ぼうけんをはじめますか

*****


 西の王国、その首都より少し東に離れた場所に小さな村があった。

 温暖な気候とよく肥えた土に恵まれた、小さな、小さな農村だった。

 そこに住まうのは、ほんの三十人足らず。

 ときおり訪れる商人から聞く話を除いては、この世界を蝕む闇など感じる事のない――――神の加護を受けたかのような穏やかさを今も保つ、牧歌的な小村がある。

 

 夏の盛りを過ぎ、秋を控えた頃に行われるささやかな祝祭へ向けて、その村は段々と活気づいていった。

 今もなお晴れ渡る空へ感謝し、語り合う――――この村唯一の行事へ向けて。



*****


 まだ日も登り切らない早朝、村の中心にある井戸より。

 一番鶏の鳴き声よりも早くに起き、青年は今日も一日の始まりをその水音で告げた。

 

 人も鶏も、草木すらも目覚めてはなく虫の声すらしない村に、やがて朝焼けが投げかけられ、家々があかく照らされていく。

 青年は冷え切った井戸水の冷たささえ楽しむように、思い立ったように桶の中に手を差し入れると――――おもむろにひと掬いした水をとばかりに顔へぶつけた。


「ぶはっ……つめた……!」


 飾り気のない擦り切れたシャツ、毛皮のベスト、草の汁で汚れて色がしみたズボン、継ぎのあてられた、足を包むだけの短靴。

 どこにでもいるような、ささやかな農民の装いだった。

 しかし水滴を滑り落とすその顔は若く精悍で、大きな茶色の瞳に朝日を映し輝き、朝を迎えつつある村を眺める表情は満ち足りたように微笑みを浮かべている。

 飽くほど迎えた田舎の農村の朝を、幾度の夜を越えてなおも愛しく思う――――心優しく、穏やかな牧童そのものだ。


 やがて水を汲み終えて家に帰るべく桶を手に取ろうとした時、彼に遅れて水汲みにやってきた少女の姿を見つけ、声をかけた。


「おはよう、ラナ。……今日はオレが先だったな」

「あ……おはよう。まだ寒いね……何でそんな早く起きられたの?」

「んー……夢見て、目が覚めたんだ。それきり何か、寝れなくてさ。暗いうちに起きちゃったんだ」


 ラナは、青年の隣の家に住む幼馴染おさななじみだ。

 母親のお下がりを仕立て直したチュニックも、スカートもよく似合い、やや癖毛のブルネットが素朴な可愛らしさを醸し出す――――絵画の中に現れるような、純朴な農村の娘だ。

 歳は青年より二つ年上なのに、村民からは「どちらが上か分からない」とも評される事も少なくなかった。


「夢……もしかして、怖かったの?」

「……ちょっと」


 やや怯えるラナへ、青年は夢の内容を……出来る限り彼女にまで怖がらせないよう、しかしぼかしすぎないよう、苦慮しながら伝えていく。


 ここ一年ほどで何度も見るようになった――――分厚く淀んだ暗雲の中をひたすら進む、不吉な夢だった。

 歩いているのか泳いでいるのか、浮いているのか――――自分の体がどこにあるのか、上を向いているのか下を向いているのかさえ掴めはしない、暗黒の雲の中をひたすらたゆたう、恐ろしく不安を掻き立てられる夢。

