あの雷鳴が聴こえるか


*****


 波間に浮かぶ触腕しょくわんの塊が、ゆっくりと沈んでいった。

 その持ち主、大蛸の海魔かいまクラーケンは軍船の自爆により醜悪な姿を爆砕され、付近の軍船の帆と甲板へ、肉片と青紫色の体液が降り注いだ。

 その内の一隻、やや時代遅れの、大きさに比して砲甲板もたったの二列、沈みゆく軍船に比べ足も遅い古びた軍船にも例外ではない

 三本ある帆柱のうち、メインマストとミズンマストはもがれ折れ、残るフォアマストは引き裂けていた。

 船体には巨大な爪の生えた触手が突き刺さり、船首の女神像は無惨に首が折れている。


「キンドレッド号、轟沈! ゲイザー号も長くはたない様子……いえ、船長! たった今、撤退の号令が出ました!」

「……副官。残りの水兵を連れて脱出しろ」

「船長……!?」


 老年に差し掛かり、それでも迫力を微塵も失わない船長は顔に付着したクラーケンの体液を軍服の袖で拭いながらそう告げた。

 すぐ近くの副官は、その言葉を確かに受け止めたが――――訊き返さずにはいられなかった。


 波間にはいくつも船の残骸、投げ出された兵士が今も木片にしがみついている。

 足元を泳ぐ怪魚の魔物に怯えながら、味方の撃ち鳴らす大砲の轟音の合間に助けを求めて。

 小砲艦の乗員は追いすがる小型の魔物を斬り払いながら、時折水上に姿を見せる魔物の“一部”へささやかな嫌がらせの砲撃を続けた。


 魔物の死骸で海はさらに狭まり、流れ出る体液は赤潮のように、蒼かったはずの海面を塗り替える。

 その中であえぐ水面の兵士達は――――さながら、地獄の釜で煮られる者達だった。


「これまでだナ。……もう一度言う、お前は生き残りを連れて脱出しろ。俺はこいつと一緒にいるよ。退役しそこなった老兵同士。せめて囮になりながら語り明かすさ」

「船長……何を! 今なら、ローグスピアー号が近くにいます! 曳航えいこうを求めて――――」

「ダメだ。こんな時代遅れの図体のデカい年寄り船、重荷になる。コイツだって、あのの足なんて引っ張りたくなかろうよ。どのみち、横っ腹に喰らってる。コイツはもう寿命さ。……お役御免の標的船じゃなくて、軍船として終えられたんだ。花道ぐらい飾らせてやれよ、バードマン副船長」


 回頭して、船団は次々と撤退していく。

 六割もの損耗は――――“全滅”に相当する。

 しかし海から押し寄せる魔物の群れは、今はようやく切れ間に達した程度だ。

 これから先、何百、何千が現れるかは分からなかった。

 副船長はしばし床へ目を伏せ――――やがて、白手袋を閃光のように振りあげ、敬礼を送った。


「……では我々は、少し後に……必ずついてゆきます」

「それでいい、忠勇なる副官ともよ。まぁ、ゆっくり来い、焦るな。……元気でな」


 そして、副船長以下、生き残りの水兵は脱出艇に分乗し、手近な僚船に曳航されて凪いだ海を走っていく。

 

 撤退する船団が小さくなった頃――――満身創痍の老船の左右に高い水柱が立った。

 帆柱の天辺までも濡らす水しぶきの後に見えたのは、左右にそれぞれそそり立つ、油でぬめるような無数の鋭い牙の生えた、巨船にも似た“口”だった。

 やがてそれは左右からゆっくりと迫り、閉じられて行く。


「はぁ……疲れちまったな」


 立ち上がる事もなく、慌てる事も無く、船長はせめて恰好を付けるようにサーベルを抜き、空を仰ぎ溜め息をつく。

 そして、顎門あぎとは無慈悲に閉じられた。

 王立海軍を支え、魔王の現れたあの日に退不沈の軍船アルゴナイト号はその船体を小枝のように真っ二つに折られ……水底へと消えていった。



*****


 しとしとと長く、そして細く降り続く雨の中、頑強な体格を持つ大男がその“墓地”へやってきた。

 精巧な細工を彫り込まれた分厚い甲冑を着込んだ様は巨岩のような威容を振り撒き、つるりと剃り上げた禿頭からは彼の熱に触れた雨粒が陽炎になり、熊のように鋭く大きな眼は、一切ぶれる事無く前だけを見ていた。

