Ground Zero


 豊かな緑と、静謐な湖をいだく小国があった。

 春になれば湖には渡り鳥が押し寄せ、秋には再び旅立ち、また繰り返す。

 冬には雪がやって来て、夏には燦々さんさんと輝く暖かな太陽が全土へ差し、よく肥えた土によって、“飢饉”というものが起こった事もない。

 何の不安も抱かせない、安穏とした理想郷。

 偉大なる王の庇護のもと、その小国は今日も――――日常を過ごしていた。



*****


「何でこんな事をしなきゃならないんだ」


 刃引きを施した練習用の剣を下ろして、次なる王位を受け継ぐ者――――王太子ユーグはそう訊ねた。

 練習の場となる中庭には暖かな風が吹き、水色の蝶がひらひらと庭園の花を、蜜を探して渡っていた。

 木の枝に止まる鳥達はユーグとその師範を務める白髪の老人を見守り、時には金属音に驚いて小さく鳴いた。


「いけませんな。その時になって“何故だ”と問い、それから剣を抜くおつもりですかな」

「……老人がそういう物言いを覚えるのこそ、“何故”だ。どこかで習うのか、そういうの」

「私めも不思議でしたが、自然とそうなるものです。さぁ、少し休んでもう一度。この老いぼれには時間が無いのですから」

「おまけに意地も悪いとはな」


 中庭での剣術の訓練は、朝から昼まで一時間も続く。

 師範を務めるのは、幼少期からの世話役でもある、この男――――レナルド。

 ユーグがどれだけ記憶を辿っても、最も古い記憶ですら既に老人であり、しわの本数ぐらいしか変化が無かった。


 学び続けた剣闘術は、もともと大して素質は無かったユーグだというのに、今となっては低級な魔物ならば相手にもならないほどに鍛えられているとレナルドは言う。

 王国を統べる者として、最低限身に着けるべき強さはもうある。

 それでも――――それでも、レナルドの訓練は手を緩めない。

 何と戦うためなのか、と訊ねるたびに、老人特有のさとし口調で“さっさと立て”と言われるだけ。


 結局みっちりと時間まで打ち込み打ち込まれ、その日の訓練も終わり、疲労困憊したままユーグは昼を摂るべく、食堂へ向かう。

 いつの間にか陰っていた日は、それでもまだ暖かかった。



*****


 数日して、ユーグは気付く。


「レナルド。……最近、妙に天気が悪くないか」

「左様でございますな。例年、この時期は気持ちの良い晴れ空を望めるものですが……いやはや」


 老いた世話役のレナルドが言った通り、この時期はいつも晴れる。

 雨が降る事も風が吹く事も決して珍しくはないのに、そんな気持ちを抱いてしまったのは――――外に出てこうして剣を学ぶユーグだからこそ、だ。

 やはり、外で身体を動かすのなら……青い空を見ながらに、したいと。


「段々と雲が厚くなっていないか? もう何日も日が差していないぞ。いくらなんでも天気が悪すぎる。それなのに雨も降らないなんて」


 青空が雲の切れ間に見える事はある。

 だが、この数日間で太陽が出た事などない。

 冬は越えたはずなのに――――城内で妙に重厚な冷えを感じる事もある。

 しかし外に出れば粘っこい湿り気を帯びた空気が肌をなめて、さながら湿地帯の中心にでもいるような不快感に襲われた。

 こんな不快にして不可思議な天候は、ユーグが生まれてから初めての事だ。


「晴れる日ばかりでもございますまい。確かに滅入るものですが……」


 レナルドの言葉も、ユーグの耳に入らない。

 言い知れない不安が胸中に芽生えてしまい、剣術訓練にも身が入らず、いつにもましてレナルドの打ち込みを許してしまった。

 昼に差し掛かる頃には頭上に垂れこめる暗雲がさらにかさを増して、いつ雨に変わってもおかしくない厚さに変わる。

 それなのに雨は降らない、不気味な色の空だ。


「レナルド、頼む。もう今日は終わりにしてくれ。でなければせめて場所を変えさせてくれ。中でやろう、頼む」

「……えぇ、殿下。本日は……やめておきましょう。身が入らない御様子。無理をすれば怪我に繋がってしまいます。それに……私めも少々、気味が悪うございます」


 剣を下ろしたレナルドは、呆れながらもしきりに空を気にしていた。

 麗らかな陽射しもなく、鳥たちの声も今朝からは聞こえず、飛び交う虫達も見えない。

 薄気味の悪い、何かに見下ろされるような気配が何度も老臣の背筋を撫でたからでもある。

 練習用の剣を互いに納め、一緒に城内へと戻るべく歩き出した、直後。

 使用人が走ってきて、真っ青な顔で――――息を切らせて、叫ぶように言った。


「で、殿下! 言伝ことづてがございます!」

「どうしたんだ? そんなに血相を変えて」

「国王陛下が……陛下が……突如として倒れ……!」

「何!?」

「殿下、急いで戻りますぞ!」



*****


 父である王の寝室へレナルドを伴って向かうと、かかりつけの医師団がちょうど出てくるところだった。

 たまらず、王の休む寝室の前だというのに叫ぶように訊ねた。


「父上のご容態は!?」

「殿下、どうかお静かに。今は落ち着いて眠っておられます。ご心配には及びません」


 その言葉に安堵し、ユーグは息をついたが……傍らの老臣は、言葉を続けた。


「何があった? 国王陛下は健やかであらせられたはずだ。どういう状況で倒れたというのだ?」

「……場所は、執務室です。その時ともにいた執政官、扉の外にいた衛兵の言葉によると……」


 それきり、王の主治医は黙り、生唾を飲む。

 覚悟をしなければ紡げない言葉があるかのようで、その顔は曇り、病状を説明する医師、というよりも……恐ろしいものを見てしまった農民のような、意味ありげな逡巡だ。


「何だ? はっきりと言ってくれ」

「……はい、殿下。執政官、衛兵の言葉によると……窓の外を見て、ひどく取り乱したと」

「窓の外……?」

「はい。……『ヤツが来る。私を、この世界を見ている』と……取り乱して暴れられたと。衛兵二人と執政官殿で取り押さえるのがやっとで。それきり気絶し、私をお呼びに。その間もしきりにうわ言のように……」


