“狂戦士”

*****


 光届かぬ闇の牢獄の底で、男は差し込んだ光を仰いだ。

 重苦しく、石臼を挽くのに似た音を立てて左右に口を開けていく天蓋は、彼の知る限り開いた事は無い。

 日に二回食事が届けられる時にはもっと小さく、人の通れない穴から鎖付きの桶で届けられる。


 ささやかでも“底”を照らす光が差し込むと、ただ一人いた男はあらためて自分の“世界”を眺めた。

 ハシゴも階段もなく、ひたすら寒い石造りの空間はさしづめ、吹き抜けの塔の最下階。


 更に、天蓋は開く。

 内側の壁面には、無数の傷が刻まれていた。

 血をなすりつけたような引っかき傷だけではない。足をかけて壁面を走った痕跡、砕けて剥がれた石壁の瓦礫、さながら修練場のような損傷が、徐々に明るみに出ていく“底辺の牢獄”のそこかしこに刻まれていた。


 仰ぎ見た男の髪は、ところどころが白く変わってはいたものの……血のように赤い。

 それも黒く沈んだ、死体の血液のような――――戦慄を禁じ得ない不気味な赤毛だった。

 長くもつれて伸びた髪と髭は、男の過ごした年月を語る。

 だがその体躯、長い腕の筋肉の走行は、かすかに見える顔に走るシワが語る齢とは不釣り合いなほどの獰猛さを宿していた。

 その姿はさながら飢えた狼のようで、痩せてはいても衰えてはいない。


やがて完全に天蓋が開くと、荷車ほどの大きさのゴンドラが降りてくる。

 そこには略式の王冠をかぶって羽織りを肩にかけた威厳ある老王と付き従う将軍、そして近衛兵が二人。


「……いでよ。この時を以て、そなたを獄より放つ」


 白銀の髭の王は、言った。

 その言葉を待っていた、というふうに、牢獄の男は、唾を飲み込んで喉を開いて応答する。


「……とうとう、あの、忌々いまいまじぃ“冬将軍”を……殺ぜる……の、ですか……?」


 嗄れた声は、彼が独り言すら発しなくなってからの期間を如実に語る。

 男は不遜にも、国王の前にあってなお、冷たい石の床にべったりと腰を下ろしていた。


「ヴィルフリート・アイスナー将軍は戦死した」


 王が告げると男の体が震え――――下手な傀儡人形のように、ばっと顔を上げた。

 落ち窪んだ眼が王達を捉えた瞬間近衛兵は、その顔を恐怖に引きつらせた。

 殺気と呼ぶにはあまりに鈍く、哀しみと呼ぶにはあまりに鋭い。

 そんな……どちらともつかない強烈な感情を、もろに浴びてしまったのだから。


「なん、だ……と……? 誰が……誰が、あのヴィルフリートを殺せた……?」

「正確には相討ちだ。かの国のヴィルフリート将軍は、相討ちで死んだのだ」

「だから、誰と……だ?」

「燃える体の巨人」


 答えたのは、王に付き従う将軍だった。


「比喩ではない。太陽の如き燃える巨人は、ヴィルフリート将軍と相討ちになった。その戦場は今、何物をも近づけない呪いの凍原とうげんとなって魔軍を近寄らせていないのだ」

