Episode:Priestess
とある王国の領土に、小さな農村がある。
王都からはやや離れてはいるが、街道に面しているため旅人や商人、吟遊詩人の来訪が絶えない、つつましくも穏やかな村だ。
ささやかな特産品といえば、この村の近辺に自生するベリーの一種を使ったパイと果実酒。
小川も流れているため、水にも困らず魚も獲れる、誰にとっても故郷と感じるような懐かしさを湛える村だった。
その村を見守る丘の上に、教会が立てられている。
教会へ住むのは、いつも厳めしい顔をした司祭が一人。
年経た暖かな女性の僧侶が一人。
そして――――うら若き、乙女の僧侶が一人。
*****
白亜の教会はさながら空を舞う雲を地上へ下ろしたように神々しく、鐘楼の上に頂く十字は、今日も小村を見守っていた。
周りを囲むように植えられた花はいくつもの色を鮮やかに咲かせ、そこだけがまるで天国のように清澄な空気を漂わせていた。
教会を囲む花の手入れを日課として行っているのが、少女と呼ぶ事もできるような年齢の僧侶だ。
彼女は、僧侶としてはまだ修行中の身でありながら、神職としての天性を既に備えていた。
優しく下げられた
薄紅も引かないのに唇は血色の良い桃色に輝き、白亜の教会に溶けていくように白い肌は、外での作業によってほのかに上気していた。
濡れているかのように
「……さて、今日も皆さん、お元気そうで何よりです。それでは……礼拝の準備を」
花の世話を終えた彼女が独りごち、次に向かったのは教会の扉を開けてすぐの礼拝堂。
いつものように扉を開けると――――そこは、神域だった。
硬い石畳の床には中央を割るように金の縁取りを施された赤い絨毯が、まっすぐに説教壇まで続き、両側に長椅子が十列ほど並ぶ。
海を割る奇跡を再現するかのように聳える奥、説教壇の真上の壁には十字のシンボルが掛けられており、厳粛な空気を漂わせていた。
場末の教会ゆえに天井画もステンドグラスもなく、外側と同じ白壁だけで飾り気はない。
それにも関わらず、この教会に神意を感じるとすれば――――やはりそれは、彼女の存在が故だ。
「お疲れ様、少しお茶にしないかしら?」
「あ、……いえ、礼拝の準備をせねばなりませんから……」
「まだ時間ならありますよ。
燭台に手をかけた彼女を制したのは、大先輩でもある老僧侶、テレジアだった。
歳は母と娘、もしかすると孫ほどに離れているだろう。
テレジアは彼女に誘いをかけて、礼拝堂の奥へ手招きした。
「ほら、早くいらっしゃいな。先日訪れた行商人から、珍しい茶葉を買い付けたのよ」
そうまで言われては抗う事も出来ず、祖母のような僧侶へ従い、奥へとついて行った。
*****
教会の奥にある階段を上がると、神職の居住する部屋がいくつかあり、小さなサロンがある。
司祭の部屋がひとつ、老僧侶の部屋がひとつ、そして彼女の住む部屋がひとつ。
あと一つ部屋は余っているが誰も使ってはいないため、
テレジアが先んじて用意していたサロンのテーブルの上にはティーポットが湯気を立てて、カップは二つ出されていた。
司祭は村へと降りて雑事を片付けているため、この教会には今は二人しかいない。
「さぁ、お座りなさい。今、お茶を淹れますから」
「ありがとうございます。ですが……その」
勧められるままに着席しても、若き僧侶は目を泳がせて落ち着かない。
礼拝の準備をまだ片付けていない事がどうしても気にかかっているのか……ちらちらと、窓の外へ視線を投げかけた。
それを見た老僧侶は肩を竦め、ゆっくりとカップに茶を注ぎ、いつまでたっても落ち着かない彼女の目の前へと差し出した。
「あのね、まだまだ時間はあるのよ。根を詰めすぎよ?」
「はい、申し訳ありません」
「いや、叱ってるわけじゃなくてね……それより、お飲みなさい。よい香りでしょう?」
とりあえず、彼女はカップを持ち上げると……ゆっくりとまず香りを嗜んでから、唇をつける。
火傷しそうなほど熱い紅茶は、まるで柑橘類にも似た香りがして――口の中を駆け抜けて、喉を下りた。
「美味しいです」
