叡智の翼は約束を乗せて

*****


 その日は、人類史に燦然と輝く日となった。


「ねぇ、パパ! もうすぐ見える!?」

「ああ、そろそろ……のはずだ。ちょうど正午の鐘と同時っていうから……」

「本当にお船が空を飛ぶの!?」

「そう、らしいけど……パパも見た事なんかないからなぁ」


 その街に住まう全ての民は、空を見上げていた。

 屋根の上は人で埋まり、今にも建物が倒壊しそうなほどの人数が身を乗り出しながら、遥か彼方に見えるやぐらを凝視する。

 少しでも見晴らしのいい場所を求めて。

 王の住まう城でさえも、使用人のほとんどがほんの一時手を休めてそれを見る許可が下りていた。

 そこには…………人なら誰もが見る夢が、すでに叶えられていると聞いていた。


 やがて、正午を示す鐘が鳴った。

 鐘が打ち鳴らされ、やがて落ち着き――――人々の熱狂の声が少し盛りを過ぎた頃。

 かなたの櫓から……大きな、とても大きな……鯨のような塊が持ち上がった。

 それはやがて、少しずつ、少しずつ高度を上げて、係留していた索具が一本、また一本とほどけていく。

 そして“鯨”は、何も遮るもののない蒼空へ、巨体を舞い上がらせる。


 それを見た人々は喉が裂けんばかりに叫び声を上げ、王都を熱狂の声が包んだ。

 振り上げた腕は隣の者と押し合い圧し合い、拳が顎に当たっても、誰も痛みを感じなかった。


「パパ! ほんとだ! ほんとに――――飛んでる!」

「あ、ああ! 本当に……船が……空を飛んでるぞ!」


 その夢は、いつの時代も誰もが夢見て、叶えられる事などなかった。

 だが……今はもう、違う。

 もはや、夢では無くなった。

 それは、叶ったからだ。

 空を見上げ、悠然と舞う船を、子供も、大人も、老いた者も。

 全ての国民が少年のようにキラキラと目を輝かせて、涙すら浮かべてその姿を見つめていた。

 

 ――――“空を飛びたい”という夢を、人類が叶えた日を心へ刻み込むように。



*****


「おい、アンジェロ! 何読んでんだよ!?」

「うわっ!? ちょ、……返してよ!」

「……“オリハルコンの浮遊特性についての冶金学的考察”? なんだこりゃ、全然わかんねぇ」

「分かんないなら返してってば!」


 いつも本を読んでばかりの、チビで、根暗で、そばかすを浮かべてすまし顔をしている“アンジェロ”を、いつも彼は気に入らず、しかし気になってもいた。

 今も一人だけ遊びの輪に入らず、海を見渡せる丘でただ本を読んでいたアンジェロに後ろから忍び寄り、本をひったくった少年は、この海べりの街を治める領主、グランダール家の長子、名はロイといった。

 いつも活発に動き回り、上質な仕立ての服はいつも草の汁や海水で汚れており、領主である父親の悩みの種だ。

 今もまた言い付けられていた課業をさぼって野を駆け、海でひと泳ぎでもしてきたのか全身から潮の香りが漂い、髪も生乾きで海藻のようにごわついている。


「お前、こないだは何だ? 読んでたの」

「……“王国軍水練教本おうこくぐんすいれんきょうほん”」

「わかんねぇ、つまり何だ」

「……泳ぎ方のテキストだよ」

「なんで?」

「なんで、って……なんでもいいじゃないか、ボクはただ……」


 ロイとアンジェロは、歳は同じく九歳を迎えたばかりだ。

 それなのにロイは頭二つ分高く、身体もがっしりとして丈夫で、日焼けした肌は浅黒く皮も剥けていた。

 対照的にアンジェロは同年代の子供たち……いや、二つ三つ下と思われても仕方ないほど背が低い。

 髪はくしゃくしゃにクセが酷く、足も遅く、泳げないうえに力もないし、肌も生白い。

 全てが、正反対だ。


「ただ?」

「……なんでもないから!」


 アンジェロはロイから本をひったくると、そのまま駆けていってしまう。

 走る、というにはあまりに遅く、ロイなら早歩きで追い付いてしまうような気の毒な緩慢さが……逆に、追いかけようと言う気を起こさせないものだ。


「……変なヤツ」


 ちっとも小さくなっていかないアンジェロの丸まった背を見やりながら、ロイ・グランダールは呆れたように呟いた。


 その背の低い“そばかす”は、いつ見ても小難しい本を読んでいた。

 もともとは、父母に連れられて数年前にこの海べりの街へ来た、よそ者だ。

 子供達に溶け込もうともせず、ある時は鳥の剥製を羽根の一枚一枚まで丹念にスケッチしている事もあり、飛ぶ海鳥の動きを飽きる事なく日が沈み始めるまで観察している事もあった。


