熱砂の戦士団


 容赦なく照り付ける刃物のような日差しの中、赤毛の少年は死へ瀕していた。

 その身体を馬の死骸と荷物とに挟まれ、身動きも取れないまま、圧殺されるような重量でもなく、しかし持ち上げる事もできないまま、太陽光に打たれ続けて。

 ろくに息も吸えない圧迫感を耐えながら、首だけを起こして周囲を見れば……あるのは、見渡す限りの砂の地獄。

 助けを呼ぶ事はおろか、草木を含めた生き物の影すら見えない。

 最後に水を飲んだのは――――否、そこからどれほどの時間が経ったのか、もう少年には分からない。


「かふっ……! ぐ、ぅぅぅ……!」


 すっかりと乾いて貼り付きかけた喉には、もう唾液すら通らない。

 加えて体を潰す荷物の圧迫に耐えかねた喉からは、くぐもった不格好な喘ぎしか出ない。

 偶然にもかぶさってくれたフードのおかげで頭はまだ熱を持っていないが、それはむしろ残酷な拷問だ。

さっさと脳がうだって、正気が飛んでしまえば……少なくとも、楽にはなれるのに。

さっさと死ねてしまえばと少年は、何度も考えた。


 やがて、視界がぼやけ、眼球に残っていた涙までもが枯れたと認識した時。

 少年はようやく、眠りに落ちた。

 耳の奥がざわめくような、複数の――――重い足音、のようなものを聴きながら。



*****


やがて、少年は目を開けた。

ゆっくりと取り戻した世界で始めに見えたのは、黒い山羊皮のテント、その屋根だった。

体には毛布がかけられ、しかし顔はひんやりと冷たくて、すでに日が落ちている事を知った。

少年はまず、ここが天国では無い、と知る。

天国であれば――――闇の中、天幕の下で寝せられているなどという事は無いはずだと。

父の商隊は全滅してしまったのだから、こうしてくれる心当たりはない。

そもそも今、薄ぼんやりと見えているテントの屋根は見覚えのないものだ。

よく見れば黒いだけではなく、茶色、グレー、様々な色の山羊皮を継いで作られたものだと分かる。

しばらく、そのまま……微睡むように、少しずつ意識を取り戻していく。

やがて身体を動かせるほどまで回復したことに気付いて、腕を支えに起き上がった。

見えたのはテントを支える中心の柱と、入り口に垂らされた目隠しの布。

 そこへと投げかけられた、ランプの炎に揺れる影。


「――――まだ、起き上がらない方がいいのよ」


 右手側から聴こえた声に、振り向くと……そこには、見覚えのない少女がいた。

 年齢は少年よりも三、四ほど上に見え――――そう離れてもいないのに、妙に大人びて見える。

 ランプの灯の中で見える彼女の姿は、息を呑むような存在感と、神秘的な美貌を際立たせていた。

 睫毛の長い眠たげな眼は手元の水晶球に注がれ、浅い褐色の肌は瑞々しさを保ち、少しうねった黒髪は胸元まで伸ばされ、しなやかで細い指は砂埃を弾くように整えられ、その爪はまるで都市で見た貴婦人かと見まごうように鮮やかに輝いていた。

