“這い寄る森”と迎撃者たち
*****
その酒場は、一言で言えば種族の“ごった煮”のような混沌の場だった。
背の低い筋骨隆々の小人が骨付き肉を齧り、大瓶の火酒を一人一本、握り締めながらラッパ飲みに乾す。
火を付ければ燃えて、口に含んで蝋燭に霧状に吹きかける“ドラゴンの息”という芸までも行える
人間は酒場を見渡す限り、給仕が数人と、酒場の客には四分の一ほどでしかない。
この場にいない種族は、たったの一つだけ。
そんな酒場の中にあって、珍しくもない二つの種族が、カウンター席で酒を酌み交わして互いを労っていた。
片方は、ドワーフ。
片方は、“獣人”。
「全く、クソみたいな世の中じゃの。“森”が押し寄せてくるなんて聞いた事も無いぞ」
鋭い眼をしたドワーフが、火酒を後ろに居る同輩達とは違ってグラスに注いでから傾けて、塩っ辛い燻製肉を何度も噛み締めていた。
背中には黒光りする、全体を一塊の金属から鍛造して作り出した戦斧がある。
腰布には手斧とナイフを押し込み、頑強なスケールメイルと毛皮のブーツで身体を包んだ、いかにもな古強者の容貌だ。
愚痴をこぼす相手は、気弱そうにも見えるが……どこかに芯の強さも同時に秘めた、柔和な顔の、“イヌ”の獣人。
彼はエール酒のジョッキをついばみながら、ちびちびと中身を減らしていく。
「下品だよ、ガース。海が持ち上がるような大波が、沿岸の街を飲み込む事もある。山が崩れて、村を埋め尽くす時もある。森が僕達を飲み込もうとしても、別に不思議じゃないんじゃないの?」
「はん、小賢しいわい。ワシが言うとるのはそんな事じゃないわ。レト、お前さんはあれを受け入れとるのか?」
「受け入れられはしないから、戦ってるんじゃないか。少なくとも現実として起こっちゃってるしさ。ほら、ガース。グラスが空いてるじゃないか」
憮然とした顔でガースは獣人レトの
レトはそれを見て頷くと、目の前の皿にあったソーセージをフォークに刺し、口に運ぶ。
彼が獣人という事は尻尾と耳で掴めても、かなり割り合いが人間に近い部類といえた。
本来耳がついているべき部分より少し上に、被毛に覆われた犬の耳が垂れており、革ズボンの少し上、腰巻きの間から太くフサフサの尻尾が生えている。
体表を覆う獣毛は少なく、前腕部に少しと、かすかに尖った鼻面から首にかけ薄いベルベット地のように短い毛が生えている程度。
頭髪は人間の髪よりも獣性が強く、くしゃくしゃとした金毛が頬まで覆い隠し、濡れて光る真っ黒い鼻は彼自身の体調の良さをそのまま表していた。
上半身を包む袖なしのレザーアーマーと首に巻いたスカーフ、腰には小剣。
彼はまるで保護者のような人当たりのよい微笑みを浮かべて更に一口、エールを傾ける。
「……いつまで続くんじゃろなぁ」
「さぁねぇ。あの森、……いやそもそも“森”かな、あれ?」
「何じゃ、そりゃ」
「ガース、君の言った通り今は変な、というか一大事なんだ。だって――――“魔王”のいる時代なんだからね」
その時、酒場の空気は一瞬引きつった。
レトの発した言葉が原因ではない。今彼の言った事は、この酒場に居る全員が共有する、周知の事実だったのだから。
ガースが怪訝そうに思いながらグラスを置き、レトは鼻を
捉えられた匂いは、酒と肉と、饐えた汗と血と泥の混ざり合った場において最も遠くにあるものだった。
これは――――新鮮な、緑の香り。
椿の花の香るような、ふわりとした甘い芳香。
戸口を見ると――――“この場にいない唯一の種族”の女が佇んでいた。
「お邪魔いたします」
と、透き通った声で言うと、ドワーフ、人類、ハーフリング、獣人、様々な種族の酔客の視線をものともせずに歩き、カウンターにいたレトとガースを一目見て、レトの隣の席へ腰を下ろす。
「……ごめんなさい、お水をいただけるかしら」