 時にはぜいたくにも、紙――――恐らく読み終わった本のページを破り取り、それを折り畳み、妙な形にして投げて遊んでいる姿も見かけた。

 イビツに簡略化した鳥、いや……コウモリにも似ていたそれが何のつもりだったか、今も訊き出せていない。

 ロイの小馬鹿にした訊き方もまずかったのだろうし、アンジェロも意固地になって話そうとしない。

 今でも不思議でたまらなかった。

 ただ紙を折って飛ばして遊んでいた、という様子ではない。

 その眼差しは真剣そのものだったし、合間に手帳に何かを書き込む様子もだ。

 ひったくって中を見てやろうと思っても、なかなかそのチャンスもない。

 未だに……少年は悶々とさせられていた。



*****


 館に帰れば、手をつけてはいても投げやりな課業を見咎められ、お決まりの文句で父になじられ、責められた。


「ロイ! またお前は抜け出して……一体、何のつもりなんだ!」

「……別に」

「いいか、お前はいつかこの家を継ぐ立場にあるんだぞ!? 子供だとて、甘くはせんからな!」

「……父さん」

「ん?」

「オレが父さんを継ぐのは、いつ頃の事になるんだよ」

「二十、いや三十年後か。それとももっと早い方がいいか?」


 父を、家門を、軽蔑する気持ちはひとつもなかった。

 父の事は好きで尊敬もしていたし、母も、二人の弟妹もぶっきらぼうながら愛していた。

 それでも――――やはり、疑問が尽きないのは、子供のゆえだ。


(……オレが勉強して、デカくなっても、王様になれるワケじゃないじゃん)


