“冬将軍”

*****


 燃える足跡が、大地に残されていた。

 人間の足の裏と同じ形をしてはいても、その大きさは家々を踏み潰してなおも余りある、桁外れな足跡が……地面を踏みしめ、焼き尽くし、今もなお燻っていた。

 その足跡を残した者は二日も前に通り過ぎていったのに、今もなお火種がくすぶり、焦げ臭さを放っていた。

 その足跡のやってきた方角には、何も残されていない。

 あったはずの村は焼けた廃墟と変わり、森は禿げ上がり、足跡と足跡を結ぶ線には抉りぬかれたように線上の焼け跡が伸びている。

 人、馬、牛、豚、ありとあらゆる生き物が無惨な焼死体と化していた。

 ――――“焦土”という言葉が生まれたのは、恐らくこのような風景からだったのだろう。

 足跡の向かう方角もまた同様。

 その“燃える足跡”は……村々を抱く王国の、首都へとまっすぐに向かっていた。



*****


「“燃える巨人”の被害は尚も増大中。南の方角からまっすぐ、ここへ北上してきています」


 王都で開かれた軍議の場に、進行を務める若き執政の声が響く。

 手元に抱えた羊皮紙の束に目を落とし、よく磨かれた黒檀の長机に座す者達へ、まず報告する。

王を上の座に据え、王侯貴族と各方面の司令官が立ち並ぶその光景は……一触即発の殺気と彼らの深い懸念が支配し、常人であれば気を保つのがやっとだろう。


「……間にロータス河があり、そこで進撃を諦めるかと思われましたが……結果は、否。そのまま奴は歩いて渡り、水蒸気爆発によって周辺への被害が甚大でした。追跡していた斥候兵も一時追跡を中断した程です」

「くそっ……!」


 罵声を上げ、テーブルへ拳を叩きつけたのは王都を守備する衛兵団の団長。


「そんなのありか! “燃える体の巨人”だと!? そんなもの……いったい、どう倒せというのか!」


その時、軍議場の扉を開き――――新たな列席者が現れた。

同時に、室内の空気が身を切るように冷えて……暖炉の火も、蝋燭の灯も、さながら怯えるように弱まった。


「……遅れて申し訳ない。それはさておき……冷えるな。おい、暖炉にもっと薪をくべてくれないか?」


 現れたのは、初老の大柄な男だった。

 長い白髪を後ろへ束ね、同じく白い髭をふさふさと伸ばし、甲冑の上からマントを羽織り、白狐の毛皮の襟巻きを巻いていた。

 何よりも異様なのは……男の吐く息は、白く、くもっていた。

 暖かい室内だというのにその吐息は真っ白に濁り、甲冑やズボンの開口部からは冷たい空気が流れ出て、踏みしめたカーペットには霜の跡を残した。


「ヴィルフリート・アイスナー、ただいま参着致しました、陛下」

「……うむ」


 片足を引き、国王へと一礼を送ると……ヴィルフリートと名乗った男は用意されていた席へと着いて、その時、彼の目前に会った蝋燭は消えた。


「“冬将軍”ヴィルフリートのお出ましか。相変わらずじゃあないか」

「我が身の不徳により、いささかの不自由をお掛けする。……なかなか、暖かそうな服ですな」


 隣に座っていた衛兵団長が皮肉めいて挨拶をすると、ヴィルフリートも同じく返す。

 実際、彼はもこもことした羊毛の上着を重ね着しており……それそのものは皮肉でもなんでもなく、隣に彼が座る事を見越した、万全の準備だったのだ。


 “冬将軍”ヴィルフリートは、己の意思に関わらず常に冷気を放つ。

 吐息はそれがどんな場所であろうと冬空の下のように白く濁り、握手をすればその手は氷のように冷たく、熱い茶を飲んでも口の中で冷水へと変わり、足跡は霜を残して、涙も血も氷の粒になって地に落ち、触れるものはすべて凍てつかせてしまう。


*****



 ――――十二年前に彼は己の手勢を率いて、恐ろしき魔女の討伐へと向かった。

 美男、美女、希少な獣、宝石と黄金、目についた美しいモノを氷に閉じ込めて自らの城を飾り立てる、妖艶な美貌を持ちながら身も心も冷たい、恐ろしき酷薄な魔女であった。

 その肌は青く暗闇でもほのかに光り、一糸まとわぬ裸身の手足、その爪は氷でできていて、触れるだけで人は凍てつき砕け散った。

 彼は部下の半数を失いながらも魔女と戦い、首を斬り落として辛くも勝利した。

 しかし魔女の体が雪のように溶けてなくなっても、まだ息のあるその首は、彼に呪詛をかけた。

 