彼女は――――正真正銘の、エルフだった。
ところどころ葉の残る蔓草で編んだサンダルは、まるで先ほど作ったばかりのように真新しく、彼女の小さな爪先だけを覗かせて包み、その茶と緑が貝殻のような爪を引き立ててやまない。
ゆったりとした白い薄衣のドレスの上に、首飾りとサッシュ、それだけで防具など身に着けていない。
武器と呼べそうなものは、鮮やかな彫金細工で鳥の翼を模したハンドガードをあしらった細剣ひとつのみ。
まるで家宝の剣をひったくって家出をしてきた意地っ張りの令嬢、といった風貌のエルフの女。
うなじの少し下で結ばれた髪は、細い背中の半ばまで伸びている。
「何か、ご用件かしら?」
レトの視線に気付いたのか、エルフの女は水のグラスを両手で受け取り、訊ねた。
「初めまして、僕はレトです。……こちらには、何かのご用事で?」
「ええ、ごきげんよう。……“這い寄る森”の事で、ちょっと。この中で、“木こり”の
「いる、っていうか……全員そうだよ」
「え……?」
「いまここにいる客、僕も含めて全員が“木こり”のメンバー。……お名前を伺っても?」
彼女は驚いたように店内を見回して、それからレトに視線を戻し、名乗った。
「私は、ファナリエル。……“這い寄る森”というものについて、詳しく聞きたいのです」
*****
“這い寄る森”は、ある日突然出現した。
そこには森に面した集落があったのに、ある日商人が通りかかると、すでに飲み込まれていた。
建物は全て蔓に覆われ、家々の中心を貫くように大樹が
二十人いたはずの分け入ったキャラバンのうち、生き残ったのはたったの一人。
その一人ですらも気がふれて、曖昧なことを口走り、涙とともに領主や巡察隊の兵士に訴えかけるがその多くが信じ難く、そして吐き気を催すものばかりだった。
曰く、草木の妖精に精気を奪われ、リーダーが死んだ。
曰く、ひとりでに動く木が護衛の一人を吊るし首にし、引き裂いて
曰く、見習いの三人が木の蔓で作った人型の檻に閉じ込められ、――――絞り殺された。
あまりにもむごい死を見続けるあまりに気がふれ、森を脱出できた事すら気付かずに彼は駆け続けた。
そして彼を保護した巡察隊の兵士達は、確かに見た。
なかったはずの森が、確かに這い寄ってきていることを。
不吉に淀んだ気配が、おとぎ話の“魔の森”そのものだったと。
そして――――辺境伯に訴え出て全てを語った、その席で。
彼の鼓動は止まり、目は恐怖に見開かれたまま、小刻みに笑うような痙攣とともに死んだ。
それが、“這い寄る森”の始まりだった。
森、は“進軍”を続けた。
踏み入る者を生かして還さない虐殺の森は、日ごとに人界へカビの床のように広がっていく。
それを迎え撃つために、いつしか――――“木こり”と呼ばれ、そして名乗る事になった冒険者と傭兵達のギルドが生まれた。
*****
「……なるほど、そういう事でしたのね?」
水を遠慮なく飲み干しながら、彼女はレトの説明を聞いて得心する。
「うん。……で、君は何をしに? ファナリエル。旅慣れては見えないよ?」
「放っておけぃ、レト。エルフのお嬢さんは家出でもしとるんじゃろ。相変わらずお前さんは二つ名どおりじゃの」
“お人よしのレト”というのが、彼の称号だった。
二つ名どおりに人当たりがよく他人の面倒を見るのが好きで、トラブルが起きれば割って入り、仲裁のとばっちりで顔面にアザを作った事も少なくない。
傭兵あがりの間ではバカにされる事も多い反面、冒険者だった“木こり”メンバー達からは信頼されていた。
それは――――決して仲間を見捨てぬ責任感を秘め、惜しみなく発揮するからだ。
「……私は、家出などしたつもりはありません。帰るつもりもありません」
「ほう! 家出娘は皆そう言うんじゃよ。変わり映えしないのう、エルフのくせに」