 海べりの田舎町一帯を治める領主、その長男坊。

 もう人生の終着点が決まってしまっている気がして、ロイは面白くなかった。

 この町を愛しているか、とは別だ。

 吹き抜ける潮風はいつも爽快で、波音も海鳥の声も聴き飽きる事など無く、飢えて死ぬ民などいない。

 この町に不満はひとつもないし、これからも生まれることはないだろう。


 だが、そこを治める事で人生を終える。

 そうなると――――ロイはもう、人生の面白くなさを子供心に感じ、胸の奥がズンと重くなる。

 どこか、遠くへ行きたい。

 もっと、偉い人間になりたい。

 そう思っていても、朝から晩まで領民たちのために身を粉にして働き、どこかで伝え聞くような極悪領主とはまるで違う父の姿を見ていると、言えなくなった。

 父を支える母の姿と、ロイたちに向ける母の優しさ。

 ろくに犯罪も起こらない、反乱など間違っても起こらないような穏やかな町の様子は父の粉骨砕身の働きのおかげだ。


 それが、跳ねっ返りながらも賢いロイにはよくわかるから余計に、つらかった。

 遠くへ行きたい。偉くなりたい。

 それを言ってしまうのは家族と、生まれ育ったこの町とを否定するのに等しいから。


 生まれ持った賢さと優しさが、ロイの足首に絡みついていた。


 結局、言い付けられた課業をこなして、眠ったのは――――父がベッドに潜り込む、ほんの少し前の事だ。



*****


 ロイがアンジェロにしつこく絡むのは、どこか……八つ当たり、にも似ていた。

 今日の“そばかす”は……町はずれの、海に向かって張り出した崖の上からずっと海を見ていた。

 日よけの帽子を目深にかぶって、岩肌の上に直接、小石を引っかいて何かを熱心に記している。


「……何だ? 今……滑翔かっしょうしてたのに……体が、持ち上がったぞ……」

「おい、アンジェロ!」

「うひぁっ!?」


 ぶつぶつと呟きながら、四つん這いの姿勢で岩肌を掻いているアンジェロに呼びかけると、素っ頓狂な声が上がってその身体が跳ねた。

 慌てて振り返るアンジェロに、自分でも予想外に怒気を孕んでしまった事を反省しながらロイが語りかける。


「何やってんだよ、お前……こんなトコで。あぶねぇだろ」

「あ、あ、いや……その……な、何でも無いんだ、ロイ」

「何でもねぇのにこんなトコいる訳ないだろ? ……何だ、お前……それ?」


 アンジェロの記していたそれを、見る。

 いくつもの線、いくつもの矢印、いくつもの波形。

 それらで構成された図面の近くに、意味ありげに記してある数字。

 計算の痕跡。

 それは……何かを解き明かそうとしているような努力である事は明白だった。


「……い、いや、その……何でも、ないって……」

「…………ムカつくな、お前。何隠してんだよ。まぁ、いいや。ちょっと顔貸せよ」

「え……」

「いいから、ついてこいっつってんだ!!」


 むしゃくしゃしながら、強引に怒鳴りつけてアンジェロを呼ぶ。

 ポケットに突っ込んだ手に――――“箱”の感触を確かめて、おずおずとついてくるアンジェロを幾度も振り返って確認しながら。

 やがて、ずかずかと歩くロイと、それを追うアンジェロが砂浜の小屋へ辿りついた。


「……あ、あの、ロイ? 何……」

「いいか。ゼッタイ騒ぐなよ。オレとお前の秘密だからな」


 漁師が道具を置くために使っている、ちっぽけな小屋の中で、隙間から差し込む光を頼りにロイは“箱”を取り出す。

 アンジェロは居心地悪そうに正座しながら、それを見る。

 貝殻のように蝶番をきしませて開いた箱の中には、“指輪”が収まっていた。

 それも――――普通の指輪では無い。

 暁のような色の輝きは、アンジェロにはすぐには分からなかった。

 だが、それもすぐ……驚きに変わる。


「…………えっ!? こ、これ……まさか!?」

「ああ。“オリハルコン”……ってんだろ? 母さんからこっそり借りてきたんだ」


 その指輪は――――台座から取り外すと、


「うわわっ……! な、なんで……こんな……!? すごいっ……本当に、オリハルコンは宙に浮くんだ!?」

「……いいか、オレとお前の秘密だぞ。怒られるからな」

「で、でも……どうして!? どうして見せてくれたの!?」


 オリハルコンの別名は、“浮遊金属”という。

 その名にふさわしく、重さはなく――――何もせずにいれば、フワフワと宙に浮くという摩訶不思議な特性を持つのだ。

 本来ならアンジェロのような平民には、目にする事も叶わないような希少な金属。

 それどころか、魔術師や冒険者の間ですらも希少なものとして扱われる。

 ロイの母がそれを持っていたのも、奇妙な偶然によるもので……ロイも、こっそり持ちだす事しかできなかった。


