつくね、あんた。暖炉にあたらないのか? 遠慮すんじゃないよ」

「俺に火は必要ない。火など、キサマら小動物のものだ」

「ドラゴンだって火は吐くだろ?」

「ドラゴンは俺より弱い」

「……何言ってんだろうね、あんた」


 その滑稽なやり取りに、ケイトはしばし不安を忘れた。

 季節外れの氷雨、ミノタウロスの痕跡、立ち上がった“ワイルドハント”の不吉な噂。

 今、共に居合わせる獣人もまた油断ならない存在のはずなのに、恐れはない。

 その牙が向けられる事は無い、と。

 満たされた状態の獣は捕食者にはならない、と分かっているから。

 だから――――日が昇るまでのほんの少しだけだが、眠る事もできた。



*****


「……ん」


 鳥たちの囀りでケイトが目を覚ますと、そこにはもう獣人はいなかった。

 彼はもう発ってしまったのか、抜け落ちた鬣を残すだけだ。


「あいつ……せめて声ぐらいかけていけないのかい。無作法だね」


 すっかりと乾いた衣類を身に着け、矢筒と弓を背負い、短剣をベルトに差し、最後にまだ微かに湿った外套を羽織り、出発の準備をする。

 雨は完全に上がったようで、冷たい風も吹き込んでこない。

 だが――――不快な臭いが漂ってくる。


(何だ、こりゃ……? 死臭? いや……)


 大型の動物の臓腑が外気に晒され、腐り始めると……独特の死臭が漂う。

 それは場慣れしない者が嗅ぐと反射的に嘔吐を催すようなものだが、ケイトは耐えられる。

 背負ったばかりの弓を取り出し、矢を用意して、そっと息を殺して小屋の扉を開ける。

 すると……途端に死臭がきつくなり、饐えた獣の体臭もまた同様に漂う。


(まさか、あいつ!?)


 匂いを頼りに、木立ちに身を隠しながらその元を探す。

 たかり始めた蝿の羽音を手掛かりに、一夜を明かした小屋の裏手を駆けていくと……そこには、“死体”があった。

 ただし、それはあの獣人のものではなく。


「ミノタウロス!? な、何で? 何で……死ん……」


 その死体は、ゆうに三メートルを超える牛頭の魔物、ミノタウロスのものだった。

 それも尋常ではないほどの損傷を受け、仰向けに倒れている。

 胸郭、腹部はべっこりと凹み、痛々しくいくつもの打撲痕が残っている。

 右腿の骨は開放骨折かいほうこっせつを起こして体外へ骨が露出し、桁外れに大きな両手の拳も砕けて無惨な有り様となり、極めつけは、頭部の損傷。

 自慢だったはずの角もまた砕けていくつもの破片を飛び散らせ、完全に潰れて……地面との境目が分からない。

 体液の具合と蝿の様子を見るに、昨夜から今朝未明にかけて殺されたものに違いなかった。


「どうやりゃ、ミノタウロスをこんなふうにしちまえるってんだ……?」


 不審、というよりは不気味さをケイトは覚える。

 ミノタウロスがいる事もだが、その死体のありさまは、惨殺と言っていい。

 足の蹄のサイズと形状からベースキャンプを荒らした個体なのは間違いなく、そして今、ここで何者かに殺されている。

 

