白銀の風を射抜く者

*****


 鬱蒼と茂る森の中を、一人の兵士が死にもの狂いで走る。

 本来ならば新緑の香りと、木々の放つ新鮮な空気が肺を満たしてくれるはずの森に、その若い軽装の兵士は、血の匂いと鼻の奥がちくちくするような殺気、どこから向けられているのかまるで分からないような血腥ちなまぐさく品定めするような視線に、とても平静を保てない。


(はあっ……はあ……! な、何だ……何に、何に殺されたんだ!? 俺は、何に……殺されるんだ!?)


 ――――所属していた中隊は、この森の中で瞬く間に殺された。

 遠く掠れたような風切り音にも似た、叫び声……だけが、今も耳に残る。

 この先にある崖に監視所を設けて、魔王軍の姿が見えればすぐに伝えられる態勢を整える。

 本来はその任務だったはずなのに……森の中で、“何か”の攻撃を受けた。

 いや、それが攻撃だったのか……それすらも、掴めない。

 蹄鉄を落とした馬の様子を見るべく屈んだ、その瞬間。

 前に居た兵士の首が落ち、今まさに見ていた馬の顔面が両断され、更には後方にいた兵士二人の兜が、自分の頭越しに前方に落ちてきて……“目”が合った。

 馬のものか人のものかも分からぬ血に塗れて、弾かれたように走り出したのは……ほんの十秒ほど前の事だった。


(く、くそ……! もう少し、もう少しで!)


