闇夜の姫に見守られて


 西の王国軍兵士、ヴィクターは白い息を吐きながら街を流していた。

 支給されたスプリントメイルはキンキンに冷え切り、内側に着込んだ布鎧を通してさえも肌が冷たく突き刺される。

 ちらちらと降る雪は彼の黒髪を白く飾って、すぐに、溶けて消える。

 無精髭ぶしょうひげを貯めこんだ、疲れた表情のせいですぐに気付けはしないが兵士ヴィクターはまだ若く、二十代の後半にもかかってはいない。

 街は、通りの裏路地に至るまでにわかに活気づいていた。

 あちらこちらの酒場から歓声が聴こえて、女を侍らせた兵士と何度もすれ違った。

 酒瓶を掴んだ他部隊の兵士が酒臭い息とともに気を吐いて、翌日の出撃、その幸運を味方達とともに口やかましく祈っていた。


 首を隠すように巻いたマフラーの色は、小隊長を示す明るい青色。

 四十人の部下を有する叩き上げの下士官――――に、今はなってしまった。

 およそ半年ほど前、魔界から現れた魔王の軍団との悪夢のような戦いの始まった当初、彼はまだ一兵卒でしかなかった。

 もともとある程度持っていた才覚を生き延びるために開花させていき、次々と同期の兵士が死に、補充の新兵が死に、七度めの出撃で分隊長が死んでからは代わって務め、次々と先達が倒れていってたったの半年で彼は下士官となり、しかし給金は上げられる事がなかった。

 それが理由ではないものの……翌日の出撃を控えている今も、彼は酒場にも入らず、女も抱かず、ただこうして街を流していた。


(……何、してんだろうな、俺は)


 酒は飲みたいが、店に入るほどではない。

 女は好きな方なのに、そんな気分になれない。

 少し前から疑問が離れなくなってしまった。


(俺……何のために戦ってんだ?)