「!」
ガースの言い草に激したファナリエルがレイピアに手をかけようとした時。
その細腕はがっちりと、しかし優しく掴まれていた。
「よしなよ、ファナ。こんな所で抜いちゃだめだ」
「あ、え……っと……!」
「ガースも。いくらドワーフがエルフ嫌いでも、ちょっと見過ごせない。彼女に謝るんだ」
「はん。家出じゃなきゃ何だと言うんじゃ」
「それを今彼女が話してくれるところなんだよ。……ガース。謝るんだ」
伸びかけたファナリエルの手を、レトは容易く途中で掴み止めた。
彼女の利き手は、決して遅くなどなかった。
それどころか、常人であれば目視すら困難な速度で差し伸ばされたのに。
「……わかったわかった。すまんかったわい、嬢ちゃん。ワケを聞かせんかい」
ガースもまた、レトの言葉に応じて素直にファナリエルへ謝罪の言葉を述べた。
応じて、ファナリエルは……少しだけふくれながら、口を開いた。
「私を……“木こり”に加えていただけるかしら」
*****
彼らが“木こり”の名で通り始めたのは、およそ二ヶ月ほど前からになる。
その由来は、彼らのうちの誰かが“俺達はまるで木こりだな”と発したのが元だとも言われ、彼らの戦いを知った者がそう評したとも、諸説ある。
メンバーの半数以上がドワーフで構成されており、どちらにしても彼らが戦斧を担いで森へ向かう姿が名の
レトを筆頭に数種類の獣人、人間、様々な種族が集まっていても、エルフだけはいない。
排他的、閉鎖的で有名なエルフは、世界各地に点在するエルフの里から出る事はそう多くないのが一因。
しかし最大の理由は、エルフ達は、“木を切る”という行為を何よりも嫌うからだった。
彼らの用いる弓と矢は、あくまで木に頼み込んで少しだけ枝を分けてもらうという前提のもとにあり、対等に接するべき友からの贈り物なのだと。
だが――――エルフ達がこの近辺へ来たがらない最大の理由は、別にあった。
ドワーフ達が命を賭して戦う理由も、また同じく。
*****
森に向かう馬車と馬との隊列は、その街の朝を告げた。
足の短いドワーフは他種族と馬に相乗りするか、馬車に乗り込み、迎撃の朝を慌ただしく駆け抜ける。
その数、およそ八十名。
意気軒昂の短躯の斧兵達は闘志を漲らせ、人間の魔導士や戦士もまた同様、御者を務めるハーフリング達までもが、種族に特有のヘラヘラした笑顔を見せない。
戦場へ急行する兵士達を遥かに凌ぐ静かな気迫が彼らの間に満ちていた。
その中をガースはレトの操る馬に同乗し、ファナリエルの馬を後ろに従える。
レトは先行していた荷馬車に追い付くと、御者のハーフリングに声をかけた。
「ピーティー、状況は!?」
「まだわかんないよ! もう、昨日あれだけやってもまだ足りなかったのかい!」
「これだから森は嫌いなんじゃ! 片っ端から切り倒して
ガースは相変わらずの怒声を、すぐ後ろを走る
レトは一度振り向こうとしたが――――さすがに躊躇し、彼女の冷たい怒りの顔を見る事は避けた。
「……ねぇ! あとどれくらいで着くの!?」
「わかんないよ、ファナ! 距離は変わるんだ! もし、あちらが更に近づいてきているとすれば……!」
「その“ファナ”というのは何なのですか!?」
「長いんだよ、キミの名前は!」
すっぱりとそう言ったのを確かに聞いて、ガースは思わずレトの背に唾がかかるのも気にせず噴き出し、咳き込んだ。
「言っておくけれど、私の名はまだ短い部類よ!」
「それだけじゃないわい! 鉄火場ではの、とっさに名前を呼ばにゃならんときもあるんじゃ! 縮めるぐらいええじゃろうが! 耳と同じで名前も長いんじゃよ!」
「っ……!」
ファナリエルは、誰かに、ここまで
あの酒場に居た中でもっとも礼節を弁えているレトですら、こうだ。