 何より特徴的なのは――――剛直な三日月のように反り返って生える赤毛の口髭くちひげ

 魁偉かいいな容貌と髭を見れば、その男が誰であるのかすぐに分かる。

 大陸の人間であれば、必ずだ。


 脇を固める従者の姿は無く、彼は、たった一人でここにやってきていた。

 ブーツの踏み締める湿った土の感触にも眉ひとつ動かさず、ぬかるみにハマろうとも意に介さず、髭の男は真っ直ぐに、墓地の中でもひときわ目立つ中心を目指し、上質のブーツやズボンが汚れるのも構わず歩いて行き――――やがて、止まる。

 そこには、この墓地を守る一族の……背の曲がった老年の男が、黄昏るようにしてその墓碑を見つめていた。

 やがて自然と墓守は髭の男に気付き、顔を向けると微かに目を見開き、一礼を送る。

 墓守は、例外ではなく……髭の男の正体に、すぐに気付いたからだ。


「御老人、どうかおやめなされぃ! こちらこそ邪魔をして申し訳ないッ!」


 墓地の静寂を振り飛ばすような――――戦場に響かせるような大声が墓碑を震えさせ、墓守の老人を身震いさせる。


「それにしても――――随分と、だな!」

「へぇ。……随分と、狭くなっちまいやしたわい」


 丘一面に並ぶ、無数の墓石。

 それらはほとんどが、この最近に建立されたものだ。

 ほとんどが――――いつ終わるとも知れぬ戦いに散って行った、勇敢な者達のものだ。


「……みんな、逝ってしまいました。“不死身のヘルゲン”、“光輪剣こうりんけんのマルコ”、“月天げってんのエルミナ”。……名だたる英雄達が、まるでウソのようでさ」

「ううむ、全く! 懐かしいものであるなぁ、マルコ! おお、光輪剣のマルコ! あの剣豪が生きていてくれれば共に戦い、その妙剣みょうけんを頼もしく思えたろうにな! 今でもあの一騎打ちは感慨深いぞ! 安らかに眠れい、強敵ともよ!」