 襲撃を受けた彼が、反射的に求めたのは、開けた空間、空が見える場所だった。

 前方、二十歩ほどの距離に森の出口、当初の目的だった断崖が見える。

 そこまで行ってどうにかなるものでもないが、森の中で正体不明の脅威に怯えるよりは、崖を背に剣を抜いた方がまだ生き延びられる確率は高い。

 もっとも――――戦意は、もう彼にはない。

 とうに、折られてしまったから。


「ははっ……や、やった……! やったぞ!」


 やがて彼は森を抜け、当初目指していた断崖へと辿りついた。

 時刻は、まだ夕暮れにもなっていない昼。

 青くはないものの空が見え、若い兵士は大いに安堵し、胸を撫で下ろした。

 崖の上からは、なるほど――――遠く山脈のすそ野の広がりまでもが見え、もし何かが押し寄せて来れば、狼煙のろしを上げて伝える十分な時間が取れる。

 魔導士を連れてくれば、更に詳細に。

 ここは、重要な拠点になる。

 若い兵士にも、それはすぐに分かった。

 崖下を覗き込んでいると……ふと、ぞくりとするような視線を感じて振り返った。


「ひっ!?」


 今通ってきた、森の出口。

 距離にしておよそ二十歩ほどの場に、名状しがたき“それ”は姿を見せていた。

 冬を織り込んだような白銀の体毛に全身が覆われ、背には蝙蝠の翼。

 レイピアのように長く伸びた爪には乾いた血がこびりつき、かちかちと打ち鳴らすように、こちらを品定めしていた。

 だらだらと流れる唾液、垂らした分厚い舌、血に染まったその牙には、肉片までもこびりついている。

 およそ知らぬ魔物で、図鑑でも知らず……彼は口づてに聞いた事もなかった。


「あ――――――」


 目を逸らしてなど、いない。

 それなのに気付いた時には、目の前に。

 時間が飛んでしまったように、いた。


 咄嗟に腕を突き出す事もできずに胸を裂かれ、幾度も崖に叩きつけられながら落ちて。

 偶然下を通っていた商人の幌馬車に落ち、一言だけを言い残して、彼は死んだ。


――――「白銀の風」と。



*****


「おう、いらっしゃ……って何だアンタ、また来たのかい」


 鉄床かなとこと槌、研磨機の奏でる音で満たされた、金気かなけくさい石造りの“工房”に、ふさわしくない来訪者があった。

 その来訪者を除いて、せわしなく動き回る七人ほどの“工員”は、皆、大人の半分ほどの背丈しかない。

 だが、まるで……大人を縦に圧縮したような力強さが、その誰もから感じ取れる。

 火の粉を浴びてそれ自体が打ち鍛えられたような逞しい腕は、並みの人間の骨なら簡単に握り砕いてしまうだろう。

 つつしみとは無縁にドスドスと踏み慣らす、短く太い丸太のような脚。

 エールの樽のような胴体は、脂肪ではなく筋肉がみっちりと詰まっているのが一目で分かるほどだ。

 そのうち、六人は剛毛の髭を生やした老人のような姿をしていた。

 口髭を三つ編みに編み込む者、ただただボサボサに伸ばした者、顎髭を一本に束ねる者、彼らはまるで髪型をいじる代わりに髭を個性にしているようにも見えた。


「……久しぶりね、“底なし沼”。最近はどう?」


 工房への来訪者は、目の前に居る、金属板の削り出しを行っている“紅一点”に挨拶した。

 工房で働く中で、“彼女”だけは、女性の姿に見えた。

 太い腕と脚、たくましい体には胸のふくらみもある。

 さすがに髭までは生えていないものの、火の粉を浴びてソバカスのような火傷を顔に描いた、黒く太い髪を一本きりの三つ編みにして後ろへ流している、およそ色気とはほど遠い姿だ。