 その中で耳だけは不思議とよく聞こえ、いくつもの音を、声を拾っていた。


 ある時は戦場を駆ける騎兵の足音、突撃の号令、薙ぎ倒されゆく敵陣の悲鳴。

 ある時は波音と砲声。

 ある時は恋人たちが再会を祝い、喜びあう声。


 様々な音声だけが暗雲の中をたゆたう青年の耳に不思議と溶け込む。

 一概に悪夢とも断ずる事ができない、何を示しているのかも掴めない、奇怪な夢を彼は何度も見ていた。

 そして今日はその夢を見て飛び起きてからというもの、眠気を再び起こす事ができず、ベッドの上でまんじりともせず夜明けをただ待った。

 話をそう結ぶと、夢の風景を想像してしまったラナは腹部を庇うように腕を組み、唇をやや強く引き締めた。


「ごめん……ラナ! 怖がらせたか!?」

「う、ううん……大丈夫。それより……今日のお昼、だけど……」

「昼……?」


 怖がらせてしまった事を謝罪した青年は、急に変えられた話題に戸惑い、そして考え込む。

 ラナが答えるまでの数秒、何とはなしに言わんとする事の尻尾が掴めかけた時――――先んじて、答え合わせがされた。


「お祝いに使う花飾り。材料を集めに行くんだけど……」

「ならオレも行く」

「え?」

「あのな……一人じゃ危ないだろ? オレも行くよ、一緒に。今がどんな時か、分かってるだろ?」

「……うん」


 いかに遠い世界の事に思えても――――この世界で、今起こっている事なのだ。

 魔界より降臨した、災厄の存在。

 いくつもの国々が滅び、いくつもの国々が結び合い戦う、終末の戦いは今こうしている間にも続いている。

 魔物の脅威は、いつどこにでもある。

 ほんの少し前にも近くの村にゴブリンの襲撃があったものの――――偶然訪れていた旅の魔術師が殲滅して事無きを得た。


「うん、ありがとう。……それじゃ、お昼になったら呼びに行くね?」

「ああ、また後で。俺はそろそろ戻る。おじさん達によろしく」


 水を満たした桶を手に来た道を引き返す青年の背に、ラナの視線がずっと注がれていた。

 目はどこか慕情を含み、ほんの少し言葉を交わせた事と、昼からの仕事に同行してもらえる事に喜びを湛え、ゆるんでいた。


 これから朝の静謐で冷たい空気は段々と暖められ、昼には汗ばむほどになるだろう。

 晴天の下、恋する乙女はつたなく井戸の桶をたぐり寄せ、青年と同じように桶を満たしていった。



*****


「それにしても……こんな時にまで、祭りってやるんだね」


 鶏達に餌と水をやり、塩漬け肉とカブのスープを仕上げ、ようやく青年は父母とともに朝の食卓を囲んだ。

 自然と、数日後に迫った祝祭を話題に上らせる事となり、そうぼやくと――――母が答えた。


「あんた、こんな時って言ったけど……二回目だろ? 去年はそんな事言わなかったじゃないのさ」

「そりゃ、あれは“魔王”が現れて一年目だったからさ。そういうもんだと思ってたし……二年も経てば、“魔王”もいなくなると、思ってたんだ」

「……こんな時だから、だろう」


 寡黙な父が、そう言いながらスープにパンを浸してもそもそと口に運ぶ。

 いつも厳めしい顔をして、何を作ってもうまいともまずいとも言わない革職人の父。

 青年にとっては、その背中はいつも広く見えていた。