 腰の帯には装飾を施した曲刃の短剣を差して、それがランプの灯を反射させて黄金に光る。

彼女は、砂の上に胡坐あぐらを組んで、脚の間に載せた水晶球から一度目を離し、吸い込まれそうな瞳で少年を見る。


「大丈夫? 名前は言えるかしら」

「……エミー、ル。エミールです」

「そう」


 彼女は名前を訊くだけ訊くと、名乗りもせず水晶球を外套の中にしまい込み、傍らの絞り口のついた革袋をエミールへ両手でうやうやしく差し出す。

 その時に聴こえたのは、間違いもなく――――水の音。

 受け取り、エミールは口をつけて、慌てるように水を飲んだ。


 その水は、ぬるかった。

 浴びたとしても決して気持ちよくはないだろう、生ぬるい水なのに――――これまで生きた中で、最も体に沁みた。

 気付けば、エミールは飲んだばかりの水をふいにしてしまいそうなほどの涙を流して、革袋の水をした。

 飲み終えてからもしばらく嗚咽は止まず、それを、傍らの少女は落ち着くまでじっと待った。


 数分してから、ようやくエミールは死を免れた事に気付き、質問した。


「……君は? それと……ここは?」

「一つ目の問い。私の名はナディヤ。部族長ファディールの娘よ」

「部族長……?」

「二つ目の問いは、ここは私達のキャンプ。あなたを見つけた場所からは離れているから安心して」


 矢継ぎ早の返答は、まるで疑問を解消しない。

 ナディヤ、と名乗った少女はそれだけ言うと、次の問いかけを待つ魔法の鏡のように、じっとエミールを見つめた。

 その眼に圧されるようにエミールはたじろぎ、ちらりと入り口を見る。


「……一度、外に出たいんだけど」

「だめ」

「え」

「あなたはまだ横になっていないとだめ。日が昇るまではもう少しあるわ。眠りなさい」

「でも……」

「今度はあなたが私に答えて。……あなたは、どうしてここへ?」


 有無を言わさない、占い師にも似た少女――――ナディヤに問いかけられ、エミールはここに至るまでの事を、語った。

 十四歳を迎えたばかりの少年は、海にほど近い交易都市の商人の一人息子だった。

 その歳になった事で一人の男として認められ、父親と、その懇意にしていた商人たちと、案内人を伴って砂漠を渡り、大きなオアシスへ向かう初めての旅の途中だった。

 そこで……“何か”に襲われ、父親を含めた隊商が全滅した。

 腕に覚えのある護衛を何人も雇っていたにも関わらず、蹴散らされ、吹き飛ばされ、気付いて見れば今、ここにいる。


「興味深いわ。起きたら、詳しく話を聞かせて」


 ざっくりと身の上を語ると、ナディヤはしばし視線を泳がせ、やがてピタリと止まって、再びエミールへと向けられ、横になるようにと促した。

 二度までもそう言われては何も言えず、再び、エミールは砂の上に敷いた布に横たわり、肩の上まで毛布をたぐり寄せて眠ろうとした。

 ナディヤはそれを見てから今度は革ひもでくくった紙束を取り出し、墨壺と羽ペンの準備をした。


「それは……ナディヤ、さん」

「ナディヤでいいわ。これは四行詩ルバーイー。一日の終わりにひとつ詠む事にしているの」

「四行詩、って?」

「……特に意味はないわ。私の日記よ。もう一度言うけれど、休みなさい。あなたが眠り、起きるまで、私はそばにいるわ」


 そうまで言われ……目を閉じると、遠ざかっていた眠気と疲労が襲ってきて、すぐにエミールは眠りに落ちた。



*****


 翌朝、ナディヤに連れられて天幕を出ると――――いきなり、目の前に屈強な体格を持つ大男が佇んでいた。

 笑顔をつくる事など無いような岩盤じみた顔に髭を蓄え、鷹のように鋭い眼でじろりとエミールを腕を組みながら見ている。

 白い長衣の上から更に外套を羽織り、大きな頭には赤いバンダナを巻きつけ、ナディヤと同じく帯には短剣を差して……更には分厚く重い、片刃の曲刀をも提げている。

 隊商の護衛も同じものを提げていたが、彼の持つ者は特段に大振りだった。

 砂漠の盗賊、その頭目のような出で立ちの男に、ナディヤは臆する事無く挨拶した。


「おはようございます、父様」


 ぴくり、と眉をわずかに動かし――――男は長く息をついた。


「……私の名はファディール。お前はどこから来た、誰だったのだ?」


 岩の擦れ合うような、砂を飲み込み続けて涸れたような声で男は訊ねた。

 その名は、昨晩ナディヤが告げた父の名と一致した。


「エミール、です。海辺の交易都市から……父さんと一緒に、隊商に加わって……」

「そこまでは訊いていない。積もる話は朝食の後だ」


 それだけ言うと、男は背を向け――――少し離れていた、同じく屈強そうな一団の男達のもとへ戻り、腰を下ろした。

 見えるだけで、十数人。

 兵士の装束にも見えず、しかしどこか落ち着いた様子の一団は……盗賊の類にも、見えない。


「パンなら焼けているわ。……ほら、食べましょう」

「焼けている、って……かまども何も……」


 見渡す限り、いくつかの焚き火の痕跡しかない。

 パンを焼くための炉も、伸ばすための板も棒も見当たらず、そもそも焼けているというパン自体が何処にも見えない。

 何グループかに分かれたうちのひとつへ、エミールは彼女に導かれるままに焚き火の痕を囲んだ。

ともに囲む白い上衣の若い男が二人、先ほどのファディールに比べればとっつき易そうな顔を向けてきて、さりげなく会釈をすると、彼らはおもむろに――――焚き火の痕、盛られた砂を掘り返していく。

