聖剣の森と聖邪の妖精


 ――――あの森の木々は、矢を放つ。

 ――――あの森の鳥の羽は、抜け落ちると矢へ変わる。


 そんな伝説の語られる“聖樹の森”へ、その者はいた。



*****


 森の中を、三体のゴブリンが走っている。

 もともとこの森に住んでいなかったはずの低級の鬼は、先刻までその十倍の数がいた。


「ギャ、ギギ……グギャッ!」

「ガヒッ!」


 これで本当に意思が通うのか、言語として成立しているのかすら疑問なほどの、不快な声だ。

 大人の腹ほどまでの背丈しかない緑色の身体の魔物達は、肝をつぶすように、互いに励まし合うように、森の出口を目指して駆ける。

 手に持つ錆びついた鉈、刃毀れを重ねてもはや鈍器にしかならない斧、旅人を殺して奪った、不釣り合いに綺麗なナイフ。

 身に着けているのは装着方法が分からないのかずり落ちかけた胸甲、ぶかぶかの革手甲レザーガントレット、唾液と返り血と泥に塗れた、吟遊詩人の羽帽子。

 およそ文明というものを持たない、他種族から奪うことしかできない、何も作り出せない生き物たちは怯えていた。

 息を切らせて走る彼らに、風を切る音が近づく。


「ギャフッ!」


 ゴブリンの一体が――――右膝に矢を受け、転がった。

 その矢の入射角は……彼らの真横からだ。

続いて動きを止めたそのゴブリンへ今度は真後ろから、うなじから喉を貫く矢が生えた。

 残る二体のゴブリンは、もはや彼を見捨てて逃げるしかない。

 すでに……死んでしまったからだ。

 微かに振り返った時、確かに彼らは見た。

 はるか後方、木々の中で弓を番える長身の影を。


 ゴブリン達は、更に走った。

 数十歩と走らないうちに、鉈を手にしたゴブリンもまた落伍し、その鮮血が最後の一体の背へかかったが、彼は気付かない。

 ようやく――――森の出口が見えて、光が差した。

 武器すらも持っていられないほどに精根尽き果てたゴブリンは、すでに丸腰。

似合わない羽帽子だけが、唯一の装備だ。


「ゲ、ヒヒッ……ギャガッ!?」


 ゴブリンの言葉で安堵の溜め息をついたが、それもつかの間。

鋭角に斜め後方から、左背に深々と矢が突き立ち、肺の一つを貫いた。

その角度はまるで――――木が自分の意思で矢をつくり、射たかのような不自然さだった。


「逃がすものか」


 這ってでも、少しでも遠ざかろうとするゴブリンの背へ声がかけられた。

 高い声だが、それでも男のものだと分かる……澄み渡るように滑らかな声だ。

 次いで、もったいぶる事もなく、彼はとどめの矢を放つ。

 苦しませる事無く矢は後頭部を貫き、一撃のもとにゴブリンの脳幹を破壊して即死にいたらしめた。


「……せめて来世では、そなたと友となれる事を願う」


 射手は、目を見開いて死んだゴブリンの顔にたおやかな手を差し伸べ、瞼を閉じさせた。

 心を繋いだ者を懇ろに葬る時のように、迷いのない仕草だった。


 ゴブリン達を追い、討った男は……“エルフ”だった。

 年は長命の種族故に見合わないが、人間の外見でなら二十歳にかかるかどうかという頃だ。

すらりとして脚の長いのに加え、しなやかに鍛えられたその腕も驚くほど長く……まっすぐ下ろせば、膝に届いてしまうほどだ。

 人間の人体比では決して有り得ないバランス。

その長さは、弓の弦をより遠くまで引き絞る事を可能とする。

むき出しの肩口から指先にいたるまでは、防具も装飾品もつけてはいない。

胴体から喉までは緑色に染めた服と、最低限の金属部品しかない。

 ズボンの下は裸足はだしなのにも拘わらず、その脚には土も汚れもついていない。

 エルフの特徴たる金髪は後ろに束ね、左側の前髪からサイドまでは輪郭に沿って編み込み、狙いをつける邪魔にならないようにまとめている。

 右側の髪には水晶珠の髪飾りをあしらい、木漏れ日を受けて輝く。

 何より――――その顔は美しかった。

 鼻筋の通った美麗な面立ち、森の恵みを受けた深い緑色の瞳、冷たいながらも凛とした、森を守る厳正な審判者の顔。

その顔自体が、静かな問いかけだった。


“――――そなたは、この森へ何をしにきたのか”と。



*****


 “聖樹の森”を守るエルフ、名をフラウノール。

 名の意味は、決して錆びつかぬ“白金はくきん”。