「お前の命が尽きる時、その地は凍獄とうごくと化す。例え千年の時を経てもその地の土は二度と暖まる事無く、永劫に溶けぬ凍てついた土地だ。その日まで、お前の身体も二度と温もりに触れることはない。妻を抱けば凍えさせ、子を抱けば凍死させるだろう。暖めた葡萄酒はお前の口の中で凍てつき、スープは薄氷を浮かべるだろう。暖炉の火は照らせど届かぬ、硝子ガラス越しの灯りだ。二度とお前を暖めることはない。お前は――――ただ一人、永遠の冬に閉じ込められるのだ! 呪われよ、呪われよ! お前は私を討った手柄を受け、冬をもたらす将軍として凍えながら生きるのだ!」



*****


 そして――――ヴィルフリートは呪われながらも魔女を討伐し、閉じ込められていた領民たちを救い、その地へ春を取り戻した功績によって将軍となった。

 氷の魔女を殺し、代償として自らの過ごす時の全てを“冬”へと替えた、伝説の男。

 “冬将軍”ヴィルフリート・アイスナーの名は、近隣諸国でさえも恐れられ、尊ばれた。


「それで、国王陛下。皆さま方に不便をおかけするのもしのびない故、手短に申し上げましょう。……この度は、私めにお任せいただけますか?」


 防寒用の厚着をした議場の面々を見渡し、ヴィルフリートはそう言った。

 両隣の男は襟巻きを巻いて尚も寒気に震え、先ほどの男は手袋をも取り出し、手をくるんだ。

 王の従者が暖炉に薪を足しても、思うように火が広がらない。

 この一室が、彼の放つ“冬”に取り込まれたかのように。


「うむ……。“炎の巨人”はこのままだと、この都へ到達する。否……ここが最終目的地であるかどうかさえも不明だ。看過は出来ぬ。この都を、この国を焼かせる訳にいかず、それが世界であれば尚、そうさせる訳にはいかない。お前ならば討てるか? ヴィルフリート将軍」