 医師は押し黙り、身震いした。

 寛容と威厳、慈愛で知られる国王の変化を信じられないというように。

 それはユーグも同じだ。

 今朝、朝食の席で父王を見た時にはいつも通りの様子だった。

 何ら変わった事などなく、強いて言えばわずかに口数が少なかったものの……何も、変わりはなかったのに。

 レナルドとも二言三言話していたのに。


 重い沈黙が場を包み、やがて……医師達が場を後にするまで、誰も言葉を発しなかった。



*****


 領内で異様な現象が起こり始めたのは、それから数日後の事だ。

 王が倒れた日を境に、二度と日の光が差さない。

 これから夏と秋に向けて育っていくはずだった農作物は次々と枯れ、腐り、土中で泥と化して消えていった。

 緑は茶色へと変わってゆき、蒼く澄んでいたはずの湖には藻が茂り、茂った藻すらも溶けて腐って湖をけがし、棲んでいた魚たちが腹を上にして浮き上がってきた。

 領民たちはその異変といつまでも晴れない空を薄気味悪く思い、剣呑な流言までも飛び交わせていく。

 国王が倒れたという事も、尾ひれを加えさせた。


 ――――――王が、見えもしないものに怯えて気を失った。

 ――――――この国は、何者かに呪われた。

 ――――――世界は、終わりだ。


 どれもが無責任な噂話なのに、それを払拭できるような朗報は一つも入らない。

 王は気絶と覚醒を繰り返し、そのたびに空を掻き、窓の外にかかる曇天のカーテンに怯えてやせ細っていった。


 加えて、城内でも異様な事が起こる。

 城内回廊の鏡に、魔物の影が見えたとメイドが訴えた。

 夜の見回りをしていた兵士が、『きゃきゃきゃきゃ』、と高笑いをする不気味な声を聴いた。

 安定した場所に置かれていた燭台が、数メートルも離れた場所に落ちて音を立てた。

 厩に繋がれていた馬たちが、泡を噴いて怯え――――国王の愛馬を含めた名馬の何頭かが、そのまま絶息してしまった。

 特にメイド達は独りで城内を歩く事を恐れて、今となっては、夜に眠る時ですら寄り集まって眠る有り様となっていた。


 王太子ユーグと老臣レナルド、加えて屈強な衛兵達は数日で起きた変化を調べても……全てが徒労に終わってしまった。


 何一つ、掴める事など無かったのだ。



*****


「きゃああぁぁぁぁぁぁっ!!」


 とある夕刻、城内に絹を裂くような悲鳴が上がった。

 偶然に近くを通りすがったユーグが駆けつけると、そこには。


「っ……! おい、何があった! なぜ……こんな事に!?」


 若いメイドが一人、袈裟懸けに両断され、息絶えていた。

 共に歩いていたメイドはその場へへたり込み、ばらばらに分解された甲冑の破片に目をやりながら、全身に浴びた血に気を失いかけて、歯の根も合わずに怯えていた。


「わ、わかりません……! 鎧が! あの鎧が剣を抜いたのです! そして、エジェリーを……彼女を、斬り……あ、あぁぁぁぁぁっ!!」

「落ち着け! 落ち着くんだ! 大丈夫だ、私が――――」


 惨劇を目の当たりにした彼女が叫ぶのを何とかなだめているうちに、衛兵達が駆けつけた。

 その中には医師団の一人もいたため彼女を任せ、メイドの亡骸と、甲冑へ近寄る。

 ひとまずは虚ろに見開いて死んでいた彼女の目を閉じさせると……現場を見やる。

 彼女の説明したとおりで……賊の痕跡はない。

 べったりと血肉のついた剣は甲冑の籠手に固く握られ、赤く染まった床の上に転がっていた。

 断面から流れ出る血は未だ止まらず、彼女は今斬られたばかりという事も示していた。