 彼はこの森の中心にある泉を守る立場に任じられていた。

 生まれはこの森の更に北にあるエルフの隠れ里であり、三代目にあたるこの森の守護者であった。

 世界の異変を感じたのは、一週間ほど前。

 世界にいてはならない者達が、世界のどこかへ現れた。

 それはエルフ、ドワーフ、ハーフリング、ホビット、その他の妖精の種族だけが感じる事ができる霊感だ。

 次いで、ゴブリンをはじめとする低級の魔物。

 彼らはその生存本能と邪悪な直感から、この森の何かを奪わねばならないと感じて、それ故に、この森へ一団を送り……フラウノールの射る矢にことごとく倒れた。


 エルフ族の呪文は、他種族には聞き取れない。

 火球を作る呪文、氷の矢を生み出す呪文、爆発を巻き起こす呪文、隕石を呼び止める呪文、それらとはまるで違う。

 ゴブリン達を殲滅するべく矢を番えながら唱えた呪文は、いくつかを抜きだして人類の言葉へ訳すとこうなる。


 ――――私はこれより、この森の敵を討つ。

 ――――そちらのアカシア、腕を下げてくれ。

 ――――向こうの山査子さんざし、少しの間だけ腕を上げてくれ。

 ――――鳥たち、今しばらく羽を休めよ。

 ――――森の出口を守る針槐はりえんじゅ、私の矢を少し叩いてくれ。


 全てが――――森へ対する、願いだ。

 受け取った森の木々とそこへ息づく鳥獣は、彼の号令のままに動く。

 無作法な者達へこの森は決して容赦せず、伝説が如く、エルフの射た矢を受け取って敵へと届ける。

 それが、この森の流儀だ。


 森へ踏み入ったゴブリン達と、彼らの無作法な振る舞いで巣から落ちて割れてしまったシギの卵を葬ると、彼はいつもそうするように、森の中心にある泉の水面みなもを覗いた。

 澄みきって底まで覗き込める泉には、何も映らない。

 泉の底に眠る何かの気配を――――感じ取ってはいるのに。


「この世界に、何か良くない事が起きた。それなのに……何故、何も起こらないのですか」


 投げかけるようにつぶやいたが、波紋すら起こらない。

 泉に眠る力の存在は、ただならぬものだ。

 先代の守り手からは、何も聞かされてはいない。

 与えられたオーダーは、単純なものだ。

“ いずれ時が来るその日まで、聖樹の森の泉を守れ”。

“ たとえ何者が相手であろうとも”。

 ひどく抽象的で何も説明していない命令なのに、フラウノールはそれを……エルフの信条に反して、何かしらの神聖な力であるとも感じていた。


 エルフ族は神への崇敬を持たない。

 傲慢が故ではなく、古代からの妖精種族が皆そうであるように、ドワーフが大酒と大槌と炉を人生の全てとして見るように、信仰というものがない。

 世界を取り巻く自然こそが尊ぶべきものであり、心を通わせる友であり、何かを崇めるという行為を文化として持たない。

 加えて守り手フラウノールは、神であれ魔であれ、高みから見下ろす存在を毛嫌いしている。

対話と調和こそが取るべき最善の道であり、見下ろしてくる何かを崇める事は、それに反していると彼は考える。

 師や弟子ではなく“友”である事こそが最良であると信じ、彼はエルフ族には珍しく、他種族への偏見の目を持たなかった。


 聖樹の森が落ち着きを取り戻し、虫の声が戻った頃。

 彼はリスが木を駆け登るのを見届け、泉を離れた。


――――泉の底から、泡が立ち上ったのは……彼が去った後の事だった。



*****


 数日後、新月の夜に来客があった。

 招かれざる者であり……しかし無碍には扱えない。

 ひと際高い樹上からその者の存在を認めた時、彼は駆け出し、その方角を目掛けて木々の合間を縫って走る。

 光源は星の光と、発光する虫だけ。

 しかし、それが無かったとしても、この聖樹の森の番人は決して木々にぶつかる事は無い。

 この森の木々の場所も、形も、育ち方も、全て掴んでいる。

 目を閉じていたとしても迷う事は無い。


 人影を見つけた場所、木立ちの中にあるやや開けた空間に辿りつく。

 そこに振り撒かれていたのは、同族……の名残(なご)りを微かにしか残さない、奇妙な淫香いんこうだった。

 霊草、薬草、獣から取った抽出液や花の蜜を混ぜ合わせはしても、エルフ族の体系とは全く違う効果を生み出すべく創られた、いびつな技によるものだ。

