勇者へ繋ぐ世界のどこかで
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「――――“それは遥けき昔。竜と妖精が人とともにあった頃の物語”」
救護所の片隅で、ぼそぼそと一人の負傷兵が呟いた。
風にばたばたとはためく天幕の合間を縫って、その一節は不可解なほどに高らかに同じく横たわる負傷兵達の耳へ届いた。
その語り出しは、この場の誰もが知る寝物語のものだ。
「……よせよ、ハル。そんなもん……おとぎ話さ」
「いや……魔王がいるんだ。半分はもう当たってるじゃないか。誰か……続けろ」
身体も起こせない重傷の男達が、笑い合う。
普段であれば、健勝であれば誰かが怒鳴りつけて止めさせる“寝言”なのに、今はその物語がどこか恋しく思えたからだ。
失った手足、斬られた体、噛みつかれた傷、いまだに疼く毒針の一刺しが――――少しでも和らぐような感覚が、血生臭さと
「――――“世界の終わりの日、それは来たる。暗黒の力もて君臨せる魔族の頂点。その名は、魔王”」
「“そして、魔王の闇が世界を覆い尽くさんとする時――――物語は、始まった”」
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「――――雷鳴轟くは魔王の支城ことごとく!
粗末な舞台の上で、くるくると踊る道化は物語る。
誰もが知る英雄の物語を、軽妙に、そして――――奮い立たせるような勇ましい言葉を交えて飾りながら。
篝火に照らされる難民達の瞳は、淀み、縋るようにして……道化の語りを、疲れ果てながらなおも見つめた。
「遥けき昔の物語。その若者はどこにでもいる変哲なき子供であった! 鶏を追い、作物を刈り取り、石臼にて小麦を挽いており――――夜には星々を眺め、その並びに心を躍らせる若者! おお、女神よ――――まさか、彼こそがかの伝説だというのですか!?」
大げさな語り口調は、道化の漫談に付き物だ。
誰もが飽いて、飽いて、死ぬほどに飽いている物語だからこそ――――道化は跳んで跳ねて身振り手振りも大げさに、声色すら使い分けて語り部を演じていた。
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「――――若者は女神に贈り物を授からん。それなるは、彼方へ轟く雷鳴の魔法。名だたる魔術の匠が研鑽を重ねようともとうとう身に着く事のなかった――――闇を打ち祓う、暗く厚い雲をたちまちに恵みの雨へと変え果たし、自由の蒼穹を我らの目にまばゆく
帽子のない白皙の吟遊詩人は、リュートの音色に乗せて朗々と詠う。
居並ぶ貴婦人たちは彼の美貌と、見事に低く伸びやかな歌声、そして弦楽の調べに心を委ねるのみだった。
宴の間からしばし離れた貴婦人たちは、中庭で涼む吟遊詩人――――ロランの姿を認め、ひとつ詩を披露するようせがんだのだ。
隆々とした体格を持つ武官の男達の世間話は、彼女らに取っては退屈とは言わぬまでも、いささか粗暴に過ぎた。
そんな折に彼女らが見つけたのは……妖しげな魅力を放つ、胡乱な噂の絶えぬ詩人。
彼が詠うのは、陳腐な伝説。
だがそれでも、ロランが語れば聞き惚れるような芸術へと高まる。
夢魔の囁きにも似た魅了の詩となって、貴族の女房達を捉えて離さない。
普段なら、ロランは色目の一つも使って誰と今晩を明かすか物色する不敵さがある。
だが少なくとも、そんな気分にはまだなれない。
いっその事、赤裸々な艶物語を聴かせて赤面させる――――悪趣味な戯れをする気にも。
中庭のくり抜いたような空に、それでも見えている三日月を見ていると――――あのヒゲの“怪盗”を、思い出してしまう。
牢獄の彼と語り合った短い間の邂逅が、思い出せるあの日の
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彼方の森の中で、眠りを守るエルフは己の使命を思い直す。
千年来の旧知となった樹の根元に眠る、最愛にして――――止めなければならなかった“敵”へ、祈りを捧げるようにその目を閉じて。
「――――
聖樹の森を守るべく宿命された、エルフの一族。
人間の感覚にしてさえ短いいくつかの詩、それだけが彼らの使命だ。
