騎英再誕

*****


 大陸東方の大草原の夜の闇は深い。

 昼間は青く澄み渡る空と地平線まで広がる緑の大地が覗けても、夜になってしまえばそれらは仕舞われ、淡い月明かりでは暗く沈んだ大草原に行き渡らせる事はできない。

 だが――――灯りは、ある。


 数棟並んだ幕舎ゲルのうち、最も大きな一つの中から、もの寂し気な弦楽の音色が、命の音として草原に漏れだしていた。

 中を覗けば、屈強な体格の壮年の男が、馬頭琴ばとうきんを淀みない弓さばきで奏でていた。

 円形の移動住居の中、身を寄せ合って十名ほどの家族がその音色へ耳を傾け、馬乳酒ばにゅうしゅを過ごしてささやかな一日の終わりを喜び合う。

 その中に、一人だけ――――この家族ではない、客人がいた。


 赤を基調とした上質な絹の装束デールには雲のように絡み合った色鮮やかな紋様が刺繍され、くびれたウエストを強調するように白い帯を引き締めていた。

 前では無く横で合わせるつくりは、馬上で受ける風を素肌に触れさせないためで、高く首の半ばまで覆うえりもまた、同様だ。

 更にその上から細やかな刺繍を施された黒の外衣を袖を通さず羽織り、背筋を正して胡坐を組み、 馬頭琴の音色に聴き入っているその面立ちは――――ともに火を囲む男も、女も、皆が見惚みとれていた。


 まなじり深い鳳眼ほうがんは近寄りがたい鋭さと触れがたい高貴さを合わせ持ち、黒々と輝く瞳は、さながら宝珠のようだ。

 すっと通ったしなやかな鼻筋を持ち、べにをひいた唇は色づきながらも引き結ばれ、緩む様子もなく――――硬く閉じた猛禽もうきんくちばしのようにも見えた。

 炉の灯りを受けて輝く、不思議な青みを帯びた黒髪は艶やかに保たれ、鎖骨につくあたりまで不揃いに伸びる。

 やがて、馬頭琴の音色が止むと――――ふぅっ、と息を吐いて、“彼女”は称賛の言葉を贈った。


「見事、です。久々に……堪能、いたしました」

「いえ、恐縮ですよ。本当なら俺のが名手だったんですがねぇ。……先月、コロリといっちまいやしてねぇ。ぜひ聴いていただきたかったもんで……あなたに」


 “亭主”は傍らに馬頭琴を置くと、緊張を誤魔化すようにぬるまった馬乳酒を口に含み、一息に飲み込む。

 美貌の客人はそれを見て、倣うように自らも目の前の杯から一口、ほとんど唇を開かずに口内に流し入れた。


「それにしても、どうしてこのようなところにおいでで? 千騎将せんきしょう様」

「……その呼び方は、好きじゃ、ない。名前で呼んでくれていい」

「あ……はい、それでは……シエン様。どうして?」

「久々に、旅をしたく、て。大王ハーンの許可は得ている」

「ははぁ……。まぁ、平和な時代ですからねぇ、骨休めにはぴったりだ。どうぞ、むさっ苦しい所ですが……くつろいでくださいや、シエン様」

「うん。……感謝、する」


 彼女は、大陸東方の遊牧民族“シャン=ツァン”の千騎将、シエン。

 冷たく見える風貌を持ち、弓馬に秀でることから“凍傷とうしょうの矢”ともあだ名された。

 だがその実、大王に仕える誰よりも平穏を愛し、戦いを好まない。

 千人を束ねる隊長、“千騎将”の地位は父祖から代々継いだものでしかなく、戦場に出た事――――というより、そもそもシャン=ツァンの今の民は戦場そのものを知らない。


 かつてシャン=ツァンの民族は広大な版図はんとを誇っており、大陸の七割を領土としていた時代があった。

 侵略した国々を属国として手中に収め、隆盛を誇った時代を知る者は、今はもういない。

 全てが思いのままであり、当時の大王は数百人の愛妾あいしょうを持ち、ぜいの限りを尽くしてそれでもなお飽き足らずに喜々として侵略を続け、一時は海すら越えて遠征軍を送り込んだ事も珍しくない。