 王の問いに、ヴィルフリートは細く長い吐息をついて、霜の下りた両手を擦り合わせた。


「寒うございますな。……暖かい所に行きとうございます。それでは、少し火にあたって参りましょう」


 凍てついた空気を裂いて、ヴィルフリートは席を立った。

 議場の扉の向こうへ消えるまで彼の後には白い靄のような冷気が影のように従い、数分と座っていなかった椅子は凍てつき、そこだけに霜柱が残る。


 彼が退出すると――――それだけで、議会の場が室温を取り戻した。



*****


 ヴィルフリートは南へ向かい、放棄された砦を再利用した野営地を訪れた。

 恐らくは“炎の巨人”を迎え撃つであろう決戦場。

 そこに五百人ほどの精鋭兵が整列し、堅牢な馬車の中から現れる“冬将軍”を、一糸乱れぬ敬礼で迎えた。


「お待ちしておりました、将軍!」

「いちいち出迎えずとも良いと言ったろう。全く……融通の利かん」


 彼は、馬に乗る事ができなくなった。

 厳密に言えば乗る事自体はできても、彼の放つ冷気によって馬は著しく体力を消耗してしまい、季節によっては気温差にやられてしまうからだ。

 だから彼は移動する時、特別に作らせた、内部の冷気を逃がさない構造の馬車に乗る。

 馬車の扉を開けた途端、閉じ込められていた冷気は一気に漏れ出し……髪と髭を凍り付かせた凍死体のような男が下りてきて、いの一番に声を発した副官へ声をかけた。


「それで……迎撃の準備はどうなっておるのだ?」

「はっ。砲台の設置は完了いたしました。万全です」

「うむ。……まぁ、大砲が効くような相手かどうかも分からんがな」


 斥候兵からの連絡をいくら聞いても、巨人の正体は掴めなかった。

 体表が燃えているだけの巨人なのか、それとも体そのものが炎でできているのか。

 後者であれば、お手上げだ。

 それはすなわち……大砲はおろか、物理的な手段での攻撃が不可能という事になる。

 この場の兵士のうち、百人は魔導士ではあるものの……そこまで巨大な魔法生物を相手とした場合、有効な攻撃手段はそう多くない。


「……将軍。やはり魔導院からの応援は……」

「望めん。そもそも彼奴きゃつらは、もはや実践からは遠ざかり探求に勤しんでおるからな。攻撃魔法を使える者自体が少ないのだ。……安穏とした時代が、長すぎたのだな」

「『兵士の最大の責務は、民を平和ボケさせる事だ』と仰せでしたね」

「まぁ、魔導士が“民間人”かは意見の分かれるところだな」


 衣服についた霜を払い落し、結露した髭と髪をほぐして歩きながら、ヴィルフリートは更に続けた。


「それと、副官。お前は一つ約束しろ」

「は……」

「もし私が、『撤退しろ』と言ったらすぐに動ける全員を連れて、できればヤツの進路上から横に逸れて逃げるんだ。間違えても、私を説得しようなどとは試みるなよ」

「……理由をお訊ねしてもよいでしょうか?」

「何、ちょっと試してやりたい事があるのでな。心配する事などない。それよりも……ヤツはいつ現れる?」

「速度は一定しております。ロータス河を越えてなおも北上を続け、ここへ来るのは明後日の夜明けごろかと」

「計算しやすくて助かるな。できれば、全ての魔物がこうであってくれれば良い。相変わらず冷えるな。早く会いたいぞ」

「それにしても……氷の魔女の次は、燃える巨人ですか。次は嵐を呼ぶ大怪鳥とでも出くわすのでしょうか?」

「さてな。前者ふたつが世界にいたのだから、私が見る事ができずとも、それは世界のどこかにいるのだろうな」


 ヴィルフリートの肉体は、常に凍えたままだ。

 熱い茶もスープも飲めず、暖炉の火にあたっても決してその身が暖まる事がない。

 しかしそれで死ぬ事もなく、発狂に至る事もできず、いつになっても痺れない温感のまま、極寒の苦痛を十二年にもわたり感じ続けていた。

 氷の牢獄に囚われた男は、それでもなお……国を想い、民を想い、将軍として軍を率いて戦い続けてきた。

 口に入れると冷水に変わる茶を飲み、咥えた瞬間に火の消える煙草に未練を覚え、脂ののった若鶏のローストが口の中でしゃりしゃり・・・・・・とした食感に変わるのを、自虐して笑いながら。

 離れて暮らす事になった細君と生まれたばかりだった息子への手紙も、インクが凍ってしまうため自分の手でしたためる事ができない。


 それでも――――“冬将軍”は誰を怨む事も無く、誇り高く生き続けてきた。

 むしろその身に受けた“冬の呪い”を、勲章であるとさえも感じて。



*****


 その日は、有史以来初めて――――南の空から、夜が明けた。


「……“炎の巨人”。名に恥じぬな」

 

地平線の向こうに見えたのは、燃え盛り輝く、人型の“太陽”だった。

 地を踏みしめ、陽炎を立ち上らせながら、炎の巨人はまっすぐに砦へ向かってくる。

 望遠鏡など、必要ない。

 行く手にある森を薙ぎ払う大火の火元、歪んで揺れ動く空気の根元に、それははっきりと認識できた。

 誰もが覚悟していたような、村を一踏みにしてしまうほどの大きさでは、ない。

 しかし――――灼熱の太陽が迫りくるような圧迫感、そして絶望感は、砦の全兵士、少なからず混じっている、“氷の魔女”討伐時から生き残っている精兵にすら、生唾を飲みこませた。


「将軍! 全砲台、砲撃準備は済んでおります。魔導士隊も同様。いかがしますか?」

「……まずは大砲。脚を止めるならよし。砲撃はお前に任せる。射程に入ったら即撃て。私は奴をひとまず観察する。魔法攻撃は少し待て、情報が少なすぎる」


 また一歩、一歩、と近づくほどに、巨人の全容は明らかとなり……地軸が傾き、季節が廻ったかのように外気温は上昇していった。

 踏みしめた足跡は灼熱の炎の海と化して、業火という名の軍勢を率いて現れる終末の使者の姿が、そこにはあった。

 くまなく燃え盛る体は陽光のごとく目を眩ませ、その下に“肌”が存在するかは知れない。

 王都の城壁とほぼ同じ高さの体躯、その足元から見上げれば霞んですら見える頭部からは、細く寄り合わせた、炎の竜巻にも似た“髪”が蛇髪じゃはつのようにのたうつ。

 眼球はなく、その手指も存在しない。

 “炎の巨人”は大砲の有効射程の間際で足を止め、砦の壁上の“冬”を、見つめているように見えた。

 そして――――叫ぶ、


「ヴゥゥエェェェァァァァァァッ――――!!」


 熱波を伴った、地獄の底から響くような叫びが砦の兵士達を襲うが――――そのほとんどは、最前面に立つヴィルフリートのふりまく“冬”に掻き消され、肌をかすかにちりつかせるに留まった。


