獅子の足跡:雷音は流星の果てに

*****


 踏み締めたその地は――――不毛の大地だった。

 空を覆うは分厚い暗黒の雲、大地は乾いた荒れ野となり、かつては見渡す限りに茂っていたはずの命の緑色は影も形もない。


 その死に蝕まれた大地へ、一人の男がゆっくりと膝を折り、その土を掬い取り、分厚く大きなたなごころに載せて確かめる。

 からびた土はもはや砂に近く、その中に一塊を保っている部分があっても手の上でかすかな震えに負けて風化していった。

 

 死んでいた。

 土が、大地そのものが……死んで、いるのだ。


「これが、キサマの地か。――――リオ」


 男は手の上から土を払い落すと、伸び上がるように立った。

 脛から下が露わになったその足は、金色こんじきの短い体毛に覆われた膝下でさえ女の胴体のような太さを見せつけ、内に秘めた筋肉と、想像すらつかぬ太さの骨が大地をひと繋ぎに踏み締めているのが分かる。

 その爪先には、尖った爪が――――大地の無念を代弁するように、不毛の地を掻いている。


 襤褸切ぼろきれのようなマントはときおり乾いた風に翻り、千尋せんじんの谷のごとく深く割れた腹筋を映す。

 土を掬い取り確かめていた手は巨岩のように節くれ立ち、幾度も打ち当てたであろう拳頭けんとうは異様な変形を見せ、それ自体が打撃を補助する武具のように盛り上がっていた。

 手と言うにはバカバカしいほどのそれを持つ前腕も、また尋常の鍛え方ではない。

 山脈のように隆起した血管、肉体であるとすら認識できないほどの、関節がどこであるかすら見つけられない筋肉の束。

 鎧そのものだった。


 何よりも男を特徴づけていたのは、その、頭だ。

 それはヒトのものではなく、黒色のを茂らせた獣。

 金色の瞳は獰猛な殺気をみなぎらせ、鼻先は五体の充実を示すように濡れて光り、ゆがめた口は一噛みで人間の首を噛み千切れるほどに大きく、唸り声に似た咳払いをするたびに小ぶりのナイフのような犬歯が覗いた。


 ――――その顔は、“獅子”のものだ。


 獅子面の獣人を多くの者が呼ぶ名は、“猫”。

 不倒の英雄として、今はこの世界に名を馳せる。

 彼が今立つ、この地は自らに縁もゆかりもない。


 ただ――――ほんの一時だけ語らった者の故郷だった。

 そしてここには、その者の命を奪い、その故郷を踏みにじる悪鬼がいる。

 視線の先には、離れていて尚も禍々しくそびえる巨塔があった。


 やがて、歩き出そうとする彼の目の前に数体の巨影が現れる。

 数種の獣の特徴を持つ魔物、キメラ。

 蛇身の女怪、ラミア。

 老人の頭を持つ魔獣マンティコア。美女の頭部、翼と猫科猛獣の体を持つスフィンクス。

 

「……邪魔だ」


 拳を固める音は――――魔獣達の耳に、あまりにも大きく轟いた。



*****


 “猫”は旅を続けた。

 獣人の隠れ里となっていた島の殺戮の夜を生き延びたのは、わずかに彼を含めた四人のみ。

 大陸出身の狐の獣人、イスナ。

 逃げ延びた王家の嫡子の護衛を務める大熊の戦士、メドヴェジア。


 そして夜明けとともに、その魂を星の彼方へ還らせた獣人の少年――――リオ。

 彼の死に際、赤く潤んだ目と血の塊を吹く唇から伝えられた願いは――――“猫”の五体へ深く刻み込まれた。


 ――――“ベヒモス討伐作戦”。

 西の王国によって計画された、“二体目のベヒモス”を、で死に至らしめるための総力戦。

 傷を負うたび頑強さを増し再生する不死の巨獣を削り切り、殺すための一回限りの決戦だった。

“一体目のベヒモス”はその生態の解明以前に、交戦を重ね過ぎたゆえ――――宮廷魔術師ベアトリスが解き明かした頃には、もはや手の付けようのない頑強さを手に入れていた。