「……回りくどい、な。“冬将軍”は……何と戦った? そして貴様らは、何に脅かされていると?」

「その話をする前にまずは整えよ。そなたの刃は……」


 暗黒の牢獄にはひとつだけ、持ちこむ事を許された彼の“私物”があった。

 それはかつてこの国の制度を担っていて――――しかし解かれた、暗黒の遺産と言っても過言ではない。


 王と将軍、そして近衛兵の視線の先、地底の牢獄の片隅に燭台の光を受けて鈍く光る“月”が立てかけられていた。

 巨大な三日月形の刃に、両端を繋ぐよう柄を渡した……断頭台の刃をそのままに流用した奇剣きけん



*****


 時は、十年以上前にさかのぼる。


 とある公国ではその日、死刑制度が廃止される事となった。

 幾年にもわたる議論の末の結論を王はとうとう認め、その日、最後の死刑囚を処した後に、広場に君臨し続けた“断頭台”は職を失う事となった。


 しかし、最後の処刑が行われた、まさに直後の事だ。

 首桶くびおけに最後の罪人を今しがた受け止めたばかりの処刑台に、男が一人、悠然と佇んでいた。

 罪人の血で濡れた分厚い刃にべたべたと触れ、最後に……刃を蹴りつけ、男は言った。


「――――死刑制度の廃止、まずはお慶び申し上げよう。で、だ。もう使わないんなら……オレにくれ。いらないんだろ?」


 赤毛の男の名は、ヴラディミア。

 身元の知れぬ生まれでありながら、雑兵から叩き上げて手柄を重ねる歴戦の勇士であり――――同時に、忌み嫌われていた。

 齢四十を越えてなおも意気は若かりし頃と変わらず、野蛮な物言いも抜けない。

 十年ほど前にも子を産ませた女にあてつけのような多額の送金を行い、それきり顔は合わせていなかった。

 人となりの尊敬できる部分はただの一つもなく、堕落しきった無法者ですら彼に比べれば常識人といえて、悪漢なりの美学さえも持ち合わせてはいなかった。

 人間としての全てを欠落させたまま、強さを手に入れ、更になおも求め続ける。

 だがその強さが人々の尊敬を集める事は無く、忌み嫌われ続けるのは彼の悪癖の故に。


 ヴラディミアは――――人の身でありながら、あまりにも血を愛し、欲する。

 見る事も、触る事も、嗅ぐ事も、流れる音を、噴き出す音を聴く事も。

 味わう、事も。

 己の刃にべったりと付いた血をなめ、すくいとった血を顔面に擦り付け、赤毛を研ぎ澄ますように血を塗り込む。

 奇癖きへきを見た者は誰もが戦慄し、そして誰もが、忌まわしい事に……戦場に味方として参陣した彼を見て、安堵した。

 その戦場の勝利が約束されるからだ。

 それと――――彼が敵でなくてよかった、と。


 ヴラディミアは処刑人が解体し取り外した断頭台の、分厚い三日月型の刃を軽々と持ち上げて処刑台を降りた。

 その刃身は彼の身の丈を越えているのに、その重さを感じていないかのようだった。

 ときおり漏れ出る鼻歌はどこまでも上機嫌に聴こえ、“最後の処刑”を見届けた観衆達は、道を大きく空けて戦慄とともに彼を通した。

 石畳の上に犠牲者の血の跡が滴り、残っても、いっこうに気に留めない様子の、彼を。


「……こいつで……ブッ殺してやるよ、次こそなぁ。……なぁ、ヴィルフリートォ……。待ち遠しいな。待ち遠しい……くはははっ」


 顔の左半分を長く伸びた赤毛で覆い隠す姿。