「それは良かったわ。どう、落ち着いた? もう一度言うけれど、時間はまだまだあるわよ」
「はい。ありがとうございました」
「それはそうと、ね。……見せてごらんなさい。指、切れてるわよ」
「え、あっ……これは、その……大丈夫です、何ともありませんから」
テレジアの鋭い視線の先には、若き“僧侶”の細枝と見紛うような指先……そこに刻まれた、小さな切り傷。
恐らくは花と戯れている時に葉か棘かで傷つけたものだろう、微かに血が滲んでいた。
「お見せなさい」
「……はい」
観念し、おずおずと左の指を差し出す。
するとテレジアがその指を押し包むように、祈るように両手を差し伸べ――――目を閉じ、呪文を唱えた。
「――――慈悲深き癒しの御手持つ方よ、どうか――――お力を――――」
テレジアの詠唱に合わせ、手の間に白い燐光が走り、光の糸が繭を成すように、“僧侶”の指の傷を覆い、癒していく。
裂けた皮膚を光が縫い合わせ、傷も残さぬままに塞いでいき――――数秒もすれば、完全に治してしまった。
「……はい、終わり。それにしても……その、まだ?」
「はい……私には……使えないのかも、しれません」
佇まい全てに神職の天性を備えた彼女は、それでいながら……今テレジアが唱えたような神聖魔法……その、最も簡単なものですら使えない。
魔力を秘めてはいるのに、魔法が使えない。
本来なら神に仕える誰しもが使えて、僧侶のクラスを持たずともある程度魔法の素養があれば習得も用意なはずの、この魔法ですら発動できなかった。
いくら手を組み、印を結び、呪文を淀まずに唱えても、ほんの一瞬閃光が走るだけで――――発動できなかった。
「まぁ、誰しも向き不向きはあるわよ。……でもおかしいわね。あぁ、いや……貴女がじゃなくて……」
「いえ、いいんです。私は……もしかすると、向いていないのかもしれませんから」
「そんな事を言わないの。神を信じるのに向き不向きなんてないでしょ? それに……ね。貴女はまだ若いの。今失望する必要も、焦る必要も無いでしょう」
テレジアの慰めも、彼女の心には
何より彼女自身が不思議でならず、時折不信すらも
全てを神に捧げ、神の遣いとして生きようと誓ったのに……こんな簡単な、切り傷を癒す程度の回復魔法すら使えない。
もしや神は自分を愛してはくれないのか、と思う事も多く、その度に恥じた。
その度に彼女は自分を律し、練習を重ねるも、その成果は未だ実らない。
朝の祈りにかける時間を増やし、礼拝堂の清掃を隅々までこなし、食事のたび、就寝のたび、文字通り
神職の唱える神聖魔法には、いくつもの種類がある。
老僧侶テレジアの唱えた回復魔法、突き詰めれば瀕死の重傷者すらも完全に無傷の状態へと引き戻せるような魔法がまずその代表。
対象の皮膚を硬化させて防御力を上げ、筋肉を活性化させて敏捷性を上げる補助魔法。
魔力を注ぎこみ、体に受けた毒を浄化する解毒の魔法。
更には聖なる風を巻き起こし、敵を吹き飛ばし、切り裂く風の攻撃魔法に至るまで。
いくつもあるのに、彼女は初等にすら辿り着けてはいなかった。
「ほら、そんなにしょげてないで。お茶が冷めちゃうわよ。」
「はい。……ありがとう、ございます」
不甲斐なさに浮かんだ涙を指先で掬い、また一口、茶を含む。
その優しい甘さと暖かさが、せめて塞がったはずの傷を舐めてくれている、そんな感覚がした。
*****
数日後のとある日、“僧侶”は数日分の遣いを果たすために村へ下りた。
パン、チーズ、その他の保存食に、聖餐に用いるための葡萄酒。
籠にそれらを詰めて教会へ戻る途中、広場へ顔を出す。
掲示板に何かの布告が増えていないか、失せ物の話は出ていないか、下りるたびに確認するようにしている、ささやかな日課だ。
隔絶してはいなくとも離れてはいるから、訪れる村人から聞くほどでもない小さな情報はこうでもしなければ拾えないからだ。
だが、その日は……掲示板よりも先に、広場の一角が目についた。
馴染みの村人達が一角で、誰かを囲んで盛り上がっている様子で……笑い声に混じり、暖かな冗談が飛び交っていた。