 そう言って、髭の男は左の鎖骨を鎧ごしに撫でた。

 そこには、かつての一騎討ちで追った傷が今も遺る。

 二人の男の目の前、その碑銘には数々の英雄を弔う言葉が刻まれていた。


 ――――不死身のヘルゲン、しばしいこう。その身体は史上最も多くの傷を受け、最も多くの傷を塞ぎ、最も多くの戦場に立ち、最も魔軍の前に長くとどまった。


 ――――心優しき施しの剣豪、光輪剣のマルコ。今は光芒の刃を抱いて眠る。


 ――――慈しみ深き癒し手、月天のエルミナ、今は月にて我らを見守らん。


 ――――三叉槍の名手、海神わだつみのレガロイアス。亡骸はここにあらず、七つの海にて夢を見る。


 ――――時の大魔導、ルー・クロニス。彼は今も巨獣の脚にすがりつき離さず、戦いは続く。


 その全員が、それぞれ異国の英雄であった。

 彼らは皆手を取り合い、魔王へ立ち向かい――――そして、還らなかった。

 葬られている英霊たちのほとんどはその遺体さえ、遺品さえも回収できなかった。

 ここはただ、彼らの名と慰めの碑文だけが刻まれた殿堂でしかない。


「……ねぇ、将軍。あたしには、わかんねぇ事があるんです」

「ほほう!? 何かね、御老人! この私で良ければ何でもお答えいたそう!」


 髭の男の肺活量に押されながら、墓守の老人は、捨てられた犬のような眼差しで英雄達の“名”を目で追った。

 さして強くもない雨なのに、ぐっしょりと濡れた帽子から水滴が垂れ落ちるのは……彼がこうしていた時間の長さを語る。


「どうして、なんです。この世界に名だたる英雄が、総当たりで挑んでるってぇのに……どうして、人間あたしたちはまだ魔王に怯えているんですか。まだ力が足りないってぇんですか。……ここに名前だけ刻まれてる連中だけじゃないでしょう。あたしにも、貴方にも、国王様でさえ知らない所で戦って死んだ奴らだっていたでしょう。……なのに、どうして……どうしてあたしらは、まだ“魔王”にビクビクしてなきゃならないんですか……! いったい、誰なら勝てるってんですか? コイツに……終わりが、来るってんですかい、本当に」


 墓守の老人のたどたどしい、怨み言とも泣き言ともつかぬ言葉を髭の男は聞き終える。

 そして、即答。


「うむ。……わからん!」

「えっ」

「分からんが、御老人。ひとつ確かな事がこの私にさえ言えるぞ!」

「そ、そいつは……?」

「勝てるかどうかは分からんが――――我々はこの瞬間に至るまで、負けてなどいないという事! この世界は未だ滅びておらん! つまりは、勝てずとも負けぬ事ならできるのだよ! あのにっくき魔王めとてな! 後は心の勝負よな! 折れたら負けよ!」


 魔王降臨から、二年にも及ぶ。

 その日々の中で人類は果てしなく続く戦いに疲れ、士気を挫かれていた。

 かつてはこの髭の男のように気を吐く将もいたが、死ぬか、挫けるかで塞ぎ込み――――弾けるような覇気は薄れていった。

 文字通りの闇雲やみくもにあがき戦う日々の中で、胸に生じた疑問が離れなかった故に。


 勝ち目もなく、しかし負ける事など受け入れられない抵抗の戦い。

 ある者は疲れ果て、ある者は挫け、ある者は戦場から離れた。


 ――――何のために、戦っている?

 ――――無駄な抵抗なんじゃ、ないのか?


 その問いが頭から離れなくなってしまった時の事だ。


 だが――――“髭の男”は、違う。


「……貴方の如き男が、今はもう少なくなってしまいました。……“岩砕将軍”ギヨーム」


*****


 豪放磊落ごうほうらいらく容貌魁偉ようぼうかいい、気風も良く部下に慕われ、王の信頼厚く、民草からも絶大な人気を集める英雄の典型、それがヒゲの“岩砕将軍”ギヨームだった。

 先陣を切る堂々たる剛直なヒゲは後ろからさえ見えて、後に続く騎兵達に勇気を分け与え、手綱を握る手も、騎槍を握る手も、その膂力りょりょくまでが伝播でんぱしたように力を増すのだ。


 対して、敵の先陣にそのヒゲを見た敵軍はざわめき、浮足立ち、並みの将では抑えられないほどに動揺し戦意を失う。

 人とは思えぬほどの巨躯の男が分厚い鎧を身に着け、並外れた巨馬へ鎧を着せ、重厚長大そのものの大戦斧を軽々と振り回して突撃してくるのだから。


 彼の存在感が増すのは、とりわけ窮地の味方への援軍の場合だった。

 そのヒゲは、血を流し疲れ果ててボヤけた眼にすら、離れていても映る。

 駆けてくる彼の姿を認め、持ち前の大声量で名乗るのを聞けば――――それだけで味方の兵士達は、傷の痛みも疲れも忘れ、立ち上がる闘志を取り戻せた。


 そして何より心優しく、平時にあっては貴族平民の分け隔てなく接して、赤子を抱いた女に“将軍のように強い子になれるよう抱いてやってほしい”と願われれば彼は快く応えた。