 齢四十を越えて目立ち始めたシワと、混じる白髪。

 痩躯の、ひょろりと長い手にはまるで鷹のような爪が伸びており、緋色の瞳は狂気を湛えた魔物のように爛々と輝く。

 その喜悦はさながら、新品の玩具を手に入れ、早く遊びたがる子供のような無邪気さがある。

 無邪気さ故に――――底知れぬ不気味さがあった。


 彼の好敵手の名は、近隣国の将軍、ヴィルフリート・アイスナーと言った。


*****


 だが、断罪の処刑剣と化した刃は、罪人の怨念を未だ宿しているかのように、彼すらも破滅に追い込んだ。

 待ちに待ったヴィルフリート将軍との再戦の日、彼の率いる部隊は森の中で偶然に敵の斥候隊と鉢合わせた。

 その全てを切り刻んだ時、後詰めでやってきた味方の兵士達が見たのは血で染まった森と、人数が数えられないほどに細かく刻まれた亡骸。

 三日月形の処刑剣には、兵士の腕が絡みつき、なまった刃には公国軍の兵士の頭が、兜ごと食い込んでいた。

 その中心に立つ赤毛の男は、切れ味と質量とに酔い痴れるように微笑んでいた。


 ――――ヴラディミアは、味方殺しの大罪を犯したのだ。


 通例ならば死罪となるのに、もはや公国にその法は存在しなかった。

 それ故……牢獄塔のさらに地下深く、縦穴型の牢獄へ無期限の刑を課す事となった。

 彼への唯一の慈悲として、自害を選べるよう――――その身を剣へ変えた、断頭台の刃とともに。

 もはや使われる事の無い刃を、暗黒へ葬り去るように。


 “味方殺しのヴラディミア”と、数えられぬほどの血を啜った断頭台の刃を、地の底へ眠らせた。



*****


 ヴラディミアが十年あまりの時を経て地上世界へと帰還した時、既に公国の領土はほとんど残ってはいない。

 だが北西に位置する国は、未だ魔王軍の侵略を受けずに残る。

 何故なら――――氷の魔力を解放して散った将軍による地獄の氷原が魔軍の侵略を阻んでいたからだ。

 いかなる魔物であっても、そこへ踏み入れば凍てつき、砕ける。

 もし何らかの手段を以て踏み込んだ者がいるのなら、無謀にも渡ろうとした魔物達の亡骸が、おびただしい数残っている事に必ず気付く。

 亜人種、有翼の魔族、獣型の魔物。

 そこに吹き荒れる冷気は物理的のみならず魔力をも宿すため、実体のない――――半霊体の魔物であっても、凍え死んでいる。

 氷原を迂回せざるを得なかった魔物達は、この国を目指す。

 怒りと苛立ちに任せていくつもの砦を、都市を陥落させ――――元から大した広さでもなかった領土は、その首都を残すのみとなっていた。

 ヴラディミアが地下から出されたのは、二日後には魔軍がこの都市へ達する、限界の局面での事だ。


「……なるほどな、“魔王”とは。……出すのが遅いぜ、ワイゼン四世陛下殿。逃げる事もできねぇじゃねぇか」


 十年の時を経て、ヴラディミアは装備を整えながら毒づいた。

 三日月形の大刀、指先を鋭く尖らせた籠手ガントレット、そして、柄の部分に仕掛けを施した特別製のダガーを十本、どれもかつての懐かしき相棒達だ。

 漆黒の胸甲を着こみ、全身を覆い隠す純白のマントまでも、彼の希望通りに揃えられた。

 伸び放題だった髭は丹念に剃られ、もつれていた髪も整えると――――十年以上の時を経て老いかけてなお異質な迫力と、低く伏して狙う獣のような殺気を放つ公国の魔騎士の姿が蘇った。