 だが――――もちろん、長くは続かなかった。

 遠征軍は、全滅した。合わせるように領内の各地で反乱が起き、融和策も取らずに彼らを奴隷として扱い尊厳を取り上げた事の愚かさを知った。

 更には大王は妾に扮した暗殺者の刃を受けてたおれ、混乱のまま彼らの勢いはすっかりとしぼんで、今となってはかつての一割にも満たない領土に追いやられてしまった。

 羊や山羊を連れて草原地帯を季節に合わせて巡り、その土地土地で移動住居を組み立てて過ごす、彼らの思い上がる以前の、穏やかで伝統的な暮らしを甘受する事になって。


「……あなたは……華々しい時代に戻れたら、と思う事が?」

「ん? んー……そう、だなぁ……」


 シエンは、初対面の者にはいつもこの問いをぶつける。

 それは、すでに形骸化した自分の肩書きへの迷いから。


「……俺が思うに。何か。何か……俺たちの遠いおやじどもは、何かを間違えていたのかもしれやせん」

「何か……とは?」

「さぁ、俺には。でも……間違えてなかったのなら、怒られもしなかったでしょう。“いい時代”とやらが終わってしまったのは、そういう事なんじゃあ……ないですかね」


 不思議なことに、シャン=ツァンの民のほとんどが、同じように答える。

 「私たちは何かを間違えていた」「何かを、勘違いしていた」「きっと、誰かに怒られてしまった」と。

 栄光の時代に想いを馳せる事無く。しかし版図を守って次代へ繋ぐ事ができなかった祖先に怨み言をぶつける事も無く。

 正直な子供は除いて、大人たちは……皆、そう答える。


「……そう、だな。ありがとう。私たちは、これで……これでいいんだ。……?」


 シエンは、そう語って杯を傾ける亭主、この家族の長の隣に座る少女の姿を認めた。

 大きな体の父親に隠れるように、ちらちらと向けてくる視線は、何かを言いたそうで。

 何度か父親が促すと――――小さな手の上に、ささやかな宝石をあしらった一房ひとふさの髪飾りを乗せて、おずおずと出てきた。


「……これは?」

「貰ってやってくだせぇ、シエン様」

「え? ……私に?」

「ほら、ちゃんと自分で言わないからだぞ、ノリム。……今日の昼にシエン様と会ってから、ずっと作ってたんでさ。なぁ?」


 うつむき加減のまま、十歳にもなっていないだろう少女ノリムは、髪飾りを差し出したまま固まっていた。

 シエンは困惑した表情を浮かべ、幾度も二人の間に視線を送る。

 しかし――――やがて。


「私に、くれるのか?」

「……はい」

「ありがとう。……それじゃ、着けて、ほしい」

「えっ!? あ、あの……え、はい……わ、わかりました!」


 シエンが目を閉じると、ノリムは膝立ちの姿勢で、おっかなびっくりと彼女の髪に触れて、左側の分け目に手ぐしを入れて整えてから、ゆっくりと髪飾りを留める。

 少女の緊張をほぐすために、シエンは更に語りかけた。


「実は。……私の幼名も、同じ」