“木こり”に加わるという事は一応認められたが、未だ“新入り”ですらない。
絶対に離れるな、何かが出たら応戦せず味方の方へ逃げろ、ときっちり言い含められた。
これでも、ファナリエルは見た目と違い、家出をして数日そこらの跳ね返りではない。
着ている服は、精霊の加護を受けた絹で織られた特注品で、衝撃にも刃物にも強く、ちょっとした鎧よりも頼りになる代物だ。
蔓草のサンダルも、草木の精霊達から力を分け与えてもらえる付与魔術を施してあるため“緑のある場所を歩く”間は決して足が疲れる事無く、無限に走る事すらできる。
そしてレイピアはこれもまた業物の一つであり、それを操る彼女の技量も、並大抵では決してない。
馬を走らせながら、レイピアの細工を目で追い、気を鎮めていると……前列から声が上がる。
「……見えたよ! 見えた!」
甲高い声で御者席のハーフリングが叫ぶ。
その前方を、ファナリエルが伸び上がるように覗き込むと。
確かに、そこにはあった。
地図には存在しないはずの、しかし……堂々たる、不可解な森が前方に見えてくる。
「……予想していたよりも、侵食は遅いな。トレントを結構倒せたのが大きかったかな?」
「トレントですって? あの森に?」
「あぁ、いや……樹の魔物だからそう呼んでるだけなんだよ。実際そうなのかは分からない。ほら、ここで下りるよ。足元に気を付けて、ファナリエル。ガースはまぁさっさと飛び降りなよ」
「言われんでもそうするわい!」
ファナリエルの胸中に、トレントの姿が思い浮かぶ。
永い樹齢を持つ木が意識を持ち、やがて精霊と化して言葉を発する事すら可能になった、エルフ達が友とする者達だ。
誰もが温和な性格を持ち、他者を害する事など絶対に有り得ないはずの。
旅のさなかに“這い寄る森”の噂を聞きつけ、やってきたはいいものの……ここに来てなおも、疑問だけが増えていくばかりだった。
「何なの……?」
つい、ぽつりとつぶやいた言葉を拾ったのか、レトの犬耳がぴくりと動くのが見えた。
*****
森の中へ分け入った一行は、いくつかの隊に分かれた。
先頭を行くレトは五本の投げ槍を背負い、ガース、ファナリエルに続いて同道しているのは人間の魔導士一人と、ドワーフの戦士が二人。
彼らは獣の
「まだこの辺りは危険でもないようじゃの。気配もせんわい」
「とはいえ油断はできないね。……数時間もすれば、僕達の入った入り口からは出られなくなる」
中は、何の変哲もない森が広がっているように見えた。
いや、それどころか……かなり静謐で地面の起伏も少ない、とても“整った”森だ。
柔らかな土、瑞々しい落ち葉、茂った野草、木々の間から投げかけられる木洩れ日。
そういった部分はどれ一つとってもおかしな部分は無い。
だが、不自然な感覚が……どうしてもファナリエルには耐えられず、足を止めた。
「……ねぇ」
「ん、どうしたんじゃい、お嬢ちゃん。疲れたなんてまさか言わないじゃろな?」
「ガース……」
先頭を務めていたレトが諫めようとして、振り返ると、ファナリエルのおそろしく青ざめた顔が目に飛び込んできた。
「……疲れた、のよ」
疲れた――――という言葉の割に、彼女は汗もかいていないし、息も切れていない。
むしろ血の気が引いて凍えているような蒼白の顔で立つ様は、違う不調に見えた。
「はっ。お主、ワシの話を聞いちょらんかったか」
「いや、ガース。……彼女の様子がおかしい。どうしたんだ、ファナ」
「……私のサンダル。聖なる蔓草で編んだサンダルは、緑の大地を歩く限り、私を決して疲れさせずいつまでも歩かせてくれるの。……なのに、私……疲れてるのよ!」
言って――――動揺が、一行の間に広がった。
その中心にはファナリエルと、次いで人間の魔導士、レト、そして三人のドワーフは事の重大さを認識できずに首を傾げ、互いに顔を見合わせた。
