無敗の幻術士、一敗の魔女
*****
テーブルの向こうに座る男を、いくつもの視線が突き刺している。
そのどれもが、“妙なことをするな”という
知ってか知らずか、男はただ頭の後ろで手を組んで、深く背もたれに身を預けながら不敵に笑う。
目深にかぶった
帽子のつばに隠れていない口もとはすっきりと整えられており、じき夜が明けるというのに髭の一本すらも伸びていない。
彼の目の前には、酒瓶と、グラスと、立ち消えた葉巻、そして――――五枚のカードが伏せられていた。
「おいおい、兄さん。手札を見もしないで、どういうつもりだ?」
帽子の男を囲む博徒の一人が、へらへらと笑いながら訊ねる。
「聞こえなかったかい、勝負だ。レイズする」
男は、せせら笑うように答えた。
「配ってから一度も見てねぇだろう? 大胆か、でなきゃぁ……」
「ご高説の前にレイズをさせてくれ。いいな?」
「……いくつだ?」
「
「なっ!?」
差し向かいの博徒と、それを囲む十数人のごろつきが一斉にざわめく。
現在、勝っているのは目の前の帽子の男だ。
それまでは普通に手札をめくって興じていたのに、カモにされた博徒が脇を固めるべくごろつき達を集めた“最後の勝負”になり、男は手札を見ずに勝負すると言う暴挙に出たのだ。
しかも――――薄笑いすら浮かべて。
「どうなんだ、受けてくれるのか? それともオリるか? 俺はどっちでもいいぜ」
「っ……てめぇ、よっぽどその役に自信があるんだな?」
「いや。自信があるのは、オレのツキにさ」
「……受けてやるよ」
「はぁ? ……悪いな、よく聞こえなかったぜ」
「コールだ! 受けてやる!!」
「よしよし、男のコだもんなぁ。……勝負と行こう」
先に、博徒が手もとのカードをめくり、叩きつける。
その手役を見たごろつき達はにやりと笑い、口笛を鳴らす者までいた。
手役は――――。
「フォー・カード。悪いな、兄さん」
四つの
だが残る一枚は、ふたつ下の数字、“剣の10”。
勝ち誇る博徒へ向け、帽子の男はつばをひと撫でしてから顔を上げ、口を開いた。
その身に向けられた殺気など知らぬかの、ように。
「……ツいてねぇよ、お前」
「あ?」
「その最後の一枚が、オレとお前の差だ。お前にあるのはツキじゃない。尽きだ」
「うるせぇ、さっさとめくりやがれ! ゴタゴタと……!」
「落ち着け、落ち着け。……それじゃ、開けるぞ」
深く笑う男はただ人差し指と中指だけを使い、一枚ずつ開いていく。
一枚目の札は、十字の“エース”。
二枚目の札は、魔杖の。
それを見て、たちまち男達の顔は曇り――――目配せし合う。
そうしている間にもめくられていき、剣の“エース”と盾の“エース”の姿が明らかになった。
この時点で上位のフォーカードの成立により、帽子の男の勝利は確実だった。
最後に開けられた札は――――。
「
「……てめぇ、何かしやがったな!? フザケんじゃねぇ、よそ者が!」
「おいおい、オレは配られてから一度も手を触れてなかったぜ。見ていただろう、お
帽子の男を囲むごろつき達の手が、剣にかかる。次の言葉は、火種になる。
それなのに、彼は臆面もなく言い放つだろう。
「……オレの手にファイブカードが揃わないと、知っていたんじゃあないのか?」
男が、帽子を軽く跳ね上げたのと同時に、いくつもの獰猛な金属音の直後――――男の姿が、
賭けのテーブルの上に載せられていた銀貨は残らず消えて、更には男の手札、四つの
「なっ……! き、消え……!?」
「いや、それより見ろ、奴の手札――――!」
敗者のフォーカードと、勝者のノーペアだけが、残された。