常人が嗅ぎ取れば媚薬効果の網に絡め取られ、前後不覚の状態に陥るのは避けられない。

森の中でそんな不自然なものを惜しげもなく纏う不敵さを、フラウノールは知っている。


「……後ろを取ったのなら喉でも裂いたらどうだ、アエンヴェル」

貴方あなたこそ、取られたと分かったのなら弓でも引いたら?」


 後方の樹上、高さにして四メートルほどの枝の上。

 人を一人載せられるほどの太さは無いのに、そこに腰を下ろし、ぶらぶらと脚を投げ出し、遊ばせている女がいた。

 ゆっくりと振り返ったフラウノールは、旧知の“枝分かれ”の姿を、星明りの下に捉えた。


「相変わらずね、フラウ。くだらない言い伝えにとらわれてこの森に籠もって。外には楽しい事がたくさんあるのよ」

「ならばそなたは楽しんで来るが良い。この森へ近寄るな」

「つれないのねぇ」


 樹上の女は、身をひるがえしてフラウノールの前に音もなく飛び降りた。

 その姿は――――エルフ族に酷似してはいても、違う。

 “ダークエルフ”だ。


 エルフ族は、“信仰”を持たない。

 しかし、その戒律を破り……暗黒神への信仰を持ってしまった者達、それがダークエルフの始まりだった。

その罪で白き肌は闇を吸い込む黒褐色こくかっしょくへと染まり、暁の黄金に輝いていた髪は灰色へと変わった。

 弓を引く事を許されなくなった腕は人間程度まで縮んでしまった。

エルフ族と交わり、子を為す事はもうできない。

同族、もしくは人間との間でしか子は作れない。

 そうした歴史を持つダークエルフはエルフ達と関わる事をやめ、暗殺者として、寝室へ這い寄る死の蜘蛛として、また――――肉体の快楽を知り尽し人々を堕落へと導く者として、暗黒の世界を生きていく種族へと変わった。

 かつて霊薬を作り出していたその手は、媚薬と香を作り出す。

 弓を持ち自然の魔術を使役した彼女らは今、毒の刃と破壊の魔術を友としている。

 もう、二つに分かれてしまった種族が同じ道を歩む事は無い。


「それはそうと……貴方も、このところ気付いてはいるんでしょう? ねぇ、フラウ」


 聖樹の森へ訪れたダークエルフの女の名は、アエンヴェル。

悩ましく張り詰めた黒褐色の肢体を惜しげもなく曝け出す服装にフード付きのケープを纏い、太腿に投擲用の短剣をそれぞれ三本、腰の後ろに交差するようにダガーを二本、薬品の小瓶もベルトにまとめている、暗殺者か盗賊かの姿だ。

 フードを下げた顔は小さく整い、彼女らの記号である灰色の髪は妨げにならぬよう切り揃えられていた。

 彼女は――――フラウノールの旧知だ。


「アエンヴェル。回りくどい事はやめにしろ。私も暇ではないのだ」

「う、ふふふふ。そうねぇ、私も暇じゃないのよね。だって……とうとう世界に降臨したのよ」

「何がだ?」

「……“魔王”よ。“魔王”が世界へやって来たのよ。世界を滅ぼすために。世界を焼きはらうために。とうとう現れてくれたの」

「アエンヴェル。そなたは、魔王へつくと?」

「違うわ。私じゃない。私達は……皆、そのために生きてきたのよ?」

「考え直すつもりは無いのか? それは……滅びの道だぞ」

「こんな森へいじけて時を過ごしている貴方に言われたくなんてないわね。貴方こそ、身の振り方を考えてみたらどうなの?」

「私に、闇に染まれと?」

「さて、どうかしら。疑問を封殺されて生きるよりは、自分のしたいようにした方が……まぁ、賢くはなくても魅力はあるんじゃない?」

「……考え直せ、アエンヴェル。よすんだ」


 フラウノールは懇願した。

 目の前に居る女は、元は同族とはいえ今となっては闇の住人だ。

それでもなお諦める事ができないかのように、彼の言葉は懇願となった。

魔王へ力を貸し、その後はどうなるのか。

焼き払われた世界、魔物が埋め尽くす世界で、ダークエルフはどう生きていくつもりか、と。


「今からも決して遅くはない、暗黒神への崇拝はそもそもそなたが始めた事ではなかろう。……そのような決め方は、間違えている」

「思考する事もせず“森の守り手”を担っている貴方がそれを言う? こんな森に、いったい何があるというの? 美味しいお水かしらね? ……そんなモノより美味しいものは、いくらでもあるのよ。……ほら」