「……お前さ、何しようと……してんだよ」


 アンジェロは、宙に浮く指輪の挙動に見とれていた。

 指で端を弾けば、くるくるとその場で浮きながら回転した。

 息を吹きかければ、ゆっくりとその方向へ向かう。

 紙風船のようでありながらも、その剛性も靭性も耐摩耗性も、この世界の金属の頂点をなす。

 その不可思議さを余すところなく焼きつけようとしていた目は、やがて、丸く見開かれた。


「……秘密だよ」

「はぁ? ……さっき何見てたんだよ、海鳥の捕まえ方でも考えてたのか?」

「……いや、そうじゃないけどさ……不思議だったんだ」

「何が」

「海鳥って、たまに羽ばたきをやめてスーっと空を滑る。なのに落ちないし、浮きあがる時もある。不思議だったから……何か法則があるのかと思って」


 その、答えが……また、ロイの苛立ちを募らせた。

 今も、課業は半分だけ終わらせて抜け出してきた。

 その果てには自由も何もない言い付けをこなして、それでも発散したいものがあるのに。

 しがらみなどないはずの“アンジェロ”が、能天気にこうしているのが、我慢できない。

 それは――――攻撃的な問いかけになった。


「アンジェロ。お前さ……何が楽しくて、生きてんだ」

「えっ」

「お前……何しようとして生きてんだよ。どこにでも、行けるじゃねーかよ。こんな……何も起こりやしねぇ町で生きなくたっていいんだろ、お前」

「え、え、あの……ロイ?」


 幼いながらに、ロイは分かっていた。

 これは卑劣な八つ当たりの言葉で、答える側にも相応の圧迫をもたらすと。

 それでも、我慢できなかった。

 課業を言い渡され、家業を継ぐ事を強いられ、稼業を考える余地もないまま生きさせられる自分。

 そんなしがらみとは無縁のはずの“よそ者”アンジェロの、能天気な様子が。

 全てがしゃくの種だ。


 その日、ロイは――――初めて、何もせずに寝た。

 やり残しの課題にも手を付けずに。

 夕食も取らずに、何もかもを拒むように。



*****


 次の日の、事だ。


「ロ、ロイ! あれ!」

「あ?」


 いつものように、教育係の目を盗んで砂浜に着くと……取り巻きの少年の一人が、崖を指差し狼狽えていた。

 そこには、崖っぷちぎりぎりの所に突っ立っている、アンジェロの姿があった。

 恐る恐る下を覗き込む様子では無い。

 じりじりと、でも確かに……崖へ向かって進んでいる。


「おい、おい、おい、おいおいおい……! 何してんだ、アンジェロのヤツ!?」

「お、俺……誰か呼んで来る!」

「あっ……おい、お前ら!」


 共に遊ぶはずだった少年二人は、すぐさま駆け出して大人を探しに行ってしまう。

 残されたのは、断崖絶壁に立つアンジェロと、それを呆然と見ているしかないロイ。

 崖の下は海面だが、その高さは――――町にある教会の尖塔ほどまであり、そこから飛び降りれば、見えてくるのはスリルではなく“死”のほうだ。


「く、そっ……あのチビ助!」


 ロイは躊躇わず、砂浜を走り抜けて迂回し、崖へ向かう。

 数日前にアンジェロが“何か”していた場所に、岩肌に直接描きつけた図形と数字はまだ残っていた。

 ロイは走り抜ける横目でそれを見た時、その“何か”をふと理解できた気がしたのに――――その事は今、考えている猶予はない。

 泳ごうとして靴を脱いだ裸足が、岩肌に擦れて血を滲ませる。


「おい、アンジェロ! 何やってんだそんなトコで!」

「こ、来ないでっ! 来ないで、ロイ!」


 もう、振り向いたアンジェロの先に地面はない。

 焦った顔は、青ざめていて――――しかしそれでも、強い決意のもとに歯を食いしばり、かちかちと震わせている。

 小さな身体の震えも、十歩も離れているのに見て取れた。


「これ、しか……こうするしか、ないんだよ、ボクは」

「落ち着けよ! 何があって……分かるように話せよ!」

「考えたけど……やっぱり、これしか方法が無いんだよ、ボク……足も遅いし……これ、しか……こ、怖いけど……やるしか、ないんだ!」

「わかんねぇっつってんだ! 早くこっちに――――」


 刹那、アンジェロの身体は宙を舞った。

 ぎゅっと瞑られた目、瞼からはみ出す長い睫毛の震えが見えたのも、ロイには数秒にも感じられて――――崖の下に消えるアンジェロを追って、駆け出した。


「何、して……! くそ、やりやがった! アンジェロっ!!」


 追って、ロイは躊躇わずに飛び降りる。

 内臓が持ち上がるような浮遊感と、空気の壁が全身を押し留める抵抗を感じて、シャツの裾がめくれ上がって頬を叩く。


(っ! 怖ぇっ……!)