「えっ?」

ノリム。そんな名のせいじゃないと信じたいけど、その意味通り……私は、よく泣いていた、らしい」

「…………はい、できました」

「ありがとう。……大切にする。でも、これでは貰いすぎた。返礼として……今度は、私から贈りたい」


 後ろに置いていた荷物、矢筒の中に差していた横笛を取り出し、構える。

 ノリムが再び父の隣に座り、一同が目を閉じ、静けさを取り戻して、ややあって――――シエンの吹く横笛の音色が、涼やかな風を呼ぶように訪れた。



*****


 果てる事無い旅を重ねる一行と別れを惜しみながら、シエンは馬を走らせ、南を目指した。

 アテなどない、まだ見ぬ誰かと出会い、語らうためのひと時の風任せの旅だった。


 どこまでも果てる事の無い緑は遊牧民族の旅をそのまま物語るように在り、地平で蒼天と混ざり合い荘厳で力強い風が草原を撫で、波打たせる。

  吹き抜ける風は爽やかな緑の匂いをこの大地へ行き渡らせるように優しく通りすぎ、草の陰で跳ねる虫も、空高く飛ぶ鷹も、馬も、人も、息づく全ての命を等しく撫でた。


「……ああ、気持ちいいね、ソリィル」


 どこまでも走りたくなるような草原を緩やかに歩かせながら、シエンは付き合い長い愛馬の首を撫でた。

 ソリィルが生まれたのはシエンに物心ついた時で、それからはずっと一緒だった。

 二十歳に近づいた白馬はそれでも風のように駆ける名馬であり、弓に矢筒、食料に水、毛布といった生活用品を載せても口も割らずに一昼夜歩き続ける体力も宿す。

 撫でられたことで軽く鳴き声を漏らし、ほんの少し首を捻り、真っ黒く輝く優しい眼で主の顔をじっと見つめた。

 その眼には、青空を背景にしたシエンの姿が、はっきりと映っていた。

 髪の分け目に輝く、“贈り物”も。


「ふふっ。似合うか?」


 同性の“友”に訊ねると、耳をくるりと回して、まるでそっぽを向くように前を見ながら歩く事に専念された。

 シエンは改めて――――今自分がどこにいるのか、迷ってしまいそうなほどに広がる大草原を見回した。

 どんな大声も、ここではまるでか細い独り言のように飲み込まれてしまいそうだ。

 その悠大な自然を見るたび、彼女は思う。


「……こんなに、広いのに。こんなにきれいなのに。分け合っても余るぐらいなのに……我々の、父祖は……何が足りなかったのだろう?」


 全てが虚しくなるような緑の大地を手に入れ、それでも――――かつてのシャン=ツァンの民は満足しなかった。

 食べきれないほどの羊も、心を癒す風も、どんな灯りよりも明るい太陽も、彼らの心を埋められなかった。

 全てを失い、やがて立ち上がり、結局は元どおりのこの国の姿に戻ってしまったのだ。


「戦って手に入れたものを、戦いで奪われ。結局……こうだ。奪い合わずに分かち合っても……こんなに、寂しいほどに広いのに。私たちの祖先は、何が……欲しかったのだろうね、ソリィル」