 そう言うと――――アエンヴェルは蠱惑こわく的な眼差しを投げかけ、下肢を包む衣の裾をつまみ、めくって見せた。

 フラウノールはその恥を知らない仕草に激高し、怒りに顔を染めて叫ぶ。


「アエンヴェル!」

「もう、会う事も無いと思うわ。さようなら、フラウノール。閉じた森で、閉じた教えへ殉ずる哀れなエルフ様。……さようなら。この森から消えておきなさい」


 そう言い残して、アエンヴェルは闇の中へと後ずさり、消える。。

 微かに草を踏みしめ、風を切る音だけが彼女の足跡となる。

 射てしまおうと思えば、射る事はできた。

 だが……フラウノールはそうする事もできず、聖樹の森を去っていくダークエルフの旧知の背を、意識の中で追う事しかできはしなかった。


 そして一度だけ、古いエルフ語を悔しさを込めて呟いた。

 濁音を含んだ醜い言葉を……自分を含め、“魔王”を含め、そしてアエンヴェルが生きるしかない世界へと向け、侮蔑とともに放った。



*****


 そしてフラウノールは三晩、眠れぬ夜を過ごした。

 この森から離れられない自分の知らぬ場で、世を滅ぼす“魔王”が現れた。

 旧知のアエンヴェルはその破壊へと追従し、“魔王”はダークエルフ達の力を取り込み、この世界へと進撃する。

 本当ならば今すぐにでも森を出て、その野望を食い止めに行きたい。

 人類、ドワーフ、バードテイル、ハーフリング、ホビット、世界に何柱か残っていると思われる“ドラゴン”、彼らに呼びかけたい。

 この森に籠もっている場合ではない、と強く感じていた。

 だが……この森から離れる事もできない。

 その理由は、使命だけではない。

 日増しに、森の中心にある泉から、何かの力のざわめきが強まっていく。

 聖樹の森の泉に、何かが起こる。

 決して、離れる訳にいかない。

 離れる訳にいかない間にも魔王は世界を切り刻み、穢す。

 二つに挟まれながら、フラウノールは何度も自問自答し、堂々巡りの自分自身との対話を繰り返した。


 そして、アエンヴェルが訪れて、ちょうど一月の後。

世界を救う“刃”が生まれた。



*****


 力の胎動を感じたフラウノールは、いち早く察して泉の様子を見に行った。

 どうにか間に合った時、泉は……その有り様を、変えるところだった。


「……これ、は……何とした事か……」


 泉の水が湧きたち、風に巻かれるようにして、大岩ほどの結晶と化していく。

 その中心、直上に白銀の輝きが灯った。

 曇りも縞もない輝くクリスタルの台座に――――白銀の柄手と、水晶のように澄んだ刀身を持つ剣が生まれた。

 星の奥深くから差し出されたかのような威容はまさしく、“聖剣”と呼ぶにふさわしいものだった。

 この剣に、切り裂けぬ闇など無いと……フラウノールは確信した。


「これ、が……我が使命だと、言う、のか?」


 思わず、フラウノールは泉だった結晶の台座、そこに突き立てられた“聖剣”へと引き寄せられるように歩いて行く。

 しかし――――近づく事はできなかった。


「何っ……!?」


 結晶の台座の前で、見えない壁に阻まれるように……足が止められてしまった。

 縫いとめられるように動きを止められた足は、それ以上前へと進めない。

 後ずさる事はでき、離れる事はできたが……近づく事は、できない。

 それはつまり――――この“聖剣”が待っている者は、聖樹の森の守り手、フラウノールではないと言っているかのようだった。

 逡巡の後、フラウノールが思い当たったのは……“魔王を滅ぼす者”。


「私では、無いと。まさか……いずれ現れるというのか?」


 問いかけると――奇妙な光を放ち、聖剣は答えた。

 声も音もない答えは、それ故にエルフの心へと沁み込んだ。

 己に課された、真の使命。

 それが今――――ようやく現れ、ようやく、始まったと。


「……仰せのままに。“世界”の剣よ」


 フラウノールは弓を置き――――静かに、ひざまずいた。



*****


 森が“聖剣”を生み出した数日後の夜。

 空に浮かぶ三日月を眺め、来るべき時の到来を待っていた。

 森へとゴブリンが侵入してくる事が増え、オーガまでもが現れる事もある。

 彼らは皆、何者かの軍門へと下った。

 より正確に言うのであれば、恐怖と破壊とに押し出されるように、その力を振るう“何者か”の尖兵となる事を自ら選び、機嫌取りとしてこの森へやって来る。

 その度に森の獣と虫達が知らせてくれ、その度に彼らを撃退した。

 木々の合間を縫って放つ矢は、低級の魔物達には恐怖の象徴となった。

 あえて何体かを生き残らせる事で彼らの仲間へ警告させる、野蛮な戦術までも取らざるを得ない。

 恐怖に駆り立てられて襲い来る者達を、恐怖で押しとどめる。

 それが今のフラウノールの日常となった。


 孤独な戦いではない、という事も彼には分かっていた。

 今もまだ、この世界は滅びていない。

 魔王が現れて二ヶ月近くも経つというのに、この世界は今もある。

 それは世界が、“魔王”と戦っているからだ。

 でなければ、この物質世界が今もまだ続いているはずがない。

 鳥たちとの対話で、掲旗のもとに士気高く戦地へ赴く騎士団を見た事を知る。

 また渡ってきた鳥は、遠き空で魔軍を焼き払う雷速らいそくの竜を見たと言う。


 ――――出会える事のない“戦友”達の健闘を願い、彼は今日も、“聖剣”の守り手となる。



*****


 太陽が顔を出した時、異変は起こった。

 襲撃を警戒せねばならないのは無論、夜だ。

 だからこそ……夜の終わり、朝へと変わる時にフラウノールの警戒心は最も薄れた。

 そこへ合わせるようにして、森を侵した一団がある。

 虫までもが鳴く事をやめて眠りにつき小鳥の声もまばら、“聖樹の森”の警戒態勢は、崩れていた。


「……何者だ!」


 フラウノールは、今までもそうしたように駆けていく。侵入者を真っ向から迎え撃てるよう、あれ以来は“聖剣”の台座と化した泉の近くにある高木で寝起きをしていた。

 時間にして数十分ほど不休で駆けつけると、奇遇にもそこは、かつてアエンヴェルと声を交わした、森の切れ間の広場だった。

 いたのは――――フードで顔を隠し、スカーフまでも巻いた、黒衣の一団。

 独特の淫香に混じる、毒薬の濁った匂い、よく研がれた金属の刃の、ぬめった殺意の気配。

 人数は、五人。


「そなたらは、何のためにここへ来た」


 右手は背負った矢筒。

 左手は弓を持っているが、下ろしている。

 対して黒衣の一団は五人ともが短剣を握り、投擲の構えだ。


「……この森に眠る、“聖剣”は我々の主には都合が悪い。我々では破壊はできぬが……まぁ、やりようはいくらかあるという事だ」

 

