かくてその地に“怪盗”は現れたり


*****


 その法廷には、幾人もの傍聴人が詰め掛けた。

 糾弾を受ける被告は尚も、見下ろす裁判官を涼やかな表情で見つめ――――やがて裁判官は、舌打ちとともに目を逸らし、被告は口の端を歪めた。


「……ではこれより、判決に移る。被告人、ロランは最後に何か述べたい事は?」

「はい、裁判官どの。……私の反省を、せめて最後に口にさせてはいただけませんか?」


 鷹羽をあしらった気障キザな帽子を胸に抱き、被告人、吟遊詩人のロランはそう言った。

 刺繍入りのスエードズボンに腿までかかるブーツを長い脚で穿きこなし、鮮やかな緑色のケープを羽織り、高価でないゆえに洒落の利いた装身具をいくつもつけ、緋色に染めたシャツはあちこちに飾り紐を下げた粋な仕立て。

 しかしそれ以上に彼の物腰と着こなしが、隙のない白皙はくせき美形の伊達者を作り上げていた。

 その法廷へ参列した者達はみな、彼の立ち居振る舞いに見とれ、男達は苛立ちながらも目が離せず……それ以上に、耳が離せない。

 恐らく、彼の“得意技”が炸裂するのは間違いない。

 左手を払った彼は一礼を送り、艶のある声を張り上げた。


「伯爵殿、私は猛省しております」


 裁判官の傍らに座る、でっぷりと肥えてシャツのボタンが悲鳴を上げかけている男を見上げた。

 豚にも似た男は鼻を鳴らし、これから起こる事を未だ理解できていない。


「もう一度申します。私は猛省しております。ご令嬢の未熟なる双つの果実を奪ってしまった事をです。卑しき獣にして、害虫なる私めにはいささか分が過ぎました。ですがおひとつ、覚えてください。果実のいと甘き芳香は、虫を寄せ付け種を撒かせるためある事を、ゆめお忘れなく。私めの安い外套には乙女の白粉おしろいがつき、蜜の名残りも沁みつきました。しかしそこはそれ、虫の御役目ゆえご容赦たまわりたく存じ上げます」


 法廷は――――息を呑んだ。

 ある者は凍りつき、ある者は聴き入り、ある者はざわめき、隣席の者に肘鉄を貰う。

 彼はこの状況でなおも……詠うつもりだ、と。


「それはそれとし、私めのこの身体に巻き付く細づた・・・の、強きこと! 身体の骨が残さず悲痛を詠い、思わず命乞いをしましたとも。その抱擁、さながら蛇姫ラミアの王女の如し! 思えばあの薄く小さな舌、燃えるような口づけ! 魂までも吸い尽くされてしまうような熱さといったら――――!」

「退廷させよ!」


 惚けていた裁判官は木槌を振りかざし、乾いた音を響かせて廷吏に命じた。

 顔を真っ赤にさせる裁判官と傍らの伯爵を見据えたロランの眼は悟るように澄み、口元には冷笑がある。

 廷吏に脇を固められる前に彼は素早く帽子をかぶり、手慣れた仕草で直しつつ身を任せた。


 後に残ったのは、彼の詩を全て聴けなかった傍聴人達の怒号。

 残った廷吏ともみ合う蛮声。

 幾度も鳴る木槌、静粛にと叫ぶ裁判官の悲鳴。

 それらの喧騒を楽しむように――――吟遊詩人ロランは場を後にし。


 ――――投獄され、五年の刑を宣告された。



*****


「ふふん、齢二十三で何が乙女だ。未熟な果実? ずいぶんと口世話を含めてやったというのに、私の心遣いが分からないのか。二十三まで嫁にも出さずにカゴの中。ほんの少し飛び方・・・を教えてやった私がなぜ責められるのかね」


 昏い牢獄の中で、彼は悪びれもせずにそうぼやいた。

 罪状は、邸宅への侵入と“夜這い”。


「……まぁ、残念ではあったかな。発表したい詩もあったのだが」


 吟遊詩人ロランの評判は、おもに下層階級に名高い。

 “最低なれども至高の詩人”と評される彼は、その評判に全てが集約される。

 詩と女と自由をこよなく愛し、漂泊の旅を送る流浪の詩人。

 武勲詩鈔、英雄譚、悲劇、滑稽劇、何でも歌う彼だが最も愛し、最も得意で、最も大衆に望まれるのはどれでもない。

 男女の情愛、熱い夜、濃密な肌の重ね合い。

 そうした類の情欲の詩をせがまれると、彼は喜んで歌い上げた。

 “彼の情欲詩を聞けば滾らぬ者なし。その詩句は淫魔から授かりし秘伝”。

 そう口々に誰もが語り、男が聞けば前かがみ、女が聞けばその目は熱っぽく。

 公爵夫人との熱い夜、朴訥な村娘との逢瀬、魔女と交わる月夜、彼の体験しうるような物語だけではなく……花嫁の亡霊を慰める寝物語に古塔の貴婦人との密通など、信じるにはナンセンスな幻想の物語まで歌いこなす。