――――彼女らの種族は、“ドワーフ”と言った。


「ぼちぼちってとこさな。……で今日はどうしたってんだ、“半分”さん」


 じろり、とドワーフの女が見据えた先には、工房の来訪者。

 ドワーフ達の倍の身長を持ち、明るい茶色の髪を真ん中分けに横に流した、整った顔立ちの女だった。

 フード付きのケープには自然魔術の紋様が縁取りされ、背にはクロスボウ、右手側の腰には短剣、左側にはスリングに収められたオーブ。

 消音の魔術が付与されたブーツと、太ももから膝までを惜しげもなく晒した扇情的な軽装。

 右が茶色、左が緑の色違いの虹彩、かすかに尖った耳は、彼女が……異種族との間に生まれた者である事を示す。


「時間が無いの。“底なし沼”メイ。あなたに作ってほしいものがある。取り急いで」


 “来訪者”は言って、まっすぐに見つめた。

 その直後、蒸気と熱気を上げる工房の中心から、がらんがらんと鐘の音が響き渡る。


「もう昼メシの時間さね。用件は食いながらでいいだろ、フランシスカ」



*****


「それで……何を作れってんだい、“半分エルフ”」


 テーブルの上にうずたかく積まれた皿の合間から、メイと呼ばれたドワーフが豚のスペアリブを骨ごと噛み砕きながら問う。

 工房が昼食休みに入ったため、ドワーフの女とハーフエルフの女、メイとフランシスカは近場の宿屋に場所を移し、昼食を摂りながら話をする事になった。


「骨はさすがに美味しくないんじゃないかしら」

「アンタだって鶏の軟骨部分は食べるじゃないか。何が違うってんだい?」

「一緒にしないで」


 向かい合うように、質素なスープとパンのみをとうに平らげたフランシスカは思わず形の良い眉をひそめ、ボリボリと豚の骨を噛み砕き、飲みこむ姿を見つめた。

 彼女の“底なし沼”の名の由来は、その姿にある。


「……依頼を受けたの。情報収集、偵察、それと……場合によっては、討伐の」

「何を?」

「“白銀の風”。及び、奴の巣食う森の調査、偵察。生態も」


 その名を告げると、メイの咀嚼音は止んで……かわりに、ジョッキに注がれたエールを乾す音に変わる。


「……何でそんなの、受けた?」

「受けたというか、ご指名なのよ。依頼主はとある将校。あの森を抜けたところにある崖に、どうしても監視所を作りたいらしいの」


 ハーフエルフの女、フランシスカの生業なりわいは傭兵だ。

 しかし、火花を散らす戦場に赴く類ではなく……主に偵察と情報収集、斥候を専門とした異端の傭兵業。

 彼女がその信頼を得る理由の一つとして、エルフの母を持つ故に生まれ持った、感性。

 純粋なエルフほどではないにせよ、精霊、自然と繋がるための感覚は深い森の中でも決して自分を見失う事無く目的地へ辿りつき、追跡を振り払う事も容易たやすい。

 生命探知、短時間の不可視化、速度強化、オーブによる遠隔視。

 そういった魔法を使いこなせる事もまた、彼女が生き延びていける理由だった。

 更には特注のクロスボウによる狙撃、戦闘も行え……依頼達成率が極めて高く、依頼者のみならず同業者の間からも信頼が厚い。


「で、あたしに何作れって? 鎧? それとも工事を早く終えるための道具かい?」

「クロスボウ」

背負しょってんだろ」

「違う。……連射をできるものがほしい。一発じゃ奴は仕留められないと思う。逃げる事もきっと出来ない」

「狙いに自信が無いってか? 冗談だろう、フランシスカ?」


 そう問われ、フランシスカは長く息をついて、水差しに手を伸ばした。


「……どれだけ狙っても一発だけじゃ当たらない。連続で射撃を組み立てられる手段が欲しい。それも持ち替える事なく、狙いを保ったまま、弦を引き直す事なく、視線を外さずに二の矢、三の矢を射なきゃならないから」

「詳しいねぇ。……あの森で何か見てきたのかい?」

「ええ。……いや、“見えなかった”と言うべきかしらね」


 そう言って、フランシスカは注いだ水を喉へ流し込み、思い出して息を呑むのを紛れ込ませた。


「可能な限り遠くから遠隔視を行ったけど……その動きは見えなかった。“白銀の風”は、決して大げさな異名じゃない。恐らく人間の目では、そうとしか見えないでしょうね」

「なるほど。なるほど……つまり、またあんたのムチャに応えなきゃならないんだね。そのクロスボウだって充分にあたしの逸品なんだけどねぇ」

「感謝しているわ。でも……今回の相手は、精密性よりも連射が必要なの」

「まぁ、面白そうだから受けてやるよ。ここの払いはあんたが持ちな、ムチャを言う分はね」

「分かってる。……でも、私はあなたにムチャを言ったつもりはない。あなたなら絶対に作れると分かっているから、普通に頼みに来たのよ」


 そう言われると、メイは困ったように、照れを隠して鼻の頭を掻き……その時、指についていた料理のソースが付着した。

 フランシスカはあくまで本気で、彼女ならばその無理を応えてくれると確信していた。


 メイの営む工房は、様々な機構を組み込んだ武具や特殊な需要を持つ装備品の製造、研究を専門とする。

 袖の中に隠せる飛び道具、内部に特殊製法のバネを組み込み衝撃を吸収する甲冑。

 炎の中でも動けるブーツ、中身の液体を冷たいまま、あるいは熱いまま持ち運べる水筒。

 魔法のたぐいを使わず、あくまで技術、職人の仕事のみでそれらを叶える事を、生きがいとしていた。

 そして今フランシスカの持つクロスボウは、より遠距離から軌道を安定させ、射撃の反動を抑えながら射られるように特注したものだ。

 本体以上に七枚のレンズを用いた拡大鏡が高くついて、かかった合計額を人に教えると、その度に目を丸くして正気を疑われるほどの逸品である。


「……まぁ、そういう事ならね。ちょうどエーギルが面白そうなカラクリを思い付いたところだった。あれを組み込んでみようか。イルビョルンのヤツも、試したがってるネタがあったねぇ」

「お願い。十日後に私は出発するから」



*****


 そして十日と三日の後に、フランシスカは魔の森へやってきた。

 まだ森に入っていない時から、死肉の腐ってゆく悪臭が、彼女の鼻をつく。

 その生臭さもまた彼女にとっては貴重な情報でもある。

 純粋なエルフほどではなくとも、“生き物の肉”の臭いに彼女は敏感だ。

 動物の肉や乳を食べられないエルフが備えるその嗅覚を逆利用して、情報収集に用いる。

 これもまた、彼女が編み出した独特のやり方だ。


(……新しい匂いは無し。しかもこれ……人間の死体のようね。恐らく、六日ほど前かしら)