 入隊した当初は、まだ使命感があった。

 それは魔王が現れる以前に遡れるが、その時はまだ、使命感も多少はあったのに。

 数年して不吉な前兆を世界各地で報告され、魔王が現れ、今は故郷を、国を、世界を守るための戦いにその身を投じている。

 大した給金もくれないと分かってからは、国へ対する使命感もない。

 いっそのこと傭兵に転向しようと思った事があるが……そう踏み切る決断の勇気さえ持てなかった。

 ただ何となく王国軍に残り、何となく戦い、そして今に至る。

 何も持っていない身分に生まれて、食っていくためだけに兵士になったのに……今は、世界の命運を賭けているのではないかと思えるような戦いに身を置いている。

 今さら引く事もできなくなってしまった以上、自らの生涯への疑問だけが膨れ上がっていた。


あらかじめ取ってあった安宿へと向かう。

 もう今日は何もせず、眠る事にして。

 酒も、肉も、女も今はいらない。

 さっさと寝て、もやもやとした疑問を忘れて目を覚ましたいと願った。

 冬の街を歩き続けて――――やがて、今にも倒壊しそうなボロ宿へと辿りつき、粗末なベッドを思い浮かべながらも階段を上がり、取ってあった部屋の扉をくぐろうとした時。


「あら、兵隊殿。もう……お休みになりますの?」


 安宿にはまるで似つかわしくない、人を惑わすような声とともに――――“彼女”は現れた。

 二階の奥を取ったヴィクターへ向け、妖し気な微笑みを向け、女は立っている。

 艶やかな髪、素肌を晒す上質のドレス、豊かな体を惜しげもなく見せびらかし、その反応を楽しむような深い紫色の瞳。

 白い肌には一点の曇りもなく、その薄い皮膚の下にある青い血管までもが浮き出て見える。

 そして何より……それらを備えた彼女は、ヴィクターの見てきた“全て”の中で、最も美しかった。

 星々を抱える夜空も、いくつもの色彩をその羽根に宿した鳥も、王侯貴族を含めた全ての“美女”も、彼女の前ではその輝きを失い歯噛みすることだろう。

 そう評しても構わないほどの、どこまでも深くうれうような色香を漂わせる、およそこの世の者と思えぬような、ヴィクターの初めて見る“絶世の美女”だった。

 彼女がどこから、そしていつ現れたのか、分からない。

 気付けば立っていて、気付けば、ヴィクターにその視線を投げかけていた。


「……お前は何だ。肌を売りたいのなら、他所を当たってくれ。俺はもう、眠いんだ」

「つれない事をおっしゃらずに。……それに、売りに来たなどとは申しておりませんわよ?」

「では、何だ。前にこの部屋に忘れ物でもしたのか? なら勝手に持っていけ。どうせ無いぞ」

「それも違いますわ」


 追い払うような言動をしても、彼女は微笑みを崩さず、しかし帰る様子もない。

 娼婦というにはあまりにも美しく、どこか浮世離れして掴みどころのない仕草が、むしろ不安を掻きたてた。

 ちらり、と腰に差した剣をわざとらしく見やってみせても、また同様。

 彼女は、帰らない。


「……分かった、入れ。中で話を聞いてやる」

「お招きいただき、ありがとうございます。ですが、私が先に入ってもよろしいでしょうか?」

「何をするつもりだ? ……まぁ、いい。盗られるようなものは何もない」


 女は、今にも取れそうなドアノブに手をかける前に、一度だけ……指先で、おいた・・・をした子供の額を小突くように、人差し指で扉に触れた。

 何かの“まじない”なのか、と考え込んでいると。


「それと、もう一つ。お部屋に入る時は、目を閉じたまま。私がいいと言うまで」

「……まさか、俺を殺そうとしていないだろうな? 金など持っていないし、たかだか小隊長を一人殺めたぐらいでは何も変わらんぞ。魔王軍も、味方も、……世界にも、何もな。何も、変化はないんだ」


 自嘲してそう言うと、彼女は……危険なほど柔らかい微笑とともに、黙ったままで入室を促した。

 ともかく、こうしていても始まらない。

 ここは彼女に従い、目を閉じ、手を引かれるまでもなく……安宿の一室へ踏み入る。

 その瞬間――――第一歩で違和感を覚え、とっさに目を開きたくなった。


絨毯カーペット……?)