 一団の一人が答えた。

 朝焼けが差した時にかすかに目元に見えた肌の色、目の色。

 一団は全員がダークエルフ、四人が男だが、残る一人は女だ。

 無意識のうちにフラウノールはそれがアエンヴェルでない事を髪の長さで確認し、安堵する。


「……聖樹の森の守り手、フラウノール。大人しくこの場を引くのだ。我々とて、かつての同族であり、古きエルフの言葉を使う者の血など見たくはないのだ」


 それは、無作法な振る舞いだった。

 エルフ達は初見の者と出会った時、互いに自分の名だけを告げていささかの沈黙を作る。

 互いに最初に贈る言葉を選び合う慣例として、そうする。

 その過程を省かれ、一方的に名だけを呼ばれた。

 それは“敵意”とフラウノールは受け取り、眼前の者の言った古きエルフ語で、無作法な言葉を選ぶ。


「――――バーク」


 刹那に森がざわめき、木々から飛び立つ小鳥――――否、十数種の鳥がカーテンを作るように飛び交い、五人と一人の間を隔てた。

フラウノールの左から右へ流れる、翼の障壁。


 ダークエルフのうち左右にいた男女二人は飛びのき、三人はそのまま短剣を三本投擲した。

 だがそれが届く事は無い。

 鳥たちの壁の向こうから七本の矢が、そのどれもが鳥たちに矢羽根やばねすらかすめる事無く三人のダークエルフを射抜いていた。

 左の者は、喉と心臓へ。言葉を投げかけていた中心の男は、脳天、右肩、胸へ。右にいた男は、右の脇腹と、目から奥にある脳へ。

 投げた短剣はその一本たりともフラウノールへ刺さる事無く、鳥へ突き立ち、落ちた。


 エルフが弓へ熟達する理由は、決して天性ではない。

 語り継がれるような、弓への才能など持ってはいない。

 生まれて初めて弓を持った時、そこには天賦の才などなく、ヒトと同じ始まりに過ぎない。

 違いを見出すとすれば“弓”に触れる機会が多く、興味を見出す機会もまた多い、それだけだ。

 だが、ヒトでは決して追いつけないものが、エルフにはある。

 それは、“命”の長さ。

 ヒトの身では、鍛錬は積めても七十年を越える事はない。

 先祖代々の技術を修めるとしても、せいぜいが数百年分だ。


 だがエルフは、違う。

 老いて衰える事なく、肉体の絶頂期を保ったままで数千年の研鑽を可能とする。

 ヒトの達人が掴んだ秘伝、伝来の秘術ですらも、彼らには“入門”の段階でしかない。


 “射落いおとす”事を覚えたのは、生まれてから十二年目の事。

 “射落とさず”の境地へ達したのは百年前。

 間にあるのは…………六千年ものたゆまぬ研鑽。

 エルフに与えられたながい時だけが可能とする六千年間の錬磨が、奇跡を“当然”へと変える。

眼前を覆って飛び交う鳥に一矢たりとも当てず、その向こうの敵の急所を射抜く。

千回行えば、千回ともが成功するだろう。

その神業はもはや“達人”という言葉すらも侮辱であり、人類では叶えられない。


 ――――――あの森の木々は矢を放つ。

 ――――――あの森の鳥の羽根は、抜け落ちると矢へ変わる。


 伝説の正体はたった一人のエルフの、一本の弓、一本の矢。


「二人抜けたか!」


 脇をそれぞれすり抜け、泉は向かった一組。

 すり抜ける間に短剣を投じる事もできたのにそうしなかった。

 それは……彼らの目的が長い時間を要する事では無く、一秒でも先んじれば達成できる事だと示していた。

 三人のダークエルフに目を閉じさせ弔う時間はなく、短剣を防いでくれた三羽の鳥もまた同様。

 逡巡する間もなくフラウノールの脚は動き、“聖剣”へと向かった二人を追う。



*****


 暁を迎えた森の木々、葉のざわめきが彼らの足取りを教えた。

 それを追うようにして、フラウノールは駆け抜ける。

 ダークエルフ達は、罠すらも張っていない。

 俊敏なダークエルフ二人を、遅れて駆けるフラウノールは見る間に距離を詰める。