 人間の死体も、動物の死肉と同じく感じてしまう嗅覚を内心呪わしく感じながらも昼なお暗い森へと入っていった。

 呪文の施されたブーツは足音も、草を踏みしめる音も吸い込み――――不自然なまでの無音の歩みが続く。

 歩く間にも付近の気配に留意し、いざとなれば抜き放てるように、新たな“相棒”へ利き手を添える。

 まずは情報を集めるべく、最も強く、近くに感じる死臭を選び取り、そこへ向かう。

 途中には食い荒らされ、土へと還りかけた白骨死体がいくつか転がっているが、それが“白銀の風”によるものなのかは、断定できない。


(見つけた)


 段々と強まる腐臭は、ようやく形を見せた。

 見えてきたのは……まるで咎人とがびとのように高い木の枝から逆さづりにされた男の下半身と、ちぎれて落ちた上半身。

 風体は正規兵士のものではなく、しかし賊のような野蛮なものではない。

 フランシスカが見上げると、木の枝に引っかかって落ちてこない脚は、上等の革ズボンに包まれ……ブーツの足首にナイフの鞘のみが備え付けてある。

 中身はどこかへと消え、少なくとも真下にはない。

 地面に落ちた上半身は、山ぶどうの汁で染め抜いた革鎧に包まれ……貪り喰われてほとんど骨になった左手近くに、鷹羽根をあしらった魔杖ワンドが落ちていた。


「この杖は確か……賞金稼ぎ、“風切かぜきりのモース”。しばらくは見ていなかったけれど……彼も依頼を受けたのかしら?」


 無惨な姿となった者に、彼女は敬意を示そうとしても……閉じさせてやるまぶたも、頭部すらも、彼には残っていなかった。

 無数の歯型に加えて背骨にまで達する爪痕が見て取れ、それが彼の死因だった事も、ほぼ間違いないだろう。


詳しく検分しようとして――葉の擦れる音と気配を感じ、とっさに左手側を振り向いた。

 だが、そこには何もいない。

 いなくなっていたが……確実に何かがそこにいた。

 両脚にヒリヒリと熱を感じ、首筋にもまた同様。


(ふむ。……私に気付いていたのなら、襲い掛かってきたはず。ただ通っただけ?)


 フランシスカのかぶっているフードにもまた、一種の呪文がかけられている。

 それは、注視されない限り存在を認識されづらくなる、一種の魔術的な迷彩だ。

 エルフ達は“希釈”と呼び、森の中へ潜む場合にこれを用いる。

 いわば、自分たちの存在感を薄め、自然物のひとつに紛れ込ませる隠れ蓑と言っても良い。

 死体から可能な限りの情報を得ると、フランシスカは立ち上がって、気配の方角を追った。


 “白銀の風”という魔物の噂は、崖上から落ちてきた兵士が言い残して以来、絶えなかった。

 監視所として機能する前線基地を設営すべく送り込まれた中隊は全滅。

 その後も何度か、魔導士を含めた討伐隊が派遣されたものの……犠牲者を増やしただけだった。

 命からがら引き返して森を出た数少ない者は、こぞって「気づいたら、周りの奴らが喉を裂かれていた」「魔法で攻撃されたのかと思った」とばかり言い募った。

 そこで軍はこの魔物へ賞金をかけ、腕自慢の賞金稼ぎを募集した。

 破格の金額を提示したにも関わらず集まりは悪く、若く向こう見ずなルーキーが死に、金につられた中途半端な腕利きが死に、更にいま、そこそこ腕の立つ魔導士の“風切り”までもがたおれていた。

 魔物の正体が何であるかも、不明。

 生存者は何も情報を持ち帰る事ができず、倒す事もできず、何としてもこのおあつらえの断崖にこだわる軍部は諦められず……そして今、ある将校により、偵察と情報収集に長けた傭兵、“ハーフエルフのフランシスカ”が雇われた。