「……おい、って事は……あんたのサンダルちゃんは、この場を“森”として認識していないという事か?」
頬のこけた禿頭の魔導士が訊ね、彼女はそれに頷いた。
エルフの魔法が、効かない。
彼女の細い脚を守るサンダルは、“この場は森ではない”と主張し、その魔法を発揮していないのだ。
「……なるほどな、貴重な情報だ。あんたが同行してくれて助かったぜ」
「フェスター、理由の見当はつくのか?」
「いや。今回でもう少し仕入れて帰って文献を漁れば掴めるかもな。『這い寄る森は、“森”じゃない』。ますます謎が増えたな、燃えてきたぜ」
フェスターと呼ばれた魔導士は、ファナリエルの様子と反して、はしゃいでいた。
それだけでも彼女を連れてきた甲斐があった、と言うように。
「む。……どうやら、どこかでおっ始めたようじゃの」
耳をそばだてると、どこかから蛮声と、連続する金属音が聴こえた。
「……ファナがいる。戦闘をできるだけ避けて情報を集めよう。ファナ、もう少しだけ協力してくれるかい? つらかったら言ってくれよ」
「つまらんのう。モタモタしとる暇は無いんじゃがな、ワシらは」
ガースが不承不承に言うと、他のドワーフ二人が同意の頷きと舌打ちをそれぞれ放った。
ファナリエルは、少なくとも今は……その無作法な振る舞いへ言い返せる気力は無かった。
*****
更に森を進むと、ファナリエルは少し調子を取り戻し、汗ばんで歩きながらも、レトに興味を示し警戒を解いたのか彼のすぐ後ろを歩くようになった。
「……そういえば、ファナ。君はなぜ旅に出たんだ? 帰るつもりもないと言っていたけど」
純粋な疑問だった。
今なら少し後ろの四人と距離があるから聞かれる事は少ないとも考え、彼女に気遣って訊ねる。
「…………私は、我慢できなかった。あの頭の凝り固まった長老達が」
「ふむ。……エルフが保守的閉鎖的なのは知っていたけど、そんなに?」
「他のエルフの里はまだ出入りがあるけれど、私の里は特に酷かったの。“外の世界”そのものに関心を持たない。守るべき慣習や儀礼的なものがあるのは分かるわ。でも……何が起きているか、どう世界は変わっているのか、知る事すらも禁じるのはバカげていると思った」
彼女は、更に語る。
「外界を知ってなお、里はそうして回すべきだと結論するなら私は従う。でも……長老たちはそうしなかった。私は、そんな石頭達の引き篭もりの寄り合いに従わされるのはイヤだった。生まれた時から知っている男と結婚して、その後の人生までも単なる世代交代でダラダラと終えていくなんて、絶対にイヤ。私は……奴隷じゃない。自分で決めさせてほしいのよ。里に残るか出るか。帰るか帰らないか。里を、どうやっていくか。どう生きていくのかを」
一息に言うと彼女は次の一歩を強く踏み締めた。
「だから、私は……外の世界を見たい。どんな世界があるのか、知りたい。様々な人達と触れ合いたい。……言葉にすると、ガースじゃないけれど……芸のない理由よね」
「そっか。……僕と、同じだね」
「え?」
「ファナは、海の向こうにある国を訪れた事はあるかい?」
「……いえ、まだ海を渡った事はないわ」
「僕は、その国で奴隷だったんだよ」
レトは歩みを少し緩めて、一度だけ振り返る。
その黒々として丸い瞳の中には、発した言葉の内容にそぐわない、少年のような輝きが宿っていた。
「僕が、というのは語弊があるか。……僕のいた国では、獣人には人権がなかったんだ。農場で奴隷として働かされ、鉱山で使われ、ありとあらゆる場所で苦役に就かされ、死んでも適当に埋められておしまいだったのさ」
「それ、は……辛かった、でしょう」
彼女の頬が羞恥に染まり、それだけの相槌を打つしかできなかった。