“何か”――――とてつもなく危険な“何か”にやられたのだ。

 それも、反撃の手段を全て砕かれながら。



*****


 狩った野禽を路銀へ変えて、また装備を整えて山狩りの日々を送る――――気には、なれなかった。

 ケイトは数日の間、近くにあった街道沿いの農村へ身を寄せていた。

 いなかったはずのミノタウロスが出没し、それが何者かの暴威に晒されて屍を晒す。

 “ワイルドハント”の不気味な噂は更に広まり、とても……森の中に独りでいる気になれなかったからだ。


 十数人の兵士が駐屯する村の中で、ケイトは落ち着かない日々を送る。

 この時期ならば冬ごもりを終えた兎も、狐も……森に溢れているはずだ。

 だが、森や山の中へ分け入る覚悟が、どうしても持てない。

 ひとり無頼を気取ってはいても、ケイトはあくまで狩人であり、傭兵ではない。

 “戦う”ことなど、できない。

 灰色熊グリズリーのような“獣”ならばともかく、ミノタウロスは討伐隊を組んで熟練の兵士が戦いに行き、それでも何人かの犠牲が出る事も珍しくないようなモンスターだ。

 あれが一匹だけであったという保証も、もちろんない。

 ひとまずちまたを騒がすあれこれが落ち着くまでと自分に言い聞かせ、宿を取り、ただ過ぎ去る日々を送っていた。


 そんな、ある日の事だった。


「そういうわけで……祭りに必要なんだよ。鹿を獲ってきてくれないか? 角の立派な雄を」


 その村の長が、宿屋で朝食を取っていたケイトにそう持ちかけてきた。

 粗末なパンを口の中に放り込み、ミルクで流し込み、彼女は考え込む。

 鹿を見つけるのは、容易いが……割に合う報酬を提示されるか。

 異変の起こる森の中へ踏み込むのは、どうしても勇気が要る。

 とてもではないが、“相場”では受けられなかった。


「受けてくれるなら銀貨、二十枚だ。仕留めて帰ってくれるなら、更に出すよ」

「……悪くは、ないね」


 本音を言えば……危険を考えると金貨で五枚は欲しい。

 だが、農村の宿屋で時を過ごしすぎて……無意味な散財を避けてはいても、懐はだいぶ頼りなくなってしまった。

 仕事をくれるというのならば、それはありがたい事だ。

 鹿を追って仕留めるのは、相応に狩人としての場数を踏んでいたケイトには難しくない。

 銀貨二十枚は充分に破格と言っても、いい。

 加えてそれは基本給であり、獲物を持ちかえれば追加の交渉も行えよう。

 つまるところ、選択肢はない。


「分かった、受けるよ。ちょうど……あたしも、身体がなまっていたんだ。昼にでも発つ。二~三日待ってくれるかい」

「ありがたい。もし必要なものがあれば言ってくれ。可能な限り、こちらで用意するよ」

「よし。……とりあえず携行食と天幕、水かな。適当に頼むよ」


 ケイトは残っていたチーズを一息に飲みこみ、ミルクを乾して、立ち上がる。

 部屋に置きっぱなしの装備品を点検しなければならない。

 あれ以来、手入れは欠かしていないにしても……使っては、いなかった。

 再び命を預けるためにも、今一度見直す必要がある。


「……ったく、もう少し……楽な商売を見つけるんだったよ」



*****


 翌日からの狩りは、これまでになく慎重なものになった。

 ベースキャンプの周囲には接近してくる者を知らせる鳴子を仕掛け、罠も巡らせた。

 それも兎や鳥を捕らえるためのトラップではなく、杭を仕込んだ落とし穴と、心拍の不整を起こさせる毒矢の仕掛けと……物騒なものばかりだ。

 村人には決して森に入るなとよく言っておかねばならないほどの、危険な罠で身を守らねばならなかった。


(……本当に、何でこんな準備しなきゃならないんだ)


