蛇姫の見た世界

*****


 深い森の中、小さな泉に身を映し、色の髪を梳る乙女が居た。

 整ってまっすぐに伸びた髪は月夜つくよのように艶めき、腰ほどまでで横一線に揃えられている。

 虫も殺さぬような穏やかな相貌そうぼうはどこか聖女を想わせるような純潔の佇まいを宿し、ほとんど閉じてしまうほどまで瞑った眼は、暖かな木洩れ日を受けて眠気を起こしているのが窺えた。


 彼女の周りでは小鳥たちが、逃げもせずに泉の水で嘴を濡らしていた。

 その乙女が何もしてこないのだと分かっているから、自分たちを捕食する存在でないと分かっているから、乙女がいつものようにこの泉にやってきた時にも逃げなかった。

 栗鼠りすのつがいもまた逃げず、乙女の体を這いまわる。


 見ればその身は人ならず。

 腰の半ばから上は、聖女然とした穏やかな純潔の乙女。

 だが、その腰から下は、だった。

 よく育ったクルミの木ほどの長さを持つ大蛇の体は鱗に覆われ、いくつも目玉のような模様が浮かび上がり、見る者へ本能的な警告を促す。

 乙女の正体は蛇身じゃしんの魔物、ラミア。

 美女の上半身と、恐ろしい大蛇の下半身を併せ持つ、獣人ならざる魔物の種族だ。

 その身体はさながら“武器庫ぶきこ”と評する者多く。長く伸長する剣のような爪、石化毒、巻きつけば牛すらへし折り捻り殺す体、髪を針へ変化させて毒液を注入し、生物を威圧しその四肢を硬直させる深淵の邪視じゃしを振りまき、血液すらも若干の毒性を持つため散布すれば目潰しになり、言うまでも無く身体を覆う鱗は頑強。