*****
「……不景気だ。まぁ……今景気のいいヤツなんて、いやしないよな。悪党ですら儲けてないなんて、いよいよ世も末だ」
賭場から離れ、朝焼けに照らされる街を帽子の男は歩いていた。
その目には、ぐるぐると渦を巻く不思議な瞳を持つ――――明るみに出ると、ことさらに異様な男だ。
彼は、ひったくってきた銀貨を品定めし、それをポケットに放り込むと、今度は――――あの場に居たごろつきと、対戦相手の小男から抜いてきた財布の中身をひっくりかえし、頷きながらそれもポケットに入れた。
「……あでっ!?」
突如、男の後ろ頭をカラスが小突いて、目の前の木箱の上に止まる。
そのカラスは帽子を直す男の目をじっと見つめ、そして……喋る。
『相変わらず手癖が悪いのね、リヒター。見てたわよ?』
カラスが声真似するのとは違い朗々と喋る、高貴さすら感じる女の声だった。
帽子の男――――リヒターは、さも悪戯を見つかった子供のような表情を浮かべ、舌を出しながら応答する。
「奴がツキで勝負する気なら、オレも受けたさ。サマを仕込み、ゴロツキを後ろに並べるような
『その通りね。汚い手を使う相手にまともに当たる必要はない。……だから私は、
「……やるなんて言ってないぜ、ベティ」
『あら、そう? でも、せっかくだから顔を見て話したいわ。おいでなさい、私の館に。お茶ぐらいは出せるわよ?」
「…………おたくの淹れる茶ァ、不味いんだよな……葉のセンスも正直……いてっ!?」
二羽目のカラスが、再び襲う。
『傷ついたわ。謝りに来なさい、今から』
「相変わらず……強引な女だよ、ベティ」
落ちた帽子を拾い、目深にかぶるとリヒターが歩き出し、同時に二羽のカラスは朝の街へと飛び去って行った。
カラス越しの応答を終えると幻術士は城の方角へ向けて大通りを靴音も高らかに歩いて行く。
*****
城の前で衛兵に咎められるも、自分の名と、訪れる相手の名を告げるとあっさりと話は進んでしまった。
それどころか――――非常に好意的に出迎えられたと言っていい。
衛兵達はまるで、英雄でも見るような目でリヒターを“魔女の館”へ案内してくれた。
「……おい」
「はい、何でしょうかリヒター殿」
「おたくら……ベティ、ベアトリスからどう聞いてんだ?」
「はっ。何でも……我々のために一肌脱いで下さるとか……」
「……まだ何も話してないんだぜ、ベティとは。……
「りす……?」
「気にすんなよ、衛兵さん。オレの口癖みたいなもんさ」
衛兵達の熱い視線の謎が解けたところで、“館”へとようやく到着し、そこで分かれた。
扉を開くと、そこは異様な熱気が支配する“戦場”でもあった。
駆けずり回る学者達、静かに羽ペンを滑らせる魔導士達、机の上には回復薬の空き瓶が散乱していた。
ある部屋では大鍋一杯にどろどろと脈打つマグマに似た“何か”が煎じられており、ある部屋では魔物の脚を注意深く解剖している様子が覗けた。
誰かに訊ねようと思っても、そうする事すらできないままバタバタと逃げられ、誰に声をかける事もできないまま壁にもたれかかって立ち尽くしていた時。
ようやく――――リヒターを呼びつけた“宮廷魔術師”が地下へ続く階段から現れた。
「――――よう、ベティ」
「あら、リヒター。もう少し待たされるかと思ったのよ。少し時間に厳しくなったかしら?」
「
「ひとまず、私の部屋へ行きましょう。ついてらっしゃい」
長く美しい亜麻布のような金髪を湛えた彼女、ベアトリスについていくと、一階奥にある窓のない薄暗い一室へ案内された。
彼女が指先を虚空に振り回すと、ひとりでに光源が灯り――――うず高く積まれた魔導書と紙束が天井にまで積み上がっている、粗雑な書庫のような有り様が映し出された。