 彼女はこれを二つ返事で引き受け、旧知のドワーフに装備を特注させ、今に至った。


 更に臆する事無く森を進む。

 無秩序に散らばった死体に、もはや人獣の別はない。

 鳥の羽根が一塊に舞い落ちている事もあれば、猪が食い殺されている事もある。

 暴風の荒れ狂ったように、恐らくはこの森に最初に分け入った工兵達の成れの果てが散らかっているのも見つけ、その凶暴さに、フランシスカは自らの背筋が凝り固まるのが分かった。

 何よりも、彼らは剣を抜くことすらできていない。

 柄に手をかける事すらできずに、恐ろしく鋭い爪の一撃で殺されていた。


(何なの……? この凶暴さは。まるで……)


 穴倉を見つけて冬を越す事に失敗した、飢えた熊に似ている、とフランシスカは独りごちた。

 全てが冬に塗り固められる森の中では、食べられるものなどない。

 果実は実らず、食える獲物の肉もなく、蓄えた脂肪は減り続け、やせ細った体に寒さをもろに受けて体力を奪われる。

 その結果――――正気を失った熊は、討伐対象になる。

 人里に下りて家畜を、場合によっては人を襲って食い殺す。

 それは、モンスターだ。


(……凶暴なのは分かっていたつもりだけれど、ここまでなんてね)


 歩き続けて、およそ十数分。

 フランシスカがチラチラと歩きながら見ていたオーブに白影が映る。

 方角は、このまま真っ直ぐ。

 注意深く歩みを進めていると、オーブの中を覗き込まずとも、それは目の前。

 木立の中に、白銀の獣毛をまとった――――“悪魔”がいた。


*****


 背を向けている故に、顔は見えない。

 白く長い体毛に覆われた体は、妙に痩せ細っていた。

 あれだけの犠牲者を食らっているというにも関わらず、馬の首を落とすほどの膂力を備えているはずにも関わらず、油断できぬほど、見合わずその身体は細い。

 蝙蝠の翼はその細さを覆い隠すように長く、木立の中で腱をほぐすように、開花させるかのように広がっていく。


距離はおよそ、フランシスカの足で二十三歩。


(……先手を、取れた?)


 接触を避けて情報を集めるつもりだったものの、ここまで近寄る事ができて、偶然にも背後も取れた。

 彼女は、それを見逃さない。

 ゆっくりと、クロスボウを背から引き抜き、狙いを合わせる。

 照準は、頭ではなく胴体の中心線。

 前傾姿勢を取って動かない“白銀の風”の頭は、真後ろからでは狙えない。

 ならば、と狙うのは胴の中心しかない。


 そのクロスボウは、異様な形状をしていた。

 通常イメージするものとは違い、弓部分が先端に取りつけられていない。

 全長のおよそ半分から後方へ、磨き抜かれた部品による機械仕掛けの弓が取りつけられている。

 先端の射出口から全長の半分までは黒光りする金属で覆われ、内部の機構を窺い知る事もできなかった。


(……ひとまず、先手)


 引き金に指を乗せるが、フランシスカに勝利の確信はない。

 命中したとしても、一撃で倒せる相手ではないと感じていた。

 相応の反撃があるはずだ、とも。

 だが――――先手を取れさえすれば、一手は有利。

 

 引き金を絞ると同時に、機械仕掛けのクロスボウが動作し……微かな反動を伝えながら、ボルトが射出口から吐き出される。


 銀製のボルトは虚空を進み、“白銀の風”の背を穿つ――――はずだった。


「――――ッ!」


 声にならぬほど掠れた、甲高い叫びとともに……それは、フランシスカの数歩目前にまで迫っていた。

 間近で見る“白銀の風”の怒り狂った顔は、“悪魔”そのものだ。

 狼か馬を連想させるような鼻づらの長い顔、その口もとにはみっしりと生えた太い針のような牙がある。

 顔を覆う被毛が捲れ上がり、露わとなったその目は……“闇”そのものだ。

 まぶたそのものが存在していないかのように、黒く見開かれている。


(……想像、していた通り)