 それ故、目くらましの幻術や時空魔法を使い、追い返して先延ばしにするしかなくなってしまった。


 だが――――二体目が現れた時は、迅速だった。

 ハーフリングの英雄、“冒険王”による体内への突入、破壊。

 毒蛇の獣人傭兵、その毒による弱体化。

 宮廷魔術師考案の魔導兵器“アルケイン・プラズマトーチ”の連続放射。


 そこに“猫”は参戦し、随伴する敵の高位魔族のことごとくを粉砕し――――巨獣の断末摩を大地に轟かせるための立役者となった。

 かくして巨獣は二体から、元通り“一体”に。

 勝利に湧く大物喰いジャイアントキリングの戦場から、“猫”は姿を消していた。

 夕日に照らし出される、砲弾が直撃したかのように爆散した無数の魔物の死骸だけがそこに彼がいた事を物語る。


 数々の戦場で打ちたてた名は、元から響き渡っていた“猫”の勇名を更に煽り立てる事となった。

 時には、人軍の劣勢な戦場にフラリと現れては魔物を蹴散らし、人類の援軍として飛び入る。

 その咆哮は共に並び戦う者には無限の闘志を湧き起こし、向かう敵には、低級な魔物ですら震撼しんかんしその足を止める恐怖を巻き起こした。


 そして、また――――生き残った兵士達の称賛と誰何すいかに耳も貸さず、巨躯の獣人は去るのだ。

 これまでもそうであったように。


 己の居場所を求め続ける戦いの連鎖が、“猫”の生涯だった。

 鎧も、剣も、魔法も、更には火ですら彼には不要だった。

 暗闇の中でも輝きを失わない金色の瞳は、新月の夜ですら明るく映し出すから。

 どんな鎧ですら鈍らに見える鍛え抜かれた鋼の五体。

 砲弾の威力と矢の速度を併せ持つかのような破壊の拳。

 折れる事無き不倒の信念がそれを率いる時、そこには“英雄”が宿った。



*****


 マンティコアの頭部が“猫”の踵落としで割られ、地に破片が転がる。

 魔獣の頭部のみならずその直下にあった地盤すら、勢い余って割り砕いた。


「キサマらはこの地で、何をした。この地に……何をしたのだ」


 キメラを構成する山羊と獅子、蛇の頭は全て破壊され、心臓も強烈な打撃によって破壊されていた。

 グリフィンも肉片と化して羽根を撒き散らし、ラミアはその身体を猫の膂力で引き裂かれ、爪は無力に根元から全て折れており、潰れた顔面は女の半身にすら容赦のない重量の打撃を物語る。