自分が先ほど軽々に使った“奴隷”という言葉は、目の前の獣人の青年には過去の傷だったと思い知らされて。
それを見て取ったのか、当のレトは付け加えた。
「でも、僕はそんな過去を……まぁ、感謝はしていないけど得難いと思ってる。そんな顔をしないでくれ。僕は昨日も、トモダチと一緒に酒を飲んで、肉を食べた。今は楽しいよ」
「……何故、あなたは国を出られたの?」
「決まってるだろう。逃げたんだ。同じ奴隷小屋の仲間と結託してさ。ところが意外と楽だった。森に逃げ込んでしまえば、人間が獣人に追い付く事なんてできない。僕には鼻があり、仲間には耳があり、そして皆、獣の足や鳥の翼があったからさ。その事に気付けなかった僕達は、追手を振り切れたときには笑ったよ。“どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだ”って」
レトは、そんな身の上を朗らかな笑いとともに語ってみせた。
「僕達は湧水を見つけて、山の果実を食べて、目が溶けそうなほどまぶしい朝焼けの空を見た。その時、きっと“僕”はこの世界に生まれたんだ。……そして今は、会いたい人もいるよ」
「それは……誰?」
「当時の仲間さ。“猫”と呼ばれていたけど、きっと違う。彼に会って、“僕は元気だ”とだけ伝えたいんだ」
「それだけ? ……その“猫”のほうは、元気とは限らないんじゃ……ないかしら」
「いや、間違いないさ。だって、彼は……強いんだから」
「まぁたその話かい、レト。いい加減にせんか。同じ話ばっかりしよるな」
「ガース、どこから聞いていたんだい?」
「ほとんどじゃ。その“猫”とやらの話は胡散臭すぎるぞ。やれ、“闘技場で百勝し、怪物の獣人を倒した”だの何だのと。お前さんの話は途方もないわ」
二人の会話に割って入ったガースは、レトとファナリエルを交互に見て鼻を猪のように鳴らした。
「盗み聞きとは、あまり趣味がよくないんじゃないかしら」
「お前さんと違って素朴な種族なんじゃよ、ワシらは」
その後は、間にガースを交えて森の中を更に歩いた。
不思議と、森の魔物の何に出くわす事も無く歩き続けられた。
ファナリエルは、更にこの森を不審に思う。
もっと不気味な場所かと思ったのに……何の異変も、起こっていない。
唯一、蔓草のサンダルが反応せず、それに頼って旅を続けてきた彼女の脚を疲れさせた事だけが。
彼女を気遣ったレトが小休止を申し出た時、一向は思い思いに、しかし武器の準備は怠らずに腰を落ち着け、革袋の水を乾した。
十分ほどのささやかな休憩を経て、分隊がだいぶ疲労を軽減させて立ち上がった時。
“彼ら”は異変に気付いた。
彼女が、いない。
*****
――――――ファナリエルは“這い寄る森”の中を、一人で早足に駆けていた。
まさしく疲れを知らないような足取りで、何かを辿るように、どこまでもだ。
「どうして……!? さっきまでは、発動していなかったのに!」
少し離れて木陰に入った時、彼女のサンダルは輝きを取り戻して、一息に疲れを癒させた。
その足で、彼女は高揚して気付けば駆け出していた。
仲間達に一声かける事すらも忘れて――――その先に何があるのかを見届けるために。
何も起こらなかった事で、彼女は今、自分がどこにいるのかも忘れてしまって。
疲れない足、どこまでも走れそうに整えられた森。
心なしか、その新鮮な空気は、毛嫌いしていたはずの故郷に似ていて。
いくら故郷を憎んでいても、エルフの性分として、旅人の性分として、郷愁の念に絡め取られてしまったからかもしれない。
気付けば、遠く離れていた。
今もなお魔法は続いて、先ほどまで“森”と認識されなかったはずの場所を、緑の大地として認めていた。
そこで、彼女は気付いたが――――――遅すぎた。
(な、何故……? 何故、虫も、鳥も、獣もいないの……?)