 そしてもちろん、この剣は先ほどのメイドでは持ち上げる事がやっとで……人間を一人、真っ二つに骨ごと切り裂く事などできるはずもない。


 いくら場を見ても……彼女の主張に、疑いの余地がない。

 “鎧が勝手に動き、メイドを斬り殺した”事が……疑えない。

 “悪魔憑きの鎧リビングメイル”の話を聞いた事はあれど、それは地下迷宮や吸血鬼ヴァンパイアの館でしかお目にかかれはしないはずだ。


「ふざけるなよ……! 何故こんな事が起こる!? この国は本当に呪われたとでも言うのか? いったい何に!?」


 べっとりと血で湿った敷物へ拳を叩きつけ、叫ぶ。

 やり場のない悔しさと、城内で死人まで出てしまった怒り、そして父王は二度と玉座に座る事ができないだろうという思い。

 それらが、若きユーグの胸を突き刺した。

 感情の置き場が見つからなかったから、八つ当たるしかできはしなかった。


「答えて、くれ……エジェリー・ブランシャール。お前は何に殺されたんだ? お前の未来を奪ったのは、いったい何だったんだ?」


 ユーグは、記憶している。

 園丁、メイド、料理番、馬番、城内の衛兵、皆の名を。

 そればかりか城へ訪れる者達の名を訊ね、その顔も含めて忘れた事は無い。

 いつか彼らの、彼女らのため、王国の民のために正当なる王として君臨し、その未来を護ってやろうと密かに誓った。

 それが、何かに阻まれた。

 既に物言わぬエジェリー・ブランシャールは齢十六を数えて奉公に出されたばかりの少女だった。

 なのに――――今、その生涯を閉じてしまった。


 騒ぎを聞いたレナルドに肩を抱かれ、言葉もなく慰められて自室へ連れて行かれるまで、王太子は無力感に打ちひしがれていた。



 *****


 そして……城の中で起こる怪異は激化した。

 園丁の一人は中庭で姿を消し、血まみれの靴だけが見つかった。

 すぐそばにあった樹を怪しく思い、レナルドが剣を突き立てると……幹から血液が流れ出て、その中から干からびた園丁の死体が出てきた。

 飾られた絵画の中の貴婦人が硝子を削るような不快な笑い声を上げ、自身の影が悪魔の姿を描いて叫んだ、と報告する夜警の衛兵もいた。

 その鎧には……不可解な四本爪の引っかき傷までもがついていたと。


 国王のせん妄も酷くなるばかりだ。

 泡を噴いて蜘蛛の巣を取り払うような仕草をして空を掻いたかと思えば、暗闇を恐れ、真昼ですらも決して灯りを落とさせない。

 うわ言は更に不気味なものばかり。

「ヤツが来る」、「この世界は終わりだ」、「ヤツが見ている、窓の外だ! 光を、光を絶やすな! 窓に! 窓にヤツがいる!」、「終わりだ、人類は終わりだ!」



*****


「くそっ! どうなっているんだレナルド! この国はいつから地獄に変わったんだ!」


 城下の視察を終えたユーグはレナルド、近衛の兵士達とともに下馬して怒鳴り散らす。

 誰も、口を開けはしない。

 城でさえもあの有り様――――城下町は、更に酷かった。


 ――――壁に現れた影に、両親を食い殺されたと叫ぶ幼い少年。

 ――――戸口に佇む亡霊の存在を訴える物乞い。

 ――――湖の様子を見に行ったきり帰らない者達。

 ――――正気を失い、自分の頭蓋が潰れるまで壁に頭を打ち付ける者。


 目抜き通りを見て回ってさえ……そこは、地獄のような惨状だった。

 商店に品物は並ばず、萎びた果物には蝿が集り、やせ細った鼠が歩き回り、それを狙ったカラスが不吉に鳴き喚く。

 空を覆う暗雲はいよいよ濃くなり、昼でさえも明かりが必要なほどに暗い。

 時間の感覚さえも失われてしまいそうな暗闇に、この国は沈んだ。

 