 形骸と化した肩書きであり、今となっては名の由来、千の騎兵を集める事すら難しくなってはいても、シエンは千騎将として、大王に拝謁する事の出来る数少ない一人だ。

 そんな彼女だから――――この国の外の事も、知っていた。


 西に行けば、かつての時代に幾度となく干戈かんかを交えた王国がある。

 かつて抱えていた属国のほとんどを併合して、今は彼らこそがこの大陸の覇権を握っている。

 更にその国から北へ向かえば、同じく、シャン=ツァンの圧力に屈しなかった古豪にして天険てんけんの“北方王国”がある。

 彼らは侵略をせず、侵略も許さず、依然として雪深い国に、“盾の悪魔”の紋章を掲げて住まう。

 彼らの壁を貫く事は誰にも、できはしなかった。


「……いいよ、私は、これがいい。これが……続いてくれるのなら、私は何もいらない」


 独りごち、仰いだ空には――――小さな雲が、太陽にひっかかっていた。



*****


 海を望む丘で横笛を奏で、波打ち際に白い素足を晒して、海の果てにある異邦へ想いを巡らせていると、全てがシエンの心を吹き抜け、癒す。

 どこまでも繋がる空と海、その向こうから吹いてくる海風と、海の向こうまで吹く返礼の薫風くんぷう

 自らを風に溶け込ませるような旅を折り返し、帰路に着こうとしたある晩の事だった。


 旅の“共”と焚き火を囲み、天球に満ちた星々を繋いで心を戯れさせていたシエンは、おもむろに――――ざわめくような胸騒ぎがした。

 枕代わりに頭を預けていたソリィルの脇腹も震え、とろとろと眠りに落ちかけていた愛馬は弾かれたように頭を上げて、一声鳴いた。


「ソリィル? ……なんだ?」


 年老いて落ち着き、心乱される事無い愛馬がこうも逸るのを見たのは、久しぶりの事だ。

 嬉しさでは無く、不安感が胸中に去来する。

 とっさに弓を掴み、同じくソリィルの脇腹に立てかけていた矢筒を探り、最後に腰に差した短刀がある事を確認し、身を起こし――――周囲の気配を探る。

 周囲を見渡せるため、狼の接近にはすぐ気付けるはずだ。

 それでなくとも、この草原地帯でシエンに奇襲をかけられる者など存在しない。


「よし、……よし、ソリィル。どう、どう。落ち着け……鳴かないで……」


 平静をいまだ取り戻していない愛馬に声をかけてなだめながら、あくまで警戒を解かず一方向ずつ探っていく。

 しかし前後左右、それらを繋ぐ四方。どこに目を凝らしても、耳を澄ましても、鼻を頼ろうとしても――――何もない。

 それなのに、愛馬の息は荒く、自身も感覚神経が粟立つ不快感がどこまでも膨れ上がっていった。


(……獣じゃ、ない。変だ……何か……でも、何も……いない?)