虫の声も、鳥の囀りも、小動物が木を駆け上がる音も聞こえない。
葉のざわめきだけは聴こえても……それは恐ろしく無機質で、生命の息吹を感じない。
何かが、ただ真似ている。
声真似の鳥のように、この森は、“森”を
擬態だ。
虫が捕食者を避けるべく樹皮の色合いを
だとすれば――――この“這い寄る森”は、何のためにわざわざ皮をかぶるのか。
とっさにレイピアを抜き、周囲に警戒すると。
葉のざわめきは、まるで哄笑のように増した。
哀れな獲物を嘲笑うように。
彼女の声を、足音を、誰にも届かせまいとするように。
「何……!? いったい、何が―――――う˝ぅっ!」
前触れもなく、ファナリエルの身体が宙に浮いた。
そのまま、地面からは彼女の背丈ほども浮いて――――ぎしり、ぎしり、と不気味な音が、葉の音の中にあっても高く響いた。
「がっ、う……! ぐぅぅ……!」
ファナリエルの細い首に、彼女の手首ほどもある枝が巻き付き、吊るし上げていた。
レイピアをしゃにむに振り回し、枝を払おうとしても……腰の入らぬ動きで、呼吸すら整えられないままでは、弾き返されるだけだ。
やがて、取り落とし――――頼りの綱の剣は、無慈悲に地面に落ちた。
「うっぐ…………っ!」
白かったはずの顔は紅潮し、たおやかな指先は首に巻き付く枝を払おうと足掻く。
酸素を求めてばたつかせた足は――――今、地面から伸びた別の枝に、一まとめに絡め取られ、そして真下に引く。
目的は、彼女を縊り殺すためではない。
彼女の身体を、引きちぎるためだった。
(い、やっ……! こんな……! 死にたく、な――――)
脚の腱が引き延ばされプチプチと音を立て始め、背骨に嫌な痺れが走った。
意識が途切れる直前――――頭上から轟音が聴こえて鼓膜が震え、直後に、解放されるような浮遊感を覚えて、両断されるはずだった背中に温もりを覚えた。
「ファナリエル、どうしてこんな所に! 無事かい!?」
ぼやけていた視界に、犬面の獣人の顔がだんだんはっきりと見えてきた。
「レ、ト……? どうして? 私は……?」
「……よかった。説明は後だ。フェスター、彼女を頼んだよ。とりあえず……ヤツを倒そう」
「援護はいらないのか?」
「ああ。僕達でやれるよ」
彼女が優しく寝かされると、レトは背から
ファナリエルを襲い、その身を引き裂き喰らおうとした、樹木の怪物と。
「ガース、準備はいいかい? ヤルドール、ギースリも」
「待ちくたびれたわい。ようやくワシらの出番じゃの」
「おう、そういうこった。斧ちゃんもコイツに会いたがっとった」
「
口々にドワーフの三人が同意し、斧を構える。
その目はどれもがギラつき、怒りをたたえた野蛮な光を宿して、髭に覆われた口元が蠢き、その下で歯を剥いているのが見て取れた。
――――レトもまた、同様。
「グルルルルル……!」
喉の奥から低い威嚇音を発し、目頭から口もとへかけて皺が寄り、鋭く尖った牙を持つ歯列を、怪物へ向けていた。
その尾は小刻みに震えながら屹立し、闘争心を剥き出しにした姿は、あの優しげな姿とは似ても似つかない。
“獣”が、そこにはいた。
彼らの目の前で、“大木”は立ち上がった。
根をまるで脚のように織り、虫のような多脚を形作る。
ファナリエルの首を締めあげていた枝の腕を何本も垂れ提げ、開いていた三つの
脚に走る激痛を堪えながら、彼女はようやくそれを見た。
(あれは……トレント、なんかじゃ……ない……もっと……邪悪な……)
木の怪物は、彼女に今もまだ執着する視線を向けていた。
一度は捉えた獲物、それもエルフの乙女。
何としてでも、と――――深淵へ続くような目で、彼女を見ていた。
「おい」
その隙に、ガースは距離をつめて斧を振りかぶった。
短くも太い、筋肉を詰め放題詰め込んだような腕が膨れ上がって――――血管を浮かせ、溜めとともに振り下ろす。
それだけで木の幹ほどもある脚の一本が断ち切れて、怪物の体勢を崩させた。
「木が斧に勝てるワケないじゃろ、バカタレが」
他のドワーフ二人も続く。
食い込んだ斧からは青緑の血しぶきが舞い、返り血が三人の身体を彩る。
