Last Dragon Standing


*****


 あるところに、洞穴に隠れ棲む老いたドラゴンがいました。

 近くの村に住む少女はそのドラゴンを見つけて、何度も足を運びます。

 もうすでに声まで枯れ果てたドラゴンは動くこともできず、目を動かして少女に応えてやるだけ。

 しかし少女の口から聞く“外”の話はどれもが新鮮で、数千年を生きたドラゴンの心を癒しました。

 お世話をしていた牛が赤ちゃんを産んで、生まれたその子が立った時、感動した事。

 大好きな、優しかったお婆ちゃんが死んでしまった時は哀しかった事。


 そんな日々を心地よく思っていたある時、洞穴の外から煙が上がっている事に、ドラゴンは気付いたのです。

 何事か、と思った時に……いつもの少女が、血相を変えて、彼女の父母と、弟と一緒に逃げ込んで来ました。

 ドラゴンを初めて見た三人は怖がったけれど、少女の言葉で落ち着きを取り戻します。

 そして、ドラゴンは少女のお願いを聞きます。


「村を、山賊が襲った」

「みんなで逃げてきたけれど、まだ逃げ遅れた人がいる」

「お願いします、どうか」

「どうか助けてください――――ドラゴン、さん」


 少女の涙を見たドラゴンは、もうすでにボロボロになった翼を、萎えた脚を、濁って片方が見えなくなった目を、奮い立たせて洞穴から出ました。

 そして火の手が上がった村へと、地響きを上げて向かい、山賊たちを追い払いました。

 村の危機を救ったドラゴンは一員として迎えられ、数十年が経って死んでしまった後も村の守り神として語り継がれました。


 めでたし、めでたし。



*****


 ――――――そんな童話をどこで訊いたのか、もう竜は思い出せない。

 竜がその身を沈みこませているのは凍てつく霊峰の廃墟、その近くにある洞穴だった。

 かつて人類が建てた廃墟は、もう誰も住んではいない。

 ここには百年ほど前まで武僧モンクが鍛錬を積んでいて、廃れてからも、僧たちの巡礼の地だった。

 朽ち果てた標旗が慌ただしくはためいていたのは、数カ月前まで。

 とうとう霊峰の風に負けて、どこかへ千切れ飛んで行ってしまった。

 今となっては……ここで物好きに死にたがるものしか訪れない。

 竜は、もうヒトの言葉を忘れかけていた。


 かつての仲間達はみな、いなくなってしまった。

 彼らはみな――――世界へと、溶けてしまった。


 洞穴に身を横たえる老竜は、この世界に残された、最後のドラゴンだった。

 吹き込む寒気は全身に霜を作らせ、幾年も動かしていないものか……その身は外の廃墟と同じく、すっかりと凍てつき錆び果て、かつて空を駆けた覇者の面影などない。

 脱皮した竜の抜け殻だと言われても、誰も疑いはしないほどに。

 思考を巡らせる事すらも億劫になってしまい、ときおり午睡の中で見る夢は、世界から姿を消した仲間達の事ばかりだった。


 ある日吹き込む風に、嗅ぎ慣れない匂いを覚えた。

 それは最初、腐臭に思えた。

 何かが近くで死に、その身が腐ったのかとも竜は思ったが、それはありえない。

 ここは氷雪に覆われた霊峰だ。

 たとえ死体があっても凍てつくばかりで腐らず、残飯があったとしても、湧く虫さえもここにはいない。

 腐臭など存在できない場所だからだ。

 久方ぶりに、竜は“いぶかしさ”を思い出す。

 何もない洞穴の中に起こった変化は、ほんの少しだけ、心を取り戻させた。

 かつて――――“雷竜”と呼ばれた老竜の心を。


 吹き込む風に混じった腐臭は、だんだんと強くなった。