「母なる星の叡智を宿し父なる太陽の力を宿す、祝福の刃はいつしか目覚めん」
生涯の中で折れた弓を仕立てた墓標の数は、この地へ差し向けられた“かつての同族”の総数と同じだ。
その数は今や二十を超える。
そして、ひときわ大樹に近い場所に――――彼の想い人は、今はただ安らかに眠る。
「聖剣目覚めし後、選ばれし者の現れる時。
聖樹の森の守り手は、墓標を見つめる。
そこに眠るのは、想い人、暗黒、そして――――ささやかに抱いていた“望み”だ。
「――――この使命の果てに、正しさあれかし。私は……でなければ。そなたのいないこの世界を、愛する事はできないだろう」
そう呟いて、エルフ――――フラウノールは、瞑目した。
涙は、あの日から一滴たりとも零していない。
それを解き放つのは、戒律の通り。
全てが――――生涯をかけた宿命の日々が終わりを告げた日に一度だけ、彼女を。
闇の宿命からとうとう逃れ得なかったダークエルフ、最初にして最後、一瞬きりの恋人であったアエンヴェルを想い、泣くと――――約束を、交わしたから。
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「――――付き従う仲間の数は、
西の王国、宮廷魔術師ベアトリスはひと時の休息がため、星々を数えながらぬるまった茶を啜った。
本来なら、屈強な戦士がそれでも使い果たした体力すら補充せしめる霊草の茶は――――それでも、彼女の一ヶ月あまりの不眠の日々を癒し切る事はできない。
幾度か挟む事ができた月光のもとでの沐浴は、今……また、効き目を失った。
白磁の肌、その目の下には再び
魔王降臨。西の王国が本格的にその暴威を押し留める戦いに乗り出してから、彼女は三時間以上続けて眠った事がない。
「一柱は、放浪の
今はまだ、この西王国の首都には空がある。
暗雲に覆われ、淀んだ空気の下に低級の死霊が跋扈する事は無い。
積み上げられた死体を母胎に、得体のしれない巨躯の魔物が孵化することもない。
それがいつまでも続く者でない事も、彼女には分かっている。
だが、それでも……確信があった。
「……一柱は、魔を修めしうら若き魔法使い。その魔の技は旅の行く手を照らし、阻む者あらばこれを焼き払う。その三柱と、来たりし者こそ――――」
最後の一節を述べる間はない。
部屋に飛びこんできた弟子の一人が、また難問を持ちこんで来たからだ。
「報告します、ベアトリス様! “ベヒモス”が……新たな“ベヒモス”が……現れたと……!」
溜め息とともにカップを置き、付着した紅を指先で拭った。
そして彼女はまた、“魔女”となる。
「…………はぁ。全く。少しぐらい急いでほしいものね」
「は……も、申し訳ありません……!」
「ああ、違う、違うのよ。あなたに言ったのではないの。さぁ、落ち着いて詳しく話しなさい」
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四天の“地”へ贖わせるべく拳を振るう、獅子の英雄。
四天の“水”により水底へ沈んだ国を想い、流浪の旅路に魔軍を攪乱する不敗の幻術士。
四天の“火”を滅殺する日を待ち、己を魔法として連れ出す者を待つ不死鳥。
四天の“風”を封じる天空に浮かぶ檻の中、自らの時と引き換えにそれを封じる隠し姫。
全てを統べる“王”に奪われた国を想う、今は遺志を継ぎ、遺民部隊の隊長として己の意思を取り戻した赤毛の魔法使い。
胸にあるのは、ありきたりの物語だった。
そして、それは――――始まりの場所。
“全ての終わり”の始まり、“
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暖かな春の陽光の下、軽快な撃剣の響きが澄み渡る。
残響は歪みなく、それらを撃ち合わせる動きは熟達した舞台演者の動きにも劣らぬと、誰もが見ずとも分かるだろう。
数合の後、音は止む。
庭木を整える園丁はそちらを見て息を呑み、女中たちもまた同様、緊張を現した。
居たのは、王太子ユーグと、その目付け役にして剣術師範のレナルド。
そして、もう一人。
蓄えた髭に威厳をまとわせる“賢王”その人だった。
「……ああ、そのまま。諸君も仕事に励んでくれたまえ。私を気にする必要はない。邪魔をしてすまないな」