思わず興味を惹かれ、そちらへ彼女は近寄る。
「あの……皆さん、どうかなされたのですか?」
「おぉ、教会のお弟子さん。いや……実は、コイツが顔を見せたもんでよ」
粉挽きの主人が、昼だと言うのにほのかに赤らんだ顔を向け……かすかな酒精を香らせる息とともに、中心にいた者を紹介してくれた。
そこに居たのは、紋章を刻んだ剣を腰に差している……背丈は大人たちよりやや高く、精悍な顔には人の良さも感じる二十代に入ったばかりと思しき好青年が、屈託のない笑顔で村人達と歓談していた。
彼は“僧侶”の視線に気付くと、はっとした表情を作り……照れたように頭を下げ、名を告げる。
「初めまして、マルクスといいます」
「どうも、お初にお目にかかります。私は……」
「あ、いえ……父さんからの手紙でお名前は存じております。その……」
「お父上……と言いますと」
挨拶を交わして、困惑していると――――囲んでいたうちの一人、鍛冶屋の主人が声を上げた。
「おいおい、マルクスよ。何緊張してんだ? あっちじゃ若い女も見られなかったってのかい」
「うるさいな、父さん!」
「え……お父上というのは……もしかして?」
「俺だよ、お弟子さん。コイツ、兵士になるんだって言って飛び出しやがってな。んで、七年ぶりに帰ってきやがったのさ」
思わず、失礼とは分かっていても“僧侶”は笑ってしまった。
鍛冶屋の主人、というのがどうしようもなく強面で背も低くがっしりとしていて――――このすらりと精悍な青年とは、まるで似つかない。
しかし言われてみれば表情の造作や目つきは少し似ていなくもないし、少し癖のある黒髪もきっと父親譲りだ。
「そうなのですか。……それでは、お帰りなさいませ、マルクスさん」
「あ、は……はい……ありがとうございます」
“僧侶”は、屈託もなく彼の帰郷を歓び、迎える言葉を紡いだ。
心からの労いと道中の無事を喜び、神へと祈る微笑とともに、胸の前で軽く手を組んで。
青年兵士マルクスは、その所作を見て……顔を更に赤くして、しどろもどろに視線を彷徨わせ、囲む大人たちのにやにや笑いへ更に油を注いだ。
「ところで……不出来息子のマルクスよ。なんだってオメェ、帰郷なんか許されたんだ?」
「不出来ってなんだよ、クソオヤジ。……まぁ、最近は何もなかったからな。西の王国との小競り合いも形を潜めちまって、今やる事といったら……正直、何もないんだ。だから順番を組んで多少長めの休みぐらいはくれたんだよ。……っても、俺だって比較的近い駐屯地だったから帰ってこれたようなもんだな。二日後には戻るよ」
「はん、まぁいい。もし三十過ぎてフラつくようなら大人しく俺の後を継げ。お前に兵士は向いてねぇんだよ」
「七年やってんのに向いてねぇって事ねーだろ……ひっでぇオヤジだ。そんなんだからハゲるんだ」
「オメェの未来だ、目を背けんじゃねぇ。これが血だ。言っとくがオメェの爺さんだってな……」
“僧侶”は、思わず嬉しくなった。
七年越しの会話を、彼ら親子が楽しんでいるのが伝わってきた。
はたから聞くとハラハラするような言葉でも、互いの限界をきちんと分かって軽い冗談を交わしているのがよく分かる。
七年の間にすっかり禿げの進んだ鍛冶屋の主人も、自らの
すっかりと成長した息子と、そんな憎まれ口の応酬をできる事が。
マルクスもまた、自分の成長を認めてくれた父親とそんなやり取りができる事が。
互いに――――感慨深いところがあるのだろう。
きっと彼らは今宵、酒を酌み交わす。
恐らくは、村人全員を巻き込む宴だ。
「ん、まぁ……そういう訳だ、お弟子さん。もしよかったら……あんたも来ないか? 今夜はきっと誰も寝ないぜ」
粉挽きの主人が彼らのやり取りを尻目に、“僧侶”へ向き直って訊ねる。
「いえ、せっかくですが……私は、お酒は戒律上いただけないので」
「何も酒を飲めとは言ってないぜ。水だってミルクだってあるぞ」
「ですが……」
「いただきなさいな」
「え……?」