 木々の間に二つの黒影を認めた彼はとっさに跳び、樹上へと身を移した。

そこから木々の枝を猿が飛ぶように掴み、飛び移り、まっすぐに伸びた枝の上を走った。

聖樹の森の木々は、フラウノールへ手を差し伸べ、指差すように枝を侵入者たちへと向ける。


地へ下りると同時に、先行していたダークエルフ二人が進行方向にあったアカシアの木を強く蹴って接近、放たれた漆黒の矢となって空中でダガーを抜いて躍(おど)りかかる。

 それを認めたフラウノールは数歩後ろへステップを打ち、刃の交差点から逃れつつ二本の矢を取る。

 反撃のチャンスを与えた事を自覚したダークエルフのうち、男がそのまま正面からフラウノールへ接近し、女は木立の中へ消えて投擲用の短剣を三本とも引き抜き、保持。


「何故邪魔をする、貴様!」


 苛立ちとともに向けられた声は、非常に若かった。

 容姿で年齢を判別できないエルフ族は、精神性で年齢を推し測る。

 眼前の敵……フラウノールを相手にそんな言葉を投げかけるのは、このダークエルフの精神の未熟さをそのまま示していた。

荒々しく振り回されるダガーを危なげなく避けながら、フラウノールもまた応える。


「そなたこそ、何を邪魔するつもりで来たのだ? 何を恐れている?」

「黙れ!」

「そなたは……“魔王”に会ったのか? そなたらの敬愛を向けるに値する主であったか?」

「黙れと言っているっ!」


 我武者羅がむしゃらな若者が道を誤り外道に落ち、それでもなお、ひた走る。

 その哀しい姿を、フラウノールは哀れむでもなく、静かに見つめた。

 すでに動きのさなかで脱げたフードからは灰色の髪が覗かせ、顔すら隠れていない。

 血走ったその目は――――駆り立てられた狂信者のそれだった。

 恐らくは二千年ほども生きてはいない。

 彼に贈った言葉は全て、フラウノールの純粋な疑問からだった。

 だからこそ、その言葉は矢となって……年若いダークエルフの心へ突き刺さり、激高させた。

 彼が攻め立ててくる間は、消えた女ダークエルフも短剣での援護はできない。

 疑似的な一対一を作り出せているとはいえ、いずれは押し切られるだろう。

 またしても、殺さねばならない。

 その事実を覚悟へと変え、フラウノールは口の中で呪文を唱えた。

 聖樹の森の魔力を借りて行う、魔法を。

 後ずさる内に、フラウノールの背が木に突きあたった。

 その胸へダガーが真っ直ぐに突き出され――――そのまま、樹皮へと突き刺さった。


「えっ……?」


 ダークエルフの真後ろへすれ違うように……否、錯覚では無く歩くようにしてその体をすり抜け、フラウノールは彼の真後ろを取った。

 何が起こったかを掴めない無防備のうなじへ、振り向きざまの一矢。

 これで……敵は、あと一人だ。


「“霊体化”だと!?」


 樹上からの声は、隠密中にも関わらず暁の森へ響くような大きさだった。

 それほどまでの驚きが、今の攻防にはあった。

 エルフ族の中でも使える者は指折りだと語り伝えられる、自らの肉体を物質世界の理から解き放ち、一時的に霊体へと変わり、再び物質世界へ受肉する魔法。

 扱い損ねれば二度と肉体へと戻る事はできないとされる、禁断の魔法だ。

 単純な不可視化、透明化ではなく……肉体そのものを一時的に消滅させる秘術。

 追い詰めてくる敵をすり抜け、背後を取る事など、容易たやすい。


「お、お前ッ……お前ぇぇぇ!」


 三本の短剣が一度に投じられるも、軌道は恐ろしく乱れていて、当たると思しきものは一本。

 その一本を保持していた矢で弾くと短剣は逸れて、矢も砕けた。

次いで、飛び降りた彼女もまた――――ダークエルフの秘術を解放する。

 着地点には、木々が日の光を受けて作る影がある。

 彼女はそこへ黒い霧を残し、水へと飛び込むように消えた。


「“影の歩みシャドーステップ”……か」