「……何が起こった。……私達は何の咎めを受けた!?」


 やり場のない怒りで恐怖をごまかし、ユーグは城のエントランスホールを目指し、扉を開ける。

 そのまま数歩歩くと、廊下の奥から、次々と悲鳴が聴こえ、波のようなざわめきが押し寄せてくる。


「なっ、何……だ!? うわっ!」


 数百、数千のネズミが大群となり、城の廊下を一塊に駆け抜けてエントランスへ向かってきて、合流し――――そのまま、一目散に外へ出ていく。

 灰色と黒、白の波が足元をさらいそうなほどに押し寄せ――――ネズミ達はやがて城のはるか彼方まで駆けていき、見えなくなった。


 ネズミの糞で足の踏み場も無くしたエントランスに、ユーグ達は立ち尽くす。

 もはやこの国には……ネズミすら住めないのだ。

 かつていたはずの鳥も、蝶も、魚も、もう死に絶えてしまった。

 残されているのは、人間……だけ。


「レナルド……。この国は、もう終わりか?」


 老臣に訊ねても、答えは帰ってこない。

 それは、沈黙するしかない問いかけだったからだ。

 “はい”と答える事など、できはしない。

 “いいえ”と答えるのは、単なるその場しのぎだ。

 そして三つ目の選択、“貴方にかかっています”はあまりにも背負わせるものが重く、言えなかった。

 王国を襲った地獄のわざわいは既にもう人の太刀打ちできるところにない。

 だから、黙る事しかできなかった。


「私は……どうすれば、いいんだ」



*****


 ――――――王の崩御ほうぎょは、それから三日後の事だった。



*****


 鳴り響く鐘は、果たして王の崩御を告げるためのものだったのだろうか。

 告げたのは王の死ではなく……この国の死ではないのか。

 いや、もしかすると――――更に。

 そんなどこまでも悪く膨らむ堂々巡りを繰り返して、王太子ユーグはただ自室で杯を呷った。

 三ヶ月もの間、国を挙げて喪に服する。

 だが、そんな事を意識するまでもなく……この国は、既にこの国自体の喪に服してはいなかったか。

 巡礼者のように頭を垂れ、ろくに何も食べず、何もかもを失った幽鬼のような民がいるばかりだ。

 城下のはずれは既に腐敗した亡霊の沼地へ変わり果て、湖は腐臭を放つ泥濘となった。

 そこには湖で消息を絶った者達――――よりも遥かに多い数の水屍人ドラウンドが徘徊し、うめき声が止まない。

 既に城内での行方不明者も死者も、数える事すら莫迦ばからしくなった。

 絵の中に引きずり込まれた若い馬番は、絵の中で馬頭めずの怪物に引き裂かれている。

 その絵を仕舞い込んだ部屋からは夜毎に叫び声が聴こえ、廊下の奥にまでも響いた。


 ユーグは再び杯を取り――――空である事に気付き部屋の隅へ放り投げると、瓶から直接葡萄酒を飲んだ。


 崩御した父の死に顔の恐ろしさが、一月経つ今も忘れられない。

 その目は恐怖に見開かれ、顎はまるで裂けたように開かれ、硬く突っ張ったカラカラの舌が天井を刺すように突き出され。

 長く立ち上がれなかった体はよじれて固まり、のたうつようにやせ細って……死んだ。


 時刻は今、昼を少し回ったぐらいのはずだ。

 だというのに灯りをともしてさえも暗くて、先ほど放った杯が見えない。

 晴れない空、降らない雨、雷すらも聴こえず、一筋の光すらこの国に差さない。

 いくら飲んでも……酒が回らない。

 ユーグは当たり散らすような事は、もうしない。

 そんな体力はもう残っていないし、精神力も。


「この朽ち果てた国をどうしろというのだ。この国は……もう、終わりだ。私ですら……いつまで生きていられる?」


 ひとしきりの弱音とともにユーグは立ち上がると剣を佩き、マントを羽織ると部屋を出た。

 廊下に出ると、更に現実を突き付けられた。