「それとも何だ。――――“魔王”がどこかにいるからといって、ほんのささやかなにぎやかしも自粛すべきだと?」


 言葉に窮した青年は、重くなった場の空気を誤魔化すようにスープをすすり、肉の欠片を奥歯で噛み締めた。

 変えようとする話題を思い出し、噛み切れぬ肉を飲み下して切り出した。


「そうだ、父さん、母さん。今日の昼、ラナが花飾りの材料を探しに行くって言ってて……」


 話題を変える事はできても、父のジロリとした眼差しは変えられず、鋭く射抜かれてしまう。


「お前も当然ついて行くんだろうな?」

「い、行くって! その事伝えようと思ったんだよ!」

「…………良し」


 それきり、会話はなくなった。

 怒っている訳では無いのに父はいつもこうで――――とにかく、威圧感のせいで会話が弾まない。

 青年と母ばかりか村人にまで偏屈と扱われており、過去の村の祭りでもまるで“はめを外す”という事がなく、むっつりとしたまま麦酒を傾けているだけだった。


 それでも青年は、この口をまともに使わない父を尊敬していた。

 ゴツゴツとした手は、十七歳を迎えたばかりの青年よりも大きく、革細工を仕立てるべく振るう木槌の音はこの狭い家にはよく響くのに……不思議と、眠りを誘うのだ。

 その音で目覚める時もまた、不愉快ではない。

 それは――――父の上げる、“声”そのものだったから。



*****


 花飾りを作るのに必要な花は、村の外れにある林の中でよく見つかる。

 去年は村の大人が三人で探しに行き、慣れぬ農具と薪割りの斧を武器代わりにロバまで牽いて向かった。

 結果、何も起こらず無事に帰ってこられた事から、今年はラナと青年だけが向かう事になった。

 足首まで隠れる林の中を、青年が先導して歩く。

 その道中にもぽつぽつと見つかったお目当ての花は、ラナが持参したかごに摘み取り、放り込んでいった。

 さしあたって何も起こらない道すがら、二人はどちらともなく世間話を始めていた。


「――――ねぇ。本当に……“魔王”って、いるのかな?」

「はぁ? ……この間、王都から布告を持ってきた募兵官ぼへいかんが話してたろ」

「そう、だけど……私、よくわかんないけど……こんなに平和なのに」

「……確かにな。でもな…………じゃあ、会いたいか?」

「え……?」

「“魔王”だよ。会えば信じるしかないだろ? 握手でもしてもらえよ」

「それは……ちょっと、嫌かな」

「誰でも、すごく嫌だと思うぞ。……ラナ。久しぶりに、あそこ行ってみないか?」

「あそこ、って……? あ、もしかしてあの洞窟?」

「そうだよ。もう最後に行ったの五年ぐらい前か? よく遊んだな」


 お目当ての林から少し先に、崖下の洞穴がある。

 さして奥行きもなく、一番奥からでも入り口の光が見える、山賊の隠れ家にも使えないような小さな穴ぐらだった。

 村の大人たちもその存在を知っていて、一度は誰もがそこを“秘密の場所”と信じて探検し――――そして、行き止まりに彫られた代々の村人の“ラクガキ”を見つけてしまい、意気消沈する。

 そんな通過儀礼を施し、子供をガッカリさせる場所だった。


 青年とラナも例外ではなく、そこが“公然の秘密の場所”だった事に落ち込んだものの、家業の手伝いの合間には二人でそこに忍び込み、炉の残り火でラナが焼いた菓子を分け合い、食べながら忍び笑いをした。