「……己の相手はどこだ? ……ナメた真似を、ヴィルフリートを殺りやがった……莫迦バカはどこにいる」


 彼は、大刀を片手に提げて、魔軍を正面に迎えた城壁の上を目指した。

 居並ぶ弓兵、控えの槍兵達は緊張――――否、恐怖を堪えるように、真っ青な顔をしていた。


「よォ……下っ端ども。己がいねぇと張り合いがねぇだろう? 調子はどうだい、え?」


 ヴラディミアは武器から手を離し、城壁中に響き渡るような重い金属音をわざと立てた。

 それに驚き、飛びあがりかけた弓兵ふたりの肩に手を回し、追い込みをかけるように調子を尋ねた。

 二つの行動は、どちらも――――恐ろしく歪んだ悪戯心。

 “悪意”とも呼ぶ、彼なりの悪趣味なユーモアだった。


「き、貴様……ヴラディミア……!?」

「“さん”を付けろよ。……てめぇの血は飲めねぇな。酒臭すぎる。肩の力を抜け、下っ端。それで……何だ、ありゃァ」


 兵士達の視線の先は――――“闇”があった。

 時刻は昼を回ったばかりで、まだ日が沈むまではある。

 それなのに西の空は暗黒の霧がかかったように漆黒に染まり、波打ち、さながら……動物のはらわたのように薄気味悪く脈打っていた。

 地平線の彼方から隊列も組まず押し寄せてくる魔物の群れは……いつになっても、途切れない。


 ヴラディミアはそれを見て――――切れ込むような深い笑みを浮かべた。



*****


 どれだけの矢を射かけても、魔軍は押しのけられない。

 城壁の外に積み重なった死骸を足場にして、段々と、壁上の弓兵達に魔手は迫る。

 大型の魔物に集中して倒せば、それだけ小型の魔物への対応が遅れる。

 城門に貼り付いた魔物は、すでに城門を挟んで兵士達と押し合いを演じていた。

 門を破るべく殺到する魔物、そうはさせじと押し返す城内の兵士。

 衝撃のたびに鉄の城門の軋む音が城中に走り、蛇に締め付けられた獲物の骨のように響き渡った。


「くっ……! 射手は何を、して……! 撃ち漏らしが多すぎるんじゃないのか!」


 抑えこみに参加する兵士からは、壁上の苦戦が見えない。

 あらぬ限りの矢を放ち、放った矢はあまりにも多すぎる敵のどれかに必ず当たる。

 当たるが――――焼け石に水だ。

 誰もが獅子奮迅の活躍を見せているのに、それでも――――追い付かない。

 積み上がる屍の山に立ち、刃の生えた腕を伸ばしてくる大型の魔物の眼を射抜く。

 絶叫とともに転げ落ちた魔物は、そのふもとにいた小型の亜人種を何体もまとめて押し潰し、地響きが城壁を、城門を揺るがす。


「押せっ……押せ、押すん、だ……!」


 それしか、できない。

 すがりつくように城門へ兵士達が殺到し、力の限り、城門を挟んでその向こうにどれだけいるとも知れない魔軍を押し留める。

 もし負けてしまえば――――地獄だ。


 かんぬきとして掛けていた丸太に、亀裂が走った。


 その直後。

 城門の外に、はっきりと聴こえた音がある。

 まだ廃止されて十年ほどだから、彼らはその音をいまだ知っていた。

 その音を聴くたび、誰もが己の節制と正義を守り、知恵を重んじ、勇気の名のもとに生きる事を誓わざるを得なかった忌まわしき音。


 あの――――断罪だんざいやいばが落とされる、轟音だ。


「グアアァァァッ! ギャ、フッ……グエッ!」


 兵士達が静まり返った直後、城門の外で、魔物の叫び声が上がり続ける。

 刃の落ちる音、重質量の刃が振るわれる、ような唸り。

 それと同時に――――城門に外から掛けられる重圧が、減った。

 余裕の生まれた兵士達の疑問は。


「な、なんだ……? 外で、何が起こっているんだ!?」

「敵が退却したのか? いや……そんな事、あるはずが……」


 相変わらず、壁上では弓兵と砲兵の怒号がひっきりなしに聴こえる。

 だが、その中には――――異質なものも混じる。

 何かに怯え、同時に歓喜するような。

 恐怖と感動、そのどちらも宿すような声。