まもなくして……砂の中から、焦げ目の付いた、大きな円形の“パン”が現れた。


「えっ……!?」

「驚いたか? 俺達は、砂を窯にして、埋めた火でパンを焼く。まぁ……食えよ」


 男は小ぶりな丸盾ほどもある“砂のパン”を叩いて払い、四等分に千切って配る。

 エミールはそれを受け取り、眺めると……確かにそれがパンである事を確認した。

 断面はふかふかと空気を含んで膨らみ、そこからは小麦粉の確かな香りが立ち上って――――胃を刺激した。

 それでも、砂の中から現れた事を警戒して、恐る恐る、一切れを口の中に放り、噛み締める。

 もちもちとした食感、小麦の甘さ、じっくりと通され、砂の中で蒸された熱さが口の中でやがて溶け、覚悟していたように砂を噛む事はない。

 小麦と、水と、砂と火。

 たったのそれだけで作られた、砂漠の恵みだ。

 異邦の神話に伝えられる、「天上からもたらされた、食べられる神秘の砂」はもしかすると、これを伝えていたのかもしれない。


「美味しいです。まさか……砂の中でパンが焼けるなんて」

「……この世界にはね。命を拒む場所なんてないのよ」

「え……?」

「パンが焼ければ、人は生きられる。一杯の酒で、人は活きられる。一編の詩を詠めば、人は何かを残せる」


 ナディヤの言葉に耳を傾けながらも、一口、また一口とパンを食べていく。

 やがて全て食べ終え、沸かされていた甘さのきつい茶を飲んでいると――――立ち上がっていた男達がテントを片付け、ラクダの背に布と支えの棒を一まとめにしていくのが見えた。

 彼らは、やはり行商人には見えない。

 誰もが剣を差して、ラクダにくくりつけた矢筒と弓、予備の剣までもが見える。

 何かと戦うために旅をしている。

 少なくとも、エミールにはそう見えた。

 兵士としてではなく。

 傭兵としてでもなく。

 何かの――――誇りを継いだ、伝来の生き方のように。



*****


 ラクダの背に揺られ、野営を挟みながら数日、荒涼とした砂漠を渡る。

 蠍の隠れる岩陰、朽ち果てて古びた柱の遺構、乾いた空気と、灼熱の陽射し。

 頬を掻く砂混じりの熱風に吹かれながらどこへ向かっているのか、エミールはまだ訊いていない。

 どこへ行く予定だったのか訊かれてもいないし、送り届けてくれる風でも無い。


「ナディヤ。……その、どこへ行く途中なんだよ」

「さて。どこにいるのか……分からないから。ひとまず今向かっているのは、小さい集落よ。ところで、大丈夫?」

「何が?」


 ナディヤの操るラクダの背に相乗りしたまま、エミールは訊ねる。


「あなたの……お父様の事」

「…………あぁ、そうだった」


 父は何かに殺された。

だが……実感が欠落している。

 襲ってきた何かの姿を見る事はできず、殺される瞬間は巻き上げられた砂で見えず、その後は馬の死体と荷物に挟まれて辺りを見回す事すらできなかった。

 かすかに記憶にあるのは、護衛と案内人が馬ごと切り刻まれ、転がる風景。

 いなないた馬、叫んだ商人が片っ端から“何か”に襲われる断末魔。

 まさしく砂の中から急に現れたとしか思えない“何か”の、かすれた咆哮。


「せめて故郷に……何か持ち帰ってやりたかったけど。これが、形見になったのかな」


 交易都市を出発前、父に持たされた一振りの剣は、今も腰にある。

 このラクダの旅人たちのものとは違う、両刃の直剣だ。

 さほど業物ではないものの、安物でもない、身を守るためのもの。


「そういえば、ナディヤの故郷って?」

「見えているはずよ。ここ」


 ナディヤはラクダの手綱を取りながら、指し示す仕草もなくそう言った。

 当然、周りにあるのは岩石砂漠のみで……建物すら、見えない。


「私はここで生まれたの。父様も、あなたにパンを渡した“ジャシード”も、今前を歩いている“弓のサフヤール”も。父様の父様、“隻眼のウマル”も。皆、故郷はここなの」


 ここ、というのは――――恐らく、見渡す限りの風景を指しているのだと、エミールはようやく察した。

 砂漠が故郷であり、生涯であり、墓場、と。

 彼女と彼女の部族はそうであると言いたいのだろう、と。


「それはそうと、あなたを見つけた場所。私達がいろいろ調べたけれど、妙だったわ」

「妙?」

「この砂漠には様々なモンスターがいる。だけど……あの惨状は、どのモンスターの仕業とも違っていた。最初、私達はサンドウォームの襲撃を疑っていたけど、それは消えた。食い千切られた痕跡があったの。サンドウォームは丸呑みで捕食するから牙はない」

