滅びゆく地の老詩人から、いつになるとも知れぬ君へ

*****


 ――――月×日


 私は今まで婉曲な美文と優艶な言葉で人々を楽しませ、魅了し、惑わせたものだが此度こたびはあえて私の手記として、この街の日々を書きつづって行こうと思う。

 もしこれを目にする者あらば、願う。これは私の手になる詩ではない。

 もはや詩人の身ではない私、オズリック・ハドレニエル個人の日記なのだ。

 私の名誉にかけて願い、君に訴える。どうか、この文章は君の胸に。

 この本は、君の隠し本棚に眠らせてくれたまえ。


 それにしても自分の心情を、おどけも気取りもせずにつづるというのは、あらたまると照れるな。



*****


 この街は、私の故郷だ。

 思えば随分と長く旅をしてきた。

 氷壁諸島ひょうへきしょとうへ渡って豪放な男達と親交を深め、北方王国の巨人達の酒場で高すぎる椅子に座り大きすぎる杯に苦戦し、西王国ではちょっとした有名人となった。

 しかしこの膝にさわりを発してしまい、とうとう南の果ての獣人の王国へと渡れなかった事は悔やまれる。

 鏡に映る自分の顔は、この街に住んでいた頃と比べると――――そうさな、父を通りこして祖父の顔に似ているなとしみじみ思う。

 髪もこんなに白く、細くまばらになってしまった。だが、それもまぁ私の生きてきた証だ。

 幾星霜いくせいそうの時を経て振り積もる、時という名の白雪が彼を装わせ――――いかんいかん、気を抜くとついその手の言葉が出てしまうな。

 もう一度確認するが、これは私の日記だ。

 ありのまま、飾らず私の言葉でつづっていかねばな。



*****


 通りへ面した窓を開けると、子供達の笑い声が聞こえる。

 吹き込むそよ風は私の老いさらばえた頬を撫で、ほんの少しの潤いを分けてくれるようだった。

 私は若くしてすぐにこの街を出てしまったから、こうしてゆっくりと街の喧騒に耳を傾けるのは初めてと言ってもいいかもしれない。

 がなり立てる先触れの大声すらも心地よい。

 表で繰り広げられる痴話ゲンカもまた、風情だろう。

 数多くの国々を旅した今だからこそ、分かる。この街は活気に溢れ、平和で、路上で老いた物乞いがひっそりと死んでいる事もない、住みよい街だ。

 この生家だって、追いはぎのアジトにされていたりした事もない。

 いたみはしていたが、雷雨を凌ぐために頼っていた山小屋の数々に比べれば大豪邸だいごうていだ。

 得体のしれない虫も湧いてやしない。

 本当に、本当にいい家で、いい街だ。

 ただ――――もう旅に出られる事もないのだと思うと、少し落ち着かない。

 私と言うのは本来、落ち着きのない人間だったのだろうが、慣れていかねば。



*****


 ――――――平和な日々は、ネタにならない。

 そんな穏やかならぬ事を考えてしまうのは、あまりにも罰当たりだ。

 今は、知る限りどこの国々も戦乱に身を投じてはいない。

 西王国、その西にある国々も今は火花を散らしていない。

 北方王国も、離れた東大陸の国々も今は落ち着いている。

 実際どうなるかは分からぬとはいえ、今は珍しく平和な時代なのだろう。願わくば、この平和が長く続く事を願う。

 この街が――――いつまでも穏やかである事を。

 私の余生が、この街とともに穏やかである事を。


 ただ、気になっていた事がひとつ。

 この街は――――こんなにも、曇り空が多かったろうか?

 まぁ、美化だろう。子ども時代を思い返せば、だいたいは晴天の空の下だから。



*****


 腰を落ち着けて、半年になる。

 旅をやめると、やり残した事の多さにも気付いてしまう。

 白吟竜はくぎんりゅうの化身と称される、“黒白こくびゃく歯鯨はくじら”を一目見る事はとうとう出来なかった。

 世界のどこかにまだ生きていると言う“雷竜”の姿を見つける事もできなかった。

 聖母竜の祝祭だけは見られたし、流星とともに夜空を駆ける箒星ほうきぼし――――“聖母竜の凱旋”を見られたのは僥倖ぎょうこうだったと思い知る。


 それにしても、空が暗い。

 雨も降らない曇天が一週間も続く。

 身体の内側までも湿気がはびこるようで、どうにも具合が良くならない。

 雨雲とも違う、分厚く黒い雲が――――いつまでもこの街の空から、どかない。

 不気味などす黒い暗雲が、いつまでも、いつまでも、圧し掛かるようにこの街にフタをする。

 若い時分であれば、浴びるほど酒を飲み、ケンカのひとつかふたつもして憂さを吹っ飛ばせたが……今はもう、叶わない。

 さじやインク壺ですら重く感じる事が多くなったし、この手記をしたためるだけでも休みを挟みながらだからな。

 まぁ――――もともと、腕っぷしに自信があるほうではなかったがね。



*****


 日が経つごとに、雲はその厚みと暗さを増す。

 風も吹かず、雨も降らず、嫌がらせのような曇天が続いて――――衛兵がやかましくケンカ騒ぎの仲裁に走り回る。

 そんな若さがない事をとりあえず、救いと考える事にする。

 しかし……やはり、この曇り空はおかしい。老人の身になってしまったからこそ分かる、若者たちとは違う種類の予感を、嫌な気配を感じざるを得ない。

 身を寄せるキャラバンがゴブリンの集団に襲われた時と似て――――いや、段違いだ。

 何か、得体のしれない薄暗い視線が、この街を、この国を覗き込んでいる。

 空を仰げばその“目”と合ってしまいそうにも感じた。

 結局今私は、この漠然とした不安を欝々うつうつと書き記していくだけだ。



*****


 魔王が現れた。



*****


 前回は取り乱してしまい、我ながら情けない。

 寝込んでひと月も空いてしまったが、再び書き記していこう、私の心情を、私の常の言葉遣いで。


 ある美しい小国が抉り取られたように消えており、不可思議な闇の雲が跡地に立ちこめていたという。

 曇天はその地を目指して収束し、一応は青空が覗けているが――――住民は皆、気が気でない。

 もう一度言おう。


 魔王が、現れた。


 これは冗談でも何でも無い。

 この世界を滅ぼすと伝えられる伝説にして暗黒の存在、“魔王”がこの世界へ現れたのだ。

 西の王国は魔王の軍団との戦争に備えて、軍を編成しているという。

 我が国、この街はその“小国”跡地にほど近い。

 本当に“魔王”が現れたとなれば……呑み込まれるだろう。

 住民たちはもはやケンカに明け暮れる気力もなく、戦々恐々としている。街を出ていく者も、少なくはない。

 だが――――魔王から、どこに逃れられるというのだろう?


 今日はこのあたりにしておこう。

 どうしても、気分が沈んでしまう。



*****


 街の大通りを、開け放した鎧戸の外を、我が国の軍団が行進する。

 煌びやかな鎧を纏い、紅蓮の戦旗をはためかせる我が国最強の騎兵隊の雄姿を焼きつけようと人々は身を乗り出している。

 彼らの出陣を祝うべく散らされる花びらが雨となって降り注ぐ。

 あの黄金の炎をまとうような軍装は、私の目すらも少年のように輝かせる。

 ありとあらゆる魔術の耐性を施した鎧は、火の海を渡り、差し向けられた氷刃を砕き、一騎当千の働きを可能とする魔法の鎧だ。

 胸が高鳴るが――――同時にそれは、裏付けにもなる。

 本当に、彼らが出ざるを得ないような事態が起きてしまっている。

 隣国との戦争だとか、そういう話ならまだいい。人間同士話が通じるのだし、遠くへ逃げる事もできたろう。

 くどいようだが……“魔王”から、どこに逃げるというのだ?

 私に出来る事は、彼らの勝利を願う事のみだ。

 もはや私は歳を取りすぎてしまい、彼らとともに槍を掲げる事すらできなくなってしまったのだから。



*****


 紅蓮の魔装騎兵達は、還ってこなかった。



*****


 “魔王”という存在について、私の……まあ人よりは知見ちけんの広いと言っても、別に学者でも魔導士でもない身の知り得る事を書いていこう。


 魔王とは、何か実際のものを指す名ではない。

 神話に於ける邪神、悪神、そうした住人達と同じものであり――――大真面目に論議を交わす類のものではない。

 一説によれば、遠い昔……この世界は魔王の侵略を受けたという。

 古文書を紐解けばそれは、天変地異の重なった結果を差した、暗黒の時代そのものの比喩だという学説が濃厚ではある。

 だが、もしも……それは比喩でも誇張でもないとしたら?

 決して大げさなものではなく、ありのままを書き述べた、正真正銘の記録であったのなら?

 そんな事を言ったところで、今の時代はもう誰も笑うまい。


 不吉な暗雲の襲来、収束、そして小国の滅亡。これだけではない。

 魔導士達が、魔女達が、予言者呪術師の類が……皆、不吉なる未来を見た。

 私が寝込む前に見たものを、今ここで伝えよう。


 あの日、私は寝る前に久々の一杯とともに暗雲たれ込める空を見ていた。

 すると、薄気味悪い濁り、ぬくまった風が舞い……窓辺のランプが吹き消えてしまった。

 火種を探していると、暗雲が急速に――――西の果てへ向けて逆巻くように流転し、見る見るうちに矢のような速さで流れていったのだ。

 その中で暗雲は不気味な紫色の光を放ち――――轟音が聞こえなかったのだから、それが雷でないのは明白だった。

 流れゆく暗雲は、無数の悪鬼の形相を取り、嘲笑うように我々の上空を通りすぎていった。

 気付けば、通りに面した窓は全て開いていて……誰もが、その暗黒の空を眺めていた。

 ――――皆が、恐怖におののいていた。


 魔法の心得などなくとも、誰しも分かる凶兆だ。

 数日して、誰ともなく口々に言い合った。

 やがてそれは真実味を増していき、ある時……幾人もの国家を越えた大魔導士達の評議を得て、正式な発表となってもたらされた。


 ――――この世界に、“魔王”が現れた。


 と。



*****


 もはや、この街からは続々と人が消えていく。

 この街を通りすぎて西へ向かう兵士達は、誰一人帰ってはこなんだ。

 喧々諤々、殺伐としていたのも今は昔の話だ。

 悲観した終末論者さえ、もう叫んでいない。

 もう、この街は――――じきに、闇に飲み込まれるだろう。

 守備兵達は最後の抵抗を試みんとしているようだ。

 残る限りの砲弾を城壁の上に集めて、それらが地平線の向こうに見える瞬間を逃すまいとしている。


 私は、この街と運命をともにする。

 今まで散々ないがしろにして、見るまいとして、帰るまいとしてきたが……それでもここは私の故郷なのだ。

 私は父の死に目にも、母の死に目にも会えなかった不出来な莫迦息子ばかむすこだ。

 だから、せめて――――この街の死にゆく時だけは、看取ろうと思う。

 笑うだろうか?

 君は、決して笑わないのだろうと信じている。



*****


 守備兵達が撃ち鳴らす大砲の音も、雪崩れ込む魔物達を食い止めるべく戦う兵士達の蛮声も、金属音も、断末摩ももう少なくなってきた。

 私は今、頼りなく漏れてくる光を頼りにこれを書いている。

 どすん、どすん、という地響きはきっと、大型の亜人種のものだ。

 一度だけ、注意深く外を窺ってみたら……街並みを飛び移り、人々を血祭りに上げていく……噂に聞く“マンティコア”の姿も見えてしまったが、私には、ふれてしまえるほどの気力ももう残っていないようだ。


 今日は、私がこの日記に記せる最後の一日となる。

 一人の老詩人の、最期の手紙だ。


 もしも焼け残ったこの家で、いつかこの本を手にする者が君であったのなら、私から“ひとつ”だけお願いがある。


 もはや、私の命には間に合わない。この街の運命にも間に合わず、私の故郷はなくなるのだろう。だが、お願いだ。

 この世界を、どうか。

 この世界の火を守らんと散って逝った者達は、君によって報われる。君によって救われる。

 私には、この世界に生きる者達を代表する権利などなく、そんな大それた事は言えない。

 ただ私――――老オズリック・ハドレニエルは、この世界に息づく全ての命のなかの“ひとつ”として、君に願わせていただきたい。


 この世界を――――救ってくれ。

 いつの日かあの魔王を打ち倒し、踏みにじられた世界とそこに息づいていた者達の無念を、晴らしてくれ。

 この世界を守るべく戦って散った者達を、戦い続けて君を待つ者達を、救ってやってほしいのだ。


 この世界をどうか、救ってくれ。









“勇者”よ。









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