「さてと、ひとまず眠るかな。全く、ふかふかの寝台とあの柔肌が恋しいな。おや、艶めく六本脚の君。すまないがそこに寝たいんだ。借りてもいいかな?」


 どこでも見かける定番の虫を諭してどかせ、石のベッドに横たわる。

 エンバーミングの作業台にも似た触感は彼の華奢な背を荒く受け止め――没収されず残った帽子を顔にかぶせて寝入ろうとした、その時だ。


「ほう、あの伯爵の娘と寝たのか? やるではないか」

「!?」


声は――――隣の房から聴こえた。


「その声、その言葉遣い、吟遊詩人のロランだろう? 会えて、といっても顔は見えないが――――会えて光栄だ」


 低く落ち着いた、しかし圧迫するものはない男の声だった。

 こんな薄暗い牢獄の中だというのにどこまでも呑気で、伸びやかな怪紳士然とした声は似つかわしくない。

 跳ね起きたロランは声のもと、房の左側の壁に身体を預けて立つ。

 誰も見てなどいないのに……滑稽なほどにキザな仕草で。


「私を知っているのですか? 顔も知らぬ隣人。せめて葡萄酒の一杯でもあれば良いのに」

「知らざる方が、おかしかろう。こんな時、吟遊詩人の声は何とも嬉しい。何をしたのだね? ひとつ君の武勇伝を聴かせてくれまいかね」

「それは構いませんが、お名前を頂戴しても?」

「そうだったな。私の名は……ヴィアルノ、と呼んでくれたまえ。私は君の数多いファンの一人なのだ。握手を求めたいところだが、叶わんかな」


 何とも安心するような声は、むしろロランの警戒心を強めた。

 さながらヒゲでも整えながら言うようではあるが、今ここは、廊下にかけた燭台しか光源のない牢獄だ。

 虫と鼠が這う音ばかり、そこで聴こえる紳士の声はむしろ異音。

 とはいえ、気を紛らわせられるのならば……ロランにとって、やぶさかでもない。


「良いですとも、紳士ムッシューヴィアルノ。……そも私は、かの純潔を弄んだ訳ではないのです。真摯に、紳士的に、そしてほんの少しの下心を以て、彼女の不安を拭い去るべくそうしたのですから」