その真ん中に置かれた二脚の椅子とテーブルに差し向かい座る事を勧められたがリヒターは固辞し、一人分だけ空いていた石壁に身を預けて立つ事を選んだ。
ベアトリスは一度だけ溜め息をつき、着席してからおもむろに口を開く。
「……貴方をつかまえられたのは幸いだったわ。力を借りたいのよ」
「ベティ、なぁ、ベティ。……そういうのは、衛兵に触れ回る前に話せよ」
「あら、気付いてた?」
「おたくの、そのイキナリ
「フフッ。まぁ……いいじゃないの、ね。早速本題に入るわね。……“ベヒモス”を、食い止めたい。そのために貴方の力が必要なの」
その名を聴いて、リヒターの表情は凍りつき――――数秒して、瓦解するように厭世的な笑みへと変わった。
「おい、おい……随分と、デカく出たな」
「私は本気よ。その為に、貴方に行ってほしい所があるの」
「……“
「冴えてるのね、リヒター。……あの洞窟に入って、戻ってこられるのは私と貴方だけなの」
「じゃあ、おたくが行けばいいじゃあねぇか」
「そうしたいけれど……空けられないの。貴方しかいない」
渦を巻く瞳を彼女へ向けながら、リヒターは帽子の鍔を左手でつまむように擦った。
それは、彼女の切実な――――もはや必死、真摯な説得の言葉へ対する困惑だった。
かつてリヒターの知っていた“魔女”とはかけ離れていたから。
「正気か? あの
「……若き兵士の眼差しにかけて、私は本気よ。……それにしても相変わらず言葉が混ざるのね?」
「男は
厭世的にそう言い放ったとたん、射竦めるような眼光が投げかけられ、背筋に走る寒気にリヒターが身を震わせた。
「リヒター。私はそうさせたくないの。私は……この世界の行く末を諦めたくない。足掻けるのなら、一筋でも多く爪を立てる。
「アツいねぇ。おたくはそういうタイプに見えなかったんだが」
「私はもともと熱い女よ。冷たくするのはあなたにだけ」
「なるほど、オレだけが冷たくしてもらえるのか。そいつは名誉だ。ところで……今日は久々に飲まないか?」
「遠慮するわ、時間が惜しい。……それに、昔の男とは寝ない主義なの」
やれやれ、と首を振って、リヒターは背を預けていた壁に別れを告げる。
「見返りはあるのか?」
「私からの限りない感謝と、世界の延命以外に? ……それ以上の報酬はちょっとないんじゃないかしら。頑張ってね」
「…………」
「頑張って、ね?」
そのまま、有無を言わさぬ笑みに追いやられるように……幻術士は、旧知の“魔女の館”を後にするしかなかった。
*****
“幻想の魔窟”に眠る秘宝の存在は、
その
邪な考えを持つ者も、時の権力者も、更には力を求めた魔導士も、一度は所持を夢見るほどの奇跡の品だ。
だが――――その洞窟に踏み込んだ者は、決して帰ってこられない。
幻覚を見せる魔物、美しい美女の姿を餌に獲物を引き込む食人植物、迷い込んだ旅人を生かして帰さない悪意の数々があるからだ。
一説では、その伝説そのものが洞窟に潜む何者かの流布した、撒き餌の“幻想”であるとも噂され、それ故に“幻想の魔窟”の名がついた。
リヒターとベアトリスは、かつてこの洞窟に挑み――――そして生還したが、敗走ではない。
この地に眠る存在は、あまりに強力に過ぎた。
当時は宮廷魔術師ではなかったベアトリスは、それを危険と判断し、そして……リヒターもそれに同意し、最奥に到達しながら手ぶらで出てきたのだ。
懐かしみながら、リヒターは馬を飛ばして二日をかけ、かつて挑んだ“魔窟”の入り口を、感慨深げに眺めた。