不意に聴こえた声に振り返ると、そこには老僧侶テレジアが、にこにこと笑顔を浮かべて立っていた。
「ただし、夕刻の祈りの後でです。隣人の対話の誘いを断るのもまた、戒律に反しますよ?」
「……でも……」
「でも、は禁止です。私もご一緒いたしますから。それでいいでしょう?」
「……はい、そこまで仰るのでしたら。それでは……僭越ですが、私もお邪魔いたします。よろしいでしょうか?」
広場の一団に告げると――――いっそう盛り上がり、火の付いたような騒ぎになってしまった。
その輪の中では、青年マルクスが所在なさげに頬を染めたまま、佇んでいた。
*****
宿屋の中は村人がごった返し、扉を開け放した外まで酒場に変わったような、久々の酒宴だった。
テーブルには歓迎の料理と酒が並び、今も女将が少々焼きすぎた鶏のローストを切り分けているところで……少し離れれば、チーズを暖炉の火にあて、それをパンに載せたものをつまみに酒を酌み交わす、鍛冶屋の親子の姿がある。
酔った吟遊詩人がいつか置いて行ったろくに調律していない調子はずれのリュートがかき鳴らされ、誰かの物置で埃をかぶっていた太鼓の音も軽妙に、小村は歓喜の宴に酔っていた。
まだ寝る時間には早いか、宿屋の庭先では子供たちが走り回っており、大人たちも雰囲気のせいで強くは叱らず、文字通り、村人皆が参加する宴だった。
彼らの騒ぎを、リュートと太鼓の音遠く――――角の席に座り、木杯のミルクを傾けて見守っているのは、二人の僧侶。
蝋燭の灯が二人の影を優しく照らし、その一角だけが何とも静かな有り様だった。
「……ねぇ、貴女。楽しんでる……のよね?」
「ええ。……こうしているだけでも」
若き“僧侶”は、調子はずれの演奏を、酔っ払いの歌を、打ち鳴らし合う杯の音を、楽しんでいた。
教会の静寂とはまた違う、暖かに寄り添うような……そんな不思議な思いを。
帰りたいという気持ちも、眠りたいと思う気持ちもなく、いつまでも――――この“平和”の時を楽しんでいたいと、強く願った。
さすがに
ともかく……彼女は、楽しんでいた。
「それにしても……いつになく盛大なのですね」
「まぁ、娯楽のない村ですもの。マルクス君が帰ってきたのも、半ば理由づけよ。残り半分の更に半分は……貴女かしらね」
「私、ですか?」
「そうよ。おかげで教会に訪れる人も増えたのよ。特に若い殿方」
「か、からかわないでください!」
「からかってなんかいませんよ。……でもまぁそれはともかく……」
「え……?」
やおら杯を置き、老僧侶テレジアは声のトーンを僅かに落とした。
「何なのかは分かりませんけれど……妙に、胸が騒ぐのです。何か、私達の思いもつかない取り返しのつかない何かが、迫っている……ような。分かりません」
「……テレジア、様?」
「いえ、止しましょう。さぁ、
「いえ、それなら私が……」
「いいのよ、座ってなさいな。年寄りにこそ運動が必要なのよ? 取り上げないでちょうだい」
ピッチャーを手にテレジアが奥へ消えた時――――主賓のマルクスが入れ替わるようにやってきて、対面に座った。
ほのかな顔の赤さはきっと、酒のせいだけではない。
青年は誤魔化すように、唇を少しでも滑らそうと杯の果実酒に口をつけてから、思いきって……しかし覚悟に反した他愛もない切り口から、話しかける。
「どうも、楽しんでますか?」
「はい、とても。……こうして皆さんと日が落ちた時を過ごすのは、初めてですから」
「初めて……? 普段は何を?」
「はい。日が沈んでからは教会から出ません。夕食の祈りを捧げ、教典を読み、日誌をしたため……時には星を読んでから、ベッドの中で祈り、眠ります」
「はー……。流石はというべき、ですかね……」
「マルクスさんは?」
「え、俺は……って言われても訓練だったり哨戒だったり、仲間と博打打って、たまにはくり出して酒を飲んだりだとか……中身の薄い日々ですよ。お聞かせできるほどの事は。血生臭くて鉄臭い話にもなりますから、ちょっと……」
「いえ、立派なお務めだと私は思いますよ?」