 人間であれば少しすら嗅ぎ取れないようなものではあるが、間違いなく、何かが腐っている。

 さしもの老竜といえども、日増しに強まる腐臭の中で眠る事などできない。

 むしろそれは気つけとなって、段々と竜を苛立たせ、かつて空を飛び舞った輝かしい日へ思いをはせる事すらできなくなった。


 雲を切り裂いて高空へと上がり、この星の丸さを目視できるほどの高さで、この星のどこまでもの蒼さに心を躍らせた。

 真上から見ると目玉のような巨大な嵐が海上に現れた時にはこの星が持つ命の力強さに、数万年の時を持つ竜ですらも敬意を持たずにいられなかった。

 ヒトが立てた巨大な城壁と、王都の壮麗な華やかさにも、若干の感動を覚えた。

 思えばそれは、小さな蟻が立てた巨大な塚へ対するそれと変わらなかったのかもしれないが……間違いなく、それもこの星の生み出した営みの一部だと感じた。

 そんな華やかな記憶にすらも割り込んで来る、何かが腐り、今ですらも刻々と腐っていく臭いには堪えられなかった。


 そして更にある時。

 竜は――――百数年ぶりに、ヒトの姿を見た。



*****


 いつまで経っても鼻が慣れない腐臭への苛立ちで、目をぎょろぎょろと動かし、寝返りのように首を動かす事も増え始めた。

 あの腐臭が嗅ぎ取れ始めてからは一月の事だった。

 洞穴の入り口から、饐えたような匂いが紛れ込んできた。

 生物の……おそらくはヒトの体臭だ。

 乾いた血の匂い、布の焦げたような匂い、ほのかな体温、そしてまとった例の腐臭。

 訝りながらも老竜は警戒などせずに、“それ”の姿が見えるのを待った。

 ヒトへの警戒心など、必要ない。

 まして洞穴に反響して風に乗って聞こえる悲痛な喘ぎは、その裏付けだ。

 竜が警戒を傾ける対象では、ない。

 それはヒトが――――小さな虫を恐れる必要が無いのと同じだ。


「はっ……はっ……えっ!?」


 百数年ぶりに、ヒトの声が聞こえた。

 最後に聞いた練達した武僧の声とは違い、ずいぶんとか細く、高く、そしてひ弱な驚きの叫びだった。


「ド、ドラゴン……本当に、ここに……!」


 松明を手にした“ヒト”は、女だった。

 少女と呼ぶには大きく、女性と呼ぶにはまだ幼い、そんな年頃の女だ。

 見れば粗末な布を巻きつけただけの脚は霜焼けに覆われ、見える肌はカサブタと切り傷が生々しく残り、整っているだろう顔も土と煤とにまみれて、見る影もなく汚れていた。

 粗末な外套とつぎはぎの当たった服は、彼女の育ちの貧しさを示している。

 もつれた髪も、それが本来の彼女の栗毛なのか、汚れによるものなのか、分からない。

 縋るような眼差しには若干の怯えが勝っていた。

 竜は、射竦めるような眼光を、ヒトの女へと向けた。

 ここに至るまでの……飛べぬ者にとってはそれ自体が修行と言うに相応しい、この霊峰へ至る道を踏破した、小さな者へ。


「あ、あの……た、助けて……助けて、ください……」


 懇願に竜は、長く忘れていた“笑い”を取り戻した。

 これは――――あの童話でもなぞっているのか。

 それとも――――。

 竜は最後に聞いた言語を思い出し、凍てついた喉に唾を飲みこみ、喉を広げてから口を開いた。


「食い、つく、ような事は……せ、ぬ。貴、様……など、我の、歯に挟まる事すら……できぬ」


 久方ぶりに紡いだ言葉は一節でだいぶ勘を取り戻した。

 ヒトの女は驚嘆しながらも、聞き取れてはいたようで、続きを話す。


「私……麓の村から、来ました、ここに……ドラゴンが、いるって……」

「名を」

「えっ?」