 八つ裂きにされた魔物の死骸だけが、いつも彼の跡に残る。

 暴威を見せつけられた一帯には、しばらくの間は魔物は近寄らない。

 そこは決して近寄ってはいけない何者かの縄張りであると、知性の低さ故に、本能で直感できるからだ。

 いつしか――――不可解にして破壊的なまでの死を遂げた魔物の痕跡、暴によって織りなされた本能の結界を人々はこう呼び畏怖し、そして崇敬した。


 ――――“獅子の足跡”。


 彼は、その場にいずとも魔物を恐れさせる。

 その進撃を、遅らせる。

“足跡”こそが、恐怖を振り撒く城壁となって魔軍へ立ちはだかっていた。


 やがて、最後の一体……スフィンクスの首を捻り殺し、その骸を不毛の大地へ投げ落として獅子はさらに行く。

 乾いた大地は、もはや何も実らせないだろう。魔物達の血がしみ込めば、更にその毒で大地は死にゆく。

 空には毒々しく分厚い、眺めるだけで肺腑が濁り腐るような暗雲がたれ込めていた。

 それらに挟まれた空気もまた、どれだけ深く吸い込んでもむしろ息苦しさが募りゆく。


 この地は。

 リオの一族が治めていた獣人の王国は……もはや、魔の領域と成り果てていた。

 “猫”の拳が、再び硬く握られる。

 もはや――――人類の兵士十数人と引き換える魔獣などは、彼の爪の一かけすら削り取れない。

 “ベヒモス”の脚の骨すら、粉砕してみせたのだから。


 踏み締める土は、猫がかつて百度に渡って踏んだ闘技場の土に比べてすら痩せていた。

 もしも大地が亡骸へ変わるとしたら。その遺灰を敷き詰める事ができたとするのなら、このように渇き衰えた病人の肌にも似た土になるのだろう。


 死に際に喘がれる息のような頼りない風はよどみ、“猫”のたてがみの一本を揺らす力すらも失っていた。

 彼には、どうしてか分かっていた。

 この地はかつて、暖かく日が照らし、風もまた暖かく、強く、そして優しく吹いていたのだ、と。

 草すら生さぬ地は、花と樹と草が茂る恵みの大地であったのだと。

 喜びと自由の満ち満ちた、楽園であったのだ、と。


 そして、彼は塔へと辿りつく。

 赤黒い巨石で組み立てられた、天へと繋がるかのような魔の塔へ。

 近づけば近づくほどその荘厳にすら感じる威は増して、外周ですら数千人の観客を入れ、百対百の戦いすら催せるほどの“闘技場”に匹敵していた。

 首の限りに仰いでようやく見えたのは、雲にも届く高さの天頂。

 そこから――――塔の全体に走る継ぎ目から、濃紫の光が脈動するように漏れだしていた。


 “塔”が、何がゆえに産み出されたものなのか“猫”には知る由もない。

 それを知るがために、彼はここへやって来た。

 扉を守る門番は、いない。

 ここまでも乗り込んで来る者など、想定してはいなかったのだろう。


 “勇者”のいない世界。“勇者”のいない時代だから。

 この塔の持ち主は、警戒すべき相手を持たなかった故にだ。


*****


 そして――――“猫”は、あまりにも長すぎる階段を越えて至る。

 獣人の王国の跡地を見下ろす不遜ふそんいただきへ。

 降臨した世界の捕食者、その四柱のひとつ。

 “星喰ほしばみ”の御座へ爪をかけて。


 人間の少年のような矮躯は、“塔”の頂上に佇んでいた。

 その身を覆う、岩石の鎧はさながら分厚い岩盤をさらに押し固めて、マグマのまま鋳造したような獰猛な堅固さを見せつけるように。

 頭の上半分を覆う、いくつもの宝石が複眼のように埋め込まれた鉱石の仮面。

 流れ来る覇気は、ただそこに在るだけで大気を凍てつかせた。


 光輝の複眼が“猫”を捉えて唇が尖り、怪訝な表情となる。

 黄金の双眸が“星喰”を捉えて――――閉じられた口の中で牙が唸り、かすかに歪む。

 捕食者ほしょくしゃ捕食獣ほしょくじゅうが、獣の国の終焉した地に根差す塔の頂で遂に向かい合った。


「……誰だい、君は。僕の“接収の塔”で何をしている?」

「キサマが答えるんだな。キサマはここで何をしている。……何をした。肺腑が叩き潰されぬうちに答えるがいい」


 捕食獣は、眼前のソレを恐れもしない。

 一国を滅ぼす最上位の魔族。

 魔王の“四天王”の一角の居城にて正対しながらも――――たぎる闘志と、今にも襲い掛からんばかりの覇気を押し留めながら。

 だが、捕食者もまた――――恐れを、抱かない。

 籠の中の子ネズミが剥く牙を恐れぬのと同じように。

 無邪気にして悪趣味な笑いを口もとに湛えたまま、宝石の爪を持つ手を顎先に沿えた。


「……思い出したよ。“やり残し”を片付けた時に居たケダモノだね? あの時は他にも……汚くて臭いケダモノが数匹いたと思うけど、生き残ったか。なら大人しく森の中で虫けらでも食って隠れ住んでいれば――――っ!?」


 塔をふちどる柱が――――半ばから“猫”に殴り砕かれ、その飛礫が“星喰”を襲う。

 だが、そのことごとくは防御すら取らぬ立ち姿の体に打ち当たると砕けていく。

 巨石に砂利をぶつけても、動じない。その理と同じかのように。


「――――能書きが長い。キサマはこの地に何をした?」

「僕はただ、帰ってきただけさ」


 砕けた柱の破片を払い落し、さしたる衝撃も受けていないように“星喰”は語る。


「……懐かしく帰って来たら、害獣が群れを成していた。だから僕はそれを駆除した、単純だろう? 一匹でも残したら、また増える。だから隅々までやらなきゃ駆除は意味がないんだ」

「ここはキサマの地では無い」

「ああ、所詮君たちでは分からないさ。何せ――――この僕にさえ、どれほど昔だったか分からないのだから」

「……回りくどい」


 本来なら――――すでに“猫”はその拳を振るっていた。

 ほんの一時でも気を許した者がいて、そして無慈悲に命を刈り取られ、星へと還っていった。そうされた理由を、せめて確かめる事。それこそがリオへの鎮魂であり、慰めに代わるのではないかとも思えたからだった。


「僕は……かつてこの星、この地を支配していた原初の巨人族タイタンの唯一の生き残りだ」


 ――――そう、は答えた。


「僕達は、強大だった。ただ地に足をつけ立っているだけで無敵の膂力を持ち、地を伝って万里の彼方へ現れ、叫べば天変地異さえ引き起こせた。人間など――――文字通り、本当に文字通り……虫にしか見えなかったよ。でもね。僕は神に挑戦して敗北した。霜の巨人、火柱の巨人、岩盤の巨人……皆、死んでしまった。空の彼方から落ちてきた雷撃は……僕達の無敵の巨体を容易く貫き、絶命させた。わずかに数人の生き残りは、この星から切り離された。……魔界に封印されたんだよ! 僕達は!」