 仕留めた冒険者を飲み込み餌食にする事も珍しくない――――全身すべてが武器であり、首を斬り落としても数分程度であれば生存していられる生命力は脅威そのものだ。

 蛇の知覚を持つため、暗闇の中でも温度を頼りに獲物の存在を感知できるという狡猾な能力をも併せ持つ。

 全てが戦闘と殺戮に特化した、世にも恐ろしい魔物の種族の一人。

 彼女は、ずっと――――この森の中の岩窟に、物心ついた時から一人で住んでいた。


 肉を喰らわず、果実と木の根、葉を食べて。

 この人里離れた森の中に人間など入ってくる事が無く、逃げた事も戦った事も、身を隠した事もない。

 必要だった事が無いから名前もなく、そもそも“名前”の概念すらも持っていない。

 原初そのものの生き方をしていた彼女が、このほど悩まされている事がひとつある。


「ア――――ガッ……! グ――――!」


 目をぎゅっと閉じ、身を震わせた拍子に手製のくしが手元を離れ、泉に落ちた拍子に小鳥たちが飛び去り、栗鼠も彼女の身体を離れた。


「ア、 グ……ウゥゥゥゥ……ッ!」


 それは――――頭の中に聴こえる、異様な音韻。

 数日前から、朝も夜もなく唐突に聴こえてくるそれを、彼女は“声”というものだと認識できないまま、同時に襲ってくる奇妙な頭痛に歯を食いしばり耐えていた。


 例えるなら、それは――業火のような頭痛。

 熱さではなく頭の中が炎上し、思考の全てを燃焼させられるような。

 抗いがたい、熟れた果実を目の前にしたような甘美な誘惑にも似た感覚だった。


 時にして、数秒。

 彼女は必死に耐え、脂汗を滲ませてそれが去るのを待つしかなかった。


「ワ、レハ……“マオ”……シタガ……エ……」


 奇妙な音――――“声”を、彼女は覚え始めていた。

 この閉ざされた地で過ごして来た彼女が初めて聞く、他者の声と、存在。


 数日後。


 岩窟から、ラミアの姿が消えた。



*****


 “彼女”が再び視界を取り戻せたのは、それからいつまで経っての事か分からなかった。

 気付いた時には、魔物達が周りにいた。

 緑色の毒々しい肌を持つ人型の魔物、ゴブリン。

 大きく膨れた腹を持ち、強靭な消化能力の代償として多くのエネルギーを消化活動へ費やしてしまう暴食の魔物、オーガ。

 さしたる特徴なく、ただ人間よりおしなべて頑強な膂力を持つ亜人種オーク。

 再生能力を持つ“壁役”の魔物、トロール。

 それだけに留まらず、空に目を向ければカラスに替わって行き交う悪霊の渦があった。

 そして、何より。

 彼女が今いる沼地の一角には――――“同じ存在”が大群を成して空を仰いでいた。


「オナ、ジ……ワタ、シト……ッ?」


 彼女が初めて見る同族ラミア達の姿は、見た目こそ似ているのに、水面みなもに映していた己の姿とはまるで違う。

 針のように鋭い縦長の瞳は血走り、見開かれている者。

 瞳も瞼もなく、黒一色の眼を晒している者。

 穏やかに閉じた糸目のまま困惑する“彼女”は、この場では異端だった。

 ラミア達のそれぞれの視線の先を辿ると、そこには――――沼地の果て、沼気しょうきにゆらめく城の幻影があった。


 それを見た時――――彼女は、あの見も知らない、そもそも初めて見る“城”というモノの主に仕えなければならないという衝動が湧きあがった。

 己ひとりで生きてきた身が、それでも強烈に喚起させられるその衝動はどちらかといえば本能に近い。

 食事、睡眠、それらを超えてなお掻き立てられる、血に眠る本能だった。


「――――マ、オ……“マオ”……シタガ、ウ……」


 枯れ木の林に群集する蜘蛛の眷族達が、ガサガサと音を立てて奇声を上げる。

 亜人デミヒューマン達は唾液を散らして熱狂する。

 静謐な泉の光景は、彼女の脳裏から段々と薄れていった。

 柔らかく茂った草ではなく、ぬちゃぬちゃとへばりつくような泥の感触が彼女の“腹”の下にある。

 まぶしい木洩れ日も差さず、しとやかで瑞々しい空気もなく、鳥たちの歌も聴こえない。

 聞こえるのは怪鳥の魔物の、獣に近いようないななきだった。


 頭に木霊する声は、いよいよ大きく響いていく。

 魔の城を望みながらかしずく“魔物”達もまたそれに聞き惚れていたように口を歪ませ、恍惚の表情を浮かべていた。


『――――われは、滅び。我は、宿命さだめ常世とこよを暗黒へと沈め、我が世をなすべく降り立つ者』


 “彼女”は、その声を聴くたびに自分自身が蝕まれて行く恐怖を感じ取りながら――――串でも通されたように、気付けば周りのラミア達と同じく、背を正し傾注する姿勢を取っていた。


(ウ……ア……“マオ”……)


 ひどい眠気にも似た、抗いがたい誘惑が身の内から起こる。


『――――故に、“魔王”。ここより、闇の世界をもたらそう。物質世界の暗黒の眷族達よ。我が尖兵と化せ。さぁ――――』

(ア……)