 “岩砕将軍”ギヨームは、英雄だった。

 大陸に名を轟かせる無双の豪傑にして紳士、心優しき英雄にして忠勇を誇る将軍。


 だが――――――“勇者”では、ない。



*****


 彼が墓参を経て向かったのは――――終局の戦場、だった。

 もはや、大陸の西を守る城塞都市を抜かれてしまえば、もはや王都は目前だった。

 時空の大魔導が“ベヒモス”の動きをほぼ停止に近いほどに停滞させ食い止めても、取り巻く魔軍はその巨獣を除いてもなお無尽だったからだ。

 押し返し、魔軍に奪われた都市を取り返しても――――復興が進む前に、再武装が進んだころには再び魔の軍勢が、強大さを増して再び進撃してくる。

 魔軍に奪われた都市の骸達を埋葬する事でやっとの時もある。

 早晩、再び魔物達が襲ってきて――――彼らを弔っていた補助兵も、少年に近い従騎士も、時には派遣されていた司祭達や僧侶団までもが迎撃に出向かねばならぬ事も珍しくない。


 祈る事さえ許されない、“地獄”の戦場。

 その荒廃しきった取り戻して間もない城塞に作られた、乾いた血の匂いがこびりつく本陣へ“岩砕将軍”は到着した。

 忙しく動き回る者達は、目を引くヒゲの大男にも目もくれず、半壊した建物、石壁しか残らぬような民家の成れの果てで武具を管理している。

 魔術薬を調合する魔術士達の目には疲労も色濃く、隈の中に落ち窪んだ眼は彼らの瞳の本来の色さえ窺い知らせない。

 奇跡的に原形を残していた石工ギルドの集会所には本部として西王国の掲旗が立てられ、その回りの建物にも様々な国々の旗が乱立する。


 “絶対防御の悪魔の旗”は、北方王国。

 “無地の青色、蒼穹の御旗”は草原の民シャン=ツァン

 “聖十字”は西の王国の聖騎士団の象徴。

 “炎の戦車の旗”は、もはや魔王に滅ぼされ存在しない、獰猛な公国のものだ。

 “蛇皮の黒旗”はとある傭兵団。

 さらには旗印と呼べるかどうかも怪しい、高い旗竿の先端に食器カトラリが吊り下げられた印までも。


「ふむ……壮観であるな!」


 数々の旗がひしめきあう通りの風景を見て、岩砕将軍は感心、と呼ぶにはあまりに大きな声でそう言う。

 忙しく行き交っていた者達はびくりと身を震わせ、その声の方角を見て――――動きを止めると、ざわめいた。


「ぎ……ギヨーム将軍!? どうしてここに……!」

「まさか、そんな……! 本物なのか? まだ存命だったとは!」

「……西の岩砕将軍か。我らでさえ見上げる巨漢とは……いや、信じられぬものだな」


 皆が驚きを口にする中、ギヨームを後ろから追い抜いた一人の女が、呆れるように語りかけた。


「……うるっせぇな、オッサン。迷子かよ? どこモンだ、アンタ」

「おう、これは失敬、ご婦人! ついついこみ上げてしまってな! 不覚である!」

「フツーに喋れよ……オイ。頭痛ェんだよ」


 その女はパイプを銜え、紫煙を燻らせながら、突き刺さるように荒い言葉を吐く。

 炎のように燃える赤毛は癖が強いながらも手入れが行き届き、無光沢の黒革の装束は彼女の身体のラインを浮き立たせていた。

 挑むような、炎が灯ったように輝く瞳は睨み上げるように臆する事無くギヨームのヒゲを見つめ、その顔は整っていながら、覇気と活力に満ち溢れていた。

 彼女の後ろには、頭の片一方にだけ小さな枝角を生やした同じ装備のヒトに近い獣人が一人と、まだその装備を着こなせていない若い新兵が二人いた。


「我が名はギヨームである。重騎兵連隊を率いて参陣仕った。我が軍の指揮所はどちらであるか?」