「じゃあ……バジリスクとか? 翼の音とかは聴こえなかった。いきなり現れたから多分砂の中から出てきたんだ」

「それならまず石化させられているはず。巨大な牙と強い顎を持つ何かだという事は分かったけれど……」


 しばらく、エミールとナディヤが襲撃者の正体について憶測を重ねていると、丘を越えた先に集落が見えた。

 日干しレンガを積み重ねた家の並ぶ、先ほどナディヤが言った通りの小さなオアシスの集落だ。

 だが、近づくほどに段々と隊列の者達に不穏な空気が漂う。

 遠目には何事も無いように見えたのに、崩壊した家がいくつもある事に気付く。

 加えて、人の気配がまるでしない。

 ナディヤは途端に黙り込み、先頭のファディールは周辺を警戒するように隊列へ指示する。

 誰もが、ピンと張り詰めた神経を巡らせて、周囲に鋭く視線を走らせて、集落へとラクダを進めた。


 ――――――やがて、集落へと辿り着くとそこは、虐殺の場だった。


「サフヤール、屋上から警戒しろ。カラディン、ジャシードもだ。後は散開して生き残りを探せ。それと、何か手がかりを残していないかだ」


 隊長のファディールが指示を飛ばして、集落の中へラクダを下りて進む。

 指示された三人は可能な限り高い建物の屋根へとそれぞれよじ登り、弓を手に目を光らせる。

 残った戦士は集落の中へ分け入り、生存者の捜索を始めた。


 ナディヤとともに捜索に加わったエミールは、吐き気を堪えた。

 村の中は、血の海――――いや、“肉片の海”だ。

 一直線に貫かれたように崩壊した家が並び、そこかしこから腐臭が立ち上り、切り刻まれ、食い散らかされた住人の亡骸が見渡す限りに飛び散っていた。

白かったはずの建物の壁は吹きつけたように赤く染まり、崩壊した瓦礫の下からは、下敷きにされた住人の腕がのぞき、ぴくりとも動かない

 村の中心にある泉は――――もう、その水は誰も飲まない。


「何だ、何だよ……コレ!」


 生存者を見つけた、という声はひとつも上がらない。

 死臭に覆われた集落の中は蝿と腐肉食の甲虫が飛び交い、羽音が耳にこびりつくようで――――エミールは、打ち消すようにフードを深くかぶった。


「……手遅れだったようね。この村まで……ヤツに襲われてしまった」


 ぼそり、と呟いたナディヤの声は、重く沈んでいた。

 彼女もまた、フードを目深にかぶって……祈るように俯いたまま、ただ血に染まった土を踏みしめて歩く。

 エミールは、生き残りがいてくれと縋るように村の中を見ていて――――ある家の一角を囲む柵の陰に、キラリと光るものを見つけた。

 近寄り手に取ると、それは、掌ほどもある何かの“牙”だった。

 根元には赤紫色の血と歯茎の肉がこびりつき、乾きかけ……側面はまるで、ノコギリのように尖っている。


「……何か見つけたのか、エミールよ」


 しゃがみ込んで手に取ったそれを検分していると、後ろからファディールの声がかかる。


「多分……これをやったヤツの牙です。抜けて間もない」

「どれ、見せてみろ」


 立ち上がって、“牙”を手渡すとファディールはいっそう顔をしかめ、匂いを嗅ぎ、手触りを確かめ、指先で叩いて、原石でも鑑定するようにひとしきり見終えてからエミールにそれを返した。