 今にも抜けそうな床板の軋む感触ではない。

 体重、足音、その全てを吸い込むような、恐らくは上質の絨毯の感触だった。

 確認しようと思っても、何故なのか……縫いとめられたように、瞼を開く事ができない。

 次いで、もう一つの違和感は、“空気”だった。

 薄い壁と寒気を素通しするような窓のせいで冷え切っているはずの室内は、暖かかった。

 備え付けの小さくケチ臭い暖炉ではなく、大型の暖炉が立てるようなパチパチと薪が弾ける音が聴こえる。

 それでいて……壁と窓のせいでイヤでも聴こえるはずの、外の喧騒が聴こえない。

 酔漢の怒鳴り声も、酒瓶の割れる音も、女達の耳障りな哄笑も、何も。

 代わりに聴こえるのは星屑を落とすように小さな、しかし澄み渡るオルゴールの音だけ。


「……さぁ、目を開けて構いませんわよ。ゆっくりと」


 目を開くと――――そこは、“安宿の一室”ではない。

 紫陽花あじさいの色に染まった絨毯が敷き詰められた、安宿の二階全てをぶち抜いたよりも広い空間が広がっていた。

 落ち着いた風合いの壁紙、壁際に据え付けた大型の柵付きの暖炉、カーテンを開けた大きな窓。

 部屋の中心に置かれた天蓋付きのベッドには薄絹うすぎぬの幕が垂れ、雪原のように真っ白なシーツが敷かれ、金糸で飾り立てた枕がいくつもその中に置かれている。

 ベッドサイドのローテーブルの上には香炉が置かれ、甘く幽玄な香りを持つ煙が、部屋中に広がっていた。


「何だ……これは?」


 その現実味のない風景に、ヴィクターはそうとしか言えなかった。

 安宿の扉をくぐれば、その向こうは……この、どことなしに淫靡な、しかし至上の寝室へと変わってしまっていたから。

 王侯貴族がハーレムを囲うための別邸は、恐らくこのような部屋なのだろう。

 そこへ招き入れた彼女は、ヴィクターの様子を見て取ると、告げる。


「……そんな事はどうでもいいではありませんか?」


 ヴィクターの前で彼女は靴を脱いだ素足になり、ベッドに上がり、手招きする。

 その仕草、投げかけられた影は――――ほんの一瞬だけ魔物のような形になり、消える。


「さぁ。……“夜”を始めましょう?」


ヴィクターは、ゆっくりと……ベッドへ、近づいて行った。


*****


 その三日後。

 魔王軍との戦いは熾烈を極めた。

 これまでにないほどの激戦となり、三千の王国軍と、五千に及ぶ魔王軍は――――最後に残る者を競い合う、激しくもつれて噛み合う泥仕合の戦となった。


「く、そっ……! 誰か! 誰か近くにいないか! 俺だ、ヴィクターだ!」


 絡み合いながらも首筋に刃を押し込んでやったドラコケンタウロスの死骸を押しのけて立ち上がり、“小隊長”ヴィクターは叫ぶ。

 オーク六体、ドラコケンタウロス二体、それが今日の戦果。

 乱戦の中で味方を見失い、見渡す限り、倒れているモンスターの亡骸と、物言わぬ兵士の屍だけが続く。

 半ばで折れた刀身を腹から抜こうともがくゴブリンへとどめを刺して、ヴィクターは尚も生存者を探す。

 しかし誰もが……既に死んでいるか、あと数秒で死に至るかの傷を負っているか。

 戦える者が、あまり見えない。


「誰か! 誰か、応答しろ!」


 ヴィクターの向いた先、視界の彼方に味方の槍兵が見えた。

 ゴブリンを突き刺した槍を手放し、剣を抜いて真後ろのオークへ斬りつけ――――頭部に斧をめり込まされ、返り討ちに遭う。

 鎖骨に刃を食いこまされたオークは、おそらく近くに居たのだろう魔導兵の死に際の火球を頭部に受け、二、三度よろめいてから倒れた。

 勝つにしろ、負けるにしろ……この戦場では、一人二人しか生き残らない。

 そう予感させるような泥沼の削り合い、そう評せる間違った会戦だったのだ。

 構築した要塞で迎え撃つ戦略を取れたのなら、もう少し生存者は増えただろう。

 だが……迫る魔王軍は、そうさせる時間をくれはしない。

 準備も出来ぬまま、ヴィクターの属する師団は、凍り付いた土の上での会戦に踏み切るしかなかった。


「隊長……ですか?」

「! 生き残っていたか!」


 ヴィクターの呼びかけに弱々しいながらも、ようやくひとり、応える者が現れた。

 あちらこちらに傷を作ってはいるが骨も折れてはいない、戦うには充分な余力を残した……ヴィクターと比べてさえ若い兵士。

 片手剣を支えに立ち、円盾にはいくつものモンスターの棘と矢が突き刺さり、今にも倒れそうな疲労困憊した様子で、彼はヴィクターのもとへよろよろと近づいてくる。


「大丈夫か? ……状況はどうなっている」

「ええ……他の奴とははぐれちまいました。とにかく周りに居るのを無我夢中で斬りつけて、彷徨って、勝てそうにないヤツからは逃げて……今、です」

「そうか……畜生、味方と合流したいところなのに」

「もう……合流する味方なんて、いないんじゃないですか?」


 彼の言葉に、ヴィクターは……振り返り、戦場を改めて見渡す。