 事態を把握できない兵士達が次に捉えたのは、断末摩と轟音、肉を切り裂く音に続いて城門の下から流れ出たきた、おびただしい量の血液だ。


 赤色、緑色、水色。

 あらゆる魔物の血液が混じり合った、赤黒い血液が――――水責めでも食らっているかのように、城門の下の隙間から入り込んできた。

 兵士達はその不気味さに思わず扉から離れ、遠巻きに見つめるが、もはや離れても、城門はほんの少しも揺らがない。

 敵も、味方も――――城門に、触っていなかった。

 その異常さに静まり返った時。


「ヴゥウウオオオオオオォォォォッッ――――!!」


 城壁の外から聴こえた、耳を塞ぎたくなるような雄叫び。

 誰もが、それは未だ見ぬ魔物の咆哮であると疑わなかった。

 だが、次の瞬間にはそれが……“ヒト”のものだと知る。


「……開けやがれ、仔山羊こやぎども。オレだ」


 その声は――――平然と、開門を要求した。


「己だ。開けろ。……それとも破ってほしいか?」

「ま、待て待て! わかった、開ける……! おい、開門しろ! 少しでいい、早くしろ! 奴は本当に破るぞ!」


 慌てた指揮官の声でようやく兵士達は意識を取り戻し、裂けかけた閂を外し、城門を押し開け、人間ひとり分のスペースを開けた、その時……城門前を染めていたのと同じ液体。

 すなわち、魔物達の血液がゆっくりと流れ込んできて、彼らのブーツを汚した。

 同時に待ちきれぬように血で染まった籠手が扉を掴む。


「お、お前……お前は、何を……!」


 城門の外に立っていた男は――――全身を、赤黒い血液で染め上げていた。

 マントは鮮血にまみれ、顔面も、髪も、およそ血で濡れていない部分は寸毫すんごうたりともない。

 ばかりか人であるとも認識できない有り様だったが、その正体を語るのは、握られた――――大刀の形だ。


 開いた城門の隙間から見えたのは、紛れもない、魔軍の包囲。

 だが、魔物達は凍りついたように、彼に近づこうとしない。城門を開いたというのに、動く様子がない。

 その異常の中を“狂戦士”ヴラディミアはゆっくりと、城内へ向けて歩いて行く。

 最後に、城門が再び閉まる寸前その隙間から、魔軍へ振り返り、眼差しを投げかけた。


 やがて、魔軍は引いた。

それが――――この最後の都市を守る籠城戦の、一日目の終わりだった。



*****


 ヴラディミアの往時の称号は、“狂戦士”。

 その戦いぶりは月に愛されたかのようで、野蛮でありながらも勇猛、その叫びは敵も味方も畏怖させ、痺れさせた。


 “狂戦士”というものの伝説は、その全てが凄まじさを物語る。

 叫びウォー・クライにより、甲冑すら切り裂く狂奔の力を味方に与えた竜殺しの剣士。

 帆柱より高く跳ねて次々に飛び移り、四隻もの軍船を破壊した氷壁諸島の大海賊。

 壁上から見下ろすだけで幾万の敵兵を恐慌に陥れた覇王。


 目指して修められる力ではなく、それは才覚だ。

 ゆえにヴラディミアが本当に彼らと同じかどうか、それを測れる材料はない。

 腕力、魔力と違い――――狂戦士の気迫と殺意は数値にできはしない。

 誰かがそう呼び、その呼び名にふさわしい力を示す事で成り立つ、“通り名”なのだ。


 ヴラディミアには、いくつもそう呼ばれるにふさわしい武勇伝の数々がある。

 だが、そのどれもが華々しさも容赦もない血生臭さと、彼の一滴でも多くの血を求める異常性、更には投獄の理由となった“味方殺し”によって、全てが曇る。

それゆえ、皮肉にも――――狂戦士の名は、ヴラディミアにこそふさわしかった。


 籠城の二日目も、気まぐれに落とされる刃は城壁に貼り付いた魔物を薙ぎ払い、ヴラディミアは悠々と城門から“帰宅”した。

 巨人の腕を両断し、オークの戦列を崩壊させ、戦場を凍てつかせる咆哮は魔軍を硬直させた。

 いくつものシワを刻んだ齢と枯れた痩躯に見合わぬ膂力、十年あまりを獄で過ごしたとは思えないほどの気力と得体のしれない無尽の体力は、兵士達にとっては純然たる恐怖だった。