 ダークエルフが編み出した、影へと溶けて消える秘術。

 遠く離れた場所へと影を介して移動する、使うたびに命を削ると言われる暗黒の魔術。

 聖樹の森の守り手が見た事は一度もないが、存在だけは知っていた。

 それは――――時折訪れるアエンヴェルが教えてくれたからだ。


「死ね、フラウノール! 信ずるものすら持たぬ白痴はくちが!」


全く離れた木の影から飛び出したダークエルフの女は、昂ぶった声とともに毒薬の塗られた短剣を投げる。

 寸でのところでそれをかわすも、反撃の矢を射る暇もなく、彼女は再び影へと溶けた。

 アエンヴェルはかつて、フラウノールへこの術の存在を明かした。

 使うたびに、人類の生涯に相当する余命を奪われてしまうと。

 二度使えばそれだけで百数十年の命を削られてしまう、どちらかといえば呪術に近いものだと。

 エルフが永き時を魔術の構築、弓の研鑽、霊薬と真理の探求に使うのに対し、ダークエルフ達は命を削って闇へと堕ち続ける事を選んでしまった。


「ただ一度、敵の後ろを取るためだけに……そなたはいったい、何十年の時を捨ててしまうのだ……?」


 影の中を飛び移る彼女へ、聴こえるはずもなかった。

 現れ、消える黒の霧と投じられる短剣、影から影へと飛び込みざまに振るうダガー、振りまく毒薬。

 既に十数回の“影の歩み”を使った彼女は、姿こそ変わっては見えないが、既に千年近くの命を吸い取られ、その魂は疲弊していた。

 飛び込む影も、現れる影も、パターンと化して……フラウノールでなくとも避けられるような単調さへ変わる。


 その時飛び立った鳥が光を受け、その影をフラウノールの後ろへ落とした。

 ダークエルフの女はそれを好機と見てとっさに鳥の影から飛び上がり、ダガーを両手に、必殺の一撃を見舞おうとする。

 が――――


「あぐっ!」


 露わにくびれた腰と、左胸と、喉に――――三本の矢が突き立ち空中で姿勢を崩して、落下点にあった木の根張りで強く打って背骨を軋ませ、彼女はその場から起き上がれなくなった。


「……はめ、た……な……フラウ……ノール……!」


 矢で肺を裂かれて息を吸えず、背を打ち、骨盤に食いこむ矢の激痛に喘ぎながらも彼女は恨み節を吐いた。


「いや、二対二だ。決して嵌めてはいない」


 フラウノールの肩に、影を投げかけた瑠璃色の鳥が止まる。

 鳥は、彼女へ向けて小首を傾げ、ぴぃっ、と一度鳴いた。

 絶好の位置へ影を作るようにと放たれた、たった一羽。

 影の中を自在に飛び移ると言っても――――どこに来るのかが分かっていれば、何も脅威はない。


「何故だ。……何故……そなたらはこうしてしまう。何故なんだ」


 もう、聴こえてはいない。

 彼女は、目を見開いたまま……息絶えて、いた。

 目をせめて閉ざしてやろうと膝をつき、手を伸ばした――――その時。


「ぐっ、あ、ぁぁぁっ!!」


 彼女の亡骸の真下から――――手が生え、深々と彼の上腕へとダガーを突き立てた。

 瞬間、反対の肩に止まっていた鳥は驚きながら飛び立ち、フラウノールの腕が激しく痙攣し……痺れを残したまま、力無く垂れ下がる。

 ぼたぼたと流れる血が、死したダークエルフの顔とその下から生えた腕へと降りかかった。


「うふふふっ。……おバカさんね。弓の欠点は……両手じゃなきゃ使えない事よね」


 亡骸を押しのけて、その影からずるりと現れたのは……同じくダークエルフの女、アエンヴェル。

 ともがらの亡骸を介した“影の歩み”による奇襲は、フラウノールの利き腕を潰した。

 紅を引くように、血を自らの唇へとなすりつけて舌なめずりする妖艶な仕草とともに、彼女は踵を返して泉へ顔を向ける。


「せっかくだから、教えてあげる。……“あの剣”を封印しに来たのよ、私達。……でもまさか貴方がこんなに強いなんて予想外。……別に命なんて取らないって言ったじゃないの」