 やがて、空が――――

 星々と月の明かりが照らしていたはずの草原は闇に沈んで、焚き火だけが唯一の光源となる。

 仰いだ空には暗雲が満ちて、それは西の空へ向かって恐るべき勢いで流れていく。

 さながら全てを飲み込む暗黒の濁流が、空に貼り付いて流れていくようだった。


「な、何……!? 何、これは!?」


 暗雲の中に見えた不気味な稲光の中に、無数の悪鬼の顔が浮かんで見えた。

 叫び出しそうな恐怖をこらえながら、弓を番えたまま空を仰ぐ数分は、まるで永遠にも思えた。

 やがて、暗黒の濁流のような雲が全て西の空の果てへ流れていくと、何事も無かったように星々の明かりがシエンと、彼女を囲む草原へ落とされてきた。

 しかし、もはや感動などない。

 薄気味が悪い、という程度の話では無い。

 占術の心得もないシエンにも、はっきりと分かる。これは――――“凶兆”だったと。


 彼女は、久しぶりに――――“夜”を怖いと感じて、明くる朝まで眠れずに過ごした。

 何かが、今。何か……とてつもなく恐ろしい何かが起きたのだと半ば確信していた。


「ソリィル。……怖い」


 すでに落ち着きを取り戻した愛馬の吐息だけが、彼女を暖めた。



*****


 馬を飛ばして、数日。

 彼女が思い出したのは――――馬頭琴の音色と、髪飾りと、一夜の宿をくれたあの家族の事だった。

 数週間はあそこに留まると言っていた。

 胸騒ぎは留まるところを知らずに、今となってはもはや吐き気すら催すほど強い鼓動が、肋骨を内側から叩き続ける。


 やがて、雨が降っていた。

 本当ならば恵みとして受け取るべきはずのそれは、今のシエンにはとてもそうは思えなかった。

 まるで、涙だ。

 世界が何かに怯えて流すような生暖かい涙がシエンと、馬と、この草原を濡らす。


「っ!」


 降り続く雨の中、ようやく……彼らのいた地へ辿りついた。

 そこで、彼女は――――遠乗りの疲労すら素通りさせるような絶望感に襲われ、絶句する。

 世界の全てが色を失い、朝焼けに浮かぶ緑の大地すら白黒に見えるほどの――――絶望を。


「あっ……えっ……!? う、うぅっ……」


 ぐしゃぐしゃに潰された移動住居。

 切り裂かれた羊皮の部材が散らばり、無慈悲に殺し尽くされた家畜の死骸は、真新しい鮮血の匂いを放っていた。

 羊も、馬も、見える限り……殺し尽されていた。

 ゆっくりと色を取り戻していく世界で、シエンの目に映ったのは……緑の大地が赤く染まる、彼女の悪夢そのものの光景だった。


「う、そだ……うそだ、……ノリム! ノリム……! 皆、どこ!?」


 どうやって、いつ下馬したかも分からぬままにシエンは生き残る者を求めて、数棟あった家の残骸をめくり、声をかけた。

 だが、帰ってくる声はない。

 近づけば、ことさらに強くなる血と臓腑の悪臭だけが鼻をついた。