「見れば分かるだろ、ヒゲダルマ。……アンタがあの岩砕将軍かい、地獄へようこそ。アタシはジーラ。アンタんトコの遺民構成部隊の隊長を今はやってる」

「うむ、よろしく! ……して、あの“燃える戦車”の旗は? 私の記憶が正しければ……」

「ああ、もうねェアタシの国さ。……もともとアタシらに部隊章なんか無かったし、代わりだよ。隊長特権で好きにやらせてもらってるのさ」


 遠くを見つめるように語る彼女の目は、ほんの少し憂いに沈む。

 奪われた日を、その旗が炎の海に沈んでいった日を、今でも思い起こせるかのように。


「それでは、司令官をあまり待たせる訳に行かぬでな。私はこれにて! ……それと、君」

「あ?」

「……そのパイプ、逸品であるな。睡蓮すいれんの細工が何とも言えず美しい! 時間があれば是非手に取って拝見させていただきたいものだ!」


 褒められた――――と自覚が間に合わない彼女を残し、ギヨームは大股で石工ギルドの集会所、今は連合軍の指揮所へ向かった。


「中隊長! 中隊長! どちらにお出でですか!」

「向こうで伝令と話している!」

「ベアトリス様から届いた説明書きはどこだ!? こいつはいったい何に使う矢なんだ――――!」

「草原の民の斥候が戻ったぞ! シエン千騎将を呼べ!」

「くそ、またあのトカゲども……! くせぇぞ! ジャイアントスパイダーを焼いて食ってやがるな! あれほど先に言えと!」


 混迷するような、飛び交う言葉をギヨームは満足げに聞き流し、歩く。

 生きるため、足掻く。

 見苦しくとも、みっともなくとも、調和がとれていなくとも。

 生きるべく抗う者達の声が、そこには調和がなくとも確かに寄り集まっていたから。


 建物の合間に見える巫女姿のラミア、彼女へ軽い笑顔を浮かべて挨拶する兵士。

 ハーフリングやドワーフ、ハーフエルフの傭兵達が合わぬはずの目線を合わせて話し合う姿。

 全ては。


 全ては――――世界のために、願いを一つにせんがために。



*****


 一週間の後に、その砦より西にある平原にて会戦した。

 傭兵達を加えて西の王国軍二万、北方王国軍一万、――――――草原の民、一万。

 更に周辺国の友軍が合わせて一万足らず。


 布陣を一望する丘の上に立ち、岩砕将軍ギヨームは――――地平の彼方より確かに迫る魔軍の威を感じ取りながら、微塵も気圧けおされる事無く腕を組み、傍らに愛用の戦斧を突き立て、時を待つ。

 やがて……ギヨームは、括目し叫ぶ。


「……今! この地に集うた刃達よ! 我が声を今こそ聞けィ!」


 その声は万里を駆けて轟き、装備の立てる金属音にも数千騎の蹄の音にも殺される事無く、今ここに並ぶ兵士達全ての鼓膜を揺るがした。

 それは……魂すらも。


「“魔王”の降臨から二年。我々は――――戦ってきた! ……二年だ! 多くの者にとっては、ただ気付けば過ぎ去るだけの時間であったはずだ。だが――――この二年は、誰もが何かを失った、この世界の歴史に厳然と記録されるべき暗黒の二年間となった!」


 遡る事二年前、人類、エルフ、ドワーフ、ハーフリング、獣人種、辺境の蛮族に至るまで。

 それぞれがそれぞれに伝え聞かされていた、世界の終末をその目で見た。

 二年で世界の数割が暗黒の領域と化し、生き残る国々の民は明日をも知れぬ絶望の心境で日々を過ごす。


「敵は“魔王”! 誰もが寝物語に聞かされる英雄譚の、打ち果たされるべき魔の首魁の名だ! そしてそれは今やおとぎ話ではなく、今こうしている間にも世界を蝕み、喰らおうとしておる! そして――――“勇者”は、ここにはいない!」