『世界を――――喰らい尽くせ』



*****


 ――――初めて見た“赤”は、べったりと濡れていた。

 その暖かさが、彼女の初めて触れる命の温もりだった。

 そして荒れ野を吹き抜けていく風がその手を冷まし、乾かし、彼女のかつてはまっさらだった手をうすら寒く冷え込ませていった。


「――――ア、ア……アァ……アァァァァァ……!」


 ――――何か、取り返しのつかない事が起きた。

 ――――

 ――――染まった手は、その動かぬ証拠だ。

 ――――理解した時、喉から悲痛の呻きが漏れて……どこか近くから聴こえる、か細い別の声にも気付いた。


「た、……たす、け……て……」


 目を向けた先に、甲冑ごとその背を切り刻まれもはや立つ事もできないイキモノがいた。

 己の半身と同じ姿を持ち、そして立って這わずに歩けるだろう足を持つ、初めて見る存在だった。

 今己の手を染めている赤は、もしや彼のものではないのか。

 そう考えながら、それでも――――胸をざわめかせながら、凍りつくような恐ろしさを堪えながら、初めて見るイキモノへ這い寄る。

 気配を感じて過、兵士は怯えた眼を。ままならぬ体の中で唯一動かせる眼だけを、彼女に向けた。


「ひっ……! や、やめろ……やめて……! く、来るな! 殺さ、ないで……殺さないでくれ……!」

「エ……!?」


 生まれて初めての、“会話”。

 生まれて初めて、孤独なラミアが聞いた“人間”の言葉は――――命乞い、だった。


「助けて……殺さないで、く……がぁっ……!」

「キヒ、ヒハハハハッ!!」


 彼女の目の前で、同族は、無防備なその人間の背を刺し貫いた。

 ごぼっ、と血の塊を吐き出したきり、もう……彼女の初めて言葉を交わした“人間”は、動かなくなった。


 乳白色の蛇身を持つそのラミアは、血と殺戮に酔い痴れるように高らかに笑う。わらう。

 更に向こうには別のラミアが亡骸の肉を貪り、もてあそんでいた。

 その爪を赤く染め上げ、口角に付着した鮮血を二又の舌で味わい、千切れた躯をなお刻み、くびり殺してなお濡れ布巾を絞るように締め上げる。

 まるで――――この世界そのものを紅く染めたいかのように。


「ア、 ア……ウ、ウェッ……!」


 彼女は、胃の腑が搾り上げられるような感覚を覚えた。

 不快なものが腹腔から食堂、喉をせり上がり――――堪える事もできずにそれを吐き出す。


 そして、彼女はその場を逃げ出した。


 背に追いすがるように聞こえる、同族たちの哄笑。

 道すがらに見たゴブリン達の熱狂。

 オーガの祝宴、リントヴルムによる人類の踊り食い。


 全てを置き去りに、ただ、ひたすら、ひたすら。

 ようやく辿りついた河で、いくら体を清めても。

 鱗にこびりついた血痕を爪でしごくように洗い落そうとしても、落ちない。

 落ちていても、まだ――――生ぬるく穢れている感覚が、消えてくれない。


「ア、 アァァァ……ウアァァァァッ! ヤ……ヤ、ダ……アァァァァ……!」


 “言葉”を知る事ができたのは、“魔王”の誘惑と人類の命乞い。

 初めてではなく、恐らく自身は、何度も……何度も、人類の言葉を聞いていたと彼女は気付かされた。

 命乞いを、断末摩を、悲鳴を。

 何度も……聞いて、しまっていたと。


 ――――蛇姫の慟哭は、止む時を知らなかった。



*****


 そして彼女は、それきり――――魔王の声も聴こえなくなった。

 思い知らされた事実を噛み締めながら、彼女は人目を避けて逃げ延びた。

 初めて見る同族は、人喰いの魔物だった。

 初めて見る己の半身を持つ種族は無惨な死を遂げ、その亡骸を弄ばれていた。

 緑深い森の中で静かに時を過ごしていた彼女は、己が種族の呪わしさをこれ以上なく残酷に思い知ってしまった。


 人目を忍び、人里を避けて、彼女は世界の果てまでも逃げ続けた。

 しかし、やがて――――人間の狩人に見つかり、それは領内の衛兵の知るところとなる。

 森林の中に、“ラミア”を見かけた。

 それは――――やがて、冒険者達のギルドにまで依頼が出されてしまい、彼女を追い詰める事となった。


「ハッ…ハァ……ッ! ワタ、シ……ナニ、モ……!」


 夜の更けた山中を、彼女は逃げ続ける。

 かつて絶やさず日課として整えていた髪は伸び放題となり、ざんばらにもつれている。

 一糸もまとわぬその背には矢が突き立ち、身動きする度に鋭い痛みが走った。

 血痕と、折れて潰れた草木が彼女の足跡と化して、逃げられない追跡を受け続けていた。

 背後に見える篝火かがりびは、彼女を追う。

 振りむくたびにそれは数を増して、近づいていて。

 逃げ続ける以外の選択肢がなかった。


 故郷の森に帰ろうとしても、それはできなかった。

 “魔王の声”が聴こえて、あの地へ呼び寄せられた時は気付けばそこにいた。

 もう……故郷の場所が、わからなかったのだ。

 逃げ続け、少しでも似た森に棲もうと思えばそこは人の領域だ。

 見つかるたびに逃げ、やがて――――“はぐれたラミア”として、今この苦境に陥ってしまった。


「イ……ヤ……ダ……! ヤ、ダ……!」