「誰か! 誰かいないっ!? 返事、返事をして!」


 問いかけは、叫びに変わる。

 だが返ってくるのは無慈悲な沈黙だけだ。

 やがてシエンは――――潰れた家の中から伸びて硬直したままの、小さな手を見つけてしまった。


「そんな、どうして……どうして、こんな……何が……」


 がくっ、と力を失った膝が、血に濡れた草の上に折られた時にシエンの目はあるものを見つけた。

 それは、あまりにも大きな、ひづめの跡。

 ソリィルのものに比べれば差は歴然で、並外れた巨馬のものである事は疑いようもない。

 彼らが連れていた馬はどれも常識的な大きさだった事を鑑みれば、それが――――“襲撃者”のものであると結論するには充分だった。

 向かう方角は、西南西。相当に凶暴な走りをする何者かだ。

 仮に襲撃者じゃないとしても、その者はここを通って行った。

 追い付いて、話を質さねばならない。


「っ……行くぞ、ソリィル!」


 失意、絶望、無力感、それらを押し殺して黙らせながらシエンは馬上へ身を躍らせ、すぐに手綱を掴んで走らせた。


「ハァッ!」


 そうしていなければ、倒れてしまいそうだったから――――早駆けの掛け声を、久々に愛馬に浴びせた。

 受けた愛馬は高らかにいななき、忘れていた健脚を思い出すようにシエンの意を受けて駆けた。



*****


 並外れて大きな蹄跡ていせきは、およそ十騎。

 どれもが乱暴な走り方をしており、幅のみならず深さも尋常では無く、ちぎれて飛んだ草は土ごと掘り返されたようにべっこりと抉れていた。

 

(何者……いや、どうしてっ……! どうして!? 家畜ごと皆殺し!? そんなことをする理由は何!? 奪うでも食べるでもなく……何を……無駄、な……)


 だんだんと強くなる雨は、シエンの服へ重くまとわりついて、その身体を冷えさせた。

 シャン=ツァンの民にとっては、雨は吉兆のひとつだ。

 雨の中訪れた客人には“雨を連れてきてくれた”として盛大にもてなす習慣もある。

 だが、シエンはこの雨に、殺戮の現場を見た事とは別に不快なものを感じていた。

 恐怖に震えて流す、涙。

 そして、もう――――この地に吉事が訪れない事を詫びて空が流す、滂沱ぼうだの涙としか感じられなかった。

 雨を心地悪く感じたのは、生まれて初めての事で……シエンは、ひたすら困惑しながら、何かを振り払うように馬を走らせていく。

 蹄跡の一団を追ううちに、ようやく――――前方に、よろよろと走る一騎を捉えた。


「見つけた……!」


 遠目には、巨馬にまたがる何者かの後ろ姿に見えた。

 彼のものと思しき蹄跡を追うと、真新しい血の痕跡もある。

 負傷しているのかもしれない。

 ならば追い付き、話を聞けるはずだ――――と、更に加速していくと……シエンの抱いた違和感は、段々とはっきりしてきた。


(……? 何? ……あの男……何かが……変……)