 言葉に、初めて熱が籠もる。

 道理の通らぬ我儘をそれでも通そうと押し切る幼子のような痛々しさ、ただしそれを放つのは四天王の一角。

 “猫”はそれを憮然と聞き、黙ったまま続きを待つ。


「“魔王”にとっては侵攻。君たちにとっては侵略。だが、僕には違う。この星に増えた、醜く臭く、脆弱なイキモノを駆除する。僕は、取り戻すために帰ってきた! ……この星は、僕のモノだったんだ。こんなにも小さく萎んだカラダでは、ダメだ。……僕はこの地のマナを接収し、あの時の力を取り戻す。あと少しなんだ。“ベヒモス”すら一踏みに殺す、あの力が――――あと少しで取り戻せる。この島が枯れ尽くす、輝かしい日だ!」


 一時の沈黙の後――――“猫”は、溜め息とともに、組んでいた腕を下ろした。


「なるほど、実に――――くだらん話だ」

「……何だって?」

「キサマは“星”という言葉を好むようだな」


 熱っぽく語る“星喰”の口からは、幾度もその言葉が漏れた。

 世界を、世界に息づく者達を、この“巨人”は見ていない。

 魔物を放ち、巨獣を放ち、そこに棲む全てを殺し尽した後は――――きっと醜く口を歪め、踏み荒らされた世界を見て満足げに笑うのだろう。

 巨魔の足跡にこびりつく人獣の肉片をすくい取って。血で染まった大地を無垢な雪原のように踏み締めて。“自らの領土”をいつの間にか掠め取っていた、小さな命達を殺し尽せたと――――わらうのだろう。


「君は……何のためにココへ来たというんだい、醜いケダモノめ」

「そう……獣だ。獣が――――背を向けて逃げたキサマを追わぬとでも思うかッ!」


 小さな獅子の末裔は、星へと還った。

 かつてこの地の空を飾っていた、星々の並びへと魂は還ったのだと、“猫”は初めて願いを持った。

 そして――――決してこの“捕食者”を彼と同じ高みへは行かせぬと、同時に誓った。

 “猫”の尊大な語調は形を潜める。

 そこにあるのは、ただひとつの純粋な――――怒りの咆哮だった。


「キサマも星になれ。この星の底深そこふかくで永劫に潰れて眠れ――――!」


 一陣の凄風せいふうとともに、獅子は踏み込む。

 その距離は二十歩ほどもあったというのに、獅子が刻んだのはたったの三歩。

 膨れ上がった右拳が痩せた空気を裂き――――真っ直ぐに、“星喰”の小さな頭部を打ち砕かんと放たれた。

 その拳は、城門ですらもたわませる無銘にして無敵の豪拳。

 対して、繰り出されるのはの掌底打。


 その瞬間は――――星々の衝突にも似た轟音とともに衝撃の風圧を生み、先ごろ“猫”が打ち砕いた列柱の瓦礫を砂利のように吹き飛ばした。

 拳と掌で繋がり合った両者はしばし動かず、押し合うように、もしくは引き合うように拮抗し――――“猫”は牙を剥き出し、“星喰”が無表情に唇を引き結ぶ。


「っ……、中々重いパンチじゃないか。でも……僕ほどじゃあない、ね!」


 渾身の正拳を受け止めた“星喰”が、空いていた右手を軽く握り締めて手打ちのジャブを突き上げるように放つ。

 腰の入らない、肩から先しか使わぬ打撃が“猫”の鍛え上げられた岩盤のごとき腹筋に触れる――――直後。


「ぐッ、ぅ……!!」


 目方にして三倍はある“猫”の巨体がに折れ曲がり、唾液と胃液の混合物を撒き散らして中空に浮き上がった!

 小さな拳は深々と腹筋にめり込み、その内にある臓腑を叩きのめす、重い水袋を打つような不快な水音が響く。

 