 壁上から射かけている弓兵の後ろに音もなく忍び寄り、その脇をすり抜けて壁上から身を投げ、“断頭台”そのもののように魔軍を蹴散らす。

 投げかける短剣は炸裂して無数の棘を撒き散らし、繰り出される素手での貫手ぬきては亜人達の喉を裂いた。

 さらには引き剥がしたゴブリンの顔面の皮膚を掲げて、“美酒”をたしなみながら城内へ戻る有り様だった。

 その間にも、反対側に位置する門からは市民の避難が進められていた。


 だが、三日目の夕刻――――城門は、ついに破られた。



*****


 これまでのように、城門を開けてヴラディミアを迎える、はずだった。

 門の外に連続する轟音の数々は、“狂戦士”が魔王の軍勢を切り刻んでいると、信じていた。

だが――――。


「ひぃっ!?」


 鉄の城門が、たやすく引き裂かれた。

 四本にもわたる爪痕が走り、耐えていた閂も一本きりの矢のように容易く折れて、隙間から傷口を広げるように首を突っ込んできたのは、馬車ほどもある“猟犬”の頭だった。


「グアアァァルルルルルッ! ガウ……ガフッ!」


 燃え盛る瞳は、それが単なる巨大な犬ではない事を如実に物語る。

 したたる唾液は、魔物の血で重ね塗られた城門下の石畳を溶かした。


「くそ、城門が……破られた……! 死守しろ!」


 兵士達が大盾と長槍パイクで壁を築いた直後――――彼らは、凍りついたように動けなくなった。

 その猟犬の首は、ひとつでは無い。

 引き裂いた傷口から城門を開いて侵入してきたのは――――二つ目、三つ目の首。

 だがその胴体はひとつしかなく、小山のように巨大だった。


「ケル、ベロ……ス……? そんな……バカ、な……バカな……!!」


 マンティコア、キメラ、バシリスク、グリフィン。

 それらとは一線を画する――――“神話”の怪物だった。

 この世界に存在するはずのない、一度たりとも目撃された事の無い、三つ首の地獄の番犬。

 燃え盛る瞳を持ち、炎を吐き散らし、地を薙ぎ払う蛇の尾と首を守るたてがみを生やした正真正銘の“魔物”。

 神話の存在が、今――――兵士達の目の前に。

 その鋭い歯列の一本一本が、彼らの腰にある長剣と同じ長さを誇っていた。


 悠然と歩を進めるケルベロスが踏みつけていたのは――――傷付きピクリとも動かない、城門の外で戦っていたはずの男だ。


「ヴラディミア!」

「くっ……待ってろ、今――――!」


 兵士達が前進すると同時に、ケルベロスは。


「ガルアァァァァァッ!!」


 倒れたヴラディミアへ噛みつき、そのまま――――中央の首で、ゆっくりと、嘲笑うように呑み込んでいった。

 続けてケルベロスは、左の首が銜えていた、彼の得物を、街中へ向け、放り投げた。

 重い残響とともに“三日月刀”は宙を舞い、街の中心の鐘楼しょうろうへと深々と突き立った。

 理解不能なほどの、不要なほどの知性の高さと見た目通りの邪悪さを以て、この番犬は告げたのだ。


 ――――この国の時は、もう刻まれないのだと。


『グルウゥァアアアァァァァァァッ!!』


 三つの首が吼え猛ると同時に、開け放たれた城門から魔物の軍勢が雪崩れ込んできた。

 そこから先は、もはや――――戦いではない。

 虐殺の時間だった。



*****


(ぐっ……あ……あちッ……何、だ……ここァ……!)


 ケルベロスの胃の中で、息苦しさにヴラディミアは目を覚ました。

 だが、胃液で焼かれる激痛が全身を苛む。


「がああぁぁぁぁぁっ――――!!」


 絶叫で、肺に残る少なかった空気のほとんどを費やした。

 強烈な熱さと、溶けた皮膚から沁み込む強酸の胃液による苦痛。

 もはや、腕に感覚は無い。

 不快な生臭さと、息苦しさと、苦痛、地獄の熱気、そして暗闇。

 それが、ヴラディミアを取り巻く全てだった。


(ふざ、けるな……! これ、が……これが、オレの最期だと……! 犬ッコロにボロカスにされて、犬のクソになる、だと……!!)


 叫びたくとも、それはもはや声にならない。

 短剣を探ろうにも、折れ砕けた両腕はもはや動かず、あるのかどうかすらも不明で、感覚そのものがない。

 刃を仕込んだ籠手も、未だ溶け残っているのかどうかも分からない。

 気絶する事すら許されないまま、思考だけが加速していた。


(ヴィル、フリート……! 貴様……と……決着を……つける事すら……!)


 今わの際、思い出したのは――――子を産ませた女の事でも、いるはずの、今も生きているかどうかも分からない子でもなく好敵手と認めた男の事だった。

 刃を交えるたびに、殺意と苛立ちが募っていた。

 かの男が“冬将軍”となってから、一度戦った時の事もだ。

 ヴィルフリート・アイスナーは身に受けた魔女の呪いを、誇らしげに剣で語っていた。

 凍傷の苦痛と寒さを味わっていながら、肩に霜を下ろして、真っ白い吐息を吐きながら。


 ――――それは、


(ふざけるな……ふざけるな……ッ! 己は……貴様にだけは、負ける訳にいかねぇ……! だのに、何だっ……! 貴様は死して尚誇らし気か……! そして、己は……犬のクソになって、終わり……だと……!)