 フォルムが、おかしいのだ。

 馬にまたがっているように見えるが、騎乗する位置があまりに前方に偏り過ぎている。

 あれでは――――背に乗っているのではなく、首の位置に乗っていなければならないと。

 なのにその騎手の手は手綱すら掴む事無く左手はぶらりと垂れさがり、右手は何か長い棒状のものを握り締めている。

 更に、その腕の長さも、不自然なほど長い事に気付いた。

 人だとすれば、またがっているとすれば、脚があるはずなのにそれも見えない。


 二十馬身ほど近づいたところで、シエンは意を決し――――思いきり、高らかに口笛をその背めがけて吹きつけた。

 するとやや間があってからゆっくりとその騎馬は停止し、用心するべく距離を取ってから止まったシエンに向けて馬首を返した。

 そこで、全ての疑問は――――消えてなくなった。


「っ! ケ……馬人族ケンタウロス……!?」


 振り返った“それ”は、人の上半身が馬の首のあるべき部分とひと繋ぎになっていた。

 ぐるぐると巻いた癖毛はそのまま茂った髭へと繋がり、鋭く血走った赤い眼光が、殺意とともにシエンに注がれていた。


「っゴ、アァァッ! グギ、ブガアァッ! ガフッ……!」


 ケンタウロスの喉から漏れたのは、敵意だけを研ぎ澄ました蛮声だった。

 見れば馬体の脇腹からは血がだくだくと流れ落ち、右の脚にも刺し傷を負っている。

 更には左手首の腱も深く切られたのか血が流れ、動く様子がない。


「落ち着いて! 私は……! 私は、シャン=ツァンの民、シエン。話を……」

「ッズ……」

「え……?」

「ゴロ、ズッ!」

「なっ……!?」


 意思の疎通を図る努力すらもできないままケンタウロスは、右手の武器を振りかざして突進してきた。

 それは木を削り出して鋲を打って作った粗雑な棍棒で、べっとりと血糊ちのりと皮膚片が貼り付いていた。


「くっ……!」


 とっさに馬を走らせ、脇を駆け抜けるようにすれ違い避けるも――――その殺意の質量が虚空を薙ぐ、鈍い音が身をすくませた。


「落ち着いて……! お願い、だから……!」

「ガァァァァッ!」


 ケンタウロスは……半人の外見に反して、知能が低い。

 人語を操って人とある程度のコミュニケーションを取れる個体はいても、基本的には相いれない存在である。

 それでも少なくとも人類を憎悪し、敵対することはなかったはずなのに。

 無関心ではあっても、攻撃性は低い……刺激さえしなければ無害な種族だったはずだ。

 霊長れいちょうの輝きはその血走った双眸にはない。あるのはただ、シエンへ向ける純然たる殺意そのものだ。


 ぶくぶくと唾液の泡を口角に浮かべ、歯を剥いて威嚇してくる姿を見て無意識のうちにシエンは弓を握り、矢筒から二本の矢を取り出し、一本を番える。

 それでもケンタウロスは、怯まない。


「お願い……止まって……!」

「ガフアァァァァッ!!」


 狙いを定めているのに、怯む様子もない。

 前肢は幾度も土を掘り返し、再び突撃する頃合いを見計らっているのも間違いない。

 やじりの先に、ケンタウロスは半開きの左手に何かを握り締めているのが見えた。

 数日前にシエンをもてなし、癒してくれたはずのあの音色を届けてくれた――――馬頭琴の、“頭”だ。


「う……あぁぁぁぁあ゛ぁぁぁぁぁっ!!」


 チカチカと明滅する視界の中、最初の“一矢”は雨粒を砕きながら閃光のように虚空を走ってケンタウロスの上半身――――その胸の正中を抜いた。


「ガルアァッ!」

「よく、も……っ!!」


 続けざまの二矢。

 これは、ケンタウロスの右前肢の付け根へ突き立った。

 バランスを崩しながらも転倒には至らず、地を駆け、再びシエンへ肉薄する。

 シエンの裂帛の意思を受けた愛馬ソリィルは、ケンタウロスの弱手よわて側へ抜けるよう自ら選び、走り出す。


「どうして! どうして、殺した!」


 問いかけながらの連射に、もう迷いは無い。疑いもない。このケンタウロスは、あの一家を家畜含めて皆殺しにしたのだ。

 彼の前方に続く蹄跡は、全て同族のものだ。

 恐らく負傷ゆえに足が遅くなり落伍し――――他の仲間は先んじて帰ったのだ。


「ガフッ! ガフッ……ブルルッ……!」

「話せぇぇぇっ!」


 やり場のない感情のまま、シエンは我武者羅がむしゃらに矢を放つ。

 人間部分の心臓、脇腹、左肺、上腕の動脈。

 馬体部分の心臓、右前肢、脇腹、ふたつの後肢の付け根。

 矢を射かけるたびに、ケンタウロスの速力は緩み、息は荒く、力任せに抜いた矢の跡からは血が流れ出た。


 そして――――やがて、決着の時が来る。


「グルルッ……ブフッ……!」


 もう、その手には棍棒を握る力もない。

 人間の備える急所と、馬の備える急所を思い付く限り全て射抜いた。

 それなのに……ケンタウロスは獣そのものの凶暴性を未だ目に宿す。

 何もせずとも、じきに息絶える。


(……なのに。なのに……どうして、私は……? この一矢は……何?)


 ぐっしょりと濡れた服は肌に貼り付き、髪もまた同様。

 その隙間から敵の姿を認めつつ、シエンは自問する。

 すでに致命傷を追い、十数秒後の死を待つだけのケンタウロスを見てなおも薄れない、その感情にひたすら戸惑う。


(……ああ、そう、か)