 その限りに死が満ちて、動くものはと言えば痙攣を繰り返す死体と、折れた旗竿の上にはためく、虚しい軍旗だけだ。

 この戦場では誰も生き残らない、と語っているかのように。


「……体勢を立て直せ。まだ敵は……」


 ほんのかすかに残っていた小隊長としての義務感が、兵士の不安を払いのけてやろうと試みた。

 だが、それはどこまでも白々しく、とりあえず沈黙を誤魔化すための方便にしか聞こえなかった。

 ヴィクターにも、兵士にも、嘲笑うように口を歪めて死んでいる魔物の死骸にも、目を見開いて倒れている王国軍兵士の死体にも。

 更に死屍累々とした戦場を歩き、四人ほどの生き残りを見つけ、肩を貸し合い、歩いて行く。


 ――――――その時、死体の山の一角が鳴動した。


「……おい、何か動い――――ぐあっ!」

「くそ、こいつまだ生きてる!!」


 丸太のように太い尾の一撃を受け、生存していた兵士の一人の身体が宙を舞った。

一撃を見舞い、起き上がったのは……馬をも捌いてしまいそうなほどの大鉈をその手に握り締めた、巨躯の人型のモンスターだった。

その種族が何なのかヴィクターにも、他の兵士にも、想像がつかない。

裂けた口、頭頂部に近い部分についた黒毛を生やした獣の耳、太く鱗の生えた尾。

その異形の身体のあちこちに折れた槍と無数の矢が突き刺さり、左の肩と上腕に深々と突き立った剣は筋肉を断ちきっているのか……動かせているのは、片腕のみ。

こちらと同じく、虫の息。

それでも立ち上がったのは、きっと……理由は、違わないのだ。


「ウ……オォォォォゥゥゥッ!!」


 その蛮声に、周囲の死骸が更に蠢いた。

 下半身が千切れたドラコケンタウロスも、失血で倒れていたオークも、半身が焼け焦げたゴブリンも、死に瀕して石化が始まりかけていたガーゴイルも。

 次々と……起き上がった。


「まさか……こいつ隊長格か!?」


 叫びの内容も、恐らくはヴィクターの叫んでいたものと同じだ。

 生存者を探し、呼びかけ……立ち上がれ、ここだ、と。

ヴィクターは剣を握り締め、一つだけ拾えた陶製とうせいの手投げ爆弾を後ろ手に隠した。

 この場で、ヤツを仕留められる体力を持つのはヴィクターだけだ。

 残りの兵士は、起き上がっていた瀕死のモンスターを相手取る。

 背中を預け合う男達の顔は――――疲れ切っていた。



*****


 そして正真正銘、ヴィクターは最後の生き残りとなった。

 とうに日は落ち、空のいただきには嫌みなほどに美しい三日月が照って、戦場跡を優しく照らしだした。

 月光を跳ね返すいくつもの武具、その多くは鮮血に染まり……赤い光となり、湖のような血の池に三日月が映り込んでいる。


「はぁっ……! は、はっ……はっ……!」


 ヴィクターは……血を吸い、濡れて重くなったマフラーをきつく巻き直して、横になれる場所を探した。

 起き上がった隊長格のモンスター、その鼻腔を貫いて脳を穿ち、倒れた死体から下りて、呼応した周囲のモンスターにとどめを刺して、更に戦い続けた。

 射手の手がくっついたままのクロスボウを拾い上げて射ち、剥ぎ取った剣を握り、ゴブリンの短剣をベルトに押し込んで、なおも戦った。

 そして……今は、もう敵も味方もいない。

 恐らくは、ヴィクター自身も……遅れて、彼らに加わるのも間違いなかった。


 気付けば、ヴィクターは丘の上に居た。

 滴る血をパンくずのように残し、地獄の戦場を一望できる丘、枯れ果てた一本の樹の幹に、引き寄せられるように背中を預けた。

 スプリントメイルはもはや、鱗を削がれた魚の皮。

 斬られ、刺され、殴られ、その内側の骨も内臓も、もはやもたない。

 ここまで歩いてこられた事そのものが、奇跡の積み重なりでしかない。

 これ以上――――もう、奇跡は起こらないと、ヴィクターも感じていた。


「ぐ、はっ……! 畜生、畜生……! 誰か……誰か、いないの……か……」


 うわ言のようにそう呟くも……戻ってくる声などない。

 戦場にかすかに聴こえていたうめき声も、もうない。

 ただ、せめて――――誰かと、話したかった。

 一人で死ぬのは……嫌だったから、ヴィクターはか細く呟いた。


「……おりますわよ?」


 背を預けている樹の後ろから聴こえたその声は――――女のものだった。


「お前は……どうして……?」

「さて、どうしてでしょうね? ふふっ……でもそれもどうでも良い事ではありませんか? もう……夜、なのですもの」


 ゆっくりと進み出てきた“女”は、忘れもしない。

 出陣の前夜、“魔法の夜”へと招き入れてくれた、あの奇妙な娼婦。

 それが……全く同じ夜色のドレス、艶やかに手入れされた髪、上質の紫水晶アメジストをはめ込んだような瞳、およそ戦地を歩くにふさわしくないヒールの靴を履いて、楚々たる様子で進み出てきて……脚を揃え、ヴィクターの隣へ座り、星々へ目を向けた。