 そして、青年は今ふと思い出したのだ。

 五年前、そこに――――何かちょっとした、“宝物”を埋めた事を。


「うん……いいけど……すぐ帰ろうね?」

「分かってるって。ちょっと確認したいものがあるだけだよ」


 ――――そして埋めた事は覚えていても、“宝”の中身を、どうしても今は思い出せなかったのだ。


 洞窟に向けて歩き出す道すがら、ラナがどうしてもとせがむので先に花を集めた。

 赤く燃えるような花弁の百合の花がラナの提げた籠いっぱいに詰め込まれるのを見て取り、勇み足で洞窟へ向かう。

 五年もの間、村で最も若い二人が近づいていない。

 つまり――――誰も、近づいていないのだ。

 変わらず口を開ける洞窟の入り口に、青年は懐かしさを覚えて――――日の高さを一度確認してから、ラナを伴い洞窟へ侵入する。

 五年前とは大きく変わった歩幅は、さして深くもない洞窟の最奥へは容易く辿りつけた。


「……懐かしくないか、ラナ。お前、ここでラクガキしてたな」

「し、してないしてない! 見ないで、お願い、見ないで!!」

「何だ……ラナ。確か、この辺りに……ッ!?」


 五年前の記憶は、踏み込んで少しすると蘇った。

 洞窟の突き当たり近くに、ラナが岩壁に何かを彫っていた事を。

 それは何かの絵に見えた。

 二人の人間が、手を繋ぎ合って歩く姿――――だが、青年の目を引いたのはそこではない。

 それを嘲笑い、塗り潰すように刻まれた、深い爪痕つめあと

 そうしたあどけない記憶を憎むような、生者しょうじゃの願いを拒むような、爪痕だった。

 血すら滲む、幾度も幾度も引っかいたような。


「……え、どうした、の……? って、これ、何!? 何の……!」


 更に、突き当たりに幾つかの“異物”がある。

 錆びついた数本の王国軍の剣と、矢の残骸。

 抜け落ちた槍の穂先と、岩に落ちて乾いた血痕。


「ラナ、出るぞ。早く村に帰ろう。――――早く――――」


 青年が振り返り、洞窟の入り口に向き直ると。

 そこには。


「ウゥヴルルルルルルッ…………!!」


 全身に傷を刻まれた、大まかな人間の姿をしてはいても――――決して、人では無い。

 退化したかのような前肢の鋭い鉤爪、体毛の抜け落ちた獣にも似た様相、骨のかけらのような歯から、泡立った異臭の唾液を滴らせる口もと。

 堕落し退化し、四つ足へと戻った人間に病んだ犬を混ぜたようなフォルムの魔物。

 “グール”が、二体。


「キャァァァァァッ!!」


 絹を裂くような、ラナの悲鳴。

 それを聞くよりも速く青年は落ちていた剣を取り、ラナとグールの間を阻むように立った。


「逃げるぞラナ! 手を離すな!」


 二体の魔物を前にして、青年はラナの手を引いてまっすぐに駆けた。

 その気迫に押されたか、グールは道を空け、二人が洞窟を出るのを見送り――――林の中で、改めて向き直った二人を二方向から追った。


「くっそ……! なんで、こんなトコにいるんだ、魔物が!? ラナ、俺から離れるな!」


 返答はない。ひたすら、かたかたと震えるだけの農村の娘が、今は背後にある。

 その怯えが伝わるから青年は意識を保てて、かろうじて手にした剣も取り落とさずにいられた。

 背を向けて逃げれば、二人とも殺される。

 かといって、初めて見る魔物を――――倒せる気が、しなかった。

 五年の間、この洞窟へ近寄らなかった。

 魔王が現れてから、二年経っていた。

 その事をすっかりと忘れていた事を後悔し、それでも青年は剣を下ろさない。

 もはや、この世界は――――“闇”に支配されつつあるのだと、今、思い知った。


 右手側のグールが、じりじりと距離を詰めてくる。

 左手側のグールはやや慎重なのか、様子を見ているようだ。


「くっ……!」


 どちらも後肢を引きずるような動きをしており、更には動かない左手側のグールははらわたを垂れ下がらせている。

 相応に深手を負っているようだが、それは決して朗報ではない。

 獣は、手負いの時こそ恐ろしいからだ。

 グールの白濁した目とひくつかせる鼻が、ゆっくり、しかし確実に二人の居場所へと近づいてくる。

 半ばで折れた王国軍の剣を手にしたまま、どうにか遮るように構えて距離を保っていた時……背に隠していたままのラナと繋いでいた左手に、生暖かいものが伝う感触を覚えた。

 ほんの一瞬だけグールから目を離し、ちらりと見れば――――赤く、濡れていた。

 しかし、青年には何も痛みは無い。

 だとすれば理由は――――


「ラナ!」


 振り返ってしまった、その時――――隙有り、とばかりに左側のグールが飛びかかり、青年を押し倒した。

 ぶれた視界の端には、血に染まった袖を青ざめながら見つめるラナの姿が一瞬だけ映った。

 絹を裂くような彼女の悲鳴は、もはや、グールを怯ませる事すらできなかった。


「あ、ぐっ!」

「グアァァァァァァッ!」


 目の前でがちがちと打ち鳴らされる、咀嚼など不可能なのではないかとも思える乱杭歯らんぐいばの隙間から、ひどい異臭を伴う唾液が垂れ落ちて青年の顔を穢す。

 背中に走った痛みを堪えながら、必死に剣に手を添えて押し返し、跳ねのけようと試みるが――――それは、叶わない。


「ラナ、逃げろ! オレに構わなくていい! 村から誰か呼んでくるんだ!」

「あ、あ……! そんなの……やだ……!」

「オレなら何とかするから! 早くし……」


 顔を向けた瞬間、青年は三つの事に気付く。

 ラナはもはや樹の幹へ追い詰められ、残り数歩の距離までグールが迫り、彼女の肉をどこから味わおうかと下卑た不要な知性とともに品定めしており――――すとん、とへたり込む彼女へ近づいて行く姿。


 それと――――小柄な熊ほどの体格を持つグールに圧し掛かられているというのに、“力で”対抗、それも……押し返す事ができている事。

 グールの前肢は浮き、爪で青年の腕を引っかいているものの、深く刻まれるはずの爪痕はない。


「え……!?」


 そして――――左手に浮きあがる輝く紋章と、舞い散る青白い火花、耳をつんざく高周波音。

 左手に走るぴりぴりとした刺激は、神経の痺れでは無かった。

 何らかの力の“場”が、左手を取り巻いている事。


 ――――――放ちなさい。


 そう、青年には確かに聞こえた。


 ――――――鳴らすのです。


 優し気でありながら、威厳を満たした女の声だった。


 ――――――名乗るのです。貴方こそが――と。


 右手の剣で押し返したグールの眼前へ、もはや自分のものでないかのように思える左手を突きつける。


 ――――――今こそ、放つのです!