彼女は杯に口をつけ、最後に残っていた一口ぶんのミルクで口を湿らせた。
「あなた方がいてくださるから、私達は怯えずに日々を営む事ができる。……もしかすると心なき人は、あなた方を野蛮だと、人殺しの術を練っている、と言うかもしれません。しかしそれとて人が古来より積み重ねてきた、ひとつの役目。戦ってくださる人々がいるから、穏やかに暮らせる人々がいる。私のような者が……安穏と祈りに興じる事ができるのも、あなた方が戦い、守って下さるからです。……どうか、私からも礼を述べさせてください」
淀まず、泉の湧くように紡がれた。
途中で一言たりとも口ごもらず、考えず、生唾も飲まず、そして……彼の背を押し、慰めるためのものでもない。
祈りの一節にも似た、誰しもが聞き惚れる無縫の衣のような言葉だった。
聞き届けると……マルクスはいよいよ真っ赤になり、俯いて黙ってしまった。
何とか沈黙を解こうとした彼は、何気なく、しかし不自然な声色で切り出す。
「……そ、それはそうと……! もう遅いですね。子供たちも……そろそろ、寝かせたほうがいいんじゃない、か……な」
「確かに……だいぶ、良い時間になってしまいました。テレジア様が遅いのも……」
テレジアがあからさまに席を立った真意も掴めないまま、彼女が同意する。
しかし、そこで気付く。
宿屋に居た大人が――――ほとんどいなくなってしまったと言えるほど、減っていた。
代わりに、裏手の庭からざわつきが聴こえてくる。
どちらともなく目配せしあい、“僧侶”とマルクスは席を立ち、扉をくぐってそちらに向かう。
*****
「どうしたんだ、父さん!」
裏庭に出てすぐに見えたのは人だかりと、その中心から聴こえる子供のしゃくりあげる声。
出てすぐに見つけた父親へマルクスが訊ねると、かすかな怒りと……それを塗り潰してしまうほどの不安とを
「それがな……豆まきのトコの兄弟が消えちまったんだ……」
「なんだって!?」
「通してください。どうか……通して、ください!」
彼女が人混みを非力にかき分けながら中心まで行くと、残っていた子供を難詰する数人の大人をテレジアが押しとどめながら、子供たちに事情を訊ねているところだった。
大人たちを抑えるのをテレジアに任せて、“僧侶”が両膝をつき、目線を合わせ、くしゃくしゃに泣きじゃくる少年へ、肩に手を置きながら声をかける。
「落ち着いてください。どうしたのですか?」
本当は――――彼女の胸中も穏やかでは無く、決して落ち着いてなどいない。
それでも静かに問いかける事ができたのは、取り乱す事は何も生まないと分かっていたから。
強い言葉で訊ねるよりも、今はまず、事態の深刻さに気付きかけてパニックを起こしている子供を落ち着けてやる事が優先だからだ。
「大丈夫。ここにいる皆さんはあなたの味方です。何があったのか……教えてくださいますね?」
そのまま……肩を抱いて、十数秒。
ようやく、その子はぽつぽつと語り出した。
「……森の中で、さっき……何か、光ったんだ」
「森? というのは……あの小川の向こうの?」
「うん……止めた、のに……二人……それで……ヘンな、叫び声も聴こえたから……」
裏庭の先、川を渡る小さな橋が掛けられた向こうに森がある。
別段危険な存在の噂は聞かないものの、村人はわざわざ好んでも近寄らない小さな森だ。
そこの何かに興味を惹かれ、二人の子供は橋を渡ったと。
「念のため火を焚け、絶やすな! 女と子供は家の中へ! 男は適当に何か持って来い! 探しに行くぞ!」
言い知れない胸騒ぎを、彼女も、テレジアも、マルクスも、村人達も――――皆が、覚えた。
日の差す日中ならいざ知らず、夜に森の中で光る何か、など……いい予感など、誰もしない。
「待ってくれ、父さん。父さんと半分はここに残るんだ、俺が行く。残りの半分は松明と武器を持ってついてきてくれ」
「……よし、分かった。気を付けろよ?」
兵士となった倅――――マルクスが申し出ると、鍛冶屋の主人はすぐに応じた。
今この場で、“戦う”事に秀でているのは間違いなく、彼だ。