 はためく裾の間から、風に揉まれたアンジェロの身体が波間に消えるのが見えた。


 飛び込みの姿勢を取って飛び込み、やっと――――着水。

 まだ冷たい海の中でしゃにむに腕を振り回し、ようやく……アンジェロのダボダボした服を引っ掴み、海面まで必死に水を蹴って伸び上がった。


「ぶはっ! アンジェロ……! おい、アンジェロ!」

「げほっ……ぶ、あ、足……つか、な……」

「ったりめーだバカ! 俺から手ぇ離すな!」


 砂浜までの距離は、泳ぐ分には問題ない。

 ただし、それは……一人であれば、だ。


「アンジェロ、服……脱げ……重い……!」

「えっ!?」

「頼む……から……! 早く!」


 水を吸った服を脱げ、と告げるとアンジェロは硬直して――――幾度も促してやっと、片手でもたつきながら濡れて貼り付く服を脱いだ。


 ――――――結局、砂浜まで泳ぎ切るまでには、ロイ一人の時に比べて三倍の時間がかかってしまった。

 波打ち際を歩き、ようやく水から上がった頃には二人とも疲労困憊し、アンジェロにいたっては、乾いた砂に上がった瞬間にずるりと崩れ落ちた。


「ぶはっ、げほげほげほっ! おえっ……! アン……ぶぇっ、がはっ!」

「っ……ロイ、ごめ……げほっ!」

「いったい何が、したかったんだよ! ……やっぱり泳げねーじゃねーかお前!」

「ち、が……本、読んだから……だいじょうぶか、って、思って……」

「本読んだからすぐできるワケねーんだよ! だいたい、なんで!」

「し……たか、った……から……」

「はぁ!? お前今なんて……死にたかったって!?」

「ちが……違う……ごほっ!」


 両者とも、幾度もながら、口に残った海水を吐き出しながら、途切れ途切れに言葉をぶつけ合うしかなかった。

 やがて、呼吸が整ってきた頃……ロイの取り巻き達が、大人を数人連れて駆けつけてくるのが見えた。

 その中にはアンジェロの母親の姿もある。


「そ、それよりロイ……! ボク、分かったんだ!」

「分かったって何をだよ!」

「空気だよ! 空気は水と同じで、流れるものなんだ! ボクの吐き出した泡が浮かんで行くのも見えたんだ! これは、ボクの吐いた空気より水の方が重いからで――――」

「だから何だって言って……あぁ、もういいよアンジェロ! もう喋るな!」

「え!? いやそれよりも聞いてってば! なら空気より軽いものは、空気の中を浮いて上に向かうはずなんだ! ……あっ! ほら、あそこ、焚き火! 焚き火の煙もだ! そうか、分かった! 暖まった空気もきっと――――水の深い部分のほうが冷たかったのも関係あるかな!?」


 興奮冷めやらぬ様子で、立て板に水のように話し続けるアンジェロの目は……死にかけた直後だと思えないほど、輝いていた。

 崖から落ち、水底深くへ沈み、助けられ、今ここに命拾いして。

 ダブついていたチュニックも脱ぎ捨てて上は真っ裸で水に濡れ、くしゃくしゃに波打つ海藻のような髪からはポタポタと雫が垂れて、下も波に揉まれてズボンは足首まで下がっているのに、それにも構わず。

 そこで、ふと――――ロイの目は、気付く。

 下着から伸びている脚が……妙に、細い。

 ただ運動していないから、外に出ないから、というだけでは説明がつかないほどに、白く細いのだ。

 見ていると、思わずロイの心臓が高鳴っていき、それを抑えようとする事はできず……咎められているような気持ちを悶々と抱えるしかなかった。


「アンジェラ!」

「あ、お母さん! 凄いんだよ、海の中って! 水面がキラキラして、ユラユラしてるんだけどあれきっと――――」

「何でこんなバカなことしたの、アンジェラ!?」

「え、だって……こうすれば色々、いっぺんに済むから……」


 あられもない姿の子を抱く、母は今――――何と、呼んだ?