 彼の罪状は真実だ。

 伯爵の邸宅へ忍び込み、伯爵の一人娘と――――――。

 だがそれは、決して卑しい下心からだけではない。

 幾度か伯爵家に招かれ、詩を捧げるたびに……その目に言い知れぬ不安が宿り、物憂げに揺れているのを見かけたからだ。

 この世界は破滅の只中にある。

 話の通じぬ不倶戴天、問答無用の絶望卿。

 その名は“魔王”と誰もが言う。

 兵士、将軍、魔法使い、貴族、王族、貧農の別なくそれは平等だ。

 平等に――――殺される。

 そんな世界だというのに伯爵の一人娘はなかば幽閉されるように邸宅で過ごし、真実を知りたくともその度にはぐらかされていたと。

 ロランは彼女の肌を盗み、寝物語に世界の真実を聞かせ、そして……不安を拭い去ってやった。


 雷速の竜が空を蝕む毒を切り裂いたと。

 世界のどこかには、聖剣を守るエルフがいると。

 白銀の騎槍の突進が、人馬の怪物を貫き倒したと。

 世界は未だ終わらず、人類の旗は今も魔王の眼前に翻っていると。

 それらの言葉が熱を持ち――――気がつけば夜が明けて、見回りの使用人に見つかり、衛兵を呼ばれて今に至る。

 そんな間抜け男の物語を、ロランは諧謔たっぷりの口調で奏じた。


「ほうほう、中々興味深い。……しかし分からんね。何故そんな事をしたのかね? 女人の不安は取り除くが紳士の務めではあるが」

「さて、それはいかがでしょうね。つけこんだだけかもしれませんよ?」


 無論、それだけではない。

 彼は、ともかく――――他者の悩む顔が嫌でたまらないのだ。

 男も女も老いも若きも、富めるも貧しきも美しきも醜きも、浮かない顔をする者を見ているのに苦痛を感じる。

 それ故、彼は滑稽な口調で自らのしくじり・・・・を語り、人が集まれば夢の夜を朗々とリュートの音色に乗せる。

 歌声のみならずその楽器の腕前も逸品で、リュート、太鼓、笛、奏でられないものはない。

 世界に跋扈する魔を討つ事は、彼にはできない。

 ゴブリンの一体すらも彼は倒せない。

 まして魔王に立ち向かうなど、彼の身体が百万あったとしても敵わない。

 だが――――せめて、人々の不安を忘れさせ、笑わせ、そして滾らせる事ならできると彼は気付いた。

 剣も魔法もなき戦いを、彼は優しき道化として続ける。

 しかし、彼は最近その“ネタ”の枯渇にも悩んでいた。



*****


投獄から、一週間が経つ。

まれに衛兵に握手を求められる以外、彼は単なる罪人として過ごしていた。

その間、隣人と幾度も言葉を交わしていくらか理解を深め合った。

そして――――不自然な事が募る。


「……ヴィアルノ殿。何故そのような事をご存知で?」

「さて、何故かね。私の耳は地獄耳。それという事にでもしておこう」


 彼は……詳しすぎる。

 聞けば、投獄されて二年は経つのだという。

 だというのに、彼はあまりに事情通なのだ。

 世界を取り巻く情勢も、何もかも彼は知っているように思えた。

 一月前に出したばかりの演劇の台本すらも、彼は話題にした。

 そんな事を知る事ができるはずもないのに――――発表したばかりの滑稽詩の評論までも、彼は鋭く切り込んだ。


「……もしやヴィアルノ殿、牢獄破りでも企てておいでかな?」


 帽子の埃を払い落して、ロランは訊ねる。


「はて、何の事やら。なぜそう思ったのかね、ロラン君?」

「事情通の牢名主など、不自然だからですよ。まして面会者も訪れぬというのに……どこから仕入れるのですか?」

「紳士には洒脱しゃだつひげと謎とが欠かせぬのだよ、君」

「謎はともかく、こちらから髭は見えないのですがね」

「それは残念無念。いつしかお目にかけよう、我が自慢の髭を」


 何を訊いても、万事がこうだ。

 どちらが漂泊の吟遊詩人なのか分からぬ調子で、はぐらかされる。

 彼がいったい何者であるのか、まるで情報が増えない。

 質問すれば質問し返される事すらある。

 はぐらかされ様に諦め、すっかりと慣れた石のベッドに身を横たえ、囚人服のほつれを弄ぶ。

 ロランに焦りはない。

 五年の時をここで無碍にせねばならず、その間にも魔王の闇は深まり、広まる。

 だというのに――――その恐怖を忘れられるような歌を広める事もできないのに。


「……ヴィアルノ殿、何かネタは?」

「ネタ……というと?」

「もっと……人々が笑い、憧れ、胸のすくような傑物の物語だ。実在する者でなければ困るのです」

「それこそ、ロラン君の方が詳しいのではないかね?」

「もっと奇抜な者がいい。魔王の前ですらも不遜な態度。哄笑とともに現れ、去る。不敵な快傑の物語を私は歌いたいのです」

「ふむぅ……なるほどなるほど、知らぬ事もないが……はてさて、君こそまさしくそれに値するのではないのか?」

「ご冗談を」

「……それでは、盗賊の物語などいかがかな?」

「盗賊……ですか?」


 世界のどこにでも、いつの時代にもいる輩達。

 世界最古の職業は娼婦と言うが、それは間違いで――――ともすればそれより古いのは“狩人”、そして“盗人”だ。

 人が狩りを覚えた時、その成果をかすめ取る者もまた現れた。

 以来連綿れんめんと続く盗人の系譜は、人々が馬を駆り剣で斬り合い魔法で狙い合い壮麗な城を立てる時代になっても、途絶える事は無い。

 遠い未来、信じられぬような乗り物が登場し、人々が世界の裏手にいる者とたやすく交信できる超魔術を手に入れ、神と話す事すら可能となったとしても……その世界にも“盗人”はいるはずだ。