「っ全砲門、撃てぇぇぇっ! 目標、“炎の巨人”っ!!」


 開戦の号砲を返すように、壁上、及び砦前の平地に設置した全ての砲が火を噴いた。

 数にしておよそ三十の砲声は空気を震わせ、徴用した間に合わせの臼砲も遅れて放たれる。

 撃ち出された砲弾のほとんどがその巨大な目標の全身を打ち、燃え盛る体から体液を迸らせ、それらは空中で発火しながら、更に平原を炎に包む。


「血液すらも燃えるのか。……私と気が合いそうではないか、副官よ」

「将軍、そんな事言ってる場合じゃ……! ……っ? なんだ、ヤツの体表から何かが!」


 “炎の巨人”の体表、砲火を受けた部分から、ずるり、と何かが這い出てくる。

 それは……例えるならさながら排泄物にも似た色合いの、褐色の炭の塊だった。

 どしゃり、どしゃり、と続けざまに地面に落ちると、それは人の形を取り、赤熱し――――褐炭の肉体を持つ異形の兵士として、砦へ、ゆっくりと向かってきた。

 その数、およそ三十弱。

 恐らくは、身体に受けた砲弾の数と同じだった。


「敵巨人、魔物を生み出しました! 何だ……? ヤツは、魔物を生む能力もあるというのか!?」

「焦るな! 次弾装填せよ! 魔導士兵は詠唱開始! 火炎呪文でなければ何でもいい、撃て! 前衛は白兵戦準備!」


 ヴィルフリートの激に応じ、砦の前面に展開した精鋭部隊が、褐炭の魔物達と戦闘を開始する。

 魔物達の動きは獣のように早く……薙ぎ払った腕は盾を弾き飛ばし、赤熱したその身体は驚くほど硬く、業物の槍を構えた精兵でさえ、一体目を倒した頃にはもう槍は使い物にならず、打ち捨てて剣を抜いたほどだ。

 “氷の魔女”討伐時から知る者ですら、二体目を倒すにはやや荷が重いようだった。

 その様子を見るとヴィルフリートは壁上から飛び降りて、褐炭の魔物が迫る前面の砲陣地へと足を進めた。


「将軍、どうなさるおつもりですか!」

「……少し、体を暖めにな」


 背を見せ、遠ざかりながらそれだけ副官に言うとヴィルフリートは刃を抜いた。

 身の丈を越える大剣の磨き抜かれた白刃は、彼の身体と同じく、“冬”の魔力を放つ。

 “氷の魔女”の首を飛ばし、その凍てつく血を受け、洗われた――――と吟遊詩人達は詠い継ぐ、伝説の氷刃を。


「各員へ! 将軍が抜刀された! 決して近づくな、離れるんだ!」


 副官が叫ぶよりも先に、“冬将軍”の周りから兵士たちが退避した。

 “冬将軍”ヴィルフリートが戦うとき……決して、近づいてはならないと分かっていたからだ。


 最も近づいていた赤熱する褐炭の魔物へ、ヴィルフリートは剣を振り抜き、その胴を薙いだ。

 すると――――真っ二つになった魔物の身体、その断面が凍てつき、やがて……熱が消え、雲散霧消うんさんむしょうする。

 続けて、更にもう一体の胸を貫き、持ち上げる。

 それだけで赤熱した体からは火の気が失せて、ぱきぱき、ぱきぱき、と……氷のツタが伸びるように魔物の身体を凍り付かせ、放り投げてやると、ガラス細工のように砕け散った。


 前方に魔物の一団が見え、ヴィルフリートは下段に構えた剣をそのまま引き、身を捩り、下段から、大きく斬り上げる構えへ変えた。


「オォォォォッ!!」


 裂帛の気合いとともに斬り上げた大剣は、地を擦り虚空を斬り裂き、やがて……一拍遅れて、ダイヤモンドダストの軌跡を残し、鋭利なツララと霜柱が一直線に魔物の群れと、その後ろに居る炎の巨人を目指し、走る。