「え、あのおばさん! 今、なんて!?」

「ああ、ロイぼっちゃん! 本当にありがとう……本当に……! お礼のしようも……」

「そうじゃなくて、おばさん今何て呼んだ……“アンジェロ”、じゃなくて……?」

「えっ……ボク、ちゃんと名前言ったじゃん……」

「ごめんなさい、坊ちゃん。アンジェラ……あんた、舌っ足らずだから!」

「えっ、えっ……!? おい、……お前……まさか、もしかして」


 理解しかけて……ロイの顔にかっと血が昇り、赤面した。

 やがて、答え合わせの後――――ロイは、聞きつけた教育係がすっ飛んでくるまで、固まっていた。


「……ボク、女だよ? ロイ? ……ねぇ、ロイ? ちゃんと、って……名前、言ったじゃ……あれ?」



*****


 三日後。

 ロイは初めて……課題を全て終わらせてから、息抜きだと教育係にちゃんと告げてから家を出た。

 行き先は、あの砂浜だ。

 そこには、“アンジェラ”が、相変わらずの様子で手帳に書き込みを続けていた。


「……あれ、ロイ? もういいの?」

「カゼ引いたよ、お前のせいで。……くしゅっ!」


 くしゃみと一緒に出たはなを拭い、手鼻をかみながらロイは、初めてその手帳を覗き込む。

 幾度も、幾度も、重ねるように書き加えていたせいで内容はひどくゴチャゴチャとして、読みにくい。

 例えるならそれは、絵の具を重ね塗って精緻な色合いを出す風景画にも似ていた。

 下手くそな筆致で、暖炉の灰の燃え上がる様子、鳥たちの羽根のつくりといった挿絵も加えてある。

 その中には、が“発見した事”もだ。


「……そろそろ教えろよ。お前、何企んでんだ?」

「……笑うだろ、ロイは」

「笑うよ、でも教えろ。お前のせいでカゼ引いたんだからな。するのがお前の役目だ」

「うーん……」


 珍しく。

 能天気で無鉄砲で、何を考えているのかまるで掴めない変わり者が、頭を捻り、逡巡している。

 やがて、ちらちらとロイを見てからようやく言った。


「ボクはね――――空を飛びたいんだ」


 その、突拍子もない言葉にロイは幾度も訊き返す。


「ロイ。ボクは……空を飛びたい。空を飛ぶ方法を知りたいんだ。鳥が飛べる理由。雲が浮く理由。この世界にいたドラゴンは、城みたいに大きいのに自由に空を飛んでいたんだ。空気というのは、いったい何だ? そこに浮くにはどうすればいい? 普通に入れば沈む海に、船が浮かんでいられるのはどうしてだろう? 暖まった空気が上に向かって灰を舞い上がらせるのはどうしてだ? ボクは……ぜんぶ。全部、知りたいんだよ」


 やがてようやく、呆然としていたロイは正気を取り戻してぎこちなく口を開いた。


「え、あの、……じゃ、崖から飛んだのは?」

「空気の、あの……はね返す力? “手応え”? 知りたくて。でもさすがに窓から飛び降りたら危ないから、下が水なら平気かと思った。そのために泳ぎ方の本も読んでたんだけど……」