 もしも通常型のクロスボウであれば――――詰んでいた。

 目前に、腕を振り被った“白銀の風”。

 しかし、その筒先は今もそれに向けられていた。

 引き金を長く絞ったままにしていると……どしゅしゅしゅっ、と、立て続けに三つの音とともにボルトが吐き出され、そのうち二本が、“白銀”に血を流させた。


「ギャアァァァァァッ!!」


 耳をつんざくような叫びとともに、フランシスカの首をもぎ取ろうとしていた白銀の風は、姿を消した。


「命中は、……一本。そしてもう一本はかすったわね」


 窮地をしのいだフランシスカの前方の地面に、ボルトが二本突き刺さっていた。

 長く残る叫び声と、飛び散った血痕はフランシスカの外套を穢しながら、振り向いた彼女の後方まで続いていた。


「“銀の矢”はお気に召した? ……人狼じんろうじゃないんだから必要ないと言ったのに、まさか効くなんて。メイにはまたご飯を奢らないといけないかしら」


 彼女から受け取ったのは――――軽量の合金と板バネ、そしてただの弦ではなく鋼を細く鍛え抜いた“鋼線ワイヤー”を動力としてボルトを発射する、機械仕掛けのクロスボウだった。

 その最大の特徴は、射程距離や精度を犠牲にして得た……“連射”機能だ。

 発射の反動をそのまま吸収、循環させ……内部に仕込んだ機構により、再びひとりでに次弾を装填し、番える。

 引き金を絞ったままでいれば、下部の箱状部分に装填した矢が尽きるまで連続での発射が可能。


 “底なし沼”メイ、“はがね狂い”イルビョルン、“カラクリ職人”エーギルを初めとした、七人ものドワーフの名工の手になる、数世紀先を生きるべき逸品の機械弓と彼女らはうそぶいた。

 そして、一緒に持たされたのが……純銀の矢が、二十本。

 “悪魔退治”と称してメイに持たされた矢は、意外にも効果を示したようだった。

 だが、今は彼女に感謝している場合でも、撃ち込んだ達成感に身を浸す場合でもない。

 ただちに追撃する必要がある。

 地面に残された血痕を追うと――――ある事に、フランシスカは気付く。


「……何なの、この出血量は?」


 血が、多すぎる。

 手応えからして、一発はかすっただけに留まるはずだ。

 刺さった矢は血を止める栓にもなるだろうから、この血の筋は、ただかすっただけの傷口から吐き出されているはずだ。

 それにしては……あまりにも。


(まぁ、いいわ。……追えば、ハッキリするのだから)