「おぅぐふぅっ!!」
もがく怪物が振り回した腕の一本がガースの銅を直撃し、その短躯を弾き飛ばした。
だが、彼は斧を離すことなく立ち上がり、反吐を吐き出して怒鳴りつけた。
「全ッ然効かんわい! そんなんじゃぁションベンも出んわ!」
再び地を蹴り、斧の一撃を見舞うべく駆け寄る直前、怪物の腕の根元に投槍が深々と突き刺さって、直後に腕を爆散させた。
「こっちだよ!」
絶叫し、怪物が足を踏み慣らす。
すると地面から無数の枝の槍がレトを目指し、四方八方から襲い掛かる。
しかし、そのどれもかすりもしない。
二本目の投げ槍を手にしたレトは地を駆け、全てが見えているような動きでその全てを避ける。
足を払う枝、頭を貫く枝、正面から心臓に向けて伸びる枝。
全てを避け切り、最後に頭を狙って突き出された枝をくぐると急停止し、再び槍を投擲した。
それは、怪物の右目深くへ突き立ち――――同じように爆発して、その身体をえぐり取る。
その槍には、炎の魔法が付与されている。
穂先が貫くと発動し、突き刺したものの内側から爆発する単純なものだ。
素早い魔物、小さな魔物には効果的ではないが、大きく鈍く、そして硬い魔物には充分な威力を発揮する。
「あと二本か……帰りのために温存しておきたいな」
「ならワシらに任せい。切り倒してやるわ!」
ドワーフ達は、臆さない。
攻撃力を著しく失っているとはいえ、凶暴さを増した怪物の懐へ飛び込み、幾度となく斧を叩きつける。
その度に怪物の身体は削れていき、動きが鈍る。
「これで終わりじゃい! さっさと、倒れんかいボケぇっ!!」
著しく削れた部分へ向け、三人は一息に斧を食い込ませた。
木の怪物が切り倒されると同時に、“森”は――――消えていき、あとには遮るものが何もない草原地に放りだされる、六人の姿だけが残った。
*****
木の魔物を倒すと、“森”は少しだけ後退する。
ファナリエルがそう知らされたのは、帰りの荷馬車の上でだった。
同乗するのはガースと、同行したドワーフの二人。
彼女は今馬車に揺られ、恥ずかしそうにしながらばつの悪い時間を過ごすはめになっていた。
「まぁ、よかったわい。無事での」
鼻の頭を掻いて、ガースはぽつりと言った。
それを見ると、彼女は急にどうでもよくなり……抱いていた疑問を口にする。
「あなた達の……戦う理由は、何なの?」
“木こり”には、ドワーフが多すぎる。
その上、誰もが燃えていて……ただ“這い寄る森”を迎撃するためだけに戦っているとは思えなかった。
「……あの森はの、嬢ちゃん。ワシらの山の向こうから伸びてきたんじゃ。今はもう……帰れないんじゃ。故郷には。もう、あの森のどこにあるのかもわからん。取り戻さにゃならんのじゃ、ワシらの故郷をな。ワシらは……帰りたい」
「そう……だったのね」
ドワーフ達が斧を振る理由は、ただ一つ。
不気味な森に覆われた鉱山を、村を、ただ取り戻したいだけの一念だった。
「そんで……嬢ちゃん。どうするんじゃ。まだここに居たいか?」
「……ええ。勿論。あの“森”の謎は、まだ残っているでしょう? ……今度は、はぐれたりしないわ。あなた達が帰る場所を取り戻しましょう」
そう言われ、ドワーフ達は照れ臭そうに笑って顔を見合わせた。
他ならぬエルフにそう言われた事が、彼らには妙にこそばゆく感じて、素直な言葉を発せられなくなっていた。
「ひとまず私が知った事を全て話すわ。まず、あの“森”は見せかけの擬態で――――」
エルフと、ドワーフが馬車の上で話しているのを、レトはじっと見つめた。
ひとまず、彼女は溶け込めそうだと感じて。
加えて――――森を知るエルフを仲間に迎えられた事を、嬉しくも感じて。
彼はここで戦い始めて、初の希望が見えた。
あの“森”を根絶やす事はできなくても、せめて効果的な方法を模索できるかもしれない、と。
憧憬を孕んだ視線は暗くなりかけた空へ向けられ、世界のどこかにいるはずの“友”の姿を、輝く星々の繋がりの中に探して。
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