包丁、薪割りの鉈、手斧、馬鍬、雑多な武器を持った男たちの半数が、続いて松明を手に橋を渡った。
「僧侶さん達は、宿屋の中で待ってな。今から教会に戻るのも危険だ。……念のため、箒でもなんでもいいから武器になりそうなものを持ってなよ」
鍛冶屋の主人の言葉に二人は無言で頷き、森へ向かった者達の背を見送ってから、宿屋の中へ戻った。
*****
――――やがて、森の方角から男たちの声と……不吉なほど甲高い、“何か”の叫び声が聴こえた。
*****
「おい! 戻ったぞ!」
数時間して夜が更に深まった頃、兄弟を探しに行った大人たちが帰ってきた。
先頭にはあの青年ではなく、ついていった男の一人が、松明を両手に先導していた。
少し離れて、子供二人を連れた男達、最後に――――脱いだ上衣で作った間に合わせの担架に載せられた、青年がいた。
「司祭はいないか! 僧侶さん達でもいい! 早く!!」
宿屋の裏庭に続く扉を押し開け、彼らは戻ってきて、すぐに青年を床へ横たえた。
“僧侶”とテレジアが身を寄せ合っていた壁際から立ち、見に行くと――――そこには。
「マルクス……さん? どうして!? いったい、何が……!」
見てしまった彼女が青ざめ、思わず卒倒しかける。
その腹には、深々と泥まみれの短剣が突き刺さり……柄に巻かれた革帯は腐りかけ、饐えた悪臭を放つ手垢にまみれていた。
胸には木の枝を乱暴に尖らせたものが突き立てられ、絶え絶えの息のたびに血を噴き、笛のように漏れた息が吐きだされた。
「クソったれ! ゴブリンどもだ! ゴブリンどもがいやがった!」
「ゴブリン……だと!? こんなトコロに巣があるなんて聞いた事ねえぞ!」
「たぶんありゃ、どっかで追い出されて流れて来たんだ! ガリガリに痩せて凶暴化してやがった!」
低級な魔物のゴブリンにも社会制度はあり、彼らなりの秩序はある。
その原始的なルールにすら背いたものは殺されるか、もしくは追放される。
そうした経緯を持って“はぐれ”となった個体は野生化して凶暴性を増し、多少は備わっていたはずの危機管理能力も薄れ、理性のない怪物になり果てる。
折り悪く……今日この日に限って、そんなものが現れてしまった。
「しっかりしろ、マルクス! 俺だ! 俺が分かるか!?」
「がっ……ひゅ……と、とう……さ……!」
ごぼっ、と血の塊が吐かれ、息子の頬に添えていた、鍛冶屋の主人の節くれ立った手が真っ赤に染められた。
いつも険しい顔をした彼は、弱々しい表情で狼狽し……息すら忘れ、息子の青ざめた顔を見つめた。
「とう、さ……ごめ……俺……」
「喋るな! 大丈夫だ、大丈夫……今、助けて……やる……から……」
テレジアが進み出て、祈る。
治癒魔法を唱え、光の糸が傷口を覆って行くが……噴き出た血は、光の糸を押しのけるように、拒むように、流れ続けた。
“僧侶”もともに、使えないと分かっていても……と、今一度魔法の詠唱を試みる。
マルクスの利き手側で手を組みかけた時、弱々しく、彼の手が割り込んできた。
驚きながらも、すっかりと冷たくなりかけ、小刻みに震える彼の手を、祈るように両手で握った。
「お、れ……たおし、まし……た。あいつら……一匹、だけ……」
「……しっかりしてください、お気を確かに。今……傷は塞がって……います、から……」
それは、嘘だった。
テレジアが懸命に祈り、回復を試みているのに……傷は、一向に塞がらない。
枝と探検を抜けば血が噴き出て、即座に彼は命を落とす。
司教クラスの神聖魔法なら、あるいは――――助けられるのに。
今この場にいるのは、初等の治癒魔法しか扱えない老僧侶と、それすら使えない見習いの僧侶が一人。
教会にいる司祭を誰かが呼びに行ったが、きっと……間に合わない。
「気を確かに持ってください、マルクスさん! 私がわかりますか?」
もう――――言葉も返ってこない。
必死の形相で鍛冶屋の主人が声をかけ続け、テレジアが精神を疲弊させながら指からの光で傷を癒し続ける。
彼女も手を握って、神に祈るも……まるで、届かない。
青年にも。