「アエンヴェル……! そなたは、何故ここまでする!」

「……堂々巡りね。貴方こそ、何故ここまでやるの?」


 フラウノールは、答えられない。


「これだけで世界が終わると決まった訳でもないわ。……それじゃあね」


 言い残し、彼女は影の中へと溶け消える。

 フラウノールは、痺れて感覚をなくした右腕をもどかしく思いながら、見送る事しかできなかった。


*****


 やがて“聖剣”の在り処へと、アエンヴェルは到着した。

 朝焼けに照らされた結晶の台座と、そこへ鎮座する聖剣。

 あまりの神々しさに気圧され、彼女は唾を飲みこみ、喉を蠢かせた。

 懐から取り出したのは指で作る環ほどの、艶すらない、光を吸い込み喰らうような漆黒の魔石。

 ひとたび展開してしまえば発動地点を中心として暗黒の球体が発生して全てを飲みこみ、再びこの形状へ戻るという。

 “暗黒の星”とダークエルフ達が呼ぶ、自分自身をも巻き込む最悪の魔導兵器だった。

 事実、この魔石は――――過去に、幾度も使われた。

 とある王国の城がぽっかりと消え、どこかのエルフの里が消え、その中心地からは再び使用可能状態に戻った“暗黒の星”が回収される。

この星に飲みこまれた者は無へと還り、塵すら残らずこの世界から消えてしまう。


「……――――――」


 この“星”を開く言葉は、皮肉なことに古代のエルフ語の呪文とよく似ていた。

 人からは歌唱としか聞き取れないが、その旋律は、光の中のエルフ族とはまるで違う。

 静謐な森の中で小鳥を集める――――慈しみに満ちて優しげなものとは、違う。

 柔肌を売る闇の中でしか生きられない女が、死の際にある兵士を膝に抱いて唄い聴かせる、眠りの唄。

 聴く誰もがそう心に描いて――――半ば眠りに落ちるように、その“星”の完成を見届ける。

 “暗黒の星”は、ほどかれていく。

 アエンヴェルの胸の前で――――その闇を押さえ込む数百重の術式の帯が、ぱきん、ぱきん、と砕けていく。

 そのたびに“星”は彼女の胸の温もりを求めるように、胎動した。


「――――――」


 更に、一節。

 アエンヴェルの声に、迷いは無い。


 ――――――直後、風を切る音が背後の森の中から聴こえた。

 そして、矢が豊かな胸を後ろから貫き、“暗黒の星”を飛び出した鏃が弾き落とし、再び結び直されるように術式の帯によって封印される。

 聖剣の前で、彼女が草の上に倒れる音は、さながら……優しくベッドに横たわるように、軽かった。



*****


「……訊きたい事がある。アエンヴェル」


 森の中から、その射手フラウノールが姿を見せる。

 右肩には練り合わせた薬草が塗られ、最低限の血止めだけが施され、奇妙にも……右手で、弓を持っている。


「何故、あの剣に……あんなものを塗っていた。あれは単なる……いたずらの毒だ。一瞬だけ引きつらせ、数分だけ痺れさせる、たったそれだけの……戯れの……」


 彼女の黒褐色の肌は、青ざめて……ごぽっ、と血の塊を幾度も吐き出す。

 息を吸うたびの激痛と息苦しさで金色の瞳は潤み、月光を映す水面みなものように、不思議なほど……美しかった。


「うふ、ふ……! それ、でも……深手、でしょう。……そんなので、弓……引ける、ほうが……おかしいのよ。森から……出て、いけって……言った、じゃないの……」


 射抜こうと思えば、彼女の頭を後ろから抜く事もできた。

 だがそれでも、フラウノールは躊躇ったのではなく……狙って、そうしなかった。

 もう少しだけ、彼女と話したかったから。

 彼女の顔へ……傷をつけたく、なかったから。

 その意図を見抜くように、アエンヴェルはできる限りの、不敵な笑みを……痛々しく浮かべて、彼を見上げた。

 エルフと、ダークエルフ。

 “勇者”のために剣を守る者と、“魔王”のために剣を砕く者。

 ふたつの運命は向かい合い――――そして互いが背を向け、すり抜けてしまった。

 因果を断つ者のために因果に身を落とした勝者は、堅くその顔を引き締めて……膝をつき、少しでも彼女の顔を近くに見るため、抱え起こした。


「フフッ。……貴方の役目は、あの、剣が……抜かれる、まで。その後は……? 喜ぶかしら……?」


 再び、咳き込む。

 命の灯は……もう、揺らぐほどにも残っていない。

 フラウノールの次の言葉は、恐らく……彼女を看取る言葉になる。

 彼女はもう艶めいた微笑を浮かべる事もできず、どこか不器用な……寂し気な微笑しか作る事はできなかった。


「そなたを想い、泣こう」


 真実の言葉を告げ、フラウノールは既に彼女の左の手を取る。

 ……彼女は一度だけ、想っていた頬を、震える右手を伸ばし、力無く撫でる。

 ――――本当はずっと……こうしたかった、という互いの願いとともに。


「……そなたのいない世界に取り残され、それでも生きねばならぬ事を……私は、泣こう」


 その言葉を聞き届け、アエンヴェルの瞳は広がり……闇の中へ、落ちた。

 

 初めてで、最後。

 二人の妖精の種族は、互いの肌に触れた。

 向かい合う宿命に背を押され続けた二人は一瞬だけ、互いを想い……再び、離れてしまった。


 聖樹の森を染めていた赤い曙光は、上るにつれて段々と銀色へと変わる。

 受けて輝く、物言わぬ闇の妖精エルフの髪と、同じ色へ。



*****


 森には、聖剣を守るエルフがいた。

 いずれ現れる“勇者”が救世の剣を解き放つ時のために、戦う宿命に置かれた者が。

 涙を落とす事ができるその日のために、彼は守る。

 聖剣を。



――――聖剣を砕くために放たれた想い人の眠る、その森を。









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