そこに立って手招きする幻影も――――当時から変わっていない事へ、乾いた笑いを浮かべながら。
「よう。……ムダだぜ、
魔窟の入り口で微笑む、青ざめた美しい少女の姿。
薄物の下着一枚の姿は、ただ眺めるだけでも恐ろしい魔窟に似つかわしく無かった。
幻術士であるリヒターは、むろんこの罠に引っかかりはしない。
ポケットから取り出したダイスを
「……さてと、
リヒターは帽子を深くかぶり直すと、真っ直ぐ少女へ向かい――――その幻影をすり抜けながら、魔の洞窟へ挑んだ。
*****
物心ついた時には、すでに母親はいなかった。
育ててくれた男は父親では無く、母のとっていた“客”の一人で、その苛烈な養育も単なる気まぐれに過ぎなかったと、内臓の腐ったような腐臭の息とともに聞かされた。
リヒターが魔窟を進み、最初に出会ったのは――――そんな、“父”の姿だった。
「よう、
開けた空間で、足元に沈んだ霧の中で立つその姿は最後に見た“父”の姿。
酒びたりの日々を送り、堕落しきった豚のような生活の中でリヒターを幾度も殴りつけ、しまいには――――賭場で、イカサマの片棒を担がせたのだ。
『リヒタァァァァ……お前の、せいで……お前が……ァァァ……』
「……そう、だったよな。そう。オレのせいだ」
カード配りのイカサマを命じられたリヒターは、失敗した。
良い手が入ったのは相手のほうで――――有り金でなく、“無い金”までむしり取られ、その
胸を刺されて倒れる“父”の姿と、床に広がる血の海。
その光景の中で去来したのは、二度と殴られずに済むという安堵と、それでも“父”と想っていた男が世を去ってしまう事への、複雑な哀しみの念。
安堵の笑みも浮かべられず、涙も浮かべられず、助けを求めるという気にもなれず、育ててくれた肉親が恨みがましく死にゆく様を――――ただ、見ているしかできなかった。
「でも、悪いな――――」
瞬間、彼の両手が閃き……直後“父”の幻影が
「オレは、それでもあんたを好きだったよ」
旅人の財布を抜いてきた時。
“父”は、初めて――――そしてたった一度だけ、そのゴツゴツした、指の欠けた手で頭を撫でてくれたのだ。
「……親父。いつか、あの世でケンカしようぜ。男らしく、
幻影を作り出す魔物、三体組の鬼婆の死体を踏み越え、リヒターは更に進んだ。
その唇に、穏やかに切れ込む笑みを浮かべながら。
*****
いつしか、スラムの賭場が彼の居場所になった。
だが、賭けをしていた訳では無い。
ただ――――観ているのが楽しかったからだ。
ブラフを織り交ぜる時の不自然な仕草。イカサマを仕込む時の瞳孔の散大。図星をつかれて急に饒舌になりヘラヘラする痛々しい姿が。
ある時、リヒターは自らの中で、何かが“つながった”という感覚を得た。
目覚めた時には、瞳の中にグルグルとした渦巻き模様が浮かんでいて――――毛穴から、指先から、何かの見えない“力”がほとばしるのを感じていた。
「そんな時だったよなぁ、ベティ。……おたくに会ったのは」
更に魔窟を進んだリヒターは、この魔窟へ己を送り込んだ、美しき宮廷の魔女の姿を認めた。
顔の右側に長く垂らした、
高く釘のように尖ったヒールを履きこなし、指先の爪の一枚一枚に至るまで隙の無い装い。
「……オレのイカサマを見破ったのは、おたくが初めてだったよ。……見破れるようなモンじゃなかったのにな」
故郷の街を離れ、幻術を使ったイカサマで荒稼ぎしていた時の事だ。
酒場に現れた彼女の妖し気な微笑は、高貴さに満ちていて――――すっかり、やられてしまった。
彼女はテーブルへと歩いてきて、リヒターの向かいに座って……勝負を挑んできたのだ。