 きりっ、と引き絞る手に力が込められる。

 答えは、ほんの少し前に――――辿り着いていたことを思い出して。


「私の……怒りを、喰らえ」


 最後の矢は、ケンタウロスの首を貫いた。


「グ、グッ……オ、マエ……」


 喉を貫かれ、調子はずれな笛にも似た音を発しながら、ケンタウロスは死に際の言葉を続ける。

 眼は赤黒く変異し……もう、それは亜人では無く魔物のものでしかない。


「オマエ、達……は……オワ、り……ダ……もウ……」


 更に、言葉を続けようとして。おもむろにその目がぐりん、とひっくり返り……その巨体は、地へ伏して二度と起き上がる事は無かった。



*****


 小降りになった雨の中を走り、シエンは“彼ら”の居た地へ戻っていた。

 雨で洗い流されていても、そこに茂っていたはずの青草に、元の緑は戻らない。

 そこかしこに転がる人と家畜の亡骸には、違いなど無い。

 どちらも殺され、踏み潰され、殴られ、斬られ、射られ、惨たらしく――――。


「……どうして……」


 潰れた住居ゲルの中から引っ張り出せた一家の亡骸を前に、シエンは膝をついた。

 馬頭琴を奏でてくれた大柄な亭主の、引き裂かれた腕は今も刀を硬く握り締めていた。

 彼は、戦ったのだ。あの恐ろしいケンタウロスを前にして一歩も引かず、家族を守るため。

 仕留める事ができたあの一体は、彼との“二人がかり”でようやく倒せたのかもしれなかった。


 その妻は――――幼いノリムをかばい、抱えたまま踏み殺されていた。

 優し気であったはずの顔は、なくなっていた。

 しかし彼女に抱かれていたノリムは不思議なほど安らかな顔で、眠るように息を引き取って。


「ごめん、なさい。ノリム……ごめん……!」


 雨、汗、返り血、跳ねた泥、そして涙と、はながシエンの怜悧だったはずの顔を塗りたくった。

 襲い掛かる、異様なほどに凶暴化したケンタウロスを仕留めても……何も達成感はなく、何も解決はしなかったから。


「どう、なるの……! この世界は、これから、どうなって……!」


 不吉な暗雲、不快な雨、殺戮された同胞の屍、血に染まった草原と不可解な馬人族。

 彼は、死に際に――――ひとつだけ、意味のある人語を発した。

 何かが。

 それとも――――シエンの愛した全てが、壊れてしまった日だ。

 ささやかだったはずのものが、全て……跡形もなく。


「んっ……ぐ、ふっ……うぅぅ……ああぁぁぁぁっ! うあぁぁぁ……」


 かつての幼名ノリムの由来をなぞるように、あの頃に戻ったように、シエンは泣いた。

 涙をこぼさぬよう吊り上げて整えられたような鳳眼から、滝のように涙が溢れた。

 かつて祖先に征服され蹂躙された地の民は、かような無力感と絶望を味わわされたのだ、と……そう、思いを重ねて。


「う、うぅぅぅ……! っ? な、何……今……?」


 涙で揺らぐ視界の端に、身ごもった牝馬ひんばの死体がある。

 それは、今……確かに、動いた。

 注視していると、さらに、もう一度。


「い、生きているの? まさか……」


 二度と立てないかに思えた足に、力が注がれるのを確かにシエンは感じた。

 短剣を引き抜きながら近づき、死馬の膨れた臨月近い腹に手を当てると、確かに胎動がある。

 だが――――このままでは、産道を出ては来られない。

 意を決し、涙を堪えながらゆっくりと腹を裂く。

 もはや母体の負担を考える必要などなかったから、大胆な行動に移せた。

やがて、一文字に腹を裂くと……羊膜に包まれたままの仔馬が滑り出てくる。


「あ……」


 羊膜越しに見えた毛並みは、ほのかに青い。

 シエンの髪の色と、全く同じ――――青を帯びていた。

 やがて、青毛の“仔馬”はふるふると震えながら、ゆっくりと、幾度も倒れそうになりながら、力強く……確かに、立ち上がった。


「それ、でも……君は……生まれたかった、のか? この……世界に……?」


 既に息のない母馬と未だ臍の緒で繋がっている仔馬は、ゆっくりと産声を上げる。

 母に聞かせる事の出来なかった息吹を、この世界へ聞かせ、名乗るかのように空を仰いで。

 そして、シエンは――――命名の儀を行わなければならない事を、思い出した。

 人間なら八歳。馬なら、生まれたその瞬間。

 この世界へやって来た事を祝福し、名を与えるという風習が草原の民にはある。


「――――この世界に生まれたもうた、新たな友。我々……草原シャン=ツァンの民、は……そなたを歓び、迎える」


 嗚咽を堪えながらの、たどたどしい口上だった。

 与える名は……もう、決まっている。


「地を駆ける脚もて生まれし、蒼き友よ。そなたに、名を命ずる。そなたの、名は――――」


 崩れゆく世界に、“それでも”と。

 “しかし、それでも”と生まれ落ちた、その勇敢さを称える、ふさわしき名前を。


「そなたの名は――――アミ。蒼き、勇敢なる神秘の意思。そなたの名は、アミ」


 もう、雨は上がっていた。

 シエンの愛馬が、もう死した母に代わって体をなめてやると……蒼き仔馬、アミは体を震わせて、呼応するように――――産まれた直後と思えぬ声量で、暗雲を裂くようにいなないた。


「……そう、だ。生きよう、アミ。私たちは……生きる、んだ」


 雲の切れ間から陽光が差し込み、暗く湿っていた草原に光を届けた。


「終わるものか。……私たちは、生きるぞ」


 勇敢にして新たな友に続き、シエンは、再び立ち上がる。

 青く晴れ渡っていく空を仰ぐ騎英きえいの瞳は澄み渡り――――力強く、輝いていた。






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