――――神にも。
やがて――――握っていた腕から、がくんっ、と力が抜け落ちた。
必死で掴まっていた手を脱力させ、運命を受け入れるように。
“僧侶”は悟った。
この青年兵士は――――今、落ちてしまった。
「マルクス!? おいマルクス! 目を開けろ! おいっ! 頼む、頼むから! 目を開けろぉっ!! 行くな! 行かないでくれ!!」
鍛冶屋の主人の絶叫は懇願へ変わる。
テレジアの詠唱は途切れ、目を閉じて俯いた。
“僧侶”は、すでに何かが抜け落ちた手を、未だ握り締めたまま。
「マルクス、さん…………」
握り締めた手に、力を込める。
自らの不甲斐なさを呪う気持ちよりも――――不思議なほどに、何かが溢れてきた。
彼の父と力及ばず意気消沈するテレジア、見ている周りの者達、誰もが遠くへ感じた。
静謐な朝の祈りよりも、一日を終えた夜の祈りよりも深く、遠く、光に溢れた世界で――――何かを、掴んだ感触を覚えた。
神聖魔法の精髄か。
信仰の本質か。
それとも――――肉体を離れかけた、若き魂の腕か。
宿屋の者達は、言葉も忘れて“僧侶”を見た。
その手、腕から続いて背に至り……やがて、光が翼の形を成して一打ちし、抜け落ちた光の羽根が、マルクスの胸と腹に落ちるのを。
そして不潔な短剣も、太い木の枝も、押し出されるように抜け落ちて――――宿屋の床の上で、朽ち果てて砂へ変わる。
ぽっかりと空いた二つの傷跡に光の渦が現れ、穴を目砂で埋めるように……傷痕すら残さず、完全にふさぎ、元通りに癒してしまった。
――――――そして、息吹。
「がっ……! と、父さん……あれ、俺……今……?」
彼の傷は癒え、左手をつきながら……体すらも起こしてみせた。
青ざめていた血色は、この村へついたばかりの時のような輝きを取り戻して。
「ま、まさか……おい、マルクス……俺が……分かるよな?」
「ああ、父さん。……ごめん、ちょっと……ケガしちまってたな……って、あれ」
起き上がった青年は、気付く。
今もまだ、乙女が手を握ってくれている事に。
気付くと、すぐに頬を染めて――――言葉に窮した。
「よかった……マルクスさん。本当に……よかった……」
「あっ……えっと、治して……くれたん、ですか?」
“僧侶”は、答えられない。
何が起こったのか、彼女にすらも分からなかったからだ。
今彼が生きているという事は、何かの魔法を発動させる事に成功したから、と考えられるのに……それが何なのかが、分からない。
だから、首を縦には触れず、死の淵から帰った彼の手を握る事しかできなかった。
遅れて到着し、戸口に立っていた司祭へ、テレジアが今起こった事を報告し、少し離れて話し込んでいた。
「どうしたのですか、テレジア。一体……何が……?」
「彼女が……治癒魔法を、とうとう習得したのです。司祭様」
「……いや、違う。違う……あれは……」
「司祭様?」
黙り込み、司祭は立ち上がりつつあるマルクスへ視線を向ける。
「あれは、回復じゃない。……彼の魂は、確かに体を離れた。まさか……彼女は……」
「回復じゃ、ない?」
「あれは……消えてまもない命を呼び戻す、“復活”の魔法」
「では、彼女はもしや……死した命を、再び……蘇らせた?」
司祭は頷き、テレジアは生唾を飲む。
そんな魔法は――――おとぎ話の中でしか聞いたことがない。
だが、ここで起こった事は事実。
村の人々も、テレジアも、司祭も、その目で見た。
「彼女には……特別な何かが、あるのかもしれない」
「素質……ですか、司祭様」
「いや……もしかすると、使命、役割。彼女は……何かを背負ったのかもしれません」
*****
小さな村で起こった奇跡は、まことしやかに伝えられ――――じわりじわりと世界へ広まっていった。
見習いの“僧侶”が奇跡を起こし、子供たちを救った青年の命を繋ぎとめ、呼び戻したと。
時は、魔王降臨の一ヶ月前。
運命と出会う時を待ち、彼女はその教会で祈り続ける。
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