 軌道上にいた六体の魔物は、その“冷気の斬撃”に一撃のもとに葬られ――――巨人の足元で、それは蒸発し、消失する。


「何をしている! 各員、砲撃続行! 炭の魔物が増えようと、将軍が戦っておられる! 我々は今日、ここでヤツを討ち取らねばならんのだ! 撃て! 砲身が焼けついて裂けるまで撃ち尽くせ! “炎の巨人”を倒すのだ!」


 副官が更に激を飛ばすと――――二度めの砲撃には、更に壁上、後衛の魔導士隊の攻撃呪文が続いた。

 氷の弾を撃ち出す初等の攻撃魔法は、巨人の放つ炎を受けて減衰しながらも……隕石群のごとく、その巨躯を打った。

 体表を打つ無数の雹に上半身を撃たれ、かすかに巨人は、のけぞり、怯んだ。


「効いているぞぉっ!!」


 誰かが発した叫びに続いて、兵士達は大いに声を上げた。

 炎の巨人に……ダメージが通っていると。


 更に攻撃は続けられ、その身体からこぼれ落ちた魔物は、ヴィルフリートと前衛の兵士によって、絶え間なく討たれ続ける。

 ヴィルフリートの戦いぶりは、“吹雪”そのものだ。

 歩いた跡は霜になり、斬り捨てた敵は凍り付いて転がり、密集した敵には必殺の氷剣技によって一まとめにこれを粉砕する。

 彼に近づき一撃を見舞おうとした魔物は、彼の放つ冷気によって動きを鈍らせ、じろりと見つめられた直後に串刺しにされた。

 “炎の巨人”の放つ熱波は、最前線で戦う“冬将軍”に掻き消され、兵士達には届かない。


 やがて――――戦い続け、ヴィルフリートがおよそ五十の魔物を斬り伏せた時。

 大地が、揺れた。


「ヴオォォォォォォッ!!」


 途方もなく巨大な角笛を吹き鳴らすような重々しい叫び声とともに、巨人が一歩だけ前進した。

 褐炭の魔物の一体が踏み潰され、先ほどまで巨人の足が置かれていた場所は、魔女の大鍋のようにぐつぐつと土が煮えたぎっている。

 獄炎の地獄を湧き上がらせ、世界の全てを焼き尽さんとする入り口だ。

 そこから、更に――――魔物が這い出てきた。

 溶岩の足跡から、巨人と同じく燃える体を持ち、炎の舌を垂らす狼が三体。

 だが、すぐに――――二体へ減る。


「ギャアァァァッ!!」


 氷の刃が炎の狼を鼻先から両断し、残り二体をそれぞれ分断させる。

 直上から落ちてきた氷のギロチンは、巨人の足跡の溶岩をも凍らせ――――地獄の入り口をいともたやすく塞いでしまった。


「させぬよ。……“冬将軍”の名に懸けて」


 その時、巨人の口があるべき部位から巨大な炎の塊が吐きだされ、砦の一角へ着弾した。

 悲鳴すらも上がらずに、落ちた炎の“反吐へど”が飛び散って、粘りつくような火の手が砦から上がる。

 火は消える気配がなく、燃える泥に侵された砦で消化が試みられているが、いくら水をかけても、弱まりもしない。

 巨人は、消えぬ火に巻かれて壁から身を投げる兵士達を見て、天を仰ぎ、身体を震わせた。

 “炎の巨人”は――――わらったのだ。


「……挑発しているつもりか?」


 しかし、その聴こえざる哄笑は、止む事になる。

 巨人の足の先……指先をねるように落とされた、氷のギロチンによって。


「ヒギィィャァァァァァァッッ――――!」


 苦痛に炎の巨人は叫び、脚を後ろに引くと、足の指先は切断されてその身体を離れた。

 直後、切断部位からは炎が消えて……黒く炭化した、巨人の指だけが現れた。


「もはや、怒りなど……最初から備わっていたのだよ。私が怒っていないとでも思ったか?」


 ヴィルフリートの意を酌むように、更に生き残った砲兵と魔導士兵からの援護射撃が殺到し、それは――――今度、上半身ではなく残った脚の、膝へと集中した。

 そして今度はとうとう、巨人は膝をつき、倒れ伏してしまう事を避けようとしたか、右腕を大きく突き出し滑らせながら、完全に転倒してしまう事を避ける。

 だがそれは、敵へと差し出す橋になった。