「話がしたくば、名を名乗れ。……だが、我は名乗らん。我が名を全て述べるには、二日ほどの時が要るのでな」

「あの……私、リーリア、です。麓の村で……馬のお世話を、していました」

「……下らん」

「え……?」

「下らん、と言ったのだ。我は……そろそろ、眠りたいのだ。帰るがよい」


 竜はそれだけ言ったきり、黙り込んだ。

 どうしても、くだらぬ懇願を持ちだされるとしか思えなかった。

 そして――――“最期の時”を、邪魔されたくない思いが勝った。

 ただでさえ、この一月であの腐臭にずいぶんと悩まされた。

 まして人界のイザコザに出ていく理由など、老竜にはないからだ。


「この世界が、おかしくなってるんです! お願いします、ドラゴンさん! お願いします! 助けてください!」


 喉の奥に地響きのように唸りを上げても、リーリアは微かに身を震わせても、引きさがろうとはしない。

 帰る気のない客、とは……まったく、竜をも困らせるものだった。


「……二度とは言わん。帰るが良い。我には、もはや……関係ないのだ」


 そう言って……竜は、目を閉じて眠った。

 願わくば、このままわが身が仲間達と同じように、世界へ溶けて消えてしまう事を。

 願わくば、それが叶わなかったとしたら代わりにこの無作法な客が、いなくなっている事を。



*****


 次の日も。

 その次の日も。

 リーリアと名乗る女は、いつまでも洞穴の中から出て行こうとはしなかった。

 外の吹きさらしに比べると洞穴内ならまだ堪えられるにしても、毛皮も堅牢な甲殻も持たないヒトの身には寒すぎる。

 たき火を絶やさぬようにしていても、体力は削られてゆくばかりだ。

 ここまで来るために背嚢に詰め込んだ食料も、恐らくそう残ってはいない。

 干し肉や保存食の硬いパンを子栗鼠こりすのように齧る有り様だった。

 老竜が目覚めたのに気づくやいなや、訥々と外の惨状を語り、助けてくれの一点張りだ。


 世界がおかしくなった。

 村へ日の光が差さなくなった。

 空を暗雲が覆い尽くして村人はみな不気味に思っている。

 付近の森からは、夜ごとに不気味な唸り声が聞こえる。

 森の中へ様子を見に行った村の若者が、帰ってこなかった。


 聞けば聞くほどこの女は童話を信じ切っているのか、必ず力を貸してくれると思いこんでいるようだった。

 乙女の涙にほだされた竜が村の危機を救う、など……子供だましのおとぎ話でしか、ないのに。

 洞穴の入り口から吹き込んで来る腐臭がようやく気にならなくなったのに、ちょろちょろと目障りな女がいて、耳障りな泣き落としまでも加わる。

 それは……まったくの拷問だ。

 噛み殺してやれば黙るに違いないが、そんな獰猛さも今はもうない。


「我に……どうしろというのだ、“リーリア”」


 根負けした、というのではない。

 この女の要求するところがまるで掴めないからだ。

 山賊だとか、そういうものの影がまるで見えない。

 何と戦えと、何をしてくれと言っているのか、見当もつかない。

 そもそも多少の事であれば、領主にでも頼めば良いではないか、と。


「……分からないんです」

「貴様……その程度の事すら考えず、この我の眠りを妨げたか」

「いえ。……何が起こってるのか分からないんです! お願いします、ドラゴンさん。せめて外を。外を、見てください! 何が起こっているのか私達に教えてください!」


 いささか拍子抜けするようなセリフだった。

 もっと直接的な介入を求める要求かと思ったのに……ただ、それだけだ。