「ガ、ウッ……!」


 叫びは、“鳴き声”と変わった。


(死ぬ、かよ……死んで、たまるか! 死んでたまるか、死んでたまるか、死んで、たまるか…………! 己、は……貴様より……強い……絶対、に……貴様、なんぞ、よりィィィィ!!)


 胃液の中から、溶けかけていた腕が持ち上がる。

 ヴラディミアは――――足掻くように、ケルベロスの胃袋の中で、吼えた。


「グルルルラァァァァァァッ――――!!!」



*****


「はやく逃げて、ほらっ……! ちくしょう、姐さんはいったいどこに……はっ!?」


 右の側頭部に折れた枝角を生やした、若い魔導士が避難する市民を誘導し、殿しんがりを務めながら魔軍の足止めをしていた。

 もはや、公国の首都は火の海であり、血の海だった。

 二人の兵士とともに市民を守って移動していた彼は、通りの角を曲がってきたケルベロスを視界に捉えてしまい――――縫い止められたように、動けなくなった。


「……は、ははっ……やっべ……死ぬわぁ、これ……」


 声は震えていた。

 傍らにいる兵士達もまた同様で、ちょうど三人とも――――三つ首の魔犬に、行き渡る。

 走って逃げる事も、立ち向かう事もできない。

 ケルベロスはにんまりと口を歪め、三人に向けて、その後ろにいる市民達へ向けて、駆け出す――――直後の事だ。

 突如、ケルベロスはもだえ苦しみ、駆け出した勢いを殺せないまま、通りに面した家へと突っ込んでいき、暴れ始めた。


『ガウルルルッ! グルアッ、ギャヒッ……! ギャインッ!』


 三つの首が、苦悶の息を漏らす。


「な、何……これ……? だ、誰か何かしたのか!?」


 若い魔導士が辺りを見回しても、誰も、何もした形跡がない。

 兵士も目を丸くして、地獄の番犬のもだえ苦しむさまを黙って見ているしかなかった。

 やがて――――中央の首の、喉が裂けて。

 そこから、鋭い爪を生やした腕が、にょっきりと天を指すように姿を覗かせる。

 

『ギャ、ハッ……! ハッ……ハッ……ギャブッ!!』

「え、何……うわっ!?」


 ぐりん、と抉り抜くように振り払われた“腕”が、中央の首を内部から切り落としてしまった。

 断面から飛び出して来たそれは、目にも留まらぬ速さで燃え盛る屋根の上を駆け、崩壊した骨組みを足場にして加速し、真っ直ぐに――――鐘楼に突き立つ“それ”を目指し、跳躍した。