 ただ鹿を仕留めるだけのそう難しくもない狩りなのに、同業者に知れたら正気を疑われそうな警戒に苦笑する。

 だが、どうせ……他に食う扶持はない。

 どれほど危険で、何の保証もなかったとしても……他の生き方に興味がない。

 ケイトの年齢はまだ二十の半ばにも至っていない。

 募兵に応じて“猟兵”を目指す道も、なくはない。

 それは兵士志願者の中でも森林労働者などを起用して編成される、森林や山中での任務を任される精鋭兵士であり、その問われる才能にはかなりの高給がつく。

その中には鋭敏な知覚を持つ獣人も珍しくはないと言う。

 だが、ケイトはその道を選ぼうと思った事は無い。

 というのも、彼女は――――“何かに属する”という事を、嫌っていたのだ。


 訓練がキツそうだとか、人付き合いが苦手だとかではなく……属するという概念が、理解できない。

 村社会、階級社会、派閥、種族、国家。

そういったものを軽んじてはいなくとも……“属する”“同じ旗を持つ”というのが嫌いだった。

誰かを盛り立てていこうと思った事もなく、何かのために尽くしたいと思った事もない。

特に何かがあった訳でも無く、ただ、性分として物心ついてからはずっと、そうだった。

だから……ケイトは、気の向くままに生きる事を決めて、独学で弓術と追跡術、解体術、天候と方角の読み方を覚え、この道へ入った。


「あぁもう、ゾッとしない……。さっさと仕留めて帰りたいね、まったく」


 空は、晴れていてさえも嫌な気配があった。

 何処、と訊ねられてもケイトはすぐには答えられない。

 初めて見る名画の、不自然な重ね塗り部分。

 初めて聴く交響曲の、奏者のほんの一瞬のトチ・・り。

 そんな……微かな、しかしどことはすぐに言えない違和感だ。


 やがて、最初の手掛かり。

 産み落とされて・・・・・・・間もない、鹿のフンを見つけた。


(……神様、今度から教会ぐらいは見つけたら行ってやる)


 愛用の弓を撫でてから――――追跡は、始まった。



*****


「っし! スピード記録だね、こいつは」


 呆気なく、“鹿”は仕留められた。

 念のために常備していた毒矢で身を守るような事態は起こらずにいてくれた事に安堵する。

 いつもの数倍もの時間を費やさねばならなかったのは手痛いものの……安全に狩りを終えられた事で、ケイトは自信を取り戻せた。

 その点で言えば、充分に実りのある仕事と言える。

 後は解体し、肉と……村長に提示された条件は、頭部、特に枝角。

 可能な限りに肉を削ぎ、多少は上前をはねて自分用に持ち帰って干し肉を作るぐらいは、許されるはずだ。

 そう考え、ケイトは解体用のナイフを取り出し、手際よく皮をはぎ、筋肉の走行に沿って切り込み、骨から外していく。

 詰められるだけ背嚢に詰めて――立ち上がって、凝り固まった腰を伸ばすように空を仰ぐ。

 作業を続けること、一時間強。

 ようやくめぼしい肉を採り終えて、後には骨と内臓、血が残った。

 それらは森が消費してくれて、虫になり、鳥になり、やがて獣になる。



*****


 ケイトが、成果を持ち帰るべく村を目指すと……妙な音が聴こえてくる事に気付いた。

 合間には――――悲鳴と絶叫も。


(何だ? まさか、山賊!?)


 鹿の頭と背嚢を下ろし、木立ちの濃いルートを探し当てて、林の中から村へ近づいて行く。

 近づくほどに――――おかしな事が増えていく。

 足元の草は霜が降りて、うかつに踏めば音を立ててしまう。

 気温は低くはなく、肌寒さはない。

 なのに、吐いた息は白く曇ってしまった。

 霜の降りた草を触れば確かに冷たいのに、その冷たさを保てるような“寒さ”はなく、気温はむしろ暖かい。

 もはやそれは、“異常”だ。

 違う次元から来た見えない“冬将軍”が、じわりじわりとこちらの次元を侵しているような、忍び寄る影のような、不吉な冬を感じる。


 やがて、村へ十数歩というところまで近寄り、木陰に身を寄せながら、様子をうかがう。

 そこは――――“狩り場”へ変わっていた。


「や、やめろ! やめてくれ!」

「子供を! 子供を返して!」

「いや……っ! 放して、放してよぉっ!」


 幼い子供達が、馬車へと据えた鉄の檻へと放り込まれていく。

 若い男達は首輪で数珠繋ぎにまとめられ、同じく引っ立てられていく。

 女達は、目に涙を浮かべて許しを請いながら……子供達とは別の馬車へ。


 黙々とその“選別”を行っている者達の風体は、異様だった。

 漆黒の重装鎧で全身を覆い、その関節部分からは黒煙が漏れ出し、声を一つも発しない。

 兜は頭部をすっぽりと覆うものではなく、顔面部分が見える意匠デザインのものなのに……あるべき顔が、ない。

 形のない亡霊が鎧を着ているような謎の兵士が、見て取れるだけで二十人強。

 加えて、村の広場には……更に悪い存在が鎮座し、駐留していた兵士と、抵抗を試みただろう村の若者の死体を貪り、口元を血で赤く染めていた。


(マ、マンティコア? まさか、マンティコアか!?)