「やはり……見た事が無いな。私達が今まで見たどの怪物とも違う」

「俺は、見覚えがあります」

「なんだと?」

「この牙の形……間違いない。俺は、同じ形の牙の生き物を知っています」

「詳しく聞かねばならんな。――――集合せよ! 見張りの三人以外は全員集まれ!」


 ファディールの号令で、散っていた者達が一斉に集まってくる。

 エミールの胸中に、疑問が強まった。

 なぜ彼らは、怪物の出自をここまで気にするのか。

 彼らの戦闘準備は、いったい何に備えてなのか。

 訊けずにいた疑問が、とうとう口から、飛び出し――――ファディールとナディヤに向かった。


「あなた達は、何者なんですか。いったい……何をしに、旅をしていたんですか!?」


 その問いを受け、ファディールは曲刀の柄頭つかがしらを叩き、ナディヤはフードを外した。

 集結してくる者達の身のこなしも、やはり……只者ただものではない。


「少年よ、不思議と思わなかったか? この宝剣は本来、砂漠の民の中でも男にだけ帯びる事を許されるものだ」


 言って、彼はナディヤの腰帯にある短剣を視線で指す。

 生家を訪れた者から聞いたことは、ある。

 その装飾短剣……“ジャンビーヤ”は男性だけが許される礼装だと。

 なのに彼女は当たり前のようにそれを身に着けていたから、今さら訊く事はできなかった。


「私達は、怪物退治専門の戦闘氏族せんとうしぞく。砂の秩序を守り、砂の民を護り、害する者あらばこれをあがなわせる。私達は……“討伐隊とうばつたい”なの」

「我が娘、ナディヤもまた戦士。我が妻も、母も、氏族の者は皆が戦士だ。それ故……この短剣を許される」


 エミールはようやく納得できた。

 彼らが追っていたのは、商隊と集落を襲った謎の怪物。

 だから彼らは少しでも情報を集めようとしていたし、持ち歩く武具が多かった。

 怪物を――――殺す、ために。


「さぁ、聞かせるのだ。この砂漠を食い散らかす、不届きな怪物の呪わしき正体を」



*****


 少年は、集まった戦士たちへ伝える。

 本来なら砂漠にいるはずのない、この“牙”に酷似したものを持つ生き物の事を。

 港へやってきた商人、暖かい海を根城にする漁師たちが伝える、鋭い牙を持つ獰猛な“魚”の話だ。

 小舟ほどもある体に、幾度も生え変わるノコギリのような歯。

 遠く離れていても血の香りを鋭く嗅ぎつけて集まる、蒼海の捕食者――――“さめ”の話を。

 それは魔物などではなく、海に古来から住むれっきとした魚の一種だ、という事も。

 水揚げされた“サメ”を見た事はあっても、これほど大きな牙を生やすものなど無いという事も。

 海に面した都市だから知る事はできたが……ここは、水すら貴重な砂漠。

 そんな所に、抜け落ちたばかりの鮫の歯があってはならない。

 ある限りの知識を語り終え、エミールはようやく一息つく。

 戦士たちは腕を組み、髭をさすり、柄に手を当て、考え込む。

 ナディヤが進み出て、言葉を続けた。


「……私達もヤツを追っていたの。この村を通った時にも若者が数人襲われ、家畜もやられていた。更にその前にも、ここより少し先で水商人が殺された。最後に見た被害があなたの商隊。――――そして、ここへヤツは戻ってきたのね」