負けるはずなどなかった、幻惑魔法を用いたイカサマでの勝負。
結果、吊り上げに吊り上げて高役で身ぐるみを剥がすつもりが、なんと――――彼女が指を鳴らしただけで解呪され、運での勝負を余儀なくされた。
そして、無惨に負けてしまったのだ。
「オレの“幻想”を砕いてくれて、助かったな。もしオレが、あのまま行っていたら……きっと、くだらない人生を歩んでいたよ」
それから、何の因果か数年は彼女とつるんで旅をした。
魔女ベアトリスに連れられて旅をするうちに徐々に名は売れていき、いつしか彼自身も幻術士として一目置かれるほどになり。
そんなある日、目を覚ますと――――ベアトリスは、手紙を一通だけ残して消えていた。
「あの時は、荒れたんだぜ。フラれるのなんて初めてだったからなぁ。……数日してからようやく気付いたのさ。もしかすると、手紙に何か施してあるかもしれねぇ、って」
リヒターは、とりとめのない話とともに感覚を集中させながら周囲の魔力の揺らぎを探る。
このベアトリスの幻影もまた、魔物が生み出すものに違いないと。
“それ”がゆっくりとローブをはだけさせ、白く透き通る裸身をさらけ出し――――リヒターの顎先へ指を差し伸ばして来た時。
「“私から奪ってみなさい”。ベティはそう残していた。オレの魔法が一度も通用しなかったのはおたくだけだったからな。だから……ベティが、オレに触れようとするはずなんかないのさ」
両手を交差させるように一閃させると幻影のベアトリスの首から鮮血が舞い、差し伸ばした腕は切り離された。
直後、その姿がブレて――――複雑に絡まる木々が人間女性の形を模した魔物、“ドライアード”へと変わった。
緑色の皮膚には血管のような葉脈が走り、膝から下は根を張る樹の様相。
驚愕に見開かれていた不気味な美女の顔はずるりと切れて落ち、血液代わりの樹液をほとばしらせ、やがて――――倒れた。
幻影の消えた周囲に目を配れば、精気を奪われて死んだ白骨が無造作に転がっていて、それを発光する苔が悪意なく照らし出していた。
「さてと、次。次、行こうぜ……」
銀貨を指で弾くと、リヒターはそれをドライアードの死骸の上に落としてから先を急いだ。
*****
幻想の魔窟、その最後に広がっている空間はことさらに異様だった。
そこは――――玉座の間に見えた。
だが内装は底知れない威圧感があり、それが幻影だと分かり切っているリヒターですら、思わず生唾を飲み込んだほどだ。
不吉にねじれて、恐ろしい形相の魔物を彫り込んだ列柱。
乾いた底冷えのするような空気と、背筋に走る悪寒。
前方に高くそびえる玉座に坐するは、リヒターを睥睨する“王”の姿。
この幻想の魔窟の最奥には、世界の人々が“最も恐れる存在”の姿が映し出される。
世界に住まう者達の恐怖をこの地の魔石は集め――――その幻影を、見せるのだ。
かつてリヒターとベアトリスが訪れた時にはいなかった存在が、ここには映されている。
「――――ベティめ、オレ一人に押し付けやがって。……いや、もしかすると、譲ってくれたのかもな」
もう――――リヒターの母国は、存在しない。
魔王降臨からほどなくして、彼の生まれた街、生まれた国は、水底へ没してしまったのだ。
一節では“水”の魔力を司る強大な魔族の仕業とも言われ、彼の育った公国は、その魔族の宮殿の浮かぶ湖の底に沈んでいる。
「いいぜ、かかってきな。“魔王”。いや……シェイプシフター・オーバーロード」
リヒターの双眸が光を放った瞬間――――霧の晴れるように、魔王の玉座の幻影が掻き消えた。
靴底に感じていた絨毯の感触も、うすら寒い空気も、幻影とはいえ“魔王”の生み出す強大な殺気も、全ては幻想だ。