 瞬間、左手が輝きを増して――――轟音とともに稲妻がグールの身体を突き抜け、空中を伝播し、ラナに迫っていたグールをも焼き焦がした。

 空中に走る残光は未だ“帯電”し、泡の弾けるような破裂音を響かせていた。


「……何、が……今……」


 立ち上がり、呆然としたまま雷光をまとい輝く左手を青年は見つめた。

 二体のグールが黒焦げの死体になり白煙を上げているのと、交互に。

 どうにか視線を動かしてラナを見れば、気を失っているようで……かすかに胸が上下しているのを見て、ようやく落ち着けた。

 事情を理解し始めた時、背後から草をかき分ける音がして咄嗟に振り向くと、悲鳴か、それとも轟音かを聞きつけた村人達が手に手に武器を携えて駆けつけていた。

 その中の誰かが――――ぽつり、と呟く。



 ――――――数日後に行われた祭りは、収穫を祝うだけのものではなく、青年を囲んでのものになった。



*****


 焚かれた篝火かがりびは、日が沈んでなおも明るく村を照らした。

 村人達は飲み明かすと決めて、“主役”へ幾度も酔って絡みながら葡萄酒と麦酒を注ぎ合い、笑い合う。

 慶事が二つに増え――――酒量も、倍だ。


 踊り、語らい、飲んだくれる村人達をいとおしげに見つめる青年の目は、覚悟を宿したように静かに輝いていた。

 居心地の悪い“主役席”から離れ、今は村の広場からやや外れた木柵の上に腰かけ、麦酒を少しずつ嘗めるように過ごす。


 椅子代わりにしていた柵が軋むのを感じて隣に目をやると……そこには、“父”がいた。

 どれだけ飲んでも変わらず緩まない険しい顔で、独りたそがれている実の息子に目もくれる事無く、角杯を傾けている。

 何か話を切り出そうかと青年が逡巡した時、ようやく父が口を開いた。


「行くのか?」


 たったそれだけの問いを。

 青年は――――目を閉じ、微笑みながら月光の下で頷いた。


「……そうか」


 一瞥もしていないにも関わらず父は答えを受け取り、飲み干した角杯を地面に置くと、ゆっくりとした足取りで家路に着いた。


 ――――入れ替わり、次にやってきたのは幼馴染だった。


「よう、ラナ。怪我はいいのか?」

「うん。ちょっと引っかかれただけみたいだし……いや、実はまだちょっと痛い……かな、ほんとは」


 青年が隣を指し示すと、ラナは遠慮がちに……しかし、いつもより距離を詰めて木柵に腰掛けた。

 驚いた青年が緊張を誤魔化すように空を仰ぐと、そこには無数の光がある。

 名も無き星も、名高き星も、ひときわ輝く赤色の星も――――流れ落ちる星も。

 いくつもの星々は折り重なり、それを“星座”の姿へ変えて夜空を飾る。


 獅子の姿、竜の姿、不死鳥の姿、大蛇の姿、犬の姿、ラクダの姿。

 槍兵の姿、弓兵の姿、魔術士の姿、道化師の姿、乙女の姿。

 何者も通さぬ大盾の姿、御者を載せた荷馬車の姿、鋭いレイピアの姿、大海を進む帆船の姿、弦楽器リュートの姿、肉切り包丁の姿。


 どの星座にもなれなかった星々も、確かに空に在り、輝いていた。

 目を凝らさなければ見えないような星々も――――闇を照らさんとばかりに、煌めいて。


「ねぇ――――どうしても、行くの? 行かなきゃ、いけないの……?」


 ラナの声は、問いかけの姿をした懇願だった。


「…………オレ、気付いたんだ」


 浮かんでいるだろう涙を見ない事に決めて――――星々を仰ぎながら、青年は答える。


「この村が、平和だったのは……誰かが、戦っていたからなんだ。どこかの、誰か。名も知らない誰かが“魔王”と戦っていたから、なんだよ」


 魔物と出会わずに済んでいたのは。

 この村が今も祭りを催せるのは。

 全て――――どこかの誰かの、“命がけ”があったから、ささやかな平和が保たれていたと。