「――――死ねよ」


 続けて、解き放たれた左腕が閃くと――――浮いたままの“猫”の首筋へ叩きつけられる手刀。

 それは、たてがみに受け止められてなおも威力は殺されずに猫の脊椎を軋ませ、床を舐めさせられて転がってしまう。


「ガハッ……! ……アアァァァッ!」


 口から漏れる血の泡を強引に打ち切り、未だ揺れる脳髄を誤魔化して――――起き上がり様、その足を刈り取るべく“猫”の地擦りの足払いが閃く、が――――。


「……その程度かい?」


 “星喰”は、微動だにしない。

 神殿の柱が風雨にさらされてなお威容を誇る、その様子にも似て――――“猫”の下段は、無力に止められていた。

 防御も何もなしに棒立ちの脛への直撃、並みの相手であれば……両脚をへし折り、時には切断する程の威力を誇る。

 それなのに、クリーンヒットしていながらにして――――ノーダメージ。

 虚しい激突音が暗黒の空に木霊し、塔の頂を滑り落ちて下界へ届く。


「クッ!」


 頭部に埋まる水晶の一つが光を放つ。

 瞬間、全身が総毛立つ悪寒を覚えて“猫”が遠く飛び退くと――――そこには無数の鍾乳石しょうにゅうせきの槍が生え、“星喰”の身に迫る全てを貫いていた。


「驚かないでくれよ。魔法ぐらい使うさ、それは」


 続けて、岩槍の合間から覗かせた左手の爪――――紅玉の爪が煌めく。

 ただそれだけ、詠唱もなしに虚空に小屋程の岩塊が発生し、遠く間合いを取り膝をつく“猫”を挽き潰さんと肉薄した。

 が――――取った行動は防御でも、回避でもない。いつものように……迎撃の拳を、彼は放つ。


「ガアァァァァッ!」


 唸りとともに放たれた右拳。

 先ほどは容易く止められた右拳を迫りくる巨岩に向けて再び撃ち出し、くうとの摩擦に火の気を連想する匂いが生じ――――その拳は、あっさりと巨岩を砕いた。


 しかし――――“星喰”を囲んでいた無数の岩槍が、さながらいなごの群生の如く飛翔し、巨岩を砕いた“猫”を貫くべく殺到する。


 腕を引くと同時に溜めておいた左拳を放ち、次いで右。

 ――――大地の魔法による岩槍の連射を迎え撃つのは、単なる拳の連打。

 それらは――――目にも止まらぬ速さでぶつかり合い、砕けた岩がことごとく細石さざれいしとなるまで続く。


 “猫”の旅は、闘技場を出た時に始まった。

 物心ついた時には親も兄妹も友もなく、いたのは“支配者”と“奴隷仲間”だけだった。


 ――――――岩槍、全て打ち落とす。地を蹴り、再び肉薄。


 やがて農場で成長していくうち、粗末な食事と汚れた水、極まれに配られる干し肉のかけらを齧り、地虫を掘り当てて空腹を埋めて従事するうち、“猫”の肉体は頑強になっていった。

 それに目を付けた都市の奴隷商人が目を付け、農場主に多額の金を支払い、拳奴として買われていった。

 闘技場は、百勝を成し遂げた者には思いのままの褒章を授け、奴隷であれば即座に自由を与える誓約を立てていた。

 しかしそこは…………処刑場、だった。


 ――――――左拳、右拳、続けて左の足刀そくとう二連、全て直撃、有効打ならず。


 罪人を戦わせ、それを見物する処刑場。

 獣人は無条件で罪人と同じ扱いを受け、同じく処刑に等しい条件下の闘技を強いられる。

 配られる武具は全て軋み、錆び、刃こぼれをせめて直す事すら許されない。具足の留め金は緩み、装甲は破れ、顔を隠す兜は支給されず。粗末さゆえ、身に着けるだけで風化し崩れるものさえあった。