「確かに悪くはないですね。……ですが、ちっぽけな野盗やダンジョン荒らしなど題材にはできませんよ。そもそも犯罪ではないですか」

「奇遇だな、私も君も犯罪者だぞ?」

「それはそうですが……」

「私は確かに言ったぞ、“盗賊”と。……盗賊ギルドの最高位は何か知っているかね?」

「は? ……それは、マスターでしょう。ギルドマスター」

「ふふん。……だがギルドマスターが盗みに出向くか? その腕前を披露できる場をわざわざ探すと思うかね」

「……では、何者だというのです?」

「それはぜひ、君に解き明かしてもらいたいな。何しろ、時間はまだあるのだ、たっぷりとね」


 それだけ言い残して、怪紳士ヴィアルノは二回だけ石壁を叩いて、声のもとを離した。

 いつからか決まった、彼の就寝の合図だ。

 そうされるともうロランは話し相手が消えて……寝るか、思索を巡らすかしかできない。


(……最高位は、“ギルドマスター”ではない?)


 その謎掛けにも似た言葉を噛み締めて、ロランもまた、眠りについた。



*****


 顔なじみの衛兵達が焦燥し、憔悴しているのに気付いたのはそれから一週間の後だった。

 もともと悪い食事の質は、変わっていない。

 彼らの目の下にはクマが刻まれており、ろくに眠れていないのが薄暗い牢獄でもよく分かる。


「……もし、衛兵どの。一体どうなされたのです?」


 硬いパンと粗末なスープ、そして一杯だけの水を差し入れられた時、訊ねる。

 衛兵は口ごもり、しかし――――最終的にはロランに口を割った。


「……防衛線が、壊滅した。いつここに魔王軍が到達するか分からない」

「えっ……!?」

「軍団の再編が急がれてはいる。再び防衛線を築いているものの……いや、何でも無い。俺が今言った事は忘れろ、いいな」


 衛兵が隣のヴィアルノにも食事を渡し、足早に去る。

 ヴィアルノも何か言うと思っていたが……彼は沈黙した。

 隣の房から聴こえるのは怪紳士の声ではなく、パンを毟る音と、スープを嗜む音だけだ。


「……フム。……早めなければな」


 少しして、食べ終わっただろうヴィアルノのそれだけが――――彼のコメントだった。



*****


 そしてロランは、ある夕刻――――言い知れぬ不安を感じて、昼寝を中断した。

 説明しようもない感覚だ。

 身が粟立ち、不吉な予感が全身を埋め尽くす――――ぞわぞわとする気配。

 それは霊的な感覚だけではない。

 牢獄が……慌ただしい。

 見える廊下の向こうを駆けていく衛兵達へ、声を投げかけても……届かない。


「おい、衛兵どの! 何があった……、おい! 聞こえてないのか!?」


 声は、届かない。

 届かないまま――――彼らは口々に言った。


「魔王だ! 魔王軍が来た!」

「ただちに町民の避難誘導を……! 人手が足りていない!」

「お前達は獄長の護衛を! 早く行け!」


 ロランはその言葉を確かに聴き、意識が遠のきかけた。

 しかし、すぐにそうしている場合ではないと気を取り直し、声を張り上げた。


「おい、待て衛兵! 開けろ! ここを開けていかないか! 私達はどうなる!?」


 しかし――――届かぬまま、無情にも彼らは去った。


「くっ……! 何のつもりなんだ! 私達は見殺しか、くそっ! おい、誰か! 誰かいないか、おい! 誰かっ!!」


 その声を聴く者はいない。

 衛兵達の足音はもう響いていない。

 聞こえるのは、牢獄にいてすら伝わる……外の喧騒。


「くそ、くそっ……! 死ねるか、こんな所で……! こんな……!」


 握り締めた拳に血が滲み、噛み締めた歯が悲鳴を上げた。

 気絶する事すらできないまま、頭の中が最悪の想像で塗り潰される。