「…………おい」

「えっ」

「いいじゃんか、それ」

「えっ!?」


 ロイの笑顔は、晴れ渡っていた。

 頭上に頂いた蒼空にも負けず。


「いいじゃねーか。……何だよお前、もっと早く言えよ! デケー事考えてんじゃん!」

「そ、そう!? あ、ありがとう……ロイ……」


 この“少女アンジェラ”は、ふてくされていたロイの密かな願いをよそに……大きな、とても大きな……およそ誰もが考えつかなかった事を、考えていたのだ。

 王様になる事よりも、ずっと難しく、大きな事を。


「たださ、お前……あーいう事するんならちゃんとオレを今度から呼べよ。いいな? ムチャすんな。お前の代わりにオレがムチャしてやるから」

「……うん、わかった」

「手、出せよ」

「え……?」

「いいから、拳出せよ、こう!」


 ロイと、アンジェラは――――空と海との境目で、拳を突き合わせて約束を交わした。



*****


 その日から、ロイは勉強に精を出した。

 合間にアンジェラの無謀な実験を取り巻き達とともに繰り返して。

 それでも、猛勉強して父や教育係の思惑を越えた成果を出し続ければ、文句は出なかった。


 やがて、ロイ・グランダールは若くして外交官に任じられ――――近隣諸国を回る事になる。

 信頼を得た彼はやがて、幼いころに語り合った夢を叶えるために動き出した。

 傍らにいる、友との約束のために。


*****


「はははっ! 冗談かと思いきや……本当にあんた、空を飛ぶつもりなんだね!?」


 やってきたのは、遠く離れた国に工房を構える七人のドワーフだった。

 六人は男で、残る一人は女。

 酒樽に手足を生やしたような、小さいながらも隆々とした体格は迫力に満ちている。


「お会いできて光栄です、“底なし沼”メイ。貴方がたの力が必要でして……」

「ああ、御託はいいさ。何からやりゃいい? オリハルコンでもミスリルでも何でもきな! エーギル! インヴェ! 遊んでないで来い!」

「し、しかしのう……あんなデカいモンに何をする気なんじゃ!?」

「あのデカい風船で何を企んどるのか……いやはや、人類っちゅーのは……」

「いいから来い! すまないねぇ、ミス。ええと……お名前はなんだったかい」


 騒がしく辺りを見回すドワーフ達へ、“彼女”は自己紹介する。


「アンジェラです。……アンジェラ・グランダール。よろしくお願いします」



*****


 遠く離れた海を征く者達にも、その企みの噂は届いた。


「……船長。聞きましたか。“空を飛ぶ船”が、完成するそうです」


 舵輪を握る細身の航海士が、広げた地図を睨む黒髭の“船長”にそう言うと、彼は地図から目を離さず、うるさそうに返した。


「だから何だよ。海にだって浮かぶんだ、空にぐらい浮くさ。何がえれェんだ?」

「特に興味はありませんか、ジャック=エドワード船長」

「今さら興味はねェよ。俺は海のほうがいい。俺は海で死ぬんだ。で、次の島は……」

「はい。“呪われた海域”と最近名付けられた先ですね。魔物が現れたとか……」

「そいつは縁起がいい。野郎ども! 帆を全部開け! てめェらのパンツを張っても構わん! 全速だ!」


 掲げた旗は、黒一色に、見る者を威圧するドクロの旗。

 海の災厄、その名は――――“海ゆく群狼シーウルヴス号”。



*****


 二十数年の時をかけて、“船”は……その姿を明らかにした。

 あの平和だった時代に語った夢は、“魔王”の降臨した絶望の時代に、ようやく翼を得た。


「……ようやく完成だな」


 草原のただ中に作られた“発着場”には、行き来する百人近くの作業員がいる。

 彼らの中心にあるのは、人類の夢そのものだった。

 感慨深く“船体”を見渡す二人の目は、潤んでいた。


 ロイの顔には、薄く口髭が生えていた。

 肩章付きの服は、少年のころのシャツと吊りズボンから随分と立派になった。


「長……くも、なかったね、うん」


 傍らにいるアンジェラは、背の低さこそ変わらないものの。

 そばかすは消えて、くせ毛は緩くなり肩まで伸びていて……どこかあどけなさを残した、大人の女へすっかり変わっていた。

 二人とも……同じ指へ、指輪を嵌めて。


「……名前は決めたのかい、ロイ?」

「ああ、もちろんだ」

「なんて?」

「“飛行船”……フォーリング・アン落っこちるアン号」

「おいおい、それって……縁起悪くない? 空を飛ぶ乗り物に、“落っこち”なんて」

「悪くねぇさ。お前はあの時、落ちたから……飛べたんだからさ」

「……ボク、飛べてなかった? あの時」

「落ちてたよ、バカ。……でもな。落ちれば、飛べる事だってあるんだ」


 この世界に初めて生まれた“飛行船”の名は、フォーリング・アン号。

 空気より比重の軽い気体で満たした気嚢きのうを、オリハルコンの外殻で覆った――――あかつきのように輝く、巨鯨の如き“船”。

 靭性、耐摩耗性、全てに優れて何よりも“浮遊する”という特性を持つオリハルコンは、最適の素材だった。

 使えば使うほど軽くなり、どんな魔物の爪も弾き返す夢の金属。

 とはいえ、希少性ゆえに使い放題ではなく……薄く鍛えて、気嚢を覆う装甲板としての役目を果たすのが精一杯だった。

 鯨の腹の部分――――下部に設けた艦橋は、船体の大きさに比べて微々たるものだ。


 そして鯨には、“ヒレ”がある。

 合わせて六枚の、推進力を生み出すために羽ばたく翼。

 尾部には、方向舵。

 艦橋部分の先端には、小さな“天使”の船首像。


 これから始まるのは、初の“飛行”。

 この船にとってではなく――――人類に、とっての。

 初めて、今日……人類は、空を飛ぶのだ。


「……このコには、平和な空を飛ばせてあげたかったね、ロイ」

「そうだな。……ほら、そろそろだ。乗り遅れるぞ」


 巨船へ向かう二人は、手を重ね、握り合う。

 あの日の約束を、思い出して。

 成功を、祈って。


 ――――――人類が空を飛べた日を、祝福して。







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