 ――――――反撃、双掌打。刹那に“星喰”の両腕が閃き、打撃は交差し互いを撃ち合う。


 その地で“猫”は、一対多の戦いを生き残る事、九十九戦。

 無数の傷が刻まれ、手当てする事も許されずに生き延び、夜毎に獄舎の格子から星空の欠片を眺めた。


 ――――――渾身の左拳、顔面を捉える。直後、“星喰”から反撃の連打。転倒。追い打ちの連撃、連撃、連撃、巨岩召喚、赤く染まった視界が埋まる。

 ――――――迎撃の双拳、巨岩粉砕。立ち上がるも脚に感覚なく、左目の視界、消失。


 そして、“猫”は最後の百勝を初めて苦戦する。

 己の巨躯ですら見上げるほどの堂々たる、巨象の獣人との打ち合い。

 それを――――“猫”は制した。

 闘技場の、初の王者チャンピオンとなり、世界へと舞い戻り、遮るものない空を仰いだ日を彼はまだ覚えていた。


「…………まだ立つのか? そろそろ楽に死ね、ケダモノめ。臭い血で僕の塔をこれ以上汚してくれるなよ」


 今、“猫”の右拳は折れ砕けて骨を露わにし、左の上腕は皮膚が張り裂けて断ち切れた筋線維が皮膚の裂け目から、べろりと剥げ落ちている。

 千切れた血管は“猫”の体表のあちこちに青黒い腫れを生じ、潰れて二度と戻らぬ左目は、涙にも似た液体を血とともに流れ落とす。

 猛然と揃っていた牙のうち、三本までが砕けていた。

 黄金の体毛は自らの血で赤く染まり、黒毛のたてがみは乾いた血で更に黒く濡れる。


 “四天王”の力を味わい――――光を失いかけ、“猫”は、とうとう片膝をついた。


「……俺、は…………何者、だったのだ…………?」


 ぽつりと呟いた一言を、“星喰”は拾わない。

 ただ……段々と近づいて行く床へ、“猫”は斃れてゆく。


 その不可思議なほどに生ぬるい、血流にも似た石塔の床へと。

 呆れ、嘲笑する“星喰”の声だけが今も響く。

 瀕死の“猫”へ慈悲の一撃をくれる事すらなく、背を向けて去っていった。

 挑戦者の“健闘”へも、“死”へも敬意を払う事無く、四天王は背を見せる。


 その時――――だった。


 眼下に集わせていたはずの魔獣達が、騒ぎ立てる。

 やがて金属音、炸裂音、いくつもの咆哮が折り重なって響き、獣人の国の跡地に立つ巨塔はかすかに震えた。


「今度は……何なんだ!?」


 “星喰”が覗き込んだ地上は――――戦場へと変貌していた。


*****


「クッ……! 止んでもーた! ヤバないか、“猫”はんはどうなっとんねん!?」


 率いるのは、狐の獣人の魔法使い、イスナ。

 彼女に続くのは、あらゆる種の獣人達。

 “猫”に憧れ、その一助となるべく集った義勇兵達だった。

 そして――――恐らくは自らの故郷ルーツでもある地を奪い返すべく、“猫”の伝説とイスナの呼びかけに呼応し集った。


 その中には、人語を解せぬ唸り声でしか交われない者達までもがいる。

 だがそれでも、彼らの心は一つだ。

 故郷と言う言葉を知らずとも――――――それが、命を賭して取り返すべきモノだと分かっていた。


 イスナの氷刃が塔までの道を切り拓き、氷の矢を目に受けたキメラが怯み、直後――――大熊の獣人メドヴェジアの戦斧が首を叩き落とす。


「グゥゥルアアァァァァァッ!!」


 咆哮の元へ狙いを定めたマンティコアの脇腹が炸裂し、臓腑を垂れ下がらせながら吹き飛ばされる。

 その“槍”を放ったイヌの獣人は――――二本目の投槍ジャベリンを構え、油断なく牙を剥きつつマンティコアを威嚇し釘付けにする。


「本当に、彼はここにいるんだね!?」

「ああ、間違いないわ! あの塔のてっぺんにいるハズなんや! 急がんと……!」


 イスナはメドヴェジアとともに旅をした。

 目的はただ一つ。

 “猫”と誓い合ったこの日の為。

 この日――――この島で、獣人の王国のあった地で、共に再び戦うため。

 獣の血を持つ者達を集め、メドヴェジアとともに落ち合う事を。


「……んで、レト……はん。ええのん? アンタ、忙しかったんちゃう」


 獣人レトは、カビの如く浸食する魔の森を抑え込むべく戦っていた。

 だが、ここで――――この地で戦いがあると聞いて、参戦せずにはいられなかった。

 エルフの同志、ファナリエルの協力により有効な戦術を考案し、終わりなき迎撃作戦は有利に運んでいた。

 折よくイスナと出会い、何より……かつての友、“猫”の力になれると聞いて、ここへやって来たのだ。


「どちらかと言えば、良くはないさ。でもね……僕は。“トモダチ”の危機を見逃した事なんかないんだ。そして、絶対見捨てない。僕は。僕は――――“トモダチ”のためなら、世界の果てだって!」