「確か……大型の魚には、決まったコースを回遊するのがいた。俺の商隊はたまたまそのコース上を通ってしまったのかも」

「だとすればヤツは、またココへ来る。鮫とやらがお前の言う通りの生き物であれば。どうやら追うよりはおびき出して待ち伏せした方が早いようだな」


 ファディールの目の先には、襲撃を免れた鶏小屋と、その中に生き残った鶏。


「俺の知っている鮫は比較的浅い海を泳ぐ魚です。海上で立つ音にも敏感ですから」

「ますます都合が良いな。……ヤツがどれほど強力な怪物であろうと、来ると分かっているのなら恐るるに足らん」



*****


 それから数日、怪物の到来を待って、待ち伏せの舞台を整えた。

 亡骸は片付け、村の周囲に鳴子なるこを巡らせ、囮とするための太鼓もいくつか見つけた。

 寝起きは屋根の上で行い、いつ襲撃があっても良いように備えて待ち続けた。

 鶏は村の中心に放してあり、一日ごとに村の外へ目掛けて、貯めて置いた鶏の血を振り撒く。

 即席の罠もいくつも設けてある。

この村は虐殺の地から一転して、怪物を嵌めるための罠となる。



*****


待ち伏せて三日目の夜、空には満月が輝いて、松明などなくとも見えそうなほど明るかった。

星々の光を遮る雲もない、このような時で無ければずっと眺めていたくなるような夜空が広がっていた。

それぞれ建物の上に散開し、エミールとナディヤも同じ一階建ての屋根の上で、毛布を体に巻きつけて時を待っていた。

 素晴らしい星空は砂漠の果てまで広がり、空を仰ぐまでもなく目に入る。

 エミールはずっと考えあぐねていた事を、口にした。


「……どうして、俺を助けてくれたの」


 猛暑の中で乾き死ぬところを救われ、水を振る舞われ、パンの施しまでも受けた。

 どれもが貴重なはずなのに……彼らは惜しげもなく、そうしてくれた。

 そうするのが当然であるかのように、恩に着せるような事すらない、陽気な笑みとともに。

 唯一、隊長のファディールはいつも厳めしい面構えをしており、目の前の砂漠の民の少女、ナディヤも彼とは違う方向で表情があまり変わらない。


「……ひとつは、生き延びたあなたの持つ情報を目当てに。結果として、あなたは素晴らしい情報をくれたわ。私達は、鮫という生き物を知らなかったの」


 ナディヤは水晶球を目線の高さに持ってきて、その向かいにある砂漠の風景を遠眼鏡を覗くようにじっと見据えながら答える。


「そしてもうひとつ。理由なんて、不要だったから。苦しむあなたがいて、私達は通りかかった。……もし私達の目的が魔物でなかったとしたら、理由なんていらなかったのよ」


 すっぱりと言われてしまい……エミールは答えに窮した。

 理由などない、と言われてしまっては……これ以上、話を続けられない。

 命の恩人に食い下がる事など、できるわけもない。

 話題を変えようとした時……今度はナディヤの方から語る。


「――――“魔の者シャイタンの 宮殿きゅうでんを撃てり 白き矢の”」

「え?」

「“征矢そやとして 闇をば”――――この先が、分からないのよ」

「何だ、それ……四行詩か?」


 ナディヤが日記代わりの習慣としている、四行詩の一節に聴こえた。

第一、 第二、第四の行では韻を踏むが、第三行ではあえて外す形式の詩だと。

 エミールが理解できたのは、彼女は今――――不完全なそれを詠んだ。


「私達の部族に伝わるもの。恐らく四行詩だと思うのだけれど、この失われた先が分からないし、この前の句があるのかどうかも分からない。次の句に続いているのだから、第四行ではないけれど……しかし第一行と考えるには少し唐突。何を詠うものなのかもわからないから、ずっと考えているの。あなたはどう思う?」