 三日もこうしているのなら、恐らく死ぬまで彼女は帰らない。

 外からの腐臭に代わって、目の前で死なれて死の匂いまで撒き散らされては困る。


「……約束せよ。我が『分からぬ』と言ったらここから出てゆけ。そして、二度と立ち入るな」


 涙をぽろぽろと流すリーリアは確かに頷いた。

 それを見届けると……老竜は、崩落させてしまわぬようにゆっくりと身体を起こした。

 その節々からは、老朽化した船が立てるような軋み。

 鱗の隙間に入り込んだ埃は、洞穴の入り口へ向かう一歩ごとに舞い落ちた。


 ずずん、ずずん、と、小城ほどの体躯の老竜が歩む毎に洞穴は震え、地響きが反響する。

 それを先導するリーリアの姿は、まるで竜に追われて逃げる少女のようだった。

 特に、その必死の表情と、顔に滲んだ涙の痕のせいで。



*****


 やがて、竜は長い尾の感覚を掴めず壁を擦りながら、洞穴を出た。

 しかし、彼を迎えたのは――――高山の清澄な空気でも、蒼空でもない。

 それは老竜を悩ませ続けた、あの腐臭の正体だった。


 空に、境目ができていた。

 腐臭は空から発せられるものだった。

 “空”が、ぽろぽろと剥がれ落ちている。

 死して腐った組織が皮膚を離れて、肉片となって剥がれ落ちるかのように。

 彼方の空には、闇が広がる。

 それも星々の浮かぶ闇ではなく、禍々しい紫色と死体の体液のどす黒さが混じったような、この世界に、この星にあってはならない暗黒の瘴気しょうきが。

 空の青さが、失われてゆく。

 暗黒の大気に触れるはしから、蒼空は禍々しく変色して腐り、剥がれ落ちてゆく。


 腐敗した空の中には、死体にたかる小バエのような何かが飛び交う。

 それらもまた、大まかな翼を持つ生き物だが……この世界に存在するモノでは、なかった。

 翼の枚数が対ではなく奇数で生えた、いくつもの頭を持つ肉塊のような鳥。

 コウモリのような翼を持つ人型の魔物が群れを成す。

 そして……骨と肉を適当に混ぜて仕立て上げた、空をのたうつ翼の生えた芋虫が、大口を開けて吸い込むように鳥の群れを貪った。


 空が――――けがされてしまった。


「許さぬ」


 老竜は、つぶやいた。

 その一声に、その孕んだ怒気に、リーリアはその場にへたり込み、立てなくなってしまった。

 意思とは無関係に……両脚の力が抜け、痺れすらも感じないまま、内股を生暖かいものが伝うのを感じた。


「許さぬ。許さぬ。……許さぬ」


 老竜は、数百年に渡って畳んでいた翼を開いた。

 リーリアの涙は死を決した竜の心を動かす事はできず、せめて洞穴から一瞬だけ出す事が精一杯だった。

 だが、“空”が流す涙に……竜は、堪える事などできなかった。


「我は、闇を裂く迅雷じんらいとなろう。ヒトどもが我を呼んだ、その名の如くに」


 この日、闇の軍団は味わう。

 ドラゴンの怒りに触れる事が――――――どれほど愚かなのかを。


「決して――――許さぬ」



*****


 かつて、この世界には竜たちがいた。

 大空を切り裂くその姿は、人々の憧憬を集めていくつもの伝説を生んだ。


 獄炎の吐息を放ち、煮えたぎる溶岩の海でまるで水浴びでもするかのようにその身を沈めていた灼熱の竜は“溶岩竜ようがんりゅう”と名付けられ、恐れられた。

 恐れを知らぬ戦士たちは、彼の姿を刺青して死地へと向かった。


 極北の大陸で光のカーテンの下、竜語ドラゴンロアの旋律で歌う氷鱗ひょうりんの竜は“白吟竜はくぎんりゅう”と名付けられ、いくつもの詩歌の題材となり世界の吟遊詩人を虜にした。