 溶け残ったマント、腰鎧、全身を覆う漆黒の体毛。

 “それ”が得物を手に戻ってきた時には――――ケルベロスも体勢を立て直して、残った二つの首、怒りに燃える四つの瞳でもって迎え撃った。


「……ウァオオォォォォォンッ!!」


 魔導士と兵士が見上げた屋根の上には、三日月型の奇刃を手に遠吠えを挙げる、もう一体の魔。

 漆黒の体毛を持つ、それの頭部は――――ケルベロスに似ていながら、なお獰猛な獣のものだ。


「じ……人狼じんろう……?」


 魔導士は、思わず呟く。


「あの剣まさか……ヴラディミア……か……? 正門で食い殺されたと聞いたぞ!」

「ヤツは人狼だったのか……!?」


 “人狼”とは――――モンスターの名前にして、病の名でもある。

 人狼に噛まれた者は人狼となり、更に連鎖を拡大させる。

 昼間は人の姿であっても、月夜には理性を失い変異して犠牲者の肉を貪り、食い残され命からがら逃げられても、その者は新たな人狼となる。


変身型の獣人と異なる点は、その変身が意志で抑制できない事と、完全に理性を失う事。

そして、その変身は恐ろしい激痛を伴う事。

人間としての皮膚は月光にただれて腐り落ち、その下から狼の毛皮が再生して体を覆う。


 発症すれば人と獣の間を行き来するしかなくなり、治療は不可能。

 祝福で苦痛を軽減する事すらできない。

 噛まれてしまえば、苦痛とともに食人を繰り返す魔物として生きるか、殺されるかしかなかった。


「ウア、オォォォン!!」


 人狼ヴラディミアは、ケルベロスへ向けて飛びかかる。

 その手に、“月”を携えて――――すぐ近くにいる無辜の民にも目をくれず、地獄の番犬へ向けて。

 正面から迎撃せんと右前脚を払うも人狼は恐るべし身のこなしで取りつき、刃を振るい瞬く間に寸断する。

 脚をひとつ失ったケルベロスは体勢を崩し、倒れる。

 その間隙かんげきを逃す人狼では、ない。


 再び――――断罪の刃の奏でる重低音と、強烈な揺れ。

 刎ね飛ばされたケルベロスの首は宙を舞い、民家を潰してしまった。

騒ぎを聞きつけて寄り集まってきた魔物達にも、人狼は容赦しない。

 人であった頃よりなお素早い動きを以て、それらを地獄へ送り返していく。


 ケルベロスの最後の首が落ちた時、ようやく魔導士は我に返って――――市民とともに脱出した。



*****


 ヴラディミアが再び目を覚ました時、そこは洞窟の中だった。

 体にかけられていたマントを払いながら身体を起こすと、焚き火と、数人の人影が目に入る。


「ここは……どこだ」


 四肢の感覚を確かめ、そこが夢うつつでない事を確かめる。

 手も足も繋がっている。吹き込む湿った風と、焚き火の熱もまた、幻覚ではない。

 ぼやけていた視界に飛びこんできたのは、公国の兵士の装束の男達、十人足らずだった。


「気が付かれましたか。ここは、どこと訊ねられても……正直分かりません。答えられませんよ、ヴラディミア殿」

「……何が起こった?」

「我々は……命拾いしたのです。もう逃げられない、そう覚悟した時……貴方のおかげで」

「……あァ、そういや……」


 ヴラディミアは、人狼と化している間も意識を保てる。

 狂戦士の才覚で人狼の本能を抑えこむ事で、人間の意識を保ったまま、“狂戦士”と“人狼”両方の力を振るえた。


「……煙草、あるか」

「あいにく……持ちだせませんでした。酒も。ですが……あれはどうにか」


 兵士の見つめた先。

 焚き火に照らされていたのは、血のこびりついた断罪の刃が岩壁に立てかけられていた。


「フン……気が利くじゃねぇか、褒めてやるよ、雑魚ども」

「何とでも。我々は貴方に救われたのですから、何も言い返せません」

「国はどうなった?」

「…………滅びました。王は最後まで残り、城と運命をともにしたと」

「ケッ……ワイゼンの野郎も、好きなモンだ。逃げろよ。逃げりゃ……よかったろうがよ」


 それきり―――沈黙が訪れた。

 兵士が差し出した水にも、携行食にも手を付けず、ヴラディミアは赤毛を撫でつけながらぼうっと焚き火を見つめていた。


「……おい、雑魚。貴様、家族はいるのか」

「今いるかは分かりません。逃げたのだと信じたいのみです。ヴラディミア殿は?」

「己も同じだ。一応娘はいる、らしいが……まぁ、半分は己だ。なハズはないな」

「…………これからどうするのですか?」


 そう訊ねられたヴラディミアは、即答する。


「魔王と喧嘩だ」


 ケルベロスの腹の中で、考え至った結論だった。

 忌々しい好敵手――――ヴィルフリートは死して尚、氷原と化して国を守っていた。

 ならばと、自らはその逆を行く決意。

 すなわち。


「己は、ヤツに落とし前をつけさせる。死ぬつもりはねぇ。……あのクソ野郎は魔王に負けた。なら己は、魔王をブッ殺して……己の方が強いと証明してやるまでよ」


 ――――――死して尚、国を守りし白銀騎はくぎんき


 ――――――国破れ、尚も戦う狂戦士。


「ご一緒しますよ、ヴラディミア殿」


 そして、男は――――戦う理由を失い、尚も戦う事を決意した。







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