 家ほどもある赤銅しゃくどう色の猫科の獣の身体に、蠍に似た毒針を持つ尾、その顔面は……人間の老人と、ある“獣”をロクにかき混ぜずに融合させたような醜悪な顔だった。

 大樹のように太い前肢の爪の間からは犠牲者の上半身が天を仰ぎ、尾は地面を叩き、太鼓のように音を立てている。

 久方ぶりに味わう人間の肉を、骨を、臓腑を、一心不乱に貪り……魔物、“マンティコア”は満悦の様子だ。


 無論……そんな魔物が、この一帯にいるはずはない。

 ずっと温暖な地域の森林、もしくは砂漠地帯に生息するものだ。

 ケイトとて、どこかで知り合った吟遊詩人か流れの傭兵に聞いた話でしか知らない。


(それに……まさか、あいつら……噂の“ワイルドハント”!? バカな、実在したのか!?)


 黒い鎧の一団は……振る舞いを見るに、伝承と合致する。

 漆黒の鎧を着て霜の足跡を残して旅する亡霊の猟団、ワイルドハント。

 それは田畑を踏み荒らし、村を蹂躙し、逆らえば冥界へと連れてゆく。

 狩りを好んだ者が死後に彼らに加わると言う説、英雄の一団が仲間を探しているのだという説、忌まわしき死霊が自らの後継となる者を探しているという説。

 伝承、神話、あるいは忌むべき話として、土地によって細部は違うが大して変わりはない。


 ――――だが、変だ。

 遠く、下手をすれば海を隔てて離れた地の魔物であるマンティコアを猟犬のごとく従えている説明がつかない。

 彼らは、本当に……時に神秘性すら交えて語られる、“ワイルドハント”なのか?

 邪悪さしか、感じ取れなかった。


その時、ケイトは自分が弓を握り締め、矢筒に潜めた毒付きの矢を無意識に取り出しかけている事に気付く。

はっとして――――狙いまでも、最も近くに居る一体のワイルドハントに定めかけている事にも。


(何……何、やってんのさ、あたしは……?)


 多勢に無勢だ。

 仮に不意打ちでそれを倒せたとしても、矢の本数はワイルドハントの総数に及ばない。

 全てを射る時間など望むべくもなく、更には奥に控えるマンティコアも黙ってはいないだろう。

 殺されて食われるか、生きながら食い殺されるか。

 それとも――――ワイルドハントに縄を打たれ、どことも知れぬ場へと連れて行かれてしまうか。

 もしくは……息を潜めて、やり過ごすか。


(っ……ふざけんじゃないよ、あたしは……何だ、ってんだ、あんな奴ら!)


 ケイトが見たのは、檻の中で泣き叫ぶ子供達の姿。

 彼らの姿は孤高を気取るケイトにすら、義憤を取り戻させ――――矢を、番えさせた。

 しかし直後に、見てしまう。


 マンティコアの血に染まった口と、ワイルドハントが、剣で突き刺した村人を“餌場”へ放り投げる姿を。

 その村人は、まだかすかに動いていた。

 マンティコアは、まるで……“ヒト”のようにニタリと口を歪めてから、卑しくしゃぶるように、かろうじての生存者を――――。

 たったそれだけの事で、決意は萎えて……番えた“反撃”を、力無く、納めてしまった。


(うあ、あ……あたしは……お、臆病者……だ……! 最、低……の……!)