「そのままだ! おとなしく首を下げているがいい! 長く苦しませはせぬよ!」


 燃え盛る巨人の、炎に包まれた右腕の上を、“冬将軍”が駆ける。

 その身体は決して燃える事なく、巨人の腕を凍てつかせ、足元から蒸気を噴き上げながら、氷の魔剣を引き連れて燃える腕を上る。

 “氷の英雄”が、崩れ落ちた“炎の巨人”へ一刀を浴びせるべく肉薄する。

 はためくマントは昇華してゆく氷の粒をまとい、白銀の翼に変わる。

 神代かみよの戦いを見ているかのような光景に、兵士達はしばし呼吸さえ忘れた。


「行けえぇぇぇぇっ! ヴィルフリート将軍!」

「殺れるぞ! あの巨人は、倒せる!」

「やっちまってください! 将軍!」


 巨人の腕は、将軍のまとうマントの一枚すらも焦がす事ができない。

 髪も、髭も同様、そこにへばりついた氷を溶かすのがやっとだ。

 巨人の肩口まで走り終え、あとは飛び上がって刃を振り下ろすだけ――――の時。

 ヴィルフリートは、気付く。

 巨人の頭を飾る炎の竜巻が、膨れ上がっている事に。


「何だ……!?」


 直後、暴風が将軍を取り巻き、その身体を――――砦側へ押し戻し、叩き落とした。

 砦の正面に叩きつけられ、身体に走る激痛を堪えて十数秒して起き上がると……炎の巨人もまた立ち上がり、両の拳を組み合わせ、地面へ振り下ろさんと、大きく掲げていた。

 そして獄炎の鉄槌が、一切の慈悲なく振り下ろされた。


 瞬間、世界の全てを焼き焦がすような炎の津波がヴィルフリートを、砲陣地を、砦を、その背後にあった森を、呑み込む。

“逃げろ”と声を上げる事すらできず、それは……一瞬だった。



*****


 剣を前面に構えたヴィルフリートが視界を取り戻した時、周囲には遠巻きに囲む魔物達がいた。

 その数はおよそ数百、巨人の体からこぼれ落ちる褐炭の魔物、足跡から生じる炎の狼、眼前には……依然として立つ、炎の巨人。


 白煙の吐息をついて、将軍は悟る。

 今、この場に生きているのは自分一人だと。

 背後にある、焼け落ちた溶岩の海は……さっきまで砦のあった場所だと。

 彼らに……撤退の命令すら下す事ができず、一瞬の出来事で……彼らは。


 炭化し、ぼろりと崩れた誰かの腕が見えた。

 うめき声も上がらず、“負傷者”すらもいてはくれない。

 “炎の巨人”の一撃は、いともたやすく地獄を呼び起こした。

 その地獄の中にあってもなお、ヴィルフリートの身体は灼けない。

 否、それどころか――――彼を中心に、雪が降っていた。

 獄炎の溶岩流が彼を避けて通るように、彼の肩にだけ、雪が積もっていた。


『――――何故貴様は立つ、“氷の男”』


 重苦しい圧力を放つ男の声に、将軍は顔を上げ、見回す。

 “炎の巨人”が発したものとは、違う。

 周りに生き残りの兵士はなく、言葉を持つほど高尚な魔物も、周りに居ない。

 むしろ……まるで、何かに平服するように、魔物達は沈黙した。


「……これは幻聴かな?」

『――――“氷の男”。貴様が剣を離さぬ理由は、何だ』


 頭の中から……でもない。

 確実に、ここにいない何者かの声が、聴こえている。

 ヴィルフリートは、その声に……ただ、答えた。


「……私は、生まれた我が子を抱いた事がある」


 将軍は、うたう。


「私は、我が子を慈愛の眼差しで見つめ、乳をやる妻の姿を見た事がある」


 魔女の呪いを受け、凍える日々を送りながら、決して折れなかった理由を。


「私は……守るべき国があり、この呪わしき身を知ってなお付き従ってくれる勇敢な兵士達がいて、偉大なる我が王がいた。私は……独りでは、なかったのだ」


 ヴィルフリートはかつての魔女とは違っていた。

 それは、孤独にとらわれる事がなかった事だ。

 恐ろしき氷の魔女の呪いは、彼の心を凍てつかせる事などできなかった。