王がそう言うと――――中庭にいた使用人達は、ぎこちなさを残しながら各々の職務に戻った。
「……国王陛下」
「公の場では無いのだ。せめて父上と呼べ。私を王と呼ぶ者は多いが、その名で呼べる権利を持つのはお前だけなのだぞ、ユーグ」
「……では、父上。何を……?」
「何という事も無い。少し……時間が空いたのでな。息子の姿を見に来たのだよ。迷惑だったかな?」
「いえ、そのような……。ですが、珍しい事かと」
精悍な王太子ユーグは、試技の剣を片手に提げ、父親――――この小国の王へ語りかけた。
さして広くはないが、豊かな四季を持つこの国は飢饉に追い立てられた事など無い。
春には暖かく、夏にはギラギラと暑く、秋には実りを迎えて川魚も遡上し、冬はしんしんと降る雪に覆われ静かな時を過ごす。
その恵まれた小国を治める名君を悪く言う者は、この国には誰一人として存在しない。
楽園の如き地は、これまで多くの旅人を迎え入れてきた。
「考えすぎるな、“出来息子”。……レナルド、引き続き頼むぞ。是非――――私にそうしたように、ぶちのめしてやるようにな」
「は、はっ……! これは手厳しい……陛下」
「私も、意外と根に持っているのかも知れんぞ? ……それでは、夕食の時にな、我が息子……ユーグよ」
王が去ると、取り損ねていた休憩時間を取り戻すように、ユーグはその場へ座り込んだ。
レナルドはその有り様を見て苦言を呈するが――――。
「いいじゃないか、レナルド。休むべき時は休めと言っていただろう? ……お前こそ休めよ」
「……王の若き頃に、似て参りましたな」
もはや話してもムダ――――とばかりに、レナルドも剣を下ろして取り出したハンカチで額を拭った。
だんだんと、日が照る時間が長く伸びつつある。
そろそろ春は終わり、夏が来るはずだった。
「――――その刃、光芒として地を照らす。魔の雲に覆われし空を切り裂き、蒼天取り戻し、七色の橋を世界に架ける者なり」
「ム……?」
「……ム、じゃない。レナルド。お前が……私の寝付けぬ夜には聞かせてくれた物語じゃないか。忘れたなんて言うな、怒るぞ?」
すっかりと背の伸びたユーグが今ですら諳んじる事ができた一節は、寝物語。
寝付けぬ夜にはレナルドが、存命だったころには母が聞かせてくれた英雄の物語。
忘れる事などできはしない、ありきたりな――――だからこそ、心の踊る物語だった。
「其は、三人の大いなる仲間とともに世を救う巨刃。暗黒の雲を払い、雨をもたらし、果てなき蒼天を連れてくる救世の英雄。その名は――――“勇者”」
得意げに語るユーグは、もはやその存在を信じてなどいない。
そもそも魔王などというものが荒唐無稽であり、そこからが信じられなかった。
「……正直、いなければいいなと私は思う。魔王も。魔王から世を救う存在も。……どちらも、いなければいい。……罰当たりかな?」
勇者も魔王も存在しない。
ならば、この世界で――――せめて、父譲りの王としてこの地を守って生きたいとユーグは願う。
「…………私もそう願いますぞ、ユーグ王子。さて……次に参りましょう。私の突きを三本いなす事ができましたら、本日は終わりといたしましょう」
「おいおい、レナルド。……私に“寝るな”と言いたいならそう言え」
「手加減は致しませんぞ。……
号令に合わせ、ユーグは構える。
レナルドは既に構えており、いつ仕掛けて来ようとおかしくなかった。
『――――
声が重なり、剣を合わせる音が再び中庭へ残響する。
熱っぽくユーグを見つめる、奉公に入ったばかりのメイド、エジェリー・ブランシャールの恋する視線は止まない。
二人の剣さばきを見つめるのは衛兵と園丁。
誰もが、“勇者”の物語を知っていた。
世界の、誰もが。
この世界の誰しもが憧れ、夢に描いた。
選ばれし者として旅立ち、四天のことごとくを討ち、仲間と出会い――――“魔王”を討ち果たす事を。
*****
そして世界は、戦う。
勇者の居ない世界で、一時をつなぐために。
勇者の現れるまでの時を、少しでももたせるために。
犠牲の報われるべき時を――――必ず到来する事を、信じて、力の全てを懸けて。
そして。
――――――終末を引き裂く雷鳴は、世界へ響き渡った。
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