「だから、さ。今度は――――オレなんだ」


 青年は、そう言って左手を見やる。

 光る紋章は今も、星々の光へ応答するようにほのかに輝いていた。


「約束だ、ラナ。必ず帰ってくる。必ず――――また、会える」

「……本当?」

「ああ。約束だ。絶対に、帰ってくる。だから、明日はオレを見送ってくれ」


 震える肩は、先ほどよりも近くにある。

 ラナの手が、青年の左手に重なり――――ほんの少しの気恥ずかしさから、青年は首にかけられた花輪を空いた手で触れる。

 彼女からの、贈り物を。



*****


 ――――――青年は、父の木槌の音が止んだのを確かめてから、まだ日も上らない夜明け前に、“身支度”を始めた。


 音を立てないよう、ゆっくり、ゆっくりと村の皆から寄せられた路銀を月明りを頼りに数える。

 銀貨が五枚、銅貨が二十枚、小さな宝石が三つと、金の髪留めが一つ。

 それを小袋へ仕舞い込む。


 これまで履いていたものとはまるで違う、重くしっかりとした造りの革のブーツは村の靴職人から贈られた。

 靴底の造りは厚く、爪先も補強してあり――――戦いにすら耐える逸品だった。

 青年は、それにゆっくり足を通すと、ベッドに腰掛けながら軽く足を振った。

 まるで吸い付いたような履き応えは、重さを感じさせないばかりか、どこまでも歩けそうにも感じられた。


 鍛冶職人から贈られた、簡素だが丹念に鍛えられた白銀に輝く長剣。

 あの洞窟で手にしたものとはまるで違う、“力”そのものだ。

 鞘に納め、たすき掛けに背負うと――――自然と、背筋せすじが伸びた。


 村長からは、地図と磁石、そして短剣。

 母からは、護符タリスマン

 全てを身に着け、ゆっくりと――――青年は部屋を出て、未だ履き慣れないブーツの靴音を響かせないよう気を付けながら階段を降りた。


 支度を進める間に空は白んで、ゆっくりと昇る太陽の気配を青年は感じていた。


 数日前に囲んだ食卓、居間には誰もいない。

 父の打ち鳴らす木槌の音も、今はない。

 母の立てるいびきも、確かに立てられていた。

 誰も起こさないまま旅立とうと、決心したからだ。


 軋む扉をゆっくりと押し開けると、あかつきの空が青年を照らし、その眩しさに目を細める。


 そして、再び目を開いた時。

 玄関先、木柵に立てかけられるようにして――――“荷物”があった。


「…………ははっ」


 青年に、その出立の日に初めての笑いがもたらされた。


 肩掛けのカバンをゆっくり開けてみると、革袋に詰めた飲み水、食糧、ランプ、いくつかの薬草が詰められていた。

 その中には、一揃いの真新しい“手袋”も一緒に。


「……お見通しか、オレの考える事なんて」


 手紙の類いはない。

 ただ、息子に贈る旅支度だけが、寡黙な“父”からの言葉だった。


 手袋をはめてみると、ぴったり――――まるで自分の一部であるかのように合う。

 滑り止めまで施されたそれは、決して剣を取り落とす事はないはずだ。


 ずしりと重いカバンを剣の邪魔にならぬよう肩にかけると、青年は更に伸ばされた背筋を馴染ませるように身を揺すり、歩き出す。


「行ってきます。父さん。母さん、ラナ。……皆」


 最後に、村の入り口から――――昇る朝焼けに染まる村の風景を、潤んで揺れる視界に焼きつけるように見つめ、“青年”は、村へひとときの別れを告げる。

 この世界を守り続けた者達から、“受け取る”ための旅路へ向けて。


「行って、きます」


 ――――――“勇者”は、旅立った。











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