代わりに現れたのは、ヒカリゴケに覆われ、露出した水晶にその光が反射する地下洞穴の大広間。
リヒターの目前にいるのは、痩せ細った半透明の人型実体。
思いのままに姿を変える魔物、シェイプシフター。
本来なら単なる“
体表に透ける、ほのかな桃色に輝く魔導石の力により、世界に住まう人々の恐怖を幻影としてまとう、手強き魔物と化している。
ベアトリスはこの怪物を殺さず、あえてそのまま生かして……この洞窟の秘宝の番人としておくことを選んだのだ。
「悪いな。そいつが要るんだ。それにな……おたくが本物の魔王を再現してみせたとしても、結論は変わらない。男ってのは、女に“石”を持っていくためならどんな事でもするのさ」
しかし、リヒターに……幻術士には、いかなるまやかしも通用しない。
やがて――――コートから無数の“カード”が飛び出し、鮮やかな燐光を発して輝きながら周囲を取り巻く。
「…………
*****
再び、男が魔女の館を訪れたのは、一週間と経たぬうちだった。
「リヒター……早かったのね。それで……」
「ああ、お目当ては、こいつだろう?」
リヒターがベアトリスに渡したのは、心臓ほどもある、不可思議な弾力を持つ桃色の魔導石だ。
触れただけでベアトリスにはそれに眠る無尽蔵の魔力が伝わる。
望みのままの、質量を持つ幻影を作り出す秘宝、“幻想の魔導石”。それが今手の中にあるというのに、ベアトリスの顔に
その魔力を引き出し、うまくやれば……“ベヒモス”を、数週間ほどは食い止められるだろうと。
“宮廷の魔女”は、素直な感謝の言葉を、ただ口にするばかり。
「……ありがとう、リヒター。本当に……ありがとう」
「いいさ。オレも……色々と、スッキリしたよ」
「何か……あったのかしら?」
「生きてる限り、何かあるだろう」
持ち帰る間、幾度か心を
それでも、結局はこうして……“女”へ、光り輝く石を持ってきたのだ。
彼女はただ、魔導石を両手で抱えて立っていた。
今、手の中にある物を……信じられない、とでも言うように。
「なぁ、ベティ。……おたくが消えた朝の事。オレに残していった手紙、覚えてるか?」
「……ええ。覚えているわよ。それで、……どうなの?」
「……こういう、事さ」
その時、リヒターの姿が揺らぎ……瞬間、ベアトリスが咄嗟に片手を振って魔術を行使しようとするも――――
「残念。……オレは、思ったよりもお前の近くにいたようだぜ」
「えっ!?」
その腕を優しく掴み止め、語りかけるリヒターはベアトリスの目の前、息のかかる距離に現れた。
そして、そのまま――――彼女の赤く艶めかしい唇を、あの手紙にしたためられていた通りに。
「
つぅっと糸を残しながら唇を離し、とうとう彼女に“宿題”を提出したリヒターはそう告げた。
しばし茫然としていたベアトリスは、やや紅潮した顔のまま、言葉だけはつとめて冷静に振る舞う。
「リヒター……、貴方は、これからどうするの?」
「言ったろ、ベティ。この世界は終わる。……だが、まだ……終わって、ねぇ。やれるだけやるさ。オレに出来る事を全部やって、それでも世界が終わるってんなら……オレのせいじゃない。オレにやれる事を、もう少し探してみるよ」
それだけ言い残し、男は……陽炎のように揺らぎ、再び旅立つべく消えた。
ただ独り、今度は残される事になったベアトリスは、唇に残る感触を、それが“幻”でない事を幾度も確かめる。
「……
そう、虚空に呟いて。
“女”は――――再び、“魔女”になった。
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