 逃げ続け、逃げ続け――――やがて、夜明け近くに山中の小屋へ辿りついた。

 灯りのない事を確認する間もなく彼女は蛇の半身を通すにはやや狭い戸口をくぐり、その身を完全に仕舞い込んで扉を閉める。

 せめて、人目を逃れたい。

 隠れたい。

 そんないじましい思いが堪えられなくなった結果の、頼りない隠れ家だった。

 火を放たれれば逃げられないのに、もうそんな事すら彼女は考えられない。

 小屋を覆う闇の中、息を整えようと試みるたびに矢傷が痛み、彼女を苦悶させる。


「ン、グッ……ウウァァァァ……!」


 矢を引き抜く激痛すら、吐き出して逃がす事ができない。

 滂沱の涙が暗闇の小屋へとめどなく溢れ落ちるだけだった。

 そして、息を整える事はとうとうできなかった。

 追われる恐怖、不安、射かけられた矢の痛みがすぐに引くこともなく、今この瞬間にもあの頼りない扉が蹴り開けられるのではないかという想像がだんだんとたくましくなる。

 火矢の準備をしているのでは――――という考えにも、今ようやく至った。

 身を翻し、少しでも小屋の奥へ逃れようとした……その刹那の事だ。


「……おたくは、何してんだ? 先客には挨拶ぐらいしようぜ?」


 横たえた首筋に、薄く硬質な、それでいて熱く燃えるような“何か”が食い込まされていた。

 びくん、と体が震えた拍子に皮が裂け、鋭い痛みが彼女の蛇身の隅々まで走り抜けた。

 見れば目の前、まぎれもなく虚空だったはずの空間に何者かが佇んでいた。

 そのシルエットは人間の男のものに違いないが、鎧のたぐいは身に着けていない。

 しかして――――只者ただものではない。

 周囲には、ほのかな燐光を放つ小さな四角形の“刃”が無数に浮かび、今にも彼女を切り刻もうとしているように揺れていた。

 その状況を把握した時、彼女は……忌まわしい記憶をなぞり、青ざめた顔に雫を流す事を選んだ。


「タ……」

「……うん?」

「タス、ケ……テ……コロサ、ナイデ……コロサナイデ……! オネガイ……」

「…………おいおい、何だそりゃ……」


 気を削がれた人間の男は困惑し、しかしそれでも警戒は解かず。

 すぐ近くのテーブルの上から帽子を取り、頭上に深々と戴いた。

 それから数秒としない内の事だった。


「おい、中に誰かいるのか!?」

「やれやれ、来客クンデの多い晩だ。おたくの知り合いかね?」


 答えられず、彼女はただ――――ぶるぶると震え、長大な蛇身を持つ魔物にふさわしくない、怯える生娘の様で歯の根も合わせられずにいる。

 男が深く溜め息をつくと空中に無数に浮かんでいた刃は重なり合うように男の手元へ収まり、整えてからテーブルの上に置かれた。


「向こうの壁際にいろ。死にたくないなら声を出すな、動くな、分かったか?」


 言われるがまま、扉の対角にその身を縮こまらせ――――それでもなお小屋の半分を埋め尽くすを巻いてしまうため、隠れるなどという事は不可能だった。

 だが男は平然と戸口へ向かい、軋ませながら扉を開いた。


「夜遅くになんだい、ダンナ方。何か探してるのか?」

「この辺りにラミアが迷い込んだ。探しているところだが……何か変わった事はないか?」

「へぇ、おっかねぇな。……いや、何も無いさ。さっさと見つけて倒しちまってくれよ」

「……あんた、ところでこんなトコで何してる? あんた一人なのか?」

「オレの事なんてどうでもいいじゃあないか。……酒でもどうだい? カードもあるぜ。ひと勝負打つかい?」


 戸の外にいる男達は、軽装の鎧を触れ合わせる音を立てながら、顔を見合わせる。

 山小屋にいた、酒の匂いを放つ胡乱な男。


 迷い込み、息を潜めているラミアは先ほどから何度も……先頭の男と眼が合っている。

 それなのに、まるで気付かれる様子がない。

 松明で照らされているのに、その光は蛇身を何度も照らしているのに、まるでだ。


「あんた、かくまってないよな?」

「かくまう、だって? 冗談はよしな、狩人イェーガー。ラミアなんてどうやればかくまってやれるんだ?」

「……調べるぞ」


 その言葉に彼女は酷く動揺したが――――直後、扉を全開にして身を引いた男が、小屋の中を大仰な手振りで指し示した。

 動きの中で、その男の目が怪し気な光を放ったのも彼女には見えていた。

 必然、彼女の姿が白日のもとに晒されているのに。


「いや、その必要はないな。調べるような広さもないだろう? ……見れば分かるな? ここには、オレ独りだぜ」


 松明の灯が煌々と照らしているのに、追手たちは彼女の姿が見えていないように首を捻り、やがて相談しあい――――男に非礼を詫びて、去っていった。

 追手たちもそうだし、何より彼女自身がまるで……何かに化かされたような、不思議な心境だった。

 ともあれ、助かったのだ。

 扉を閉め、彼らの去っていく足音が遠ざかったのを確認して男は、テーブルの上のランプに火を灯した。


「――――いいコだ。お利口にしてられたな。まぁ、もう来ないだろうさ」


 男はキザな帽子と、長い髪と、上質なシャツを粋に着こなす怪し気な伊達男の身なりだった。

 その目は紛れもない魔力を宿して渦巻きの虹彩を持つ。

 