「……あ、アカン。惚れた。……今、惚れたわ。キュンてした」

「そりゃどうも!」


 やがて塔を目指す激戦の中、獣人達は示し合わせたように吼えた。

 猫が、犬が、狐が、熊が、鳥が、兎が、イタチが、虎が、象が、牛が。

 ――――――あの、闘技場の“百勝”の日を知らぬ者までが、なぞるように。



*****


「……! 惨めなケダモノどもめ、何のつもりで……! 仕方ない、僕が」


 振り返り、“星喰”は硬直し――――岩塊の仮面に埋まる水晶の光が、一瞬失われた。

 そこに、立っていたのは――――。


「――――キサマ、には……譲れぬ、ものが……あるか……」

「な、に……!? 君、まさか……そんな!」


 獣は、幾度でも立ち上がる。

 熟練の狩人は言う。

 獣を獣たらしめるものは、命でも、首でも、心臓でも無く――――“血”だと。

 たとえ倒れたとしても仕留めた獣からは決して目を離してはいけない。

 矢をつがえて待ち、動くと動かざるとに関わらず、最後の一矢を放てと。

 さもなくば――――怒りに血をたぎらせた獣の、最期の牙を喉に喰らうと。


 獣はたとえ命尽きようと、血の一滴でも残っていれば立ち上がる。

 命を見送る事を怠った報いは、即ち。


「俺には、無い。俺は……うつろだ。ならば……戦う」


 慈悲の一撃を怠った報いは――――“死”だ。


「世界が、俺を……“最強”と名付けるまでだ!」


 “猫”の砕けた右拳が軋み、筋肉も骨も砕けて裂けたはずの拳が固められる。

 拳は、“星喰”の腹を撃ち抜くアッパーの軌道。

 開放骨折を起こした大腿骨を皮膚から飛び出させながらそれでも“猫”は踏み込み、渾身の拳打を撃ち放った!


「無力……な゛っ……ぐ、ぶぅぅぅああぁぁぁおぇぇぇぇっ!!」


 “星喰”の体は……少年の矮躯に閉じ込めていながら、巨人の質量を持つ体が

 こみ上げる胃液の感触を、彼はその生で初めて味わう。

 

 息は詰まり、鈍い痛みが鳩尾を起点に駆け抜けて脳髄を痺れさせ、五体を動かす事すらできずにこみ上げてくる鈍痛のまま、喉を胃酸が焼く。


 浮いた“星喰”のガラ空きの顔面へ、更に追撃。

 筋線維が断ち切れ、動くはずのなかった左拳の逆突きが“星喰”の顔面を撃ち抜き、水晶の複眼を持つ岩盤の仮面を粉々に打ち砕き――――その余波が、とうとう露わになった蒼白の美形を容赦なく抜けた。