 この旅で分かった事。

 ナディヤは詩について話す時は、よく喋る。

 もしかすると最初に目覚めたあの時は、話したかったのを堪えていたのかもしれないと。

 エミールはしばし考え、その不完全な詩が表していそうな物語を探す。


「何か、英雄の物語とかじゃ?」

「やっぱり、そう思うかしら。でもそうすると――――」


 彼女が見解を述べようとした時、村の外から、紐に渡した鳴子の金属音が響く。

 ラクダや馬の蹄の音はない。

 代わりに、砂の中で蠢く何かの――――血生臭さが、風に乗って漂ってくる。

 エミールは首筋がざわつくのを覚え、息をそっと押し殺して――――次々と響く鳴子の音を、目と耳で追った。


 他の家の屋根の上で、星空の下で矢筒へ手をやる者達の影が見えた。

 やがて、気配が近づいてくると……砂をかき分ける音がはっきりと聴こえ、村の中を動き回るのがはっきりと分かる。

 エミールとナディヤのいる建物の前を、それは通る。

 屋根の上に匍匐ほふくするように、息を殺して音一つ立てぬように、見た。

 さながら断頭台の刃のように大きく突き出した“ヒレ”が、まるで海原のように地中を泳いでいる。

 悪夢のような光景、としか言えないものだ。

 陸を泳ぐ、船のように大きな鮫が砂漠の夜空の下ではっきりと映ったのだから。


 鮫が村の中心に差し掛かった時――――放されていた鶏の傍らへ向け、矢が突き立つ。

 それに驚いた鶏が鳴いたと同時に、“鮫”は……その姿を現した。

 トカゲの放つ威嚇にも、砂嵐の音にも似た掠れた絶叫。

 村の中心で、ほぼ垂直に飛び出して鶏に食い付いたのは――――間違いようもない、鼻先の尖った“鮫”のものだ。

 だが、“それ”には眼がついていない。

 小砲艦にも匹敵する大きさのそれには、泳ぐためのヒレに加えて、禍々しい鉤爪を持つ前肢までが見えた。

 月明りの下で見るそれの体色は判然としない。

 目のない、巨大な顎を持つ砂漠の鮫。

 馬をも食い千切る顎の持ち主は、今――――ここへ、現れた。


「ギョアァァァァァァッ!!」


 飛び出してきたそれが、再び砂に潜る直前――――村に隠れていた戦士たちが一斉に矢を放つ。

 突き立った数本の矢が鮮血を噴きださせ、砂への潜行を取り止めさせた。

 やがて“砂ザメ”は潜らず、姿を晒したまま――――集落の中を暴れ回る。

 あらかじめ鶏の血を撒いておいたため、その鋭い嗅覚は機能しない。

 家の廃墟を薙ぎ倒し、七転八倒に転げまわり、そこを、戦士たちの弓が穿つ。


 エミール達のいる屋根から、およそ十メートルほど先の角へ“砂ザメ”の

鼻先が見えた時に――――ふと、エミールは妙に屋上が明るい事に気付き、ナディヤへ目をやる。

 そこには……火の球を掌の上に生成し、緩やかな手の振りでそれを膨らませていく彼女の姿。

 火の粉が蛍のように寄り集まり、人の頭ほどもある火球が渦を巻く。

 それは、小さな太陽を作り出すかのようで――――


「ま、……魔法!?」


 エミールが驚くのも、無理はない。

 彼女が魔法を扱えると聞いた事はないし、そもそも……“火炎”の魔法を見るのは初めてだった。

 都市で暮らす者にとって、攻撃魔法を目にする事など、そうはない。

 目にすることがあったとして、せいぜいが灯りの呪文だ。


「――――砕けよ」


 角から姿を現した“砂ザメ”の横腹へ、火球が解き放たれる。

 通り路の空気を焼き払い、熱風とともに進み――――着弾、爆発。

 “砂ザメ”は唾液を吐き散らして、砲弾の直撃にも似たダメージを物語る。

 体表はぶすぶすと焦げて、抉れて焼けただれた肉が覗けた。


「っ……やはり、一発では……!」


 ナディヤが歯噛みし、第二発を見舞うべく、利き手の掌を前に出して次の詠唱を始める。

 杯を受けるように左手を右肘の下へ差し出し、再び火球を練り出すために。


「おい、こっちに来る!」


 視覚などなくとも――――受ければ、攻撃の方角は分かるだろう。

 背に続けて受ける矢にも構わず、“砂ザメ”は前肢の力だけで、エミールとナディヤのいる建物へ向けて突進してきた。

 詠唱の完成も、避難も、間に合わない。

 その時だった。


「ギァァァッ!!」


 あと数メートル、というところで怪物は減速し、その場でもがいた。

 背中の上に飛び乗ったファディールが、背びれをつかみ――幾度も、幾度も、大振りの曲刀を叩きつけ、“砂ザメ”の背を切り刻んでいたからだ。


「お前達、今のうちに離れろ! サフヤール、カラディン、火矢の準備をしろ! ジャシード! 椰子やし油のかめを仕掛けた建物はどこだ!」


 暴れ狂う“砂ザメ”の背の上で、ファディールは驚くほど冷静に、しかし手を止めずに指示する。

 “砂ザメ”がもがいている間に、建物から飛び降りると――――エミールはナディヤの手を引き、別の建物へと逃げ込み、内側からハシゴを通って屋根の上へ再び出た。


「隊長! 例の罠なら後方、三棟後ろ! 屋根の上にも集めてます! 旗が見えますか!?」

「何、だと……! 骨が折れそうだな、連れていくには!」


 振り落とされかけたファディールはがくがくと揺れる背に必死で掴まりながら、その間にも曲刀を休めず、“砂ザメ”の肉を切り下ろしていく。


「ギキィィィァァァッ!!」

「く、ぐっ……!」


 さしもの戦士の握力も尽きたか、あるいは“砂ザメ”の必死によるものか――――ファディールは砂ザメの前方へと投げ出され、木柵を砕き折りながら、家の壁へと背中から叩きつけられる。