 左腰のオーブに目を落としながら、姿を消した“白銀”を捜索する。

 かぶりなおしたフードは再び“希釈”の魔術をフランシスカへ付与し、その身を隠した。

 血の匂い、音、葉のざわめき、精霊の小さな囁き声。

 森の全てに“聞き込み”を行いつつ、先を急ぐ。


 やがて、フランシスカは――――何度めかに目を落とした時、オーブの中に映しだされた獲物を、見つめた。


「……? 傷は塞がっている?」


 発光するオーブの中には、樹上で身体を休め、ボルトを引き抜こうともがく“白銀”がいた。

 右の鎖骨に深々と突き立ったボルトは、再生し盛り上がった肉に覆われ……癒着し、もはや抜く事は叶わない。

 加えて、どこかをかすめたはずの傷口が見当たらない。

 “白銀の風”に負わせた傷はすべて塞がり、出血している部位は、ない。


「何なの。……傷は再生している。なら、あの大量の血は? 回復能力ではないの?」


 やがて、鎖骨周辺の肉を抉り取りながらボルトを引き抜いた“白銀”の苦痛の叫び声を追って、フランシスカは再び歩き始めた。



*****


 やがて、フランシスカは森を抜ける寸前の、“崖”へと続く獣道へ行きつき……そこへ立ちはだかる、“白銀”の悪魔と、睨み合っていた。

 奇妙にも、それは何かの意思を持つように……血と唾液の泡を裂けた口へまとわせ、生暖かく息を吐いて、フランシスカを睨み付けている。


「……どうしても、私をこの先へ行かせたくないのね」


 距離は、どちらに有利とも言えない。

 追撃の最中に何度か交戦し、フランシスカ自身も決して無傷ではない。

 切り裂かれたブーツは付与された魔力を失って足音を隠せず、貫かれかけた左の眼球は血でかすみ、遠隔視のオーブは砕かれた。

 崖へと続くこの獣道で、どちらかが死ぬ。

 それはきっと――――フランシスカにも、“白銀”にも、分かっていた。


「――――ッ!!」


 再び、“白銀”が甲高く叫び、飛びかかる。

 およそ二十歩の距離を一瞬で詰める脚力は、消耗してなおも健在だった。

 だが――――幾度も交錯したフランシスカは、もはやその速度を“速い”と感じなかった。

 矢の先に塗りつけたある“液体”とともに、迫りくる“白銀”を、ありったけの矢で迎撃する。


 四本の矢が突き立ったにも関わらず、“白銀”は突進を止めない。

 それを見て取ると……フランシスカはついにクロスボウを打ち捨てて、真横へと転がり込むように避けた。


「ああぁぁぁっ!」


取り残された右のふくらはぎが突進に巻き込まれ――――虚空で血しぶきが舞い、フランシスカの口から悲鳴が漏れた。


「痛っ……! く、ぅぅ……っ!」


 まだ足が繋がっている事を確認し――――フランシスカは、その場にうずくまった。

 向き直った“白銀”は、彼女の苦悶を見て口を歪めるが……。


「ギッ……!?」


 その時、気付く。

 自分の体が……重く、言う事を聞かなくなってしまっている事に。


「生憎だったわね。……私の矢には、ヒルの抽出液を塗っておいた」


 “白銀”は、もはやその名を失っていた。

 全身の体毛が真っ赤に染まり、矢を受けた傷口、かすった傷からも――――大量の血液が流出していた。

 噴き出るような出血ではなく、じわじわと――――緩慢な流血が、しかし時を早めたように絶え間なく続き、矛盾とともに体表を流れ落ちていく。


「“白銀の風”。貴方は……きっと、時間の流れそのものが私達と違うのね。でなければ、あの回復の説明がつかない。高速再生なら、あそこまで流血する前に傷が塞がるはずだもの」


 追撃に備えて、フランシスカは常にヒルから抽出した薬液を持ち歩く。

 吸血を行うヒルの唾液に含まれる成分は、厳密に言えば毒では無い。

 血液が固まるのを妨げ、数時間に渡ってじわりじわりと出血させるものだ。

 もしも、それを――――肉体の時間を加速させる生物に打ち込めば。


「“緩慢な出血”は、貴方にとっては……“短時間の大量出血”。走れるかしら?」

「ギ、ィアァァッ!」


 地を蹴ろうとした“白銀”はグラつき、その場からほんの数歩離れた地面に現れ、倒れた。


「……もう、暴れる事はない。楽に……して、あげるから」


 言って、フランシスカは脚を引きずりながらクロスボウを拾い、片手で狙いを定める。

目標は、地に伏してもはや動く事もままならぬ“白銀”の眉間。


「ス、ナ」

「?」


 “白銀”の口から、意味のある音節が紡がれた。


「ミ、オ、ロ……ス、ナ」


 死の際にあって――――止まりかけた命だからこそ、初めて、聞き取れた言葉だった。

 それは恐らく、“白銀”が何度も叫んでいた言葉であり……この場に、この森に近づく者を狩り殺し、あの崖に近づかせまいとしていた理由だったのだろう。


「――――私も、“魔王”に会えたら同じ事を言ってあげるわ」


 ――――日の落ちた森の中へ。

 機械弓の駆動音が、高く響き渡った。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る