「ぶ、ふっ……!」

「ガルアァァァァァァッ――――!!」


 更に、折れた足で踏み込んで――――左拳の勢いを更に増し、塔の真下へ向け、真っ逆さまに殴り飛ばす。その様は、さながら――――“隕石”の落下にも似ていた。

 塔の下を覗いていた“星喰”は、その渾身の、命を浴びせるような拳打を受け、床の存在を失い、真っ逆さまに墜ちる。

 無論――――この高さからの転落では、“四天王”は殺せない。


「キサマは言ったな。地に足をつける限りは無敵だと。なら――――」


 “猫”は、それを追ってためらわず飛び降りた。

 目も眩むような高さをものともせずに、再び右の拳を、折れ砕けた骨を更に砕くように握り締めて。

 左手は―空中で“星喰”の細い首を握り締め、爪を食い込ませた。


「ガッ……! き……オマエ、が……僕に! 原初の巨人タイタンに歯が立つと――――!!」

「――――――捕まえたぞ、哀れな小動物」


 もつれて落ちる捕食者と捕食獣。

 咆哮に天を仰いだ獣人達は、確かに見る。

 天上の悪神を追い落す滅亡の獣が、その喉首に食らいつき――――神殺しの如き御業を成し遂げる、その光景に彼らは涙すら浮かべた。


 主の死を悟るように、塔の上――――天を覆っていたはずの分厚い暗雲に晴れ間が覗く。

 同時に、彼方から響く雷鳴の音色を“星喰”は確かに聴いた。


「キサマも――――星に、還るがいい。二度と仰げぬ――――地の底、深くで」


 小さな巨人が見たのは、雲間から覗く、獅子の姿を写した星の並びと、そこから降る無尽の流星。

 ――――――牙を剥き出し迫る、百獣ひゃくじゅう拳王けんおう


「ひっ……!」


 流星はその地へ落ちた。


 ――――――大地を震撼させる轟音とともに。

 ――――――鉄拳は、“星喰”の頭を打ち砕いていた。


 やがて――――“猫”は、立ち上がる。

 地に深くめり込む敗者を見下ろし、段々と晴れていく雲を仰ぎ、満点の星空に誰かの姿を探すように仰いで。


「ぎ、貴様……! 貴様……なん、か……に……僕、が……原初の……巨人、が……」


 そして“星喰”は、頭を薄く潰れさせながらも、仰いだままの姿で宙に浮いた。

 身体に走った無数の亀裂から青白い光が漏出し、霊魂ウィスプにも似た一塊の光を続々と吐き出す。


「い、やだ……嫌だ……! 僕は、まだ……! 勇者ですら、ない……ケダモノ……などに……!」


 ほとんど下顎だけが残る頭部は、末期の悔いを並べ立てる。

 その度に口腔からも光の塊が飛び交い、枯れ果てた大地を取り戻し傲然と立つ獅子をまばゆく照らした。


「アァアァァァァァァァァ――――――――ッ!!!」


 光が走り、不毛の大地を駆け巡り、やがて光の粒子のみを残し、“星喰”の体は跡形もなく消滅してしまった。

 “四天王”の一角の最期を――――獣人達は、その目で確かに見た。



*****


 “猫”は、動かない。

 最後にして最強の敵を見送り、その骸のあった場所を見下ろしたまま――――微動だにしなかった。


 もはや、彼の魂は去ってしまったのが――――明白だった。


 その時、“星喰”の体から放出された光の玉が、次々と大地へ吸い込まれ、消えていく。

 数秒して――――青白く縁どられた命の光とともに、草木が、まるで失われた時を取り戻すかのように生え茂り、一面の草原へと変わっていく。


 草原を駆け抜ける光の波は蒼銀に煌めき、光の泡に覆われた木々が再び、立ち上がってきた。

 奪われた時間を取り戻すように、牢を出た囚人が思いきり“背のび”をするように――――。


 命を吸い尽くされて乾いたこの大地へ、再び――――瑞々しい緑が広がっていく。

 芽吹いた花は一瞬で開き、今もなお流星を走らせる空を仰ぎ、胸を張るように咲き乱れていった。

 真夜中にも関わらず、透き通る水色の羽を持つ蝶が飛び交う。

 この世界を、この地を取り戻した一人の獣を称えるように、その周りを。


 “猫”を囲み、仰ぐように生える――――彼のたてがみにも似てはいるが黄色い花。

 人はそれを――――蒲公英ダンディリオンと呼ぶ。


 足元を埋め尽くす蒲公英の中。

 “猫”は、失われた命を一瞬だけ取り戻し――――うわごとのように長く、吼えた。

 轟雷にも似た、万里に届く咆哮を。

 雄々しく佇んだまま、ズタズタに裂けて砕けたかいなを下げて――――遠吠えの姿で、天頂に輝く“獅子の星図”を睨み。



 “王”は、眠りについた。



*****


 一人の獣人が――――燦々と照りつける、陽炎立つ街道を悠然と歩く。

 午後に入ったばかりの日光は刺すように眩しく、巨体の獣人――――たてがみを持つ不可思議な“猫”を容赦なく、しかして優しく照らした。

 目を細め、道の先を遠目に見れば宿場が見えた。

 恐らくは、そこで宿を取る事になる。


「――――こんにちは。旅のお方でしょうか? ……どちらまで?」


 ふと、唐突に――――その背高ゆえ目に入らぬ眼下から声がかけられた。

 前だけを見て進んでいたから……その声の主がいつから合流していたのか、彼には分からない。

 視線を下げると、そこには男と同じ尾と耳を持つ、年若い獣人の少年がいた。

 あどけない年頃ながらもその顔は精悍にして慈しみを湛え、その内に眠る意思は恐らく高潔そのものに違いなかった。

 腰に佩いた黄金の柄を持つ剣は、抜かれた事がないかのように磨き抜かれている。

 少年は、憧憬を孕んだ眼差しで枝のようなものを差し出しながら巨躯の猫を見上げていた。


「……これは?」

「ボクの国の名産です。……サトウキビ。齧った事あります? 甘いですよ」

「さてな。……そして何のつもりだ、キサマ」

「いえ。……お礼したかったんです、受け取ってください。それと……せめて、あそこまで一緒に歩いてはくれないでしょうか?」

「……何故、こんなところにいた?」

「もう少しだけ、ここにいたかったんですよ。だって……この道はボクの故郷に、そっくりだったから。早く行かなきゃ、とは分かっていたんですよ?」

「……望郷、か。俺には……無かった言葉だ」


 巨体の“猫”は、瞑目し、溜め息をつくとサトウキビの枝を受け取り、歯で扱くように噛み締め、内からにじみ出る甘い蜜を舐め取り、飲み下す。

 歩きどおし。歩き続け、歩き続け、ひたすら歩き続けて疲れ果てた肉体に優しく沁み込んでいくような――――充足感だった。


「――――まぁ、好きにしろ。俺は、好きにしたつもりだ。それがどうあれ……俺の生は、俺の選んだ結果だ。…………あそこに、行けば良いのか?」

「はい。……もし、よろしければ……道すがら、あなたのお話しを聞かせてはいただけないでしょうか? 話す時間は……もっと、欲しかったんです」

「フン。……話は得意じゃない。キサマが引き出せ。まだまだ……かかるようだからな、あそこまで着くには」

「はい!」


 照りつける陽射しの中、段々と強まり、視界が光の中に薄れゆく旅路を、二人の獣人は、並び立ち歩いて行った。

 初めて、“猫”は――――安らぎ、優し気な目を並び歩む者へ向けた。


「――――――リオ。…………行くぞ」

「――――――はい、“猫”殿。参りましょうか」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る