「何故……こんなところにいるんだ? お前、ただの娼婦じゃ……ない、んだな」


 問いかけても、答えは返ってこない。

 喉の奥で響かせた、小さな笑い声がひとつ。しかし……それは無邪気にからかうような、臨死の苦痛を少し和らげさせ、安心できるものだ。


「俺は……死ぬんだな」

「ええ。……もう、助からないかと」

「…………そう、か」


 むしろ……ヴィクターは安堵した。

 中途半端に生き残り、寒さと飢えの中で身動きがとれず、腐臭を漂わせていく戦場で死を待つ事はない。

 今この場で死ぬ事が、できる。

 それは……もはや、救いだ。


「まぁ……俺にしてはよくやったか」


 この相討ちの戦場では、合わせて十二体の魔物と戦い、倒した。

 死にかけの魔物にくれてやった慈悲の一撃を足せば、その倍以上にはなる。

 これまでの戦場の中で……最も、戦果を上げる事はできた。

 ふと、全身の力が抜け、ずり落ちるように横ざまに倒れて……頭が、彼女の膝の上へ収まった。

 頬から上質なサテンの滑らかな感触と、それに包まれた彼女の体温。

 包み込むような肌の弾力が、あの晩を思い出させるような枕となり、ヴィクターをねぎらってくれる。

 もう二度と覚める事の無い眠りに、ふさわしく。


「……貴方が眠るまで、私はそばにいます。……これは、私が……代わりとしてつぐなえる、せめてもの事ですわ」

「償う?」


ふと、頭をかすかに動かし、下から覗き込むように彼女の顔を見た。

だがすでに視界は閉じゆく折に入り――――ほんの一瞬だけしか、彼女の顔を見る事はできなかった。

月光の下で見る彼女の肌は、鮮やかに青かった。

こめかみのあたりから……ねじくれた山羊の角のような乱れ髪が見えた。

夜風に翻ったドレスの裾か……ほんのわずかに、皮膜のようなものが見えた。

紫色の瞳は月光を受けるまでもなく燐光を放って、まっすぐにヴィクターの目を見つめて、哀しげに揺れた。


――――それが、ヴィクターの死にゆく眼が、世界で最後に映したものだった。


「せめて……“勇者”が、来て……くれる、なら……な」


 おとぎ話の中にだけ語られる、“魔王”と対を成す存在。

 戦う者達がせせら笑い、それでももしかしたらと淡く望む、世界を救う者の称号。

 ある者は、“魔王”がいるのだから“勇者”もいるはずだ、と語った。

 ヴィクターは杯を手に苦笑しながら……彼に心の中で同意し、杯を軽く上げたものだった。

 だが――――少なくとも今は、いない。

 この世界のどこにも、“勇者”はいない。

 いるのは、足掻く者達だけだ。


「“勇者”は、実在しますわよ」

「え……?」

「信じ難いでしょうが、私は確かに、会った事があります。この時代ではないけれど……“勇者”は、確かにおりました。恐らく、この世界にもいずれは」

「何……はは、それは……何より、だな……いい、知らせだ」

「もう一度、申しましょう。……必ずや、“勇者”は生まれる。世界を覆う闇を引き裂き、この世界を救うでしょう」

「……そう、か。なら……いい、な」


 手足の感覚が、もうない。

 寒さこそ感じないものの、二度とその手足を動かせはしないのだと、ヴィクターは感じていた。

 死が……ゆっくりと、近づいてくる。


「……ヴィクター、様。貴方は……なぜあの晩、何もせずに?」

「ああ。……あれ、か」


 彼女と会った日。

 ヴィクターはただ……今もこうしているように、語らい、ゆっくりと眠る事のみを望んだ。

 葡萄酒ぶどうしゅで喉を潤し、彼女の膝にいくらかの安らぎを求め、子守歌を歌ってくれと願い、……翌朝目が覚めると安宿の一室に、彼女の残り香だけがあった。

 懐からは銅貨の一枚すら、抜かれてはいなかった。


「……お前こそ、俺を襲うものだと思っていたさ。でも、そうだな……今は、後悔してもいるかな」


 感覚の喪失は、もはや腰にまで届いていた。


「もう……疲れた。もう、眠ってもいいか? 歌って……くれ」


頬に彼女の手が添えられ、その暖かさが眠気をいざなった。


「いえ。……歌いはしません。だって……貴方は、今から夢から覚めるのですから」

「え……?」

「全ては……貴方の痛みも、血の匂いも、戦いの日々も、全ては夢なのですから。じきに目が覚めると、朝日が差して……柔らかなベッドと、パンの香りで目が覚める。これは、夢だったのです。……全ては夢魔に化かされた、だけですわよ」

「……夢、か。……なら……起きたら、何を……しよ、う……かな」


 呼吸は長く、遅く、――――遠く、なっていく。

 眠りに落ちたように。

 くらい夢の世界から遠ざかり、明るい世界へと還るように。


 ヴィクターはかすかな笑顔、子供のような寝顔を彼女の膝に残したまま、動かなくなった。


「……貴方は、良く戦いました。……おやすみ、なさい。そして……」


 暖かな粒が数滴、ヴィクターの寝顔へ、落ちる。

 

“姫の涙”で目を開ける事は――――なかった。



*****


 魔王が現れ、魔族達が世界へ溢れ出る中でも……淫魔サキュバスの一族を戦場で見たという者は、一人も現れなかった。

 訪れた夜を見守るかのように、彼女らは現れる事無く……決して、人間を手にかける事は、しなかった。

 人に味方をする事も無く。しかし魔王の配下となる事も無く。

 

 しかし……時折、妙な夢を見たと主張する者がいた。

 曰く絶世の美女達にもてなされる、現実感があまりに強すぎる夢を見たと。

 触れた肌の感触も、ベッドの柔らかさも、全てが克明に思い出せるような……“夢”の一夜の話だ。


 その、奇妙な“夢魔の夜”の噂は……世界に“勇者”が誕生する、その日を境に消えたという。







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