 数千の我が子を従えて、一度も降り立つ事無くこの星の空を悠然と飛び続ける慈しみ深き竜は、“聖母竜せいぼりゅう”と名付けられ、敬愛された。

 彼女を称える教会は、敬虔な信者たちの祈りで満ちた。


 ――――だが、竜はいなくなってしまった。


 人々は言う。

 火山の噴火は、炎の山と一体になった“溶岩竜”が咳き込んでいるのだと。

 氷海を泳ぐ黒白こくびゃく歯鯨はくじらは、海へと溶けた“白吟竜”の鱗から生まれたのだと。

 数十年に一度見えるあの箒星ほうきぼしは、星々の大河へ旅立った“聖母竜”が新たな子を連れて故郷ふるさとへ帰ってきたのだと。


 この彼方の地、霊峰の洞穴で眠る竜は、この世界に残された、ただ一柱ひとはしらの竜だった。


 世界に、再び竜の羽音が響き渡る。

 世界に、再び竜の咆哮が響き渡る。

 世界に、再び――――竜の吐息ドラゴンブレスが、解き放たれる。



*****


 空へ浮かぶ脈打つ岩が魔の瘴気を吐き出し、空をただれさせる。

 魔王の率いる闇の軍団がもたらした、空間を魔界の空へと作り変えるための装置だ。

 だが――――次々と破壊されていった。


「何ッ……ダ、アノ生キ物ハ……!」


 空を任された闇の軍団長が、狼狽する。

 イビツな竜の首から、醜い人型の半身が生えたような……言わばケンタウロスの半身を竜の首から下へと挿げ替えた姿の魔物だ。


 最初は、空中に点が現れたように見えた。

 だがそれはほぼ一瞬で軍団の目前に現れ、いくつもの装置を破壊し、肉塊の鳥や翼人型の雑兵をまさしく薙ぎ払い、またも点になって消えた。

 そして何より恐るべき事に――――それが、“過ぎ去ってから”音が聴こえた。


 世界の全てを喰らうような、あの咆哮とともに。


 通り過ぎるだけで、生み出す風は衝撃波となって闇の軍団を吹き飛ばした。

 翼の一打ちだけで、音は老竜に振り切られた。

 老竜の往時の名は――――“雷竜らいりゅう”。


 だがその竜は雷を吐き出す事も呼び出す事もない。

 雷雲の中を飛ぶ事もなく、地に足を下ろし、瞑想するように落ち着いた哲人のごとき佇まいを幾度も目撃されていた。

 それでも、彼は雷竜と呼ばれた。


 再び闇の軍団長が空を睨み、体表にいくつもある眼球でその竜を捉えんと全方位を凝視する。

 今しがた瘴気発生装置を尾の一撃で砕いた竜の姿を捉え、全身に無数に生えた毒の棘を射出する。

 それらは空中で意思を持つようにうねり、追いかけるように、空を切り裂いて竜を貫かんと向かう。

 だが――――また、だ。

 姿を捉えたと思えば遠く離れた空間へ一瞬で現れ、嘲笑うように、放ったばかりの棘が易々やすやすと振り切られ、行き場を失い地へ落ちる。

 射出する矢も毒棘も、魔法も、デタラメに撃つばかりではかすらせる事もできない。

 弾幕すらも張れなかった。


「ナゼ……ナゼ、見エナイッ! ナゼ、羽音ガ聞コエナイ! ナゼ、音ガ遅イ!?」


 その竜は、“音”を遥かに凌ぐ速さで飛ぶ。

 大気を刻み、破裂させる音はその竜だけが奏でる“羽音”だった。

 羽音が聴こえた時には、鉄槌はすでに振り下ろされている。

 遠くから飛んで来れば、来るほど……音が遅れる。

 原因不明の轟音が聴こえて空を見れば、すでにその竜は過ぎ去った後だ。

 それを人々は、“かみなり”に重ねて呼んだ。


 捉える術なく、触れるべからざる雷速らいそくの竜。

 それゆえ――――“雷竜”。


 空をのたうつ巨虫は、すでに塵すらも残っていない。

 雑兵はほとんどが竜の衝撃波で羽虫のように吹き飛んでしまった。

 装置は、たった今……全て、破壊された。


 そして、今。

 闇の軍団長の目前に、その竜が現れた。


 雷竜は、全身に走った亀裂から血を噴いていた。

 荒々しい吐息には燃える舌のごとき炎が混じってすすが口もとを汚し、既にその目は白濁していた。

 それでも……闇の軍団長は、動く事すらできなかった。

 今目の前にいるのは、決して敵に回してはいけない“何か”だったと気付いた。

 その怒りを表現する、たったそれだけのための言葉すらもこの世界にはある。


 全ては、もう遅い。


「ヒ――――――」


 雷竜の口から噴き出た爆炎が、“それ”を包み――――断末摩すらも焼き尽くす炎の中、闇の半竜人は、後悔と、恐怖とにその身を焼かれ、堕ちる。



*****


 霊峰にひとり取り残されたリーリアは、空を駆けるドラゴンを見た、最後の人間となった。

 彼女が山を降りていくと、雪が舞い降りてきた。

 その空にはもう爛れなどなく、見慣れた美しい空だけが、どこまでも続いていた。

 雷竜は、あの岩窟に戻ってこなかった。

 あの轟雷のような羽ばたきとともに、どこまでも、どこまでも高く飛翔し――――やがて、見えなくなった。


 この世界には竜がいた。

 彼らの姿は人々の心へ、物語へ、そしてこの星へ残る。

 今もまだ、溶岩竜の堂々たる雄姿は戦士ギルドの紋章として残る。

 吟遊詩人達は、学院を出た証として白吟竜のメダルを授与される。

 数十年に一度、星々の間へ姿を見せる聖母竜を出迎えるための祝祭が催される。

 彼らは姿を消してなおも、この世界へ今も息づく。


 雷竜はその日、“雷”となった。 






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