 殺される。

 食われる。

 この牢獄で何もできないまま、なぶり殺しにされる。

 そんな未来しか……もうない。

 もう――――歌えない。


「……ふあぁぁぁ。よく寝た。あれ、どうしたかねロラン君? そろそろ夕食のはずだが、獄吏どもの気配がないな」


 気の抜けた欠伸とともに――――隣の房のヴィアルノが、まるで状況を掴めていないように言う。


「ヴィアルノ殿……もう、手遅れなのです。この街へ、魔王軍が押し寄せてくると……」

「フム、そうなのか? では逃げようではないか、ロラン君」

「は? どうやって……」

「こうやってだよ」


 ――――がちゃっ。


「えっ!?」


 錠前の開く音は、確かに聴こえた。

 続いて、軋んだ鉄格子の扉が開く音も。

 やがて、牢の外に姿を見せたのは――――声しか知らぬ、隣人の紳士ヴィアルノだった。


「お目にかかるのはお初かな、ロラン君。吾輩わがはいの姿はどうかね? 予想通りだったかね?」


 消えかけた燭台に照らされているのは、異様な風体だった。

 一人称が変わった事もだが……囚人の身なりではない。

 光を吸い込むコウモリの羽のような漆黒の大外套ロングコートをはためかせ、ベルトで装飾された革ブーツに仕立ての良い上下のオートクチュール。

 黒い口髭は牢屋暮らしと思えぬほど見事に整えられて乱れ一つない。

 その顔は精悍でありながらも底の見えない老獪さも秘め、何を考えているのかまるで掴めぬ壮年期の後半の顔立ち。

 撫でつけた髪は整髪油で撫でつけられているものか、黒々と照っていた。


「どうだね、私のこのヒゲは? かの岩砕将軍がんさいしょうぐんギヨームに引けを取ってはいないだろう?」

「あっ……え? 鍵……鍵、持っているのですか……?」

「吾輩の前に鍵で守る秘密などないのだよ、ロラン君。さ、逃げるぞ。出たらまず君の服を取り返しに行こうではないか」


 白手袋をはめた手が、ロランを幽閉する扉に差し伸ばされる。

 すると……ほんの一瞬で、錠前は開いた。


「何を呆けているのかね? そうしている時間はないと言ったろう、ではいざ行かん! 記念すべき脱獄だ!」


 もう――――理解すらも、追い付かなかった。



*****


 まるで勝手知ったるようにヴィアルノは迷いなく牢獄を歩き回り、残っていた衛兵の目に触れる事無く、ロランの衣類と私物の保管庫へ行きついた。


「ほほう、白吟竜のメダル。何度見ても美しい! ぜひとも欲しいが、それは吟遊詩人の命だ。命は盗むわけにはいかないよ、惜しいな」


 ズボン、ブーツ、シャツにケープ、小さなナイフと指輪にピアス、首飾りといった装身具と……腰につける、“白吟竜のメダル”。

 氷の大陸で歌うドラゴンをモチーフとしたそれは、吟遊詩人の中でも学院を出た名うての者達にだけ与えられるものだ。


「あなたは、いったい……?」

「ふむ、しばらく前の問いかけを覚えているかね? 盗賊ギルドの最高位は何かと言う事だが」

「あれは……もしや、貴方がギルドマスターなのですか?」


 問いかけても、彼はにやりとしただけで終わる。

 ややあって、目を細めて――――名乗る。


「盗賊ギルドの最高位の称号は、マスターではない。――――“怪盗”だよ、ロラン君」



*****


 その称号を人々が認知したのは、ほんの十数年前だ。

 とある貴族へ、挑戦状が叩きつけられた。

 彼の者の保管する黄金の女神像を頂戴する、と……ご丁寧に時間まで添えて。

 当然、貴族は守りを固めるが……衛兵達はことごとく裏をかかれ、予告された時間ぴったりに女神像を盗まれ、痕跡すら掴めなかった。

 女神像は密かに売りさばかれて……更に数週して、奇妙な現象が起きた。

 