「がはっ!!」


 そして、目の前には――――ゆっくりと迫る、怒りに燃える“砂ザメ”の姿。


「父様!」


 ナディヤは詠唱も忘れ、叫ぶ。

 “砂ザメ”はその声にも反応しないで……重い体を引きずるように、血を流しながらファディールへ向け、鼻を鳴らしながら這い寄ってゆく。

 すでに背ビレは千切れかけ、前肢とは別に発達していた脇腹のヒレも失われ、それでも。

 己の身をここまで傷つけた者を歯垢へ変えるため、生臭い息をつきながら。


「逃げ、ろ……ガキ、ども……!」


 ファディールは立ち上がる事もできないまま、帯の短剣を抜いた。

 その刀身は“砂ザメ”の牙と同じ程度の大きさしかない。

 それでも……彼は、一筋でも切りつけてやる意思のもと。


「……おい!」


 その声は、砂ザメの真後ろ。

 回り込んでいたエミールのものだった。


「こっちを向け、砂ザメ!」


 ずっと腰に差し、抜く事もなかったはずの剣をエミールは抜いた。

 鞘を捨て、おもむろに少年は刀身を左手で握りしめると……柄を持つ手を、引いた。


「んぐっ……!」


 鋭い痛みが掌へ走り、ぼたぼたと血が流れ、地に落ちた。

 すると砂ザメはファディールへ這い進むのを止め、体の前部を曲げ、鼻を鳴らすように、エミールの方へ注意を向けた。

 新鮮な若い血液の芳香に――――復讐心すらも忘れて。


「ついてこい、この野郎!」


 剣を振り回し、血の香りを扇ぐように広げ、駆けだす。

 更に左手を強く握り締め、血液を絞り出すように――――血の筋を地面に描く。


「こっちだ、来い!」


 背中に追いすがる怪物の気配を感じながら、エミールは走る。

 目標は椰子油を貯めこんだ、旗の建物。

 ちらりと振り返ると、かちかちと歯を打ち鳴らして迫る“砂ザメ”の姿がだんだんと大きくなる。

 罠まで誘いこめるか、分の悪い賭けになる事を少年は覚悟した。

戦士たちの援護は、ない。

 攻撃を加えてしまえば、砂ザメの注意が他へ向く恐れがあり、エミールの企みも失敗する。

 ただ火矢を灯して、祈る事しかできはしないからだ。


――――――追いつかれる前にエミールは目当ての建物へと到着し、外側にかけてあった梯子を痛む手で上り、追ってきた怪物へ向き直った。


「止まってんな! こっちだ、食いついてこいよ!」


 “砂ザメ”へ向けて左手を振り払い、血の付いた剣で油の甕を叩いて音を立てる。

 そして――――怪物は飛び上がり、大口を開けてエミールを飲み込むべく、巨体に似合わない跳躍力で“罠”へと飛び込んできた。


「……っと!!」


 直前、エミールは屋根の上から横飛びに降りて――――頭を守りながら、砂地の上に転がり落ちる。

 建物の潰れる音、いくつもの甕の割れる音が、作戦の成功を告げた。


「ナディヤっ! 撃て! 撃つんだ!」


 起き上がった“砂ザメ”の身体は油をかぶってぬめぬめと光り、星明りを照り返しながら、次の獲物を探すべく鼻をひくつかせていた。

 だが――――もう、獲物を探す事は無い。


 追撃の火球が“砂ザメ”の身体を撃ち、瞬間……炎上させた。


「キィィィィィッ!! ギャアァァァァァッ!」


 断末摩の合間に、“砂ザメ”は呼吸器深くまで炎を吸い込む。

 口内にまで飛び込んだ油、全身を覆う油は、砂の魔物を体の内外から焼き尽くす。

 それは――――釣り上げられた魚が、息ができずにのたうち回る様、そのものだ。

 加えて容赦なく、二の矢三の矢が射られていく。


「火を消したいのか? ……あいにく、水は貴重なんだ。死ぬまでもうちょっとガマンしろよ」


 エミールは、にやりと笑って独白する。

 星々の灯り、大輪の月光をも打ち消すような裁きの炎は――――やがて、夜が明けるころまで燃え盛っていた。



*****


「……エミール、これからあなたはどうするの」


 翌日、出発してから――――ナディヤにそう訊かれた。


「なんだろう。……父さんは殺されて、殺した怪物はもういない。全然……思い付かない。どこかのキャラバンにくっついていけば、帰れるのかな」


 左手の傷口が、時折痛んだ。

 あの最中には痛みなどなかったのに、落ち着いた今は、違う。

 ぶらぶらと振って誤魔化し、痛みを散らすようにすると――――そんな愚痴へ、答えが返された。


「……ありがとう、エミール」

「え? ……何を?」

「父様を助けてくれて。……本当に、ありがとう」

「あー……その、気にしなくていいって。俺も助けてもらったんだから」

「私からも礼を言う」


 いつの間にか、隊列は止まって……前方から、当のファディールがこうべを垂れていた。


「エミール。お前は勇敢な戦士だ。……その判断と知識が我々全員の命を救い、あの村の民の無念を晴らし、父親の仇をも確かに討った。お前ほどの尊敬すべき男を、私は他に知らない」


 そうとまで言われ――――エミールは猛烈な痒さを全身に覚え、もぞもぞと動いた。

 人生の中でここまで褒められた事など、一度としてないからだ。

 視線を泳がせていると……ファディールの肩に、鷹が止まっている事に気付き、注視した。


「父様。その鷹……砦の、ウマル爺様から?」

「うむ。今しがた伝言が届いた」

「何て……書かれてるんです?」


 ファディールの取り出した紙片には、ただ一言。

 “集結せよ”とだけ、書かれていた。


「エミールよ。……我が砦へ来てくれないか。我が部族は、お前の力を必要としている。むろん……無理は言わぬ」


 再び、頭を垂れてファディールは言った。

 隣を見れば――――ナディヤと、目が合う。

 彼女はほんの少しだけ、笑っているように見える。


もう、答えは決まっていた。



*****


 それから、更に数日。

 砂の丘を越えると、城壁に囲まれた砦が見えた。

 壁上には射手が行き交い、城門の内外に出入りする商隊と、その張ったテントがまるで野営地のように見える。

 もはや――――砦ではなく、都市だ。


砂漠の秩序を守るべく、各地に散っていた氏族、その人数は五千人を越える。

その一人一人が屈強な冒険者にして、戦士だ。

彼らは、集められた。

世界に起こった異変へ立ち向かうために。

 

 ――――――砂の民の、安寧のために。


 砦へ向かう隊列、その中に一人加わった少年。

 その帯には、“短剣”が光っていた。







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