 誰もが伝え聞く、光の御子。

 万里へ轟く雷霆らいていを放ち、その剣は闇を切り裂き、恵みの空をもたらす、伝説の存在の名。

 “魔王”へ対する存在。

 人界を救うべく遣わされる、救世の英雄の称号だった。


 だが――――世界に、未だ“勇者”はいない。

 それでも。


「だが……それでも。それでも――――世界ここには、戦う者達がいる! “勇者”でなくとも、だ!」


 魔王がこの世界へ降臨し、勇者は未だ不在。

 それでも――――戦う者達が、いた。


「もし希望を掻き抱く事に疲れた民草が。もし我々を遠き地で水晶球越しに遠視する魔王めが。我々を……“無駄な抵抗をしている”と。“悪あがきをしている”と言うのであれば。私は、何度でも答えよう。――――――と!」



*****


 遠く後方から聴こえる岩砕将軍の激を受け、先鋒の中隊長となった、あの日の一兵卒は胸の奥に燻る何かが、火へと変じたのを確かに感じ取る。


「……隊長……フリード、先輩…………」


 剣を握り締めて離さぬその手は、あの日涙を拭った小ぎれいな細腕ではない。

 幾度もの戦場を経て鍛えられた――――正真正銘の兵士の拳だった。

 もはや、不甲斐なさに涙する事も無い。

 敗走のあの日の無力は、仲間達を失った砦へ置いてきたから。


「……思い知れ。思い知らせて、やる。今こそ思い知らせてやる! 俺達の……力を!」


 中隊長の叫びに……兵士達は呼応し、盾を振り上げ、叫ぶ。



*****


「……ソリィル。お前も……何かを感じるのか?」


 草原の民の騎兵隊を率いる千騎将、シエンは愛馬の首を撫でて空に目をやる。

 もはや滅多なことでは逸らない古馬は、このところ空を見つめて茫漠と時を過ごす事が増えた。

 しきりに東の空を見つめるソリィルの様子を見て、シエンもまた何かの予兆を感じざるを得なかった。

 草原を脅かすケンタウロス族との熾烈な決戦を制し、今や彼女の部族に勝る馬の駆り手はない。


「今度こそ。今度こそ、この戦いが最後であると……願うよ、友よ。私達は……生きるぞ」


 そして騎英は背負った弓を取り出し、手綱とともに握る。

 最初の一矢――――魔法を付与された、無数の光矢へと変じる矢を筒より探し当てて。



*****


「もう一度、言おう! 魔王の軍勢に対し今ここにいるのは、伝説の勇者では決して無い五万の“大勢”。――――戦い、この二年を繋ぎとめて見せた五万人である! 祖国を焼かれ、小さな故郷を踏み潰され、確かにあったはずの小さな明日の幸せを奪われ、それでも屈しなかったのが諸君である! ――――勝てる望みなど、ない。だがそれでも――――戦ってきたのは、何のためか。答えは、ただ一つ」


 地平線の向こうに黒き軍勢の訪れるのを、五万の“勇者ではない者達”は見た。

 空が煙るように、翼の悪魔達に染め抜かれて行く。

 陸にはベヒモスの姿なくとも、彼らを取り巻き潰すに相応しい大群の魔が地を嘗めるように覆い尽くしていく。

 それでも――――誰一人として、逸らない。

 今も続く岩砕将軍の檄文を、心に薪をくべるように聞き届けていた。


「我らが戦う理由は、ただ一つ。勝てぬとて――――負ける訳には、決してゆかぬからだ! さぁ、剣を取れ。――――案ずる事は無い、諸君! これまであがき戦い続けた我々が今日も世界の命を延ばすだけの事! 総員、剣を取れ! 今日も――――世界を救おうではないか!」


 その日もまた、世界の“一日”の延命をかけた戦いがあった。

 魔王が降臨し、二年に渡り――――世界の人々が、砂漠で、海上で、火山地帯で、極北で、ほんの一分、一秒を長らえるための戦いが繰り広げられてきた。

 その戦いで英雄達は英霊となり、才覚を備えていた者達は凡人から英雄の証を示した。

 そして、また――――英霊となる。



 *****


 平原の戦いの果てに、世界に轟いたのは――――雷鳴だった。

 その霹靂は、小さな村に。


 ――――物語は、始まる。

 ――――小さな村の、小さな青年の出立から。







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