 ――――貧民街に、金貨の雨が降った。

 その総量は黄金の女神像の総重量と同じだったという。

 誰ともなく、その大胆不敵にして電光石火の盗人に名を付けた。

 老獪にして痛快、怪しき魅力にあふれた義の盗人。


 ――――――“怪盗”と。



*****


「ま、まさか……あの……事件……?」

「どの? あちこちやっているから覚えてなどいられないよ、ロラン君。でもまぁ、間違いなく君の知るどれかではあろうね」

「何で……こんな所に……?」

「投獄されてしまうと便利なのだよ。何せ警戒されない、もう捕まっているのだから。むろん怪盗としてではなく、ケチなかっぱらいを演じてわざとだがね」

「……目的は?」

「当初は……この街の豪商、バスカー家の至宝、銀蒼のダイヤ“ファントムアイ”だったのだが……いやはや、魔王軍とは予想以上に足が速いね」


 大股で闊歩しつつ、“怪盗”ヴィアルノは悪びれもせず、焦りもせずにそう言った。


「火事場漁りは洒脱でなし。しかし手ぶらで帰るは怪盗の名折れ。さてどうしたものか? それは愚問。“盗”の一字に是非も無し!」

「こ、この状況で? 盗み出すと言うのですか!?」

「うむ! その通りだ!」

「そんなっ……何を考えているのです!? 魔王軍が街に入り込んでいるんですよ!?」

「それは何か問題があるのかね?」


 ヴィアルノの眼は、爛々と――――まるで少年のように輝いていた。

 どうしたものか、とワクワクするような瞳は、この状況にも、彼の年齢にも、ふさわしくない。

 己の存在を表現したい欲求に自由をからめた男の眼。

 ともすれば自分自身と同じなのかもしれない、と吟遊詩人ロランは感じ取り、黙って彼の背を追った。


やがて、牢獄の外門へ差し掛かると空が開けた。

およそ数週間ぶりに見る空は赤く染まり、火の手があちこちで上がっているのは明らかだった。

煙はまるで雲のように上がり、怒号と泣き声、そして――――破壊音が鳴り響いていた。


「さてと、この鍵穴を開くは多少骨だな。でもまぁ、少々待ちたまえロラン君。この吾輩の手にかかれば――――おっと!」


 自由へと繋がる大扉にかけられた鍵穴へ近づきかけたヴィアルノが身をかわす。

 すると、一瞬後に鍵穴から細剣の刀身が突き出され、捻られると、がちゃりと音を立てて解錠された。


「おやおや見たまえロラン君。麗しき通りすがりの盗賊が扉を開けてくれたぞ?」

「ヴィアルノ卿。いったい何をして……その男は?」


 両手持ちの刺突剣、エストックを手にした軽装の少女が扉の外で出迎える。

 フードをかぶり、沈んだ色の短いズボンを細長い褐色の脚で穿きこなし、腰回りにいくつものポーチを連ねた盗賊姿。

 フードの脇からは銀色の髪の房が両側に下がっているが、表情は窺い知れない。


「出迎えご苦労、鍵開け娘ドア・レディ。こちらは名高き吟遊詩人のロラン氏だ。故あって、彼を助けなければならなくてね」

「いらない任務を増やさないでくれ、ヴィアルノ卿。“消失芸人しょうしつげいにんアルファード”と“怪力男かいりきおとこタイロン”はもう屋敷へ向かったぞ」

「たまらぬせっかち者たちめ。君も向かえ、鍵開け娘。吾輩はひとまず彼を脱出させる」

「それなら私も行く。これ以上ムダを拾わされるのはイヤだ。さっさと済ませたい」

「信用が無いなぁ、どう思うねロラン君。やんぬるかな」


 ロランは、彼女に睨みつけられていると気付いてからは気が気でない。

 身の丈に近い刺突剣を手にした少女を前に、気の安らぐ者などいないだろう。

 やや間があって、“鍵開け娘”がエストックを背負うと緊張はようやく解けた。

 フードの奥で光る金色の眼は未だロランに不信を、ヴィアルノには呆れをそれぞれ宿して見つめる。


「さっさと……消えてもらわなきゃならない。足を引っ張るな、優男め」

「つれなくするな、イヴリン。彼には役目があるのだよ、世界のために」

「……ふん、どうでもいい」

「どうか、おひとつお願いいたしますよ」

「まぁいい、ヴィアルノ卿の申し出ならな。黙って歩け」



*****


 その街は、死にゆく。

 いたる所に兵士と逃げ遅れた民間人、逆襲を受けた魔物の亡骸が晒されている。

 すでに悲鳴はない。

 ガレキの下でうめく声らしきものは聞こえても、それははたして人の声か魔物の声か、それすら分からない。


 不思議と、魔物と出くわさない。

 ヴィアルノが立ち止まり制して身を隠せば、出くわすはずだった道をゴブリンの一団が駆けていった。