 かつて磨かれていたはずの壁はもう、ボロボロで……見る影もない。

 手入れをするはずだった者達の多くは、もういない。


 棚に張った蜘蛛の巣を見やり、薄く埃で曇った窓の外に広がる闇を覗いて、空位となって久しい玉座の間を目指した。

 老臣は今、少しばかり残った近衛を伴って城下町を周り、情報収集へと出向いていた。

 そして恐らく、何も収穫はないだろう。


 歩いているうちに、時間の流れが飛んだような錯覚とともに……玉座の間へ続く扉が、目の前に現れた。

 失われた王座、発狂して死んだ先王の遺したものをせめてもう一度だけ、見ようと思った。


 扉を開けると――――そこは、この国で起こった異常の中でも、殊更に異常な変化をもたらされていた。



 *****


「何だ……? 何だ、これは」


 ――――広すぎる。


 さして大きな城でもない、はずだった。

 つい叫んだその声は、天へと届くように高いアーチの屋根へと吸い込まれて行く。

 数十本の列柱が両側に立ち並び、そのどれもが捻じれて、恐ろしげな魔物の顔を彫刻されていた。

 扉から玉座までは鮮血の河のような絨毯が敷かれ、“岸”にあたる床は、見た事も無いような黒光りする石材で覆われている。

 そして何よりも、距離が遠すぎる。

 走っても数分はかかってしまいそうなほど……扉から玉座までが、遠すぎる。

 玉座を頂く階段は十数段にまで増えており、もはや……そこはかつてユーグの知っていた玉座の間ではない。

“何者か”を迎えるためにあつらえた、召喚の祭壇。

 列柱の魔物たちの視線を一身に受けるような悪寒に身を震わせ、ユーグは剣に手をかけ、隅々までを見渡そうとする。


 やがて――――王の崩御を知らせた時と同じ鐘が、城を震わせた。

 鐘を打つ者などいないはず、なのに。

 鐘の音が、五回目を数えた時。

 玉座の間を、闇が覆った。


「ぐっ……!?」


 空を埋め尽くす暗黒の雲が、霧となって玉座の間へ充満した。

 垂れこめる暗雲が完全に地へと届いてしまったように……目を閉じた訳でもないのに、ユーグの視界が黒に染まる。

 反射的に息を吸い込めば禍々しく濁った空気が肺腑を侵し、嘔吐感を覚える。


「ぐぶ、ふ……う、うぅっ……!」


 こみ上げる吐き気を押さえ込み、暗黒が過ぎ去る事を信じて、ユーグはひたすら耐えた。

 時にして、ほんの十数秒だが……ユーグはそれを、まるで永遠にすらも感じてしまった。


 やがて暗黒の渦動は収束し、玉座の間の光景が再び鮮明になる。

 ただし、玉座の前。

 暗黒がそこへ渦を巻き、天井を突いて――――闇の柱となり、やがて破裂音とともに掻き消える。

 そこにいたのは……人、のように見えた。


 ユーグは、悟る。

 この地を襲った災いの全ては、“彼”を迎えるための下準備だったのだと。

 肥沃な王国が腐敗した魔の領域へと造り変えられてしまったのは、その為だったと。

 

 一糸まとわぬ長身の麗しい青年の姿。

 しかしその身から放たれる、押し潰されそうな禍々しい重圧はおよそ人の放つものであってはならない。

 髪をかき分けて生える二つの角は、“それ”が人間ではない事を如実に物語る。

 見目麗しくもどこまでも虚ろな表情、病的なまでに青白い肌はさながら吸血鬼だ。


 “それ”が右掌を見つめ、やがて暗黒の塊を生み出した。

 それが解き放たれると、青年の身体は影に包まれ――――衣として、それを纏う。


 暗黒の法衣をまとった“それ”は、一段、また一段と壇上から下りてくる。

 見えている肌にはざわめくように影の紋が不気味に蠢き、足跡からは黒い靄が噴きあがった。

 ユーグは、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。

 