 視界が潤み、鼻の奥に息苦しさを覚えた。

 その時、だった。


「――――あれが、“ワイルドハント”か」


 音もなく後ろに居たのは、あの冷たい夜の“獅子”だ。

 座っていた姿しか知らなかったが……目方めかたどおりの巨体は、ケイトの背丈を楽に超えていた。

 遠目に見えるワイルドハントが、華奢に思えてしまうほど膨れ上がった肉体は、木立の中に隠れる事などできない。


「あ、あんた……どうして、こんなトコに……?」


 “獅子”は、応えない。

 応えない代わりに……ずんずんと歩みを進め、響く足音も高らかに、ワイルドハントの狩り場でありマンティコアの餌場と化した、村へと……迷う事無く、向かう。


林を抜け、ついに“獅子”は村へと侵入した。

そのあまりにも無造作な歩みに、ワイルドハント達は困惑したのか……しかしやがて剣を抜き、がしゃがしゃと脚甲の音を立てて、“獅子”へとまず一人目が肉薄する。

瞬間だ。



*****


 砲弾が炸裂したような音とともに、村が揺れた。

 土煙が晴れた時、あったのは――――直上から叩き潰され、黒光りする金属の塊へと姿を変えたワイルドハントの姿。

 やがて隙間から黒い靄が飛び出すと、甲高い奇声を上げ、消滅。


「……どうした? 俺を狩りに来い」


 たったの一撃。

 “獅子”は、一撃の……素手の鉄槌打ちだけで、重装鎧のワイルドハントを文字通り潰してしまった。

 硬直の後、事態を受け止め切れていないワイルドハントが大剣を振りかぶり、“獅子”の脳天を割るべく突き進む。

 だが、そのワイルドハントの姿がぶれたかと思うと……鐘を叩くような音を残し、十数メートル吹き飛び、別のワイルドハントを巻き込んで倒れ、二度と動く事はない。


 “獅子”は、歩みを進める。

 裏拳を放てばワイルドハントの首が百八十度捻じれ、鎧のみを残して黒い靄となる。

 地摺りの足払いは脚甲を捻じ曲げ、とどめのストンピングは胸甲ごと胸を踏み砕いた。

 踏み込みとともに放つ拳は……流星りゅうせいの貫く如く、三体ものワイルドハントを串刺くしざすように打ち抜き、ほふる。

 放たれた剣も、槍も、およそ巨体に似合わぬ敏捷性で掻い潜り、避けられぬものがあったとしても、首を守る鬣が刃を受け止める。

 ――――それに対するカウンターの鉤突きフックがワイルドハントの脇腹を打ち抜く。

 飛ばされた者のどれかが当たったのか、子供達が詰められていた檻の扉がひしゃげ、すっかりと錠が機能しない状態へとなっていた。


「……軽いな。キサマらの鎧は、軽すぎる。まるで……小動物の隠れ蓑だ」


 片手で顔面を掴みあげ、ワイルドハントを二体宙吊りにさせたまま、“獅子”はそう漏らす。

 兜の軋む音、歪んでいく不快な音は……もしかすれば、ワイルドハントに、恐怖を覚えさせたのかもしれない。


――――――“狩られる”という、恐怖を。



*****


「なんだ、アイツ!? 強い、なんてもんじゃ……!」


 徒手空拳のままワイルドハントを塵でも払うように蹴散らす、“獅子”の姿。

 それはあまりにも馬鹿げていて……それでいて、胸を躍らせた。

 何者にも決して屈せぬ、獣の王。

 その姿が、今目の前にあった。

 恐らくは、あの晩……彼は既に、ミノタウロスを倒していたのだ。

 無論、素手で。


 見れば、ワイルドハントは――――全滅していた。

 残されたのは、広場で死体を貪る魔獣、マンティコアのみ。

 かたや人間の老人を混ぜたような醜悪な顔面を持つ魔獣。

 片や、徒手空拳の獅子面の獣人。


 そいつらは、今……互いの息のかかるような距離で睨み合っていた。

 巨躯の“獅子”だが、それすら子供に見えるような大きさのマンティコア。