 路地の幌屋根の下に三人で飛び込んだ直後、ガーゴイルが頭上を飛んで行った。

 ヴィアルノだけではない。

 “鍵開け娘”イヴリンも彼とほぼ同時に何かを知覚し、ロランを引っ張り込んで隠れる。

 地獄を隠れ進むうちに、やがて――――光が差したような錯覚を吟遊詩人は起こした。


「ようやく……城門だ!」


 オーガが闊歩し、ゴブリンが駆け回り、ガーゴイルが飛ぶ失陥の地を這い進み、ようやく一行は開きっぱなしの城門へ到達した。

 既にそこから逃げる者達は全て逃げ終え、監視の目すらない。

 加えて聴こえた馬のいななきが、城門の外へロランを誘うようで――――つい、不注意を犯してしまった。


「ロラン君、落ち着きたまえ……あぁ、いやもう遅いな」

「えっ? う……うわっ!?」


 喜び勇んでロランが物陰から飛び出してしまったと同時に、行く手に巨体のオーガが立ちふさがる。

加えて、三体のゴブリンがつられて飛び出したヴィアルノとイヴリンの背後へ回る。

 前後から挟まれた姿となって……三人は、ここに来てようやく“魔軍”と相対する。


「ふむ、どうやら囲まれたなロラン君。君のせいだぞ?」

「だから、構うなと言ったんだヴィアルノ卿」

「も……申し訳ない!」


 ロランは魔物を間近で見たのは初めてだ。

 生きたオーガの巨体と、血の滴る大牙はこうも恐怖を掻き立てるのだと、初めて知った。

 ゴブリンどもでさえ、すばしっこい殺意と下劣な残虐性を感じずにはいられない。

 彼は――――死んだ、と覚悟した。


「いいかね、鍵開け娘。吾輩はロラン君を守りながら大鬼を討つ。君は後ろの小鬼だ。さっさと済ませて、全てを済ませよう。これ以上の遅刻は許されない。何せ“挑戦状”を送りつけてしまったのだからね」


 ヴィアルノが言うと、ロランを間に挟みながらヴィアルノはオーガへ、イヴリンはエストックを抜きつつ緑色の小鬼へ向く。

いつの間にかヴィアルノの左手にはダガーが握られており、いつからか――――右手にはステッキ。


「人でないなら構うまい。“怪盗”とは血を流させない者だが……構わないだろう。お見せしよう、盗賊ギルドの短剣術!」


 ヴィアルノがオーガへ躍りかかり、イヴリンのエストックが瞬時に閃き、一体のゴブリンの脳天を貫く。

 それが戦いの合図だ。


「当たらんよ、オーガ君。いやそれとも踊りを見せてくれているのか? それは済まない事をした」

「ゥガアアァァァァァッ!」


 オーガの喉が震え、苛立ちを露わにする。

 ヴィアルノの身のこなしは、さながら黒い煙だ。

 めったやたらに振り回す棍棒の全てを擦り抜けるように避け、的確な動きでちまちまとその握り手の肉を削り落としていく。

 ロランがその流麗な動きを目で追えたのは――――背後で戦うイヴリンが、小鬼達に何もさせないからだ。

 振り返ってみれば、更に一体――――体の正中を貫かれて崩れ去るところだ。

 その思わぬ反撃に動きを止めたゴブリンは、次の一撃を避けられないだろう。

 ロランが向き直った直後――――恐らく、その予想は当たり、つぴゅんっ、と肉を貫く音が間抜けに後ろから響いた。


「はっははは。これは良きかな。茶の一杯も欲しくなるな」


 手の指を全て斬り落とされたオーガがとうとう棍棒を取り落とし、後ずさる。

 だというのにヴィアルノの身なりには血の一滴も跳ねず、白手袋も白いままだ。

 そのまま彼は棍棒の上に足を組んで座り、短剣をさながら指揮棒タクトのように振りかざしていた。


「……ヴィアルノ卿、遊ぶなと言っている。もう一度言うが、時間が押しているぞ」

「やれやれ、そうだったな全く。……もう少し遊んでやりたいが、仕方ない」


 不承不承にヴィアルノは立ち上がり、ズボンの尻を払ってから――――わざとらしく左手を見つめた。


「おや、吾輩のダガーはどこにいった? おやおや、君。さっきまで角など生えていたかな? 申し訳ない、顔を覚えるのは不得手でねぇ」


 ロランがオーガを見上げると……今ヴィアルノが持っていたはずのダガーが、その眉間に深々と根元まで突き立っていた。

 いつ投じたものか、まるで分からない。

 オーガ自身にも恐らく、それがいつ投げられたのか分からないだろう。


「アッ……ガ……ッ!」

「おっと失礼、手がすっぽ抜けてしまったようだ。君が恐ろしいあまりに手汗でもかいたかな。さて、君に餞別として差し上げたいが――――申し訳ないがそれはできない、返してくれないかな?」