「……オレの名はリヒター。今は……人を待っている所だったのさ。飲むか?」


 リヒターと名乗る男は、そう言いながら自分のグラスにしか酒を注がず、一息でそれを空けた。

 ようやく警戒を解いた彼女は、椅子には座れないから――――彼と目線を合わせるように床を這い、対面するように身を起こした。


「ナ……? ナマエ……?」

「なんだ、無いのか? ……それはそうと、目の毒だ。胸ぐらい隠せよ、蛇女シュランゲヴァイプ


 言うと、リヒターは床に落ちていた毛布を拾い上げ、渡してくる。

 彼女はそれを人の姿に巻きつけると――――その暖かさに、しばし身を任せた。


「で……おたくはこんな所で何をしている? 人を襲って食っている様子は無いが」

「ワタシ、ハ……ニゲ……テ……」

「逃げた? 何から?」

「……“マオ”……」


 その言葉に、リヒターの目が光を放つも――――すぐに落ち着いた。


「……すると、おたくは“魔王”の支配から逃れたのか? あの精神作用から?」


 驚愕が落ち着くと更に、リヒターは続けた。

 魔王登場に前後し、世界各地の魔物、亜人、よこしまな心を持つ人々に魔王の囁きは聴こえたのだと。

 その結果、世界の魔物達は結託したように人類の敵となり、王国内で死霊術士が活動を開始し、ダークエルフ達は魔王の手先となり――――その強烈な精神支配から逃れられた者はいないのだと。


「面白いな。……で、何で追われてた?」

「ナニモ……! ナニモ、シテ、ナイ……!」

「何もしてなくても、さ。おたくのお仲間は、人類の敵だって事は分かるよな? おたくもその目で見られてんのさ」

「……ウ……ッ! チガ、ウ……! ワタシ……」

「……しかし、ラミアってのはこんな流暢に喋れるもんだったのか? 知らなかったぜ。オレもまだまだ知らない事が多いんだな」


 無論、そうではない。彼女は例外だった。

 魔王からの囁き、無意識の中で幾度も聞いた人類の鬨の声、悲鳴、断末摩、命乞い。それらを刷り込まれ、そして純粋無垢だったゆえに自我を奇跡的に取り戻す事が出来た故の結果に過ぎない。

 それが良い事なのかどうかは――――今この時は、まだ分からないとしても。


「ワタシ……生キテ、タラ……イケナイ……」

「……ほぅ、どうしてそう思った?」

「ワ、タシ……イッパイ……タブン……コロ、シタ。ヒト……コロシタ……」


 日が経つほどに、魔王の走狗だった時期の感覚が彼女には蘇る。

 その爪はもう、血で汚れている。

 思い出すたびに罪の意識が芽生え――――かすかに得られた休息の時間でさえ、彼女は追い詰められていた。

 ふと……彼女は疑問が芽生えた。


「ドウシテ……タスケテ、クレタ……?」

「……まぁ。オレは……レディメートヒェンの涙に弱いのさ」


 そう言うとリヒターは、照れを隠すように、グラスを大きく平行にまで傾けて残りの酒を啜り込んだ。


「それよりもだ。……おたくはこれからどうしたい?」

「ワタシ……イキテタラ……ダメ……」

「じゃあ、死ぬか? なら何でおたくは、“助けて”なんてオレに頼んだ」

「……シヌ、ノ……コワイ……デモ……」


 彼女は、人ではない。獣人でもない。しかしもはや魔物ですらもいられなくなった。

 行き場がない。帰る場所も見つからない。生きる手段が何もない事に気付いた。

 温和な性格と心優しきゆえに、人を襲うような生き方はもはやできない。

 同族たちは凶暴化し、この世界に、人々に牙を剥いたから。

 それでも忌むべき事に、彼女もまた人から見ればそれと同じ種族だった。

 長く伸びる爪は甲冑をまとう兵士を串刺しにして、巻きつけば牛すら捻り殺し、数種の毒液を放つ。何よりも――――他の高等な亜人種、人類と付き合っていけるほどの知性が、なかった。