「な……何だ、お前は……?」


 震える声で訊ねると、“それ”は立ち止まった。

 やがて深淵のような双眸でユーグを見つめ、ほとんど口を動かさず、答える。


「――――我は、滅び。我は、宿命さだめ常世とこよを暗黒へと沈め、我が世を成すべく降り立つ者」


 “それ”の名前は……誰しもが、聞きたくなどないものだった。

 全ての望みをし折る、断頭台の一撃。

 ユーグは耳を塞ごうとさえ考えたが……動く事など、できない。

 “それ”は、無慈悲に名を告げた。


「――――故に、“魔王”」


 王が不在となったその地へ、新たな王が現れた。

 ただしその王は……人の条理のもと、人の世を護りはしない。

 人の為した全てを虚無ゼロへと帰し、世界を食らい砕く、暗黒の王。

 神話の中にのみその存在を伝えられる――――絶望の名。

 永久とこしえの闇の軍団を率いて降臨する者。

“魔王”。


「お前が……我が王国を……」


 魔王はゆっくりと目を閉じ、そして開く。

 昏きうろを覗き込むような深淵の瞳には、感慨など何一つとしてない。


「――――貴様は……靴を履く時、その下に虫がいないかを確かめるのか?」


 ユーグは、その言葉に――――怒りを含めた全ての感情を忘れ、剣を抜いた。


「――――何のつもりか。ヒトよ」

「お前は我が祖国を滅ぼし、腐らせた。我が民を殺め、絶望と滅びを齎した」


 剣を抜いたユーグの前に、魔王は身じろぎすらせず、蔑みの感情すら持たずにただ見つめた。

 目の前を羽虫が飛び交い、足もとに蟻が這っても、それらを蔑視する事など無いのと同じく。


「……だが、この“世界”までそうさせはしない。そうさせはしないのだ!」

「――――“勇者”気取りか」

「いや、違う。いずれこの城は決戦の場となるだろう。お前の前にいずれ“勇者”が現れ、貴様を討つ。だが……それは決して、私ではないのだろう」

「――――ほう」

「だから私は――――今、お前に立ち向かう。“世界”の時を、我が剣と我が命の分でも、稼ぐ。私こそが、魔王を阻む最初の剣だ。我が剣の後に、幾億いくおくの剣が続くだろう。全てを折る事ができるというのなら……やってみせろ、魔王!」


 魔王の顔に薄笑いが浮かび、ひくついたように体が震えた。

 その微かな震えですらユーグは見逃さず、目を逸らす事は無い。


「――――貴様は、我がこの世界で出遭う初めての“敵”だ。良いだろう、……この我が、直々に手を下そうではないか」


 ユーグは、気付いていた。

 魔王の背後に、存在しなかったはずの扉が五つ、虚空に浮かんでいる事を。

 大きさも何もかも不揃いなそれらからは、魔王に負けず劣らずの危険な重圧を感じている。

 恐らくは……魔王直属の強力な魔族達が、這い出てくるだろう。


「…………希望など、ない。が」


 “絶望”を大切にするつもりも、ユーグにはない。

 右手に長剣を構え、左手で短剣を抜く。

 バネ仕掛けで開いた短剣は三叉の刃、パリーイング・ダガー。

 刃はついていても間に合わせ、本来ならば剣を捌くためだけの、防御用の短剣。

 だが、今はそれすらも……頼もしく感じた。


「ゆくぞ、魔王」


 そして――――亡国の王子は四本の刃を従え、先駆けとなった。



*****


 かつてそこには、美しい小国があった。

 領土の隅々まで緑が行き渡り、静謐な湖には渡り鳥がやってきた。

 美しい白亜の城は蒼天の下にその威を誇り、寛容にして偉大な王族がその国を治めていた。


 そして――――その国は、消えてしまった。

 湖は不吉な亡霊の沼地となり、森はいつしか夜毎に蠢き獲物の生き血をすする魔樹の怪物の根城となった。

 城は膨れ上がり――――城下町をも取り込み、“魔王”の城へと変貌した。

 城そのものが意思を持つひとつの魔物であるかのように、天を突き刺すいくつもの尖塔が揺れ動き、人喰いの怪鳥と石像の魔物が、かつていたはずの渡り鳥や色とりどりの蝶たちに変わってその上を飛び交う。

 

 その地には、やがて四人の英雄たちが訪れる。

 かつてその地で人知れず魔王に立ち向かった男がその手に握った刃の数と、同じ。


 その刃が魔王に届いたのか、魔王を除いて知る者はいない。

 ただ一つ確かなのは、彼は立ち向かい、ほんの数秒だけ、魔王の進撃を遅らせた事。


 その数秒が――――世界を救う数秒に繋がると、信じて。





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