 ヴィアルノの身体が一瞬ぶれて――――次の瞬間、オーガの血と脳漿にまみれた短剣が手元にあった。

 彼はそれを一目見て顔をしかめ、心底いやそうに懐からハンカチを取り出して拭い、捨てる。


 オーガの倒れる轟音が、“怪盗”の勝利を告げた。



*****


「それでは、元気でなロラン君。喉と手には気を付けるのだぞ」


 ロランが城門外に残っていた馬に乗ると、ヴィアルノはそう別れを告げた。

 離れてイヴリンが面白くなさそうに、苛立たし気にちらちらと視線を送ってきている。


「ヴィアルノ殿、本当に……? これから向かうのですか?」

「うむ。挑戦状は送ってしまった。備えがどうであろうと、吾輩は今宵零時にあの宝石を盗まねばならんのだ」

「……御礼できるものが無いのですが」

「ふむ、構わないのに……いや、それでは甘えて、帽子を頂戴しよう」

「帽子……ですか?」


 言って、ロランは頭の上に乗ったままの羽根帽子に手をやる。

 命との引き換えには、あまりに軽すぎる。


「“怪盗”にはお洒落な帽子が必要なのだよ。そう決まっているのだ、ロラン君」

「……そういうものなのですか? では、こんなものでよければ……どうぞ」

「ありがとう。……これは良い。吾輩はずっとこんな帽子が欲しくてね」


 脱いだ帽子を手渡すと、ヴィアルノはすぐにそれをかぶり、感触を確かめるように位置を直す。

 確かに彼の言うように――――黒の大外套と紳士の身なりに、詩人の羽根帽子は相性がいい。

 まさしく、“怪盗”と呼ぶにふさわしいミステリアスな印象が宿った。


「ではさらばだ、ロラン君。吾輩達は宝石もそうだが……この街に眠る金貨、銀貨、偽造の銅貨の一枚に至るまで取り尽さねばならんのだ。――――あれらは我々人類の金だ。魔王になど、びた一文くれてやる訳にいかないのでね」


 気に入ったのか――――ヴィアルノはしきりに帽子に手をやりながら、ロランに背を向け離れて行った。


「――――吟遊詩人よ、存分に歌いたまえ! 世界の果てまで広めたまえ! 今宵この地に“怪盗”の降り立ちたるを! 金、銀、銅貨を残さずさらい、この地の秘宝を全ていただいてみせたる事を! では、さらばだ! ふはははははははっ――――――!!」


 視線を切ったのは、ほんの刹那。

 それなのに――――“怪盗”は、既にそこにいなかった。

 炎上する都市の中へと――――恐らく身を躍らせて。



*****


 ロランは馬を飛ばし、離れた街へと二昼夜にわたり逃げていた。

 恐らく避難した者達と同じ方向へ向かうと、やがて橋の上に設けられた関所へ到達した。

 疲労困憊した民間人に紛れ馬を引いて通り抜け――――胸をなでおろした瞬間、兵士の一人から声をかけられた。


「……おい、貴様。その身なりは吟遊詩人か? どこから逃げて来た?」


 いかめしい顔の衛兵が、疑念に満ちた声でロランを詰問する。

 あの晩、伯爵家に忍び込んだ事件はもう知られている。

 ロランだと知られれば、再びどこかへ投獄されるだろうか。


「あ、いや……私は見習いで……」

「どこから来たか、と訊いている。答えない場合は拘束し、尋問の対象と――――」


 かいんっ、という快音が兵士の兜を叩いた。

 目の前の男に何かを投げられたのかと誤解したか、更に睨み付けてくるが……ロランはそれを見て、両手をさかんに振って“私ではない”とアピールした。

 直後に再び、硬質の音がいくつか響く。


「何だ――――痛っ!」


 兵士はようやく空を見上げて、瞬間、その目に飛来物が命中し、呻きながら身を折った。

 ロランは、落ちたそれを見る。

 それは――――“銀貨”だった。


「み、見ろ! 空から!」

「か、金! 金だ! 金だーーっ!」


 検問所を埋め尽くすように、全てを失って逃げた避難民へ追い銭を投げるように。

 金貨、銀貨、銅貨が雨のように降り注いでいた。

 その混乱は――――ロランが隙を突いて逃げるのに、充分すぎた。


「あっ、貴様! 止まれ、止ま――――くそ、ジャマだ貴様ら! どけ、どかんかぁ!!」

「金だ! 金が降ってくるぞ!」

「くそったれ、テメーこそ足をどけろ兵士さんよ! そこに金貨があんだよ!」

「拾うな、貴様ら――――これは、何だ……一体!」


 検問所で足止めを食らう避難民を慰めるように、およそ十分に渡り、金の雨は降り続けた。


 そして数日後、後に世界中で歌い継がれる事となる詩歌が誕生した。

 歌い手の名は、吟遊詩人ロラン。

 痛快にして愉快な、実在の男を題材とした詩は後に演劇としても公演される事となる。


 題名は――――“牢獄の大怪盗”。







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