 何故ならば……既にその心には、火が宿っていたからだ。

 だから――――男は氷の魔人に、ならなかった。


『――――貴様の、名を訊こう』


 恐らくはこの炎の巨人を放った何者かに、ヴィルフリートは答えた。

 受けた呪いの名であり、忌み名であり、そして――――彼自身を差す、“誇り”の名前を。


「……“冬将軍”だ。覚えておくがよい、魔を統べる何者かよ」


 金具が欠け落ちて、ヴィルフリートの身体を包む甲冑が砕け散った。

 マントの留め具も同様、鎧の下に着ていたダブレットもまた……凍りついた花弁のごとく、割れて落ちる。

 ヴィルフリートの上半身を包む物が、籠手を含めて全て落ちた時……強烈な風雪が巻き起こり、燃え盛る地表が凍土へと変わり始めた。

 その寒波を受けると、魔物達は先ほどまでの傾注する姿勢も忘れ、怯む。


 ヴィルフリートの裸の胸にはクレバスのような裂け目が走り、そこから冷たい風と雪とが噴き出ていた。

 心臓のあるべき部位は蒼白の氷に覆われている。

 ぱきり、ぱきり、と音を立て……彼の上半身は凍りつき、氷が剥がれ、治らぬ凍傷の苦痛を受け続ける。

 それでもなお男は戦う。

 この瞬間だけは、世界のために。

 世界を焼き尽くす“炎の巨人”を、討つために。

 冬に呪われた人生の終わりと引き換え、世界の時を稼ぐために。


「我が王よ、先に逝きます。勝利を報告に行けぬ事を、この場にて詫びましょう。……我が勇敢な兵士達よ。……仇を討つぞ」


 “冬将軍”は、右手で剣を構える。

 その瞬間弾かれたように動きだした魔物達は、将軍を目掛けて殺到する。

 しかし、届く事は無い。


「ぬんっ!!」


 ヴィルフリートが左手を払うと……空中に浮かんだ氷片が無数の手裏剣となり、魔物達を切り裂き、貫き、凍てつかせた。

 構えた大剣には氷がまとわりつき、“冬”が彼を中心として広がり、巨人の生み出した炎の海を、かき消していく。


 “冬将軍”はゆっくりと足を踏みしめ、“炎の巨人”へ近づいて行く。

 氷のギロチンが次々と落とされ、ツララの矢が褐炭の魔物を討ち、炎の狼の首を掴み止めると、それだけで絶息した。

 彼を取り巻く吹雪は氷の刃を混ぜ込み、近寄る全てを切り裂き、凍えさせる。

 胴体には更に無数のクレバスが刻まれ、そこから氷雪が吹き出し、ヴィルフリートの口から赤い氷の粒が落ちて、吹き荒れる風に乗って消えていった。


 やがて――――“炎の巨人”との邪魔なき決闘が始まった。

 巨人が、太陽が落ちてくるような巨大な拳をヴィルフリートへ向けて振り下ろす。

 それをヴィルフリートは仰ぎ、迎撃するように剣を突き出した。

 拳が地へ落ちる大音響ではなく、響き渡ったのは……凍りつき、亀裂が走り、その剛腕を氷塊へと変えて失った音。

 巨人の、苦痛のいななき。


「巨人よ……貴様の旅は、ここで終わりだ。……私の冬もまた、終わる」


 高く飛びあがると、地へ倒れた巨人の後頭部へ向け……剣を真下に向け、貫くべく急降下を始める。

 巨人を取り巻く炎の嵐の髪がヴィルフリートを再び弾き飛ばそうとしても、二度とそれは、叶わない。

 彼自身の中から吹き荒れる風雪が、それを打ち消し、許さなかった。


「――――共に、こうぞ」


 “炎の巨人”の頭部に、深々と剣が突き立った時――――炎は消え、後に残ったのは黒く焼け焦げた、“炭の巨人”の死体。

 しかしそれが見えたのは一瞬の事だ。

 すぐに“冬”が訪れ、全てを覆い隠す。


 “炎の巨人”と“冬将軍”の、二つの終焉を中心として……溶ける事の無い凍土、止まぬ風雪が、決戦の場へ広がっていった。


 幾度の季節が巡っても――――その地を覆う雪は、解ける事はなかった。




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