 彼らは今、互いに手を出す事無く、猫科の喧嘩のように、互いの毛を逆立てて隙を探る。


「ここ、からなら……援護、できるか?」


 番えかけた毒矢を手に、村の中を見渡せる位置を探し、マンティコアへ狙いをつける。

 狙いは、不気味なほどに人類の面影を残した右目。

 目を潰されれば、怪物とて怯むはずだ。

 きりり、と引き絞った弓が軋みを上げ、解き放つ。

 風を切る音がマンティコアの右目へ向かい――――しかし、貫く事は無い。


(え……? アイツ、何してんだ!?)


 “獅子”が、その矢の半ばを掴み止めていた。

 加えてケイトを睨み付け、ほのかな怒りに口もとを歪めて。


「まさか……邪魔するな、って……?」


 その呟きを“獅子”が拾えたかは、定かではない。

 マンティコアが右目側の異変を察知し、顔をケイトへ向けた瞬間。

 “獅子”の蹴り上げが顎を真下から打ち抜き、マンティコアを大きくのけ反らせ……へし折れた牙と泡立った唾液が宙を舞った。

 直後――――空を引き裂く稲妻のごとき咆哮。

 それはケイトも村人も、マンティコアのものだと思ったが違う。

 獣人の喉から――――名乗りを上げるように、絞り出されていた。


「ぐぅっ……!」


 ケイトは、思わず耳を塞ぐ。

 鼓膜が裂けそうなほどの、離れていてもなお皮膚が震えるほどの咆哮は、もはや衝撃波と言っても良い。


痺れた耳が回復すると――――肉を打ち、骨を砕き、みちみちと何かを千切り取る嫌な音を拾った。

視線を戻すと魔物と獣人は、もつれ合い、戦っていた。


マンティコアの爪を掻い潜り、前肢の関節部へ拳を叩き込み、へし折る。

噛みつきがくれば姿勢を低めて腹の下に潜り込み、立ち上がりながら、地面を大きく窪ませて直上への拳打で腹を打ち……マンティコアはその衝撃で、大量の吐血とともに犠牲者達を吐き戻した。


その拳は、彼らを救う事には間に会わなかった。

だが――――弔うために“取り戻す”事は、叶った。


 更に容赦なく、“獅子”の攻撃は続く。

 右の後肢を踏み砕き、蠍の尾による刺突をかすらせもせずに捌きつつ、右脇腹への肘打ち。

精度も、威力も、およそケイトの知る“拳”のものではなかった。


 ――――やがて、一際大きく低い轟音が再び村を打った。


 そこには、頭蓋を打ち砕かれてぴくぴくと痙攣する、“人喰いの魔獣”の成れの果てがあった。


 “獅子”は……ただ独り、獲物を見下ろしながら、拳を下ろした。



*****


 村を襲ったワイルドハント、村を救った獣人の噂は、いつしかその村の伝説となった。

 その後“獅子”は何事も無かったようにその場を後にし、日を待たずに何処かへ旅立ったと。


 くだんの獣人にまつわるいくつもの噂が、村に遅れて届き始めたのは数日後の事だった。

 闘技場で拳奴として戦わされていたが、連勝の果てに自由を掴んだとか。

 地を這う竜と立ち合い、勝利したとか。

 拳を向けるに値する者を探しているとか。

荒唐無稽な伝説ばかりが連なる、奇妙な獣人だという事だけが分かるものだった。


「ったく……言っても信じないだろうね。マンティコアを素手で倒す獣人、なんてさ」


 ケイトは野営地で焚き火へ薪を足して、呆れるように呟く。

 あれから数週間が経つものの、“獅子”とはそれきりだ。

 それが……少し、寂しくもあるのも事実。


(でも、ま……アイツの事だ。アイツに勝てる奴なんて、いないだろうしね)


 星空を眺め、森の中で彼女は独りごち。

 眠るまで……あの痛快な光景を、何度も反芻した。








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