 彼女には、この世界の理が何も分からない。

 無垢な魂のまま穢され、魔王の邪念を振り払ったところで――――結局は、何も知らない無垢な存在としてこの世界へ。人と魔の争う世界へ、放り出されてしまったのだ。


「……生きろよ。哀しくなる事ばかり言うな。……生きるってのは罪じゃない。死ぬのは罰じゃない。今ここで……いや、すでにおたくは心を決めたはずなんじゃあないのか?」

「エ……?」

「ひとつずついこう。……まず。“魔王”のもとへ、戻りたいか?」

「……! ヤダ……! “マオ”ハ……イヤ……ヤダ……戻リタク、ナイ……! ヒト……コロシ、タク……ナイ……!」

「じゃあ。……おたくは、人間と一緒にはいられないってのは分かるか?」

「……ウン」

「……でも、どうしたい?」

「タス、ケ……タイ……」

「何を?」


 その言葉はこの世界で初めて彼女が口にした、力強い言葉だった。


「ヒト……タスケ、タイ……! マモ、リ、タイ……! “マオ”ハ……イヤダ!」

「……そっか。よく言ったよ、“ユーリア”」

「……ユー……ア?」


 熱の籠もった言葉へ、リヒターが贈ったのは――――“名前”。


「オレの故郷の神話ミュートゥスさ。……女神ユーリァール。彼女は神でありながら、人を愛した。やがて彼女のボス……主神は人を見放し憎むようになったが、彼女はその態度へ文句を言いに行くのさ。そうしたら……彼女は半身を蛇へと変えられ、バケモノとして人間界に追放されてしまったんだ。……おたくの名前にするといい。気に入らないか?」

「……ワタシ……ナマエ?」

「ああ」


 彼女は、何度も、何度も反芻し、練習するようにその名を呼ぶ。

 初めて、誰かから――――贈り物を、もらえた事を噛み締めるようにして。

 十数分して、リヒターの待ち人が扉を開けてやって来る。


 ――――その男は、直立する蜥蜴トカゲの姿をしていた。


「よう、待ちくたびれたぜ。レプティーリオ。リーパーは元気か?」

「次見たら殺すっつってたよ。お前にカモられたのをまだ根に持ってる。顔も見たくねぇそうだから、俺が来た」

「……なるほど流石は蛇だ。執念深い。それと……鱗の仲間を一人、増やす気はないか?」



*****


 時は流れ、出会いの日から一年が経つ。


「ハハッ! ザマぁねぇな!」

「頭目、さっさと離れて! 流砂に巻き込まれるよ!」


 流砂の渦を作り出す巨蟲の魔物は――――毒の矢を何十発と打ち込まれ、顎も巨躯のフロッグマン達の打撃でへし折られ、とうとう息絶えて砂の中に沈んでいくところだった。

 “美食の蛇”と名乗る獣人の傭兵団は新たな任務を受け、人類の兵士と連れ立って、この凶悪な魔物の討伐へ向かい……そして今、達成した。


「ぶ、はっ……! あぶっ……!」

「ちく、しょう……! 助け……!」


 勇敢に戦い、しかし流砂に巻き込まれた兵士達は踏ん張る事もできないまま砂底へと吸い込まれて行く。

 そんな彼らへ向けて、――――彼女は、流砂など意に介さずに体を躍らせる。


「だい、じょうブ……! 私、ニ……掴まっテ!」


 砂の地獄を、体を横這いにくねらせてただ一人のラミア――――ユーリアは次々と兵士達を引き上げていく。

 兵士達が必死で伸ばす手に、もはや……彼女を知ったころのような躊躇いはない。

 その間にもフロッグマン達は舌を伸ばして巻き込まれた兵士や装備を引き寄せ、回収する。


 巫女姿のラミアは、同胞の蛮行を、魔王の侵略を見かね、そして加担した過去を恥じて――――人の守り手となった。

 女神の名をその身に背追い、彼女は――――女神そのものの優しさを持ち、人の子らとともに魔王に立ち向かう一柱となった。


 後世、彼女の姿を写す彫刻を見て人は知る。

 魔物と、人との間に横たわっていたのは――――敵意だけではなかったと。


 更に後世。

 


 彼女のその姿は――――女神ユーリァールの姿と同一